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「フィーユは私の友達だよ。
はいそうですかって渡せない。
あなたの言葉が本当かどうかも
分からないし」
「嘘じゃない。
フィーユは僕たちのもとから
逃げ出したんだ。
今まで行方が分からなかった」
「……フィーユ、本当に?」
その問いかけに答えるべく、静琉の左肩にフィーユが現れて立つ。フィーユを見て「久しぶりだね。フィーユ」とアルトがにっこり微笑んだ。
フィーユはじっとアルトを見つめ、失われた記憶の断片に触れたようだった。しかし迷いののちに首を振り、
「分からない……。
あの人、いや。恐いよ」
と静琉の首すじに寄りそい、姿を消してカバンの中の白い本に隠れてしまった。アルトは苦笑しながら「嫌われたものだね」と肩をすくめた。静琉はフィーユの感想を胸にとどめつつ、目の前に立つアルトに注意を戻した。
「あなたが変な切符で誘って
美香さんを眠ったきりに、荊姫に
したことは分かってる。
美香さん以外にも、きっとほかの
女の子も眠らせてるんでしょう。
どうしてそんなことをするの?
美香さんを元に戻して」
一瞬の沈黙の後、アルトは「驚いたな。そんなことまで知ってるだなんて」と子どものように無邪気に笑った。ごまかすこともせずにあっさり認めるその態度に、静琉の警戒心はいっそう高まってゆく。
「ねえ、君はどうしてそこまで
僕たちの事、知ってるのかな。
少し、僕に教えてよ」
雪を踏み、アルトが静琉に向かってゆっくり歩き出す。それを受けて静琉の身体がびくりと震えた。
「こっちに来ないで!」
静琉はすばやく学生カバンを開け、その中のお守りに手を触れる。アルトを強くにらんだまま、無言のうちに身体で敵意を示していた。アルトは立ち止まり、少々の冷たい感情がまじった穏やかな顔で静琉を見つめた。
「フィーユの本が人質、ということ?
それはとても大事なものなんだ。
乱暴に扱われては困るな」
「答えて。
人をずっと眠らせて、荊姫にして、
どうしようっていうの」
静琉が手にしているのはお守りの本でありフィーユの本を破ったり傷つけたりするつもりなどまったくないが、アルトの誤解に乗じて解答を強要する。
「詳しいことは僕の主から口止め
されているから、言えない。
でも、僕たちはけっして悪いことを
しているわけじゃない。
むしろ善行、人助けだよ」
「人を死人みたいに眠ったきりに
することの、どこが善行なの!
美香さんのお父さんお母さんが
どれだけ苦しんでるか、あなた達
分かってるの?」
「僕たちの関心は切符を贈った
女の子だけだから、周囲の人は
どうなのか知らないしどうでもいい。
それはそうと透風静琉。
君は眠りが好きかい?」
「……?」
「一日のわずらわしい勉強や仕事、
なやみ事を終えてベッドで眠る時、
安らかな幸福感を覚えないか?
何も思わず、何もせずに夢の中で
休む時間を幸せだとは思わないか。
僕たちがしているのは、現実を嫌う
女の子を眠りの世界に招待する事。
僕らは切符の誘いに乗った子しか
眠らせない。強制は絶対にしない。
眠り続けることを選んだのはみんなの
願いであり、彼女たちの意思なんだ。
荊姫達は夢の中で何の憂いもなく
安らかに時を過ごしているよ」
生きづらいこの世でどう先に進めばいいのか迷いあぐねる静琉は、そんなアルトの言葉に心を直接ゆさぶられるような感じがした。しかし、素直に感動してアルトに同意してはまずい。聞こえが良い言葉を並べて静琉を説得する腹づもりかもしれないからだ。静琉は警戒しながらアルトの真意を読もうと感情を盗み視た。
アルトの身体を包むのは務めに従おうとする気持ちと深く静かな悲しみだけで、そこに静琉をあざむこうとする感情はない。フィーユがアルト達の持ち物だというのも本当らしい。そしてアルトの感情は黒くにごっていて、これまで視てきた人間の感情とは微妙に違う。そのことに静琉は無言で戦慄した。
「さあ。君の質問にはちゃんと答えた。
その見返りと言ってはなんだけれど、
そろそろ僕にフィーユを返してほしい」
静琉は目を閉じ、数秒間じっと考えた。そして目を開き、ふたたびカバンの中に手を入れる。白い本の上に立ったフィーユが「静琉」とつぶやき、すがるような目で悲しげに見上げていた。
「協力してくれて感謝するよ。
透風静琉」
優しい笑顔を浮かべながらアルトが歩みよる。静琉はすばやくお守りを……カバンに常備してある黒い式本を取り出し右手に持った。
「"拘束式①"、発動!」
静琉の意思と声に応じ、式本につづられた綺化式の1つが即座に発動。アルトは不可視の糸に身体を縛られて、時が凍ったように歩いた姿勢のまま硬直する。アルトはいくばくかの沈黙の後唯一自由に動かすことができる頭を上げ、鋭い視線を送る静琉と目を合わせた。
「悪いけど、フィーユは渡せない。
フィーユが嫌がっているし、人を
眠らせて回るあなたを信用できないから」
「そうか。君は式使いだったのか。
なら色々知ってても不思議じゃないな」
式本を手にしたままいつでも次の手が打てる構えの静琉に、アルトはようやくがてんがいったとばかりに小さく笑う。
この式本は痴漢対策用に静琉が書いたオリジナルの本だ。防犯ブザーや催涙スプレーよりも相手の動きを縛って止める綺化式の方がよほど頼りになると思い、静琉が以前に組んだ式が書きこまれている。本を用意しても不審者に狙われたことは一度もなかったが、こんな形で役に立つとは思いもよらなかった。
アルトは式の呪縛から脱出しようと身をひねるが、その手足は透明な樹脂の中に固められでもしたかのようにぴくりとも動かない。
「なかなか手ごわい。
見かけによらず大した式使いだ、
君は」
静琉の得意な縛りの綺化式をそのまま相手にしかけているのだから強力なのは当たり前だ。しかし式本に用意してある式は相手を拘束するものだけで、静琉から決定打をうつことができないのをさとられるのはまずい。
「フィーユは可哀想な子。
もうそっとしておいてあげて。
逃げ出した場所にむりやり
連れ帰るなんてやめて」
「フィーユが帰りたくなくても
僕たちには絶対に必要なんだ。
返してもらわなければ困る」
冷たくそう断言するアルトの周りに黒い霧のような何かが立ちこめる。我が目を疑う静琉はアルトを縛る式がなぜか蝕まれ、ほころんでいくのを意識して呼吸を忘れた。
黒い霧の作用によるのか静琉の式は完全に破られ、手足が自由になったアルトが背すじを伸ばして静琉と対峙した。
アルトの目と沈黙がたまらなく恐くなり、静琉はアルトに背を向けてかけだしていた。放り出された青い傘が雪の上にばさりと落ちた。そんな静琉にアルトが「ふう」とため息をつく。
右手に式本をにぎったままカバンを両腕で胸にかかえ、雪に足を取られて転ぶのもいとわないほど静琉は力いっぱい走る。目指す場所など考慮もせず、今居た場所からただ遠ざかろうと道を曲がり、小道に入り、細い道路をひた走る。
自分の組んだ式が通用しない未知の敵、そして敵からの反撃を受けるかも知れない実戦に静琉はどうしていいのか分からない。なぜ式が破られたのか、アルトのまとった黒い霧状のものは何なのかを混乱しながら考える一方、少なからぬ恐怖とフィーユを護らなければならない使命感で静琉の心はいっぱいだった。
走りに走って道路の角を曲がった時、静琉のすぐ目の前に黒スーツのアルトが立っていた。静琉は驚き急に足を止め、そのせいですべってしりもちをつく。追い抜かれた気配などなかったのにこうして行き先に回り込まれた不可思議は、静琉には説明がつかない。
「こ、"拘束式②"っ、発動っ!」
アルトを見上げながら、静琉は拘束式②とだけ名付けた式をとっさに起動する。
不可視の糸が強くアルトを縛り上げるまでは拘束式①と同じだが、拘束式②はそこからさらに標的の体力を強奪する。
無音のいたって地味な式だが、その強烈な作用に今まですまし顔だったアルトが初めて表情をくずした。このままでは危険だと感じたのか、アルトは悠長に感想をのべることもなく黒い霧をまとい式の突破を試みる。
式②も式①と同列の式なので同じ方法で破られるのは道理だったが、式②はそれにとらわれている時間だけどんどん体力が奪われる。式を破るのに十数秒を費やしたアルトは相当量の体力をもっていかれたのか、路面にひざをつき息を乱す。
「まったくやっかいな相手だよ、
透風静琉。
フィーユの所有者がやり手の
式使いだなんてね……」
座った静琉をひざまずいたまま見るアルトは真剣な顔で、表情に疲弊した雰囲気がにじんでいる。
静琉はあわてて立ち上がりアルトと距離をとった後、すぐに式本を開いて右手にかかげ持つ。
「……もう私とフィーユに
つきまとわないで。
次はもっとすごいの、使う。
あなた、大怪我するかもよ」
静琉はなけなしの気力を目にこめてアルトをにらみ、右手の本を少し動かして自分の優勢と殺傷能力を無言で示す。静琉がだまるとともにアルトも沈黙し、張りつめた静けさが2人の間に流れた。
不意にアルトがよろりと立ち上がり、静琉の身体がびくりとゆれる。