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考え疲れたあげく、冴夜と斐七といっしょに昼食をとっていたときに静琉は金貨を取り出して2人に「どんな意味があると思う?」と聞いた。オルールの存在やギャンブルのことは伏せて、ある人から金貨をもらったとだけ説明した。
斐七に「静琉、もしかして援助交際してるの?」と真面目に聞かれ、静琉は「ちがうちがう!」と首をぶんぶん振って否定した。
斐七は金貨を持ってまじまじと見つめ、「おお、すごい……」と感心していたが、冴夜の方は軽く手に取っただけで、ろくに観察もせずに静琉に金貨を返した。冴夜いわく、貴金属は見慣れたものだという。
斐七の見解は、「きっと金貨の綺麗なところを静琉にも分かってほしかったんだ」というもの。芸術家肌な斐七らしい見方だった。
いっぽう冴夜は、「きっとその人は静琉が好きだったんでしょう」と言った。静琉が好きだからこそ、美しく価値が高いものをプレゼントした。贈りものが金とはいえ外国の通貨ではセンスがない、という辛口な評価もおまけにつけた。
どちらの意見も正しいように思えるし、間違っているようにも思えた。2人の見解が決定的な解答にならないのも無理はない。オルールの性格と金貨を残した前後の状況から推測しなければ答えには近づけないが、冴夜と斐七はオルールのことなど何も知らないのだ。
いくら考えても真相はオルールの頭の中にしかないとさとった静琉は、金貨について考えるのをやめた。意味ありげな行為に静琉がもんもんと思いわずらう状況こそ、オルールが望んだものかもしれないからだ。
案外、冴夜が言うように静琉のことが好きだから金貨を残していったのかもしれない。ブラックジャック勝負をしているとき、静琉とオルールの間には敵意以外の不思議な情が交わされていたようだった。
オルールがまとっていた理解不能な感情。彼女は計画の成就を喜んでいるのか? それとも悲しんでいるのか? 喜びと悲しみのどちらもオルールは抱いていて、感情を視つづけてきた静琉でさえ本心が読めなかった。
いったいオルールは何を考えている? 肉の器から抜けだしフィーユのような精神体に生まれ変わるとして、それが何になる? 体の改変が最終目標なのか、それともそこからさらに先の目的があるというのか。
通称の通り、オルールは魔女で悪魔なのかもしれない。オルールと勝負をして、彼女の人ならざる雰囲気や破滅さえ恐れない狂気に肌で触れて、通称が間違っていないことを静琉は実感した。オルールは悪魔のように恐ろしい少女だが、それでももう一度会ってみたいと静琉は思う。
黒のベールの向こう側にある彼女の心に触れてみたい。街の少女たちが荊姫にされる奇妙な事件に首を突っこんだ者として、事件の最後をこの目で見届けたいという思いがたしかにある。フィーユを失い、オルールたちと接触する理由を失った今となっては、かなうべくもないむなしい願望だが。
無気力と後悔と絶望がたまりにたまり、生きるのさえ面倒臭くなった朝。ぼんやりと登校した静琉が教室に入り、自分の席に座った。学生カバンの中に入れてあった教科書とノートを机の中に移していると、静琉は机の中に見慣れないものを見つけた。
折りたたまれた水色の紙だった。四つ折りにされたそれを広げてみると、それは1枚の便箋だった。そこには「透風静琉へ 今日の放課後4時30分、化学室まで1人で来られたし」と大きく書かれてあった。差出人の名は記されていない。わざわざ筆ペンを使って書かれており、果たし状のような体裁をとっている。しかし、手紙の字は丸みを帯びていて、明らかに若い女の筆跡だった。
この不可思議でぶしつけな手紙を前に、はじめ静琉は困惑した。やがて、わずかな恐れと強い興味が心にわき上がった。
オルールとのギャンブル勝負から2週間と経っていない。その時期に何者かからの個人的な呼び出しを受けた。これはもしかすると、オルールの関係者が静琉にコンタクトをとってきたのかもしれない。オルール、そしてフィーユとの再会の可能性に、死んだように熱を失っていた静琉の心が少しずつ脈を打ち始めた。
その日の授業がすべて終わり、放課後になった。静琉は教室で時間をつぶし、指定時刻まぎわになるとカバンを持って化学室へ向かった。
化学室の前に立ち、静琉は緊張に息をのんだ後、出入り口の引き戸に手をかける。最悪のシナリオ……誰かと交戦する事態も想定し、静琉は右手に護身用の式本も持っている。引き戸を引いて、中に入った。
一見して、化学室には人の姿も影も見当たらない。耳を澄ましてみても音らしい音も聞こえなかった。今は指定された4時30分を1分過ぎただけで、静琉が遅いから帰ってしまったということは考えにくいのだが。
「あの。透風静琉ですけど。
言われた通り来ましたけど」
静琉は周囲を見回しながら、おずおずと教室の中央まで足を進めた。
「うわあっ!?」
突然、静琉の前後左右にどこからともなく人影が浮かび上がった。うつろな顔をした女。和服姿をした小さな少女。白い布を頭からかぶり宙に浮かぶ少女、ナイフを手に持った大柄な男。それらの人間に、静琉は四方を囲まれてしまった。
どう見ても普通人ではない。静琉はそう思い、最初こそ驚いて声をあげたものの、すぐに目の前の影のからくりに気がついた。理性と理解が恐怖と混乱を鎮め、静琉は平静をとりもどす。
「来たわね、透風。
私のことを知っている?」
化学室に備えられた実験机の影から、1人の女生徒が姿を現した。不敵な笑みを浮かべ、その右手に開いた本を持っている。
「知らないけど」
静琉は周囲の人影に目もくれず、不意に現れた女生徒を見て言った。女生徒は静琉の答えとぶっきらぼうな言い方にかちんと来たらしく、明らかに不機嫌な表情になった。
「3組の森野雫よ!
あなたが知らなくても、私はあなたに
借りがあるんだから」
ショートカットの髪型をした雫と名乗る少女は、自信に満ちた様子で静琉の前へ歩みよった。
「聞いたわ。図書室の亡霊事件を
解決したのはあなただそうね。
せっかく騒ぎが大きくなって面白かった
のに、あなたのせいで台無しよ。
やられっぱなしは屈辱だわ。
借りを返すために、私はあなたに、
透風静琉に決闘を申しこむ」
「は?」
「亡霊騒ぎを解決したということは、
あなたも式使いなんでしょう?
綺化式で作った幻像を始末するのは
式使いじゃないと無理だもん。
式使いとしてどちらが上か、今日ここで
はっきりさせておこうじゃないの」
静琉は初め、ぽかんと口を開けたまま雫の話を聞いてきたが、そのうちに静かな怒りがこみ上げてきた。怒っているのになぜか気持ちは冷えていて、冷酷な人間へ変わってゆく。
「あなたの腕がたしかなら、手伝いに
加わってもらうから。
実力を測るテストもかねての決闘よ。
さあ、いざ尋常に勝負を……」
「"拘束式③"」
雫の話を聞き終える前に、静琉は無情に拘束式を発動。雫は一瞬で手足を固く縛られ、バランスを失い床に倒れた。
雫が持っていた本は手から離れてばさりと落ち、静琉を囲んでいた不気味な人影も煙のように消えてしまう。人影が綺化式から生まれた幻影で、何の害もないことを静琉は見抜いていた。
雫はあおむけに倒れ、「いたたたた……」とうめいている。静琉は無表情のまま雫にすたすたと歩みより、その顔の前にしゃがみこんだ。
拘束式③は、フィーユを失ってからの一週間で胸の空虚を埋めるために新しく組んだ式だった。体を縛るだけの単純な式だが、両手首を背中側で縛り、両足首も縛ることで、より効果的に標的の自由を奪う方式をとっている。さらに縛る力もよりいっそう強くすることで、相手の姿勢を固定するのみの拘束式①よりもかなりの進化をとげた式だった。
「卑怯者! まだ始めの合図も
言ってないのに!」
「戦いに卑怯もなにもないよ。
やられた方が悪いんだもん」
前口上ばかり長く、静琉の様子にはまるで無警戒で隙だらけ。こういう馬鹿は戦場ではまっさきに背中から刺されて死ぬタイプ。
アルトやオルールとまがりなりにも"戦い"を交わすうち、静琉の戦いのセンスはみがかれていた。その静琉からすれば森野雫はずぶの素人で、まともに戦うにあたいしない。
「ううっ……。ちゃんと戦えば、
私が負けるはずないのに……」
「果たしてそうかなあ……」
雫の負けおしみを軽く流し、静琉は雫の式本を手にとってぱらぱらとページをめくり、内容を簡単に確認してみた。
そこに書いてあった式は、幻影を出して相手を驚かせたり怖がらせる効果のものが3つだけ。いずれも稚拙でお粗末な出来で、そもそも幻影を作るだけなら綺化式の中でも初歩の難易度レベルだ。この式でどうやって勝つつもりだったのか、静琉には疑問もはなはだしかった。
「私をここへ呼び出したのは
アルトかオルールに言われて
やったんじゃないの?」
「あると? おるーる?
何よそれ……知らないわよ」
静琉の期待は裏切られた。よどみ、止まり、腐ってしまった日常に変化を取り戻すことを強く期待していただけに、つぎこんでいた気持ちが多大な失望と怒りに反転し、そのまま静琉に返ってきた。