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「初めてのギャンブルで心がお疲れでしょう。
少し、お休みなさい」
オルールの左手人差し指に巻き付いていた白い髪の毛が溶け、黒い液体となった。そして闇色のしずくが静琉の手に落ち、肌の中へ染みこんでいった。そのとたん、静琉は意識が遠のいて何も見えなくなった。
どのくらいの時間を椅子に座ったまま過ごしていたのか分からない。気がつけば窓から見える外の景色は黒に塗りつぶされ、夜になっていた。
前の席に座っていたオルールは消えていた。ブラックジャックに使ったトランプも、静琉が注文した品の代金を表記した伝票も消えていた。
そして、学生カバンの中にしまっておいたフィーユの本はオルールに持ち去られたあとだった。静琉の前にはなぜか1枚のメイプルリーフ金貨が表にして置いてあった。
静琉は金貨を見つめたまま、しばらくの間動くことができなかった。涙は流れない。オルールを憎むこともできない。金貨を見つめたまま、動くことができなかった。
オルールの館の実験室。オルールは黒い皮が張られたオフィスチェアに座り、右手に持ったフィーユの本に視線を注いでいた。右手だけで器用にページをめくり、それと並行して左手だけでデスクトップ式パソコンのキーボードをたたき続ける。オルールはディスプレイにいっさい目を向けず、完全なブラインドタッチだった。
オルールのたえまない入力によってエディターに次々と文字列が浮かび、編集画面が文字列で埋まり下へ下へとスクロールを続ける。ディスプレイを見もせずに自在にソフトを操る技術はウィザード級のように映るが、彼女はただ自身の髪を目の代わりにして進行状況を見ているにすぎなかった。
フィーユの組成の分析とその考察。成功時の実験条件と本の式の照合。今まで失敗し続けてきた環境条件と偶然上手くいった環境条件の差の洗い出し。揺らぎ変化する精神を完全固定し不変にするために必要な式の記述は。
「ねえ。もう帰してよ。帰りたい」
精神体を一個の生命として維持するために必要な条件。荊姫たちから収集したデータを元に作成した精密な精神抽出と具現化のマニュアル、それを特異な存在であるオルール用に応用。精神体として昇華が成就したとして、最終目的が達成される可能性とその確認作業。
「帰りたい。帰りたいなあ」
「うるさい。気が散るから静かにして」
食い入るように本を読みこみつつ、オルールは無表情に無感情にそう言ってフィーユの願いを切り捨てた。するとフィーユはみるみる表情を曇らせ、天をあおいでさけび始めた。
「静琉ーー! 助けてーー!」
生物でないのだから涙も出ないのにフィーユはうわーんと泣きじゃくる。
これでいったい何度目か。オルールはいら立ちまぎれに頭をがりがりとかき、深く大きなため息をつく。
オルールの人当たりは基本的に丁寧だったし、彼女自身もそうするように心がけていた。強大な力をもっていようとそれにかまけて尊大に振る舞えば相手に良い印象を与えない。関係を円滑にするために淑女のつつしみを習慣化させた方が良い。そう考えて身につけた態度だったが、自分のささやかな分身にまで丁寧に接する必要はないと考えていた。
オルールは本から目を話し、パソコンデスクの端にちょこんと立っているフィーユを見る。自分自身に困らされるとは奇妙な現象だった。
「少し見ない間にずいぶん変わったのね。
昔のあなたは黙ったままでまったく話そうと
しなかったのに。
今のあなたはまるで私じゃないみたい」
「わたしはあなたなんかじゃない。
わたしとあなたは全然ちがう……」
オルールが何度説明しようとこの調子だった。分身がこう頭が悪いと、オリジナルのオルールとしては気が滅入る。実験的に本に転写した精神はごく一部だから、情報量の少なさが原因で記憶がはっきりしなかったり知能が子ども並まで落ちこんでしまうのは理屈しては理解できるが。
「わたしとあなたは同じもの。
いい加減、現実を見て受け入れて」
これ以上わずらわされたくないオルールはキーボードから左手を離し、本のページをすばやくめくって目的のページを探し出した。そして右手の人差し指をさらさらと紙面に走らせる。指が通った後には新しい式がつづられていた。
「!?」
オルールが式の追加を完了すると、一瞬でフィーユの身体が人間並みに大きくなった。フィーユは驚いた様子でオルールの隣に立ちつくしている。
大きくなるのみならず、髪は白く、瞳は金色に、それぞれ変化していた。その姿はアルトに本を燃やされそうになった時に変貌したものと同じだった。フィーユは自分の手足を触って確かめ、大きさがすっかり変わった景色をきょろきょろと見る。
「向こうの窓ガラスで顔を見てみなさい。
あなたの顔は私と同じだから」
そう言って、オルールはふたたび本に視線を戻しキーボートをたたき始めた。フィーユはその言葉にしたがって小走りで窓へ寄り、ガラスに映る目や髪をまじまじと見つめていた。
少し経ち、フィーユがとぼとぼとオルールの前へ戻ってきた。顔をうつむけ、重大なショックを受けているかのようだった。
「これで分かったでしょう。私もあなたも
同じオルールなの。
分かったらもう静かにしてて。集中力が」
オルールの話が終わる前に、フィーユはオルールの右手から本をひったくって実験室の出入り口に向かって駆けだした。
「ばーか! このまま逃げてやるわ!」
あはははと笑いながら逃げてゆくフィーユ。そんな彼女の後ろ姿をオルールは頭が痛くなる思いで見ていた。
フィーユの型を安定させるために圧縮凍結させていた精神の部分を式を追加して解放し、それをフィーユにプラスさせた。身体は大きくなり頭も多少良くなったようだが、根本的なまぬけさは変わっていない。
「馬鹿なのはそっちでしょう」
オルールの意思一つでフィーユのすべてを封印できるよう、すでに準備は整えてある。フィーユは煙のように身体を失って本の中に戻された。フローリングの上に本がばさりと落ちた。オルールは椅子から立ち上がって本が落ちた場所まで歩き、めんどうだと思いながらフィーユの本を拾い上げた。そして本を開き、ページとページの間にへたりこむ小さなフィーユと対面した。
「な、なんで? なんでまた
小さくなったの……?」
「同じ失敗をくり返すほど私は馬鹿じゃ
ありません。
あなたが戻ってきてからすぐに、勝手に
身体を変えて逃げられないように本に
加筆修正したの」
「うわーーん! 静琉ーー!」
オルールは泣きさけぶフィーユを無視してページをめくり、今しがた書き加えた式の上に人差し指をはわせてすぐに削除した。
「帰してよ! 帰してよったら
帰してよ!
静琉の所に! わたしの家に!」
「あなたは私でしょう。私の家はここ。
あなたはもう帰ってきているの」
「ちがうよ!
ここなんかわたしの家じゃない!」
馬鹿につける薬はない。馬鹿は死ななきゃ治らない。そんな日本のことわざがオルールの頭をかすめた。人は失敗し、それにこりて学習し行動を修正して少しずつ賢くなってゆくものだが、馬鹿な者はその修正システムがうまく働いていない。だから学習もしないし行動も改まらない。つまり馬鹿とは不治の病に等しい。オルールはフィーユを無視してパソコンの前に戻り、椅子に座り直した。
オルールの心の切れはしが外界で対人経験を積み、ここまでオルールとかけ離れた人格に変化するとは興味深い現象だった。もとはオルールとさして変わらないはずなのに、経験と環境次第で魂は劇的に変わる。
本が手元に戻ってきたおかけでフィーユの分析とオルールが昇華する準備は順調に進んでいる。身体からオルールの精神をすべてまるごと抽出し固定できれば、フィーユのようなはんぱ者は生まれない。オルールの性格と経験と知識をそのままもつ完全な精神体に転生できるはずだ。その際にはフィーユを――。
フィーユがまだうるさく泣いているので、オルールはうんざりする思いで椅子に深く背を預けた。わが子の出来の悪さに幻滅する。人の親がいだくような感情をオルールは味わっていた。
六花との殺し合いで死の寸前まで生命を削られたことが原因で、オルールは疲れやすくなっていた。表面上は無傷を装っているが体の内側はボロボロで、その修復と回復に体力をもっていかれるからたった数時間デスクワークを続けただけで無視できない疲労がたまる。フィーユのせいで集中力がとぎれ、同時に疲れで体が重くなってきたオルールは、パソコンいじりを中断して少しだけ休憩をとることにした。
椅子のリクライニング機能を使って背もたれを倒し、オルールはぼんやりと天井をあおぐ。そして頭の中で透風静琉とのブラックジャック勝負を思い出していた。
静琉が決死の24枚賭けを仕掛けてきた時、まるで天が差し向けたかのようにオルールの手元に現れたスペードのエースとスペードのクイーンの組み合わせ……すなわち最強のブラックジャック。あの運命的な結末はオルールにも予想がつかなかった。相手の静琉はもちろんのこと、オルール自身ですらわが目を疑ったほどだった。
運命など、人が偶然の積み重ねに自分好みの意味を見いだしたものにすぎない。そう分かっていても、あのブラックジャックはあまりにもできすぎた偶然だった。この世界を廻している何者かがオルールの研究の成就を望んでいる。だからオルールが勝負に勝つようにカードの山にブラックジャックの役をしのばせた……。