07頁
静琉は無名の式を発動させ、ベッドやその周囲にしみついた記憶を"縛り"、縛った記憶と同調を試みる。しだいに身体の感覚が遠くなり、周りが暗く静かになってゆくのがわかった。
気がつけば、静琉は真っ暗な部屋の中でたたずんでいた。そばのベッドにはふとんに入った美香が眠っていて、静琉は美香を見おろしている。式が下手なせいで映像がぼやけていたりにじんでいたりするが、とりあえずは過去の記憶を縛ることができたらしい。
美香が普通にベッドで寝ているということは、彼女が昏睡におちいる前の時期だ。ただ美香が眠る夜中のシーンと空のベッドの昼間のシーンが動画の早送りのように高速で意識に流れこむ。そしてある時、静琉は異変に気がついた。美香がまくらを持ち上げて何かをしたのが目の前をよぎったのだ。静琉は記憶の再生速度を1倍にして、少し前のシーンから記憶を見直す。
美香がまくらを持ち上げて何かを置き、まくらを戻して眠りに就いた。それは甘野からもらいくずれて消えた切符と同じものだった。自分の考えはまちがっていなかったといううれしさと、これからどうなるという不安が心を等しく支配する。
美香が眠っても何も起こらない。ふたたび記憶を高速で進めてゆくと、ある時点で奇妙なことが起こった。速度とシーンを戻し、静琉はそこで起きたことを息を止めて見つめる。
静琉のすぐ横、じゅうたんがしかれた床に、バケツ一杯の墨汁をぶちまけたかのような大きな黒いしみが浮かび上がった。続いて暗黒のしみの中から人間の頭が出てきた。黒いしみを境界線にして頭から胸、腹、腰、足とよどみなく浮かんでくる。
黒髪は耳をおおうほどの長さで、中性的なりりしい顔をしていた。黒い瞳に白い肌、背たけは静琉と同程度、上から下まで男ものの黒いスーツに身を包んでいてスーツの下は白いシャツ、胸元には白に近い灰色のネクタイをきっちり締めている。黒い革靴でためらわずに部屋に上がると、わいて出て来た床の暗闇は縮んで消える。見えているのは過去の映像だから正体不明の人物が静琉にかまうことはありえないが、静琉は息をひそめて気配を殺すように見ていた。
男なのか女なのか性別が分からない侵入者は美香の前まで歩みより、美香の頭に左手を添えた。何かをつぶやいたようだが式の精度があらいせいで静琉は聞き取れない。しかし、何を言ったのかがどうでもよくなるほど、次に起こったことに静琉は驚いた。眠ったままの美香のまくら元に、もう一人の美香が立っている。もう一人の美香は眠るように目を閉じたまま、静かに侵入者と向き合っていた。
美香の頭から手を離すと、侵入者は魔法か手品のように左手に本を出した。その本は表紙も裏表紙も無地の白色で、それがフィーユの本そっくりであることに静琉はすぐ気がついた。
「転写しろ」
侵入者は中身が白紙の本を開いて左手で持ち、そう無感情に言った。そのとたん本に文字列が次々に浮かび、大量の記号がページを埋めつくすと次のページに同じことがくり返される。静琉はテレビ番組で自動書記という現象を見たことがあるが、それと似ていると思った。まるで見えない何者かがものすごい勢いでページに記号を書き付けてゆくようだった。
記号で埋まったページが増えるほど、もう一人の美香の姿が薄くおぼろになってゆくことに静琉は気づく。本のページのほとんどが記号で埋まると、暗闇に浮かぶ美香の姿は完全に消えた。
侵入者は本を閉じ、出した時と同じように手の中から本を消した。美香の頭がのったまくらの下に手を入れて切符を取り出すと、それを上着のポケットにしまう。これまでずっとそうだったように表情が消えた顔で侵入者はきびすを返し、出現した場所と同じ所に立つ。足元に黒いしみが広がり、その中に足から沈みこんで消えた。その先の映像は美香が安らかに眠るシーンが続くだけだった。
そこで静琉は式を終了させ、縛り取った記憶の世界から現実の中へ戻る。慣れない世界に長時間もぐり込んでいたせいで、式から解放されてもしばらくは水の底から水上の世界を見つめるように感覚が遠くうつろだった。
「あの人は、何が目的で」
頭と身体にまとわりつく感覚のなごりに酔いつつ、静琉は1人つぶやいてフィーユの白い本が入ったトートバッグを見つめた。
「すると娘は荊姫の切符のせいで
眠り続けている、ということですか」
「はい。今、女の子の間でうわさに
なっているみたいなんです。
切符のことを誰かに教えると切符は
消えてしまうんですが、切符の誘い
通りにすると、黒いスーツの人が
現れて眠らされるみたいなんです」
静琉は佐々倉夫妻と向き合って座り、美香の部屋でかいま見た記憶をありのままに説明した。
「しかし、床から人が出てきてまた
床に消えるというのは少し現実離れ
しすぎているように思いますが」
「私も自分で見たことが信じられない
くらいです。アレは本当に人なのか」
佐々倉のとまどいに、静琉もまた顔をうつむけて先ほどの記憶を反すうする。超常の綺化式や祖先の魔物を当たり前に知る静琉でさえ、にわかには受け入れがたい光景だった。
「いや、失礼しました。
本が書ける透風さんが言うことなら
間違いはないのでしょうね。
なにぶん不思議な式について、
私達はまったくの素人ですので」
「すみません。私がもっと上手く式を
書くことができれば、私以外の人でも
見ることができるんですが」
論より証拠ということわざが静琉の脳裏を走っていった。こんなことならもっと綺化式の練習をしておけばよかったと心の中でくやんだ。
「いや、透風さんのおかげで原因が
分かったんです。
美香の回復に近づいたんです。
また希望を持ち直すことができました。
透風さん、ありがとうございました」
佐々倉はそう言って、妻とともに高校生の静琉に頭を下げた。静琉は正座したまま「う、あ、いやそんな」とおろおろするしかない。
うろたえるかたわら、静琉は胸に満ちるなにかを感じとった。それは大人に低頭される優越感などではなく、少し複雑なうれしさだった。自分のもつ技術が人の役に立ったことの歓喜とわずかばかりの有能感、そして次は自分に何ができるんだろうという自身への期待感が混ざり合っていた。「帰る前にもう一度美香さんと会っておきたいです」と静琉は言い、美香が眠る部屋まで通してもらった。佐々倉は車を準備しに家から少し離れた月極駐車場へ行き、妻はそそくさと別の部屋へ歩いていった。
静琉は美香のまくら元に座り、荊姫にされてしまった少女の顔をじっと見た。眠ったままで流動食のようなものしか口にできていないのか、顔はやせていて肌も不健康に白い。
荊姫の切符は少女を眠りの世界に呪縛する。昏睡する美香を見ていても童話いばら姫をつつむ幻想的な空気は感じられず、静琉の心にはただ不安と恐れがわき上がる。
恐らく、美香の心は黒スーツの侵入者にもっていかれた。ここに横たわっている美香は心も感情も残っていない精神のぬけがら。フィーユの本体の白い本と同種の本に、謎の文字を書き連ねることで心を抜き取ったのだ。
数知れない荊姫の切符が撒かれた跡には、眠れる荊姫となって現実に帰れなくなった犠牲者が。ネット上ではまだ騒ぎになっていないが、謎の切符はうわさ話として女子の間に広がっている。切符を使えばどうなるのか分からないのは当たり前で、眠り落ちた女の子が真相を伝えられるわけがない。もし犠牲者が増えるようなことになれば、水面下のささやき声は表舞台に伝播してゆくだろう。
静琉は最初、フィーユの正体が気になって動いていた。しかし、美香という小さな犠牲者と出会ったことで、何とか彼女を助けたいと思うようになる。好奇心だけでなく、切符をおおう闇の向こうに手を触れた者として、異変を静めるために自分の力が役に立たないかと思い始めていた。
「静琉。もう帰るのね?」
美香を見たまま物思いに沈む静琉の肩に、フィーユが現れた。静琉が微笑んでうなずくと、フィーユは美香の胸の上にふわりと飛び降りた。
「また会おうね」
美香の顔を見おろしながら、フィーユは優しい笑顔で右手を振った。
ふいに美香が上半身を起こした。水平だった足場が急に壁に変わり、フィーユはころころと美香のひざ元に転がり落ちる。
美香はうすぼんやりと両目を開けた。表情に意思の力は宿っておらず、寝ぼけ顔の人形のようだった。美香はきょとんと見上げるフィーユに顔を向けると、目の前を飛ぶ蚊をしとめるときのように両手で勢いよくフィーユをはさみつぶした。「うぎゅ!」とフィーユの短い悲鳴が静琉に届く。
「フィーユ!」
美香の目覚めに目を丸くして固まっていた静琉だったが、はっとわれに返り叫び声を上げる。すがりつくかのように両手でぎゅっとにぎりしめたまま、美香は下を向いて動かない。
静琉のさけび声を聞いてかけつけた佐々倉の妻が起き上がった美香を見て口に手を当て立ちつくす。お礼として静琉に手渡すつもりだったらしい紙袋を床に落とし、その中から高級な菓子折の箱がはみ出た。
美香は上半身をかくりと前に倒し、ふたたび深い眠りについた。妻が急いで美香のそばに座り、これをきっかけに何とか目覚めさせようと何度も声をかけ肩をゆする。