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この推察は、いずれ雫に話すべきだろう。彼女の意見をうかがって行動をともにし事件の糸をたどっていけば、またオルールたちに会える可能性がある。雫に力を貸すことにしたのは、街を救いたい雫のけなげさに心を打たれただけでなく、静琉自身の願いをかなえる上でも有利だと思ったからだ。
「私にしか、できないこと」
損得の計算を終えて白い天井をぼんやり見つめていると、勝手に口が動き、そうしゃべっていた。
すでに二月も中旬に入り、もうすぐ三学期が終わる。短い春休みを経て三年生になれば、大学受験のことが嫌でも視野に入ってくる。
学校に提出した進路希望調査には大学進学と書いた。家族にもそう言ってある。受験に受かって大学に入れば、きっと適当に勉強して、適当にキャンパスライフを楽しむのだろう。恋愛にいそしむこともあるかもしれない。その後は卒業して就職しOLになるか、OLを経て結婚し家庭に入るのだろう。そして、ほかの大勢が歩む平凡な人生が続いてゆくだけ。
そういう生き方を強く望んでいるから、大学進学を希望してるんじゃない。クラスのみんながそうしているから、ただ静琉もまねをしているだけだ。みんなとズレないように、みんなと変わらない普通で安全な道を選ぼうとしているだけだ。
その道に、なんの情熱もわくわくした気持ちも感じていないというのに。
その平凡な生き方は、静琉にしかできない生き方ではない。誰でもみんなやっている。決して「私にしかできないこと」じゃない。
「私にできること」
静琉は綺化式を理解し、ある程度組むことができる。人の感情を視るという特殊能力ももっている。森野雫は静琉の式を上手いと言い、実力はたしかだと言った。
しかし、静琉のことは静琉自身が一番よくわかっている。透風静琉には、目を見張るような才能なんてないということ。
式についてのアイデアやひらめきはちっぽけで、いつも自分にがっかりしている。白夜堂に並べてある式本をのぞくたび、プロの世界の遠さにおどろき、あこがれ、自分の才能の無さに落ちこんでいた。
それでも、下手は下手なりに式を書いてて楽しかった。嘘、そしてあきらめと悲しみの感情に満ちたこの世界で、式のそばが安心できる自分の居場所だと感じていた。
「私の、やりたいこと」
フィーユを失い、式に積極的に関わっていた楽しい日々から退屈な日常に引き戻されて、心に大きな穴があいたようだった。失って初めて、その大きさと重みに気づく。そして、心にあいた穴が何でふさがるのかも、自分が何をやりたいのかも、本当はうすうす気づいている。気づいていても直視するのが恐いから、目をそらしているだけだ。
静琉は鼻の奥がつんと痛くなり、じわりと浮かんだ涙のせいで視界がにじむ。
綺化式の勉強がしたい。勉強して、腕を上げて、自分にどれほどの式が組めるようになるのかを知りたい。自分を試したい。
でもその道は、普通の人が歩む道とはあまりに異なるものだ。普通の人と違うのが静琉は恐い。他人からバカにされるのが恥ずかしい。ただでさえ静琉は孤立しているのに、周りの誰も進まない特異な道なんかを選んだらますます孤独になる。
たとえやりたいことをやったとしたって、上手くいく保証なんてない。未来のことなんかわからない。どうお金をかせいで暮らしていけばいいのかもわからない。式で上手くお金がかせげなければ、きっとフリーター同然の生活だ。不安定で、みんなからさげすまれ軽んじられる、最悪の人生が待っている。静琉の技術は素人に毛が生えた程度で、すごい才能もセンスもないのだから、式で身を立てる自信なんてなかった。
でも、と静琉は思う。オルールとのギャンブル勝負で、私は破産の危険を受け入れた決死の賭けができたじゃないか。オルールだって、私は安全で普通に生きるより挑戦に生きた方が性に合っていると言っていたじゃないか。大したことのない私だって、やろうと思って動けば……ほかの人にはできない自分だけの生き方ができるんじゃないか?
「う、うう……」
流れる涙がこめかみをつたい、しゃくりを上げるせいで呼吸がうまくできない。心も息も苦しかった。
24枚の全チップを賭けた勝負を挑んだとき、負ける可能性と恐れを断ち切って、ただ前だけを向いて進むことができた。それなのに今は、どうせ才能がないのだからとか、どうせほかの式使いにはかなわないとか、どうせ失敗するだろうと考えている。
そういうマイナス思考の正体はつまり、逃げるための言いわけなのではないか? 難しくて危険な道を避けるために、自分には無理だと勝手に決めつけているのではないか? これからつぎこまなければならない努力の量と失敗のリスクが嫌だから、自分はダメだと始めから見限っているんじゃないのか? 実際にやってみなければ、上手くいくか失敗するかという結果すら現れてこないというのに。
私は弱い。自分の人生を賭けた勝負に踏み切れない。弱い自分が嫌で静琉の涙は止まらない。
才能。抜きんでた才能が欲しい。才能があれば、綺化式を勉強する道に進んでも、きっと成功する。やりたいことがやれる素晴らしい人生が待っている。そう思わずにはいられなかった。
しかし、同時にある疑問が頭に浮かぶ。才能って、いったい何だろう? 生まれもった才能が優れた式を書くために必要なすべてか?
白夜堂の式本はどれも完成度が高い。成果物だけ見れば著者の才能に打ちのめされるが、どの著者だって少なからず努力をしているだろう。才能のみで書いてるなんてありえない。白鳥が優雅に水上を進んでいても水面下で足をせわしなく動かしているように、誰もが目に見えない所で相当の努力と苦労をつぎこんでいるはずだ。
白夜堂で会った稀代の式使い六花は、おそらく天才だろう。常人とは違う異様に図抜けた態度は天才肌と呼ぶにふさわしい。この世には少ないながら天才と呼ばれる人種がいることを、十数年生きてきた静琉は知っている。しかし、六花のようなごく少数の例外を除いて、どの式使いも努力とやる気と少しばかりの才能で式を書いてるんじゃないか?勇気を出せない静琉がプロの式使いの才能を信じてねたむように、世間で広く信じられている「才能がすべて」という考え方自体が努力をしない人たちの幻想と言いわけじゃないか? テレビに映る芸能人や俳優や歌手を見て「あの人たちは才能があっていいよなあ」と思っていれば、「自分には才能がなくて努力しても意味がない」と言いわけできて気が楽になるのだから。
たくさんのチップを手に入れるためには、多くのチップを賭けて勝負をしなければならない。何かを得るためにはそれ相応の代償が必要であることはギャンブル勝負で学んだ。
どんなに熱望しても、意気込んでも、努力しても、圧倒的で絶対的な逆境に殺されることだってある。静琉が決死の24枚賭けで手札の合計を21にしても、オルールが引いたブラックジャックの役の前になすすべなく敗れ去った。いかに努力したからと言って、必ず勝てる保証などないのだ。
それでも、負ける可能性を恐れて動かなければ勝つ可能性も自動的にゼロになる。やりたいことがあるのに危険をさけて安全を選べば、その人はきっと一生後悔する。「あの時一歩踏み出していたら、今ごろきっと……」という思いが、解けない呪いとなって一生つきまとうだろう。
やりたいことをやるために静琉が払うべき代償は、おそらく勇気をもって前に進むこと。人と違うことを恐れず、失敗する可能性を受け入れて、自分の決断と信念に身を任せること。心を揺らさず、先が見えない闇の中を突き進むこと。
この代償を支払わなければ欲しいものなど手に入らない。頭ではそう分かっているのに、勇気が足りない。失敗した場合の悲惨な未来図が頭から離れない。綺化式を学んで自分を試したいのに恐くて前に踏み出せない。やりたいのに、できないのだ。
その夜数年ぶりに、静琉はベッドにうつぶせになって泣きに泣いた。
「いや! おねがい! やめて!
わたしが消えちゃう! 死んじゃう!」
「大丈夫。消えないわ。
あなたは、ただ元の場所に戻るだけ」
金色の月が昇る深夜。オルールの館の実験室で、オルールが本を持ちフィーユと向き合っていた。オルールはオフィスチェアにすわったまま表情を消していたが、フィーユはおびえきって身体を震わせている。
「言ってみれば、あなたは私の
小指の先のようなもの。
あなたが欠けたままでは、私の
新しい身体は指の先が失われた
不完全な状態になる」
「やだ! やだよ! わたしがわたしで
なくなっちゃう! お願い、許して!」
「だまれ」
オルールは冷たく無感情に切り捨てて、フィーユの本を持ったまま実験室の中を歩く。そして、部屋の壁につるされた少女の前までたどり着いた。
少女は十字架にはりつけにされたキリストのように腕を地と並行に上げたまま、床から少し上の壁に固定されていた。布一枚まとっていない裸体が白い蛍光灯に照らされて、いっそう白く、美しくかがやいている。
目を閉じ顔をうつむけたまま静止している少女。その顔をオルールは見つめ、フィーユもまた身を震わせながら見ている。
オルールはフィーユの本に右手を添え、還元作業を開始する。ページにつづられた文字列が消え、同じことが次々とほかのページに起こってゆく。
「お願い! もうやめて! くるしい!
死んじゃう! 死んじゃうよ!」