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「ああ、びっくりした!」
透明化したフィーユが耳元で声を上げ、静琉はびくっと身を震わせる。妻に気づかれないように静琉は首を少しだけ肩の方へかたむけた。
「フィーユ、だいじょうぶ?
体、けが、してないの?」
「うん。わたし、人に踏まれても
なんともないもの。へっちゃらよ」
フィーユが胸を張っている姿が静琉の目に浮かぶ。教室で生徒に踏まれてもけが一つしないらしいフィーユのタフネスに、静琉は「不死身……?」と思う。
そして眠り続ける美香を見る。妻のかけ声もむなしく、美香はうつむきじっと止まったまま何一つ反応しない。
「(美香さんが一瞬だけ起きたのは
近寄ったフィーユに反応したから?)」
静琉は美香とそばのバッグの中にしまったフィーユの本に目をやりつつ、フィーユっていったい何なんだろうと深く思わずにはいられなかった。
かしましい都心からやや離れた閑静な高級住宅地。家主の財力のほどを物語る豪勢な一軒家が建ち並ぶ中、それらの家などつまらぬうさぎ小屋だと無言で一蹴する巨大な館が一つある。いったい何億をかけて建造されたのか見当もつかないその規模、その偉容に、周囲のあわれな金持ち達は上には上がいるものだとため息をつくばかり。
大きな館の小さな主、オルールは身のたけの何倍もあるガラス窓の向こう、たいくつな昼間の景色をながめていた。彼女の目は猫を思わせる黄色、腰まで届く長髪はミルクのような白色だった。白い肌を真っ白のワンピースに包み、その外見は10代の清楚な娘である。
眼下の道路を往来する人を見て、まるで彼らは蟻のようだとオルールはとりとめもなく考えた。高みから見おろせば彼らは小さくてこまごまと動き、せっせと家に物資を運ぶ働き蟻と大差ないようにオルールに映る。彼らは多少なりとも財産を持っているにもかかわらず、会社や組織の奴隷として働いているところまで女王蟻の兵そっくりだった。
オルールは退屈に退屈を重ねて「ふう」と息をもらしながら、そばのテーブルに置かれた陶磁器の花びんに目をやった。びんの中にはみずみずしい花々が生けられている。それを見ても心はまるで動かない。
オルールはたわむれに花びんに手を伸ばし、黄色い花の福寿草を一本手に取った。指からわき出た何本もの黒い糸が花にからみつき、花を植物から別の何かに生まれ変わらせる。
首をもたげた毒蛇のようにくきをゆらせる福寿草は、オルールが差し向けた花びんの花を次々にむさぼり食ってゆく。プリムラの花を食えばプリムラが、寒菊の花を食えば寒菊が、小さな化け物となった福寿草のくきからずるりと生えてくる。やがて花びんの花を食べ尽くした時、オルールの右手には世にも奇怪な合成花がにぎられていた。オルールは無表情にかすかな嫌悪をにじませた。
「気持ち悪いですね」
それはまるでギリシャ神話のキメラのような花。その花にはその花の個性や美点が備わっていて、それらをやたらに混ぜても生命とデザインの方向性を失った醜悪な造形しか生まれない。
オルールは核となる福寿草に軽くキスをして命を吸うと、花はすぐに枯れてばらばらにくずれた。
その時、ひかえめなノックの音が部屋の中に届いた。「どうぞ」というオルールの声で、ノックの主が部屋に入ってくる。
「良い知らせだオルール。
ずっと探していたフィーユが
見つかった」
「まあ、本当ですか?」
オルールの前に立つのは黒髪に中性の顔、黒いスーツをまとった凛々しい少女。明るい笑顔に顔をほころばせるオルールに、従者の彼女もあわい笑みを浮かべる。
「どうやって見つけ出したのです?」
「精神を抽出したササクラミカ……
その子の前までフィーユが近寄った
らしい。
ミカがそれに反射を起こして、
そのことが僕に伝わったのさ」
「それは運が良かったですね」
「これから足取りを追って今の所有者と
居場所を特定する。
近いうちにフィーユを取り戻すことが
できるだろうね」
「お願いします。楽しみにしています」
やわらかく、そして真意の読めないオルールの深い笑み。報告を終えたスーツの少女は部屋から下がり、ふたたびオルール1人になった。
「これでようやく先に進めますね。
足留めを食っている間も、それは
それでじりじりとして楽しいのです
けれど」
オルールは微笑し、左手の中にふっと白い本を現した。片手で器用に本を開き、本のページの間に立つものと対面する。
「ありがとう、ササクラミカ。あなたの
おがげですよ」
手のひら大の小さな佐々倉美香が目を閉じたまま本の上にたたずんでいる。オルールは愛と感謝をこめて右手の指で美香の頭をなでた。そして本を優しく閉じて、出した時と同じように消す。
「どんな人が私のフィーユを守って
いるのでしょうね」
窓の向こうのすんだ青空を望みながら、オルールははずむ気持ちで空想にふけった。
三時間目の数学、そのあまりに難解な複素数平面に頭を苦しめられた静琉は、疲れた脳を休ませようと休み時間に教室の外へ出た。広い廊下を歩き窓の外の景色が目に入るだけで、こわばった心と身体がほぐされるようだった。
「透風さん、これを」
後ろからかけられた声にふり返れば、そこには図書室亡霊事件で知り合った甘野が立っていた。静琉に差し出した右手には封筒のような白いものがあり、「読んで下さい」と甘野は言い寄る。
まさか恋文をしたためたのかと驚き固まる静琉をよそに、甘野は「どうぞ、読んで下さい」と手に持ったものを差し出してくる。そこに居合わせた女生徒たちがそそぐ好奇の視線にもかまう様子はない。静琉はひきつった笑みを浮かべながらそろそろと手を伸ばし、甘野から手紙を受けとった。
手が触れた瞬間、静琉の感じる世界から急に音が遠ざかった。
透風静琉様。これまでフィーユとその本を預かっていただきありがとうございました。フィーユは私共の持ち物であり、返していただきたく思います。本日御許にうかがう所存ですのでどうぞ心に留めおき下さい。
頭の中にひびくメッセージが終わるとともに聴覚がにぶるような感覚から解放され、静琉は今の奇妙な現象を前にも味わったことがあることを思い出す。甘野から渡されたものを確かめると、それは封筒ではなく見覚えのある文字列がつづられた長方形の白い紙だった。
「甘野さん、これをどこで!?」
「え、あれ、ゆ、透風さん……?
私、何で透風さんの前に……」
静琉の声でうたたねから目覚めたかのように甘野はきょろきょろ見回し、目の前に立つ静琉に見つめられて顔をうつむける。
「この紙、どうしたの?
どこで誰に渡すように言われたの」
静琉が受け取った荊姫の切符そっくりの紙を見せても、甘野は「それはなんでしょうか?」と首をかしげるばかり。
メッセージを頭の中でよみがえらせるうちに静琉はある危機的可能性に気づき、わけが分からず立ちつくす甘野に背を向けて教室に走った。
自分の席に大急ぎで戻った静琉は、机の横にかけてある通学カバンを開き、中身を確かめる。
「どうしたの、静琉」
フィーユが白い本の上に立ち、静琉を見上げていた。カバンの中身が荒らされたあともなく、フィーユも本も無事だった。「誰かがカバンを開けたりフィーユを見つけたりしなかった?」と小さな声で聞いても「誰も来てないわ」とフィーユは首を横に振る。すでにフィーユの本を持ち去られた後ではないかと静琉は危惧したのだが、さいわいにもそれはなかった。
誰が何のためにフィーユをと考えながら、静琉は不安に胸が苦しくなる。そしてカバンに常備してある"お守り"に目をやって、これに頼るときが来るのかも知れないと思い、恐怖と決意に身体を染められた。
その日は午後から雪がかすかに降り始め、静琉は青い傘をさして下校していた。右手に持ったカバンの取っ手をぎゅっとにぎりしめ、周囲の様子に気をつけながら歩くように心がけた。
甘野にあらためて手紙のことをたずねに行っても無駄足に終わり、一日の授業が終わるまでずっとカバンを監視していたが知らない誰かが現れるようなこともなかった。
今日フィーユの本を返してもらうというメッセージを伝える手紙は、いまだにくずれず静琉のスカートのポケットに入っている。荊姫の切符と同じように、何度も触るうちに声が聞こえなくなった。
学校から遠ざかるにつれて道を歩く人の数が少なくなり、静琉の不安はだんだん大きくなってゆく。家と家の間を走る信号もないような細い道を行くのはまったくもって恐怖だった。曲がり角で顔だけを出し、不審な人間が待ちかまえていないかを確認してから静琉は歩く。
「こんにちは。透風静琉」
後ろから不意にかけられた呼び声に、静琉は一瞬思考が空白になった。確かに誰もいなかったはずと思いながら、静琉は息を止めてゆるゆるとふり返る。
雪で白く染まりつつある道に、全身スーツで黒ずくめの人間が立っていた。雪が降っているというのに傘もささず、冷たいとも温かいともつかない表情で静琉を見ていた。
「初めまして透風静琉。
僕は名をアルトという。
よろしく」
「あの手紙は、あなたが。
甘野さんに何をしたの?」
「手紙の届け役になってもらった
だけ。
害するようなことは、なにも」
その顔、その声、その姿を静琉はすでに知っている。アルトと名乗る者は、佐々倉美香の心を持ち去り荊姫に変えた張本人である。綺化式でかいま見た人間とは思えぬ行動を思い出し、静琉の足が恐れにすくむ。
「手紙で伝えたように、フィーユは
もともと僕らの持ち物なんだ。
今まで預かってくれてありがとう。
返してもらおう」