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「当たり前よ! 私はもうフィーユなんだから」
どこかずれた受け答えをするフィーユに、オルールは「大きくなっても馬鹿なところは変わらないのね」と微笑んだ。
「荊姫のことはお好きにどうぞ。
荊姫への同情も思い入れも、すべてフィーユの
方へ移ってしまったようですから。
私が望むなら、私はその願いをかなえましょう」
オルールが静琉を見ると同時に、静琉の前に大量の白い式本が現れた。それはうっすらと雪が積もる地面の上に数冊ずつ重ねて置かれ、きちんと並べられている。
「アルト。荊姫のことは頼みましたよ。
あなたの手で元に戻してあげて下さい」
オルールはアルトに顔を向け、優しく言った。アルトは「分かった。任せてくれ」と迷わずうなずいた。
「これでもう、この世界に思い残すことは
ありません」
「オルール……?」
オルールの不可思議なつぶやきに、アルトはどこか不安げな声をもらした。
「私は私の正体がついに分かりませんでした。
人間でも、魔物でもない。
きっとどこか別の場所からまぎれこんだ異邦人、
迷子なのでしょうね」
静琉も、フィーユも、アルトも、オルールの言葉をだまって聞いていた。静琉にはオルールが何を考え何をしようとしているのか分からなかったし、アルトも静琉と同じであることは彼女の表情からうかがい知れた。
オルールの声は少し寂しげで悲しげだった。オルールはこれが見おさめとばかりに、雪が降る黒い空と眼下に広がる人の街をおだやかに見つめた。
「場違いなこの世界に、私は退屈しきって
いました。いつ死んでもかまわない気持ち
でした。
そして、私はこの異世界を見つけました」
オルールは身体をひねり、後ろに広がる"森"を見る。"森"はあいかわらず、ぎしぎしと枝葉を揺らめかせている。
「この世界が私の故郷なのか、それともまったく
関係ない場所なのか、私には確証がありません。
それでも、私はただ進むだけです。
つまらない世界からぬけだして、未知の面白さが
あふれた――私だけの荒野をめざすだけです」
オルールは視線を後ろの"森"から静琉たちに戻した。オルールの笑顔は、かつてないほどの優しさに満ちたものだった。
「アルト。今までありがとう。
あなたと過ごした時間は楽しくて、退屈せずに
すんだよ」
アルトを見て、オルールはそう言い残す。自己と他者をへだてる丁寧語を捨て、オルール本来の口調に戻っていた。
「フィーユ。あなたはあなたの生きたいように
こっちで生きるといいわ。
人の世界で、楽しくね」
フィーユに向けていた視線を静琉に移し、オルールは「ふふっ」と笑った。次の瞬間、静琉の横にオルールの身体を閉じこめた結晶体が出現した。
「静琉さん、よかったら受け取って。
この世界で育った身体は、この世界の
素敵な人に持っていてもらいたいから」
そしてオルールは無邪気に笑った。
「さようなら」
オルールは最後にそう言って、すぐ後ろに広がっている"森"へ振り返り、その内側へためらわずに歩いてゆく。静琉たちの世界と、"森"の中の境界線を踏み越えて、オルールは森の奥へと進む。いっさいの物質を拒絶する異次元の"森"も、精神体のオルールは消し去らずに受け入れた。
オルールの後ろ姿が"森"の奥に消えるやいなや、"森"に変化がおとずれた。巨大な蛇がのたうつかのように枝葉をうごめかせながら、みるみるちぢんでゆく。大きな地鳴りがし、"森"の動きで起こる震動でその場の者達の身体が揺れる。
我に返ったアルトがオルールを追って駆け出そうとしたが、静琉がすばやく立ち上がり彼女の右腕をつかんだ。
「もう無理よ! 行けば死んじゃう!」
もはやこちらの世界と"森"の境界面など失われていた。暴れ狂う巨大な"森"に近づけば、人間などノミのようにつぶされる。アルトはオルールの名をさけびながら静琉の手をふりほどこうとするが、静琉は全力で腕をつかんでアルトの自死を許さなかった。
静琉の視界いっぱいに広がっていた"森"がついに人の家程度までちぢんだとき、"森"は元から幻であったかのようにふっと消え去ってしまった。静琉たちに届いていた地鳴りも震動も消え失せて、あたりは音のない夜の丘に戻っていた。
「吸い上げられていた街の生命が……
街へ戻っていく。助かるわ」
それまでぼう然と地面にへたりこんでいた雫が、地面に両手を当てながらつぶやいた。
オルールは"森"の先へ進み、この世界から消失した。オルールの痕跡は、フィーユと、荊姫の本と、結晶内に封印固定されたオルールのぬけがらだけだった。




