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オルールはフィーユの懇願を完全に黙殺。本を見つめたまま作業を続ける。
すでにフィーユの解析は完了し、オルールの精神を完全に抽出し固定する技術も確立している。フィーユの本のデータも何重にもバックアップをとってあるから、もはやフィーユもフィーユの本も不要だった。
助かりたい一心で泣きさけぶフィーユの手先や足先が砂のようになって少しずつ崩れ、フィーユの断片は風にただよう煙のように宙をつたって少女の身体へ溶けこんでゆく。
やがてフィーユの声が消え、表情がうつろになり、身体がかすみのように薄れて、フィーユはあとかたもなく消えた。還元を始めてから5分ほどでフィーユの本は白紙になった。
オルールは近くの机に空になった式本を置き、眠ったように目を閉じる少女の顔に左手を添えてあごを上げた。白い長髪に白い肌。そしてよく整った可憐な顔。少女の顔と身体はオルールと同一であった。
少女はオルールの精神を抽出し物質化した存在である。研究成就の要であるフィーユが戻ってきたことでようやく最後のピースがそろい、前もって並べておいたドミノが次々と倒れてゆくように研究は順調に進んでいた。
すでにオルールの全精神の38%を抽出し、固定してある。オルールの精神を抜き出して分身に加えれば加えるほど、精神情報の結晶体である少女は存在がはっきりとして安定してくる。今しがた精神のかけらであるフィーユを統合したから、分身の密度はまた上がったはずだ。
精神の抽出と固定の作業はとどこおりなく進んでいるが、それにともないオルールの心が希薄化し始めた。今のところの異常は感情と欲求の減退で、フィーユを消しても何も感じず館の使用人への態度もそっけないものになった。
この弊害は予測済みだったが、これから先も抽出作業を続ければオルールの心はすかすかになり、いずれ白痴状態となって日常生活と研究に支障をきたすようになるだろう。
オルールの意思と記憶は抽出せずに残してあるから、まだ本体はオルール自身だ。きりを見はからって意思と記憶を移し、精神体の方を本体にする必要がある。そして精神体で抽出作業を続行し、意思と記憶を抜き出され人形のようになった肉体から残りの精神をすべて抽出し統合する。そうすればオルールの精神を100%抽出し、完全な精神生命体となることができる。
38%分の精神にフィーユを加えた分身のあごに手を添え顔を上げたまま、オルールは思う。この身体は私の荒野を進むためのじょうぶなくつなのだ、と。
たとえば太陽系第五惑星の木星。太陽系にある惑星の中で最大の木星は厚い大気の層におおわれ、大気は主に水素とヘリウムから構成されている。太陽から遠く離れた星であるため温度は低く、-100℃以下の冷たい世界だ。
地球で生まれた生命は木星では生存できない。呼吸に必要な酸素がないし、低気温のせいで身体が一瞬にして凍りつく。それまでの環境とまったく異なる場所で生きてゆくためには、それなりの装備をするか、もしくは環境に耐え適応できる身体をつくる必要がある。
オルールの肉体では荒野の環境に耐えられない。だが、肉の器から抜けだした精神体ならば耐えられる。オルールは荒野を進むことができる。
私……オルールにアルトと呼ばれた女は、世界のはざまのバイパスで、うつうつと時を過ごしている。
アルトという名は本名でなく、オルールから名付けられた第二の名。本名は……いえ、言うまでもない。私はどこにでもいるつまらない日本人少女なのだから。名乗るほどの者ではないとはまさにこのこと。
オルールに仕えてきた給金と多額の退職金のおかげで、生活に困ることはない。どこかに一軒家を建てることも簡単なほどの財産がある。しかし、家を建ててのんびり暮らすような気分じゃないから誰もいないバイパスで無意味に時間をつぶす日々だった。
私は中性的な顔立ちをしていて、性格や言動も男寄りだ。男に愛されることはなくても女にもてるような人間だった。
生まれつき心臓が弱く、普通の人が送るようなまともな生活が望めなかった。身体が弱いせいでたびたび倒れたり熱を出したり入退院をくり返し、家族や周囲の人たちに迷惑をかけた。医者からは長くは生きられないだろうと宣告を受けていた。そんな自分にも境遇にも、私はうんざりしていた。ある日、私は死のうと思った。果物ナイフで頸動脈をひと思いに切断しようと考えたんだ。苦しみ続けて迷惑をかけて、結局はむなしく死ぬのなら、自分自身で死を選んだ方が良いと思ったから。身体に振り回されて苦しめられても、最後くらいは自分の手で決着をつけたかったから。死ぬのは恐くなかった。生まれたときから、常に私の近くで死が待ちかまえていたから。
家族が寝静まり、勉強机のスタンドだけを点けた薄暗い部屋の中で、私は隠し持っていたナイフのさやを抜き、銀色の刃を首に添えた。
つまらない人生だった。死のうとする直前、ぼんやりとそう思った。私は走ることができない。心臓を病んでいるから一ヶ所にとどまり続けるしかない。周りは私を置いてどんどん先へ進んでゆく。この世界の中で、私の居場所はどこにもなかったんだ。
自殺の理由を教えるような遺書ものこさず、刃を横にすべらせて人生を終わらせようとした時、突然現れたんだ。金色の目をした魔女オルールが。
私の死を待ちかまえていたかのような絶妙のタイミングで部屋に現れたオルールは、私に向かってにこやかな顔で言った。「捨ててしまう命なら、私にゆずっていただけませんか?」と。
オルールが私を拾ってくれたのは、多分共感が理由だと思う。オルールも私も、このつまらない現実にあきあきしていたからだ。
そして私はアルトという名をもらい、オルールの使いとして第二の人生を歩み出すことになった。家から蒸発し、オルールについて行って以来一度も帰っていない。帰る気はなかったし、帰る必要もないと思った。私はもう以前とは違う存在、アルトなのだから。
オルールは私の身体を改変し、心臓の異常も治った。オルールがもつ超常の能力もわずかに移植された。私は嬉しかった。健康で強い身体をようやく手に入れて、自由を得たと思ったからだ。
オルールが常識外の存在で、人間でないことはすぐに分かった。でもそんなことはどうでもよかった。オルールのそばが私の居場所だったから。彼女の使いとして生きることの選択に、私はまったく後悔を感じなかった。
オルールは私に少年のような言葉づかいをするように求めた。執事のような服も着るように命じた。少年のように凛々しい少女なら、いっそその美点を追及した方が良いと言う。それがオルールの趣味だった。
オルールの物腰は丁寧で、使いの私に丁寧語を使い、その反面で私が彼女に敬語を使うことを好まなかった。だから私がくだけた口調で話してオルールが丁寧語で話すという、はたから見ればどちらが主人か分からないような奇妙な主従関係ができあがった。
男っぽい容姿や態度を馬鹿にされるのがあんなに嫌だったのに、オルールに求められれば私は笑って応じることができた。私はオルールを楽しませる道化になろうと決めたんだ。オルールのために男のように振る舞う自分が好きになってさえいた。
退屈しのぎの社会を巻きこんだいたずらに付き合わされたことが何度もある。子どものようなオルールをしょうがないやつだと思いながらも、彼女といっしょに遊べることが私はうれしかったんだ。
オルールが精神体への昇華を望んでいることも、私はただ「そういうものか」と思っただけで彼女に従い続けた。疑問をはさまず、彼女の力になろうと働き続けた。
私が生まれる前から続けている精神生命体への昇華の研究が行きづまり、オルールが少女たちの心を本に移したいと言い出した時も、私は反対しなかった。決して強制はしないという方針だったし、現実で苦しむ女の子の気持ちはよく分かった。心臓の障害で私自身が死にたい、消えてしまいたいと願っていたのだから。それに、オルールの望みならかなってほしいと思っていた。
オルールは苦しむ女の子たちを眠らせて時間を止めることが善行だと信じて疑わなかった。想像もつかないほどの長い時間を生き、誰もかなわないような強い力をもつオルールはいつも退屈していた。彼女と同じように退屈し苦しんでいる女の子たちを救ってやりたいと言っていた。その気持ちは純粋で、悪意はなにも含まれていなかった。
それなのに、オルールは"森"を使った謎の計画を実行しようとしている。その計画について、私は悪い予感しか覚えない。
オルールの本心は私にも分からない。人間でないオルールの正体とか、彼女がどこからやってきたのかということも教えてもらえない。たとえオルールについた二つ名が真実で、彼女が本物の悪魔でも魔女でも私はかまわない。オルールは私の命の恩人で、かけがえのない主人なのだから。
"森"を育てて、何か恐ろしいことをしようとしているオルールを止めたい。突然私をクビにして遠ざけようとしているオルールの真意を知りたい。
オルールに拒絶されたことがショックで、どうしていいか分からずに、1人でずっと薄暗いバイパスで座りこんでいた。でも、私はようやく気づいたんだ。できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかだということに。やれば何かしらの結果が見えてくる。やらなければ何も始まらないし終わらない。もう立ち上がらなければ間に合わなくなる。フィーユが戻ってきたら、オルールの研究はどんどん進むはず。今動かなければ、きっと私は一生後悔する。
くやしいけれど私ではオルールを止められない。でも、あの人に説得してもらえば……あるいはうまくいくかもしれない。オルールはあの人に目をかけていたようだから。
ねえオルール。本当にもう私は要らないのかな。また昔のように使いとしてそばに置いてもらうことはできないのかな。
アルトより、遠いオルールへ感謝をこめて