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オルールはそう言って、自身のホールカードをめくりもせずに静琉のチップを没収する。静琉は今の負けで、物思いの世界から現実に引き戻された。ゲームを始めて以来、静琉は初めてバストを経験した。
プレーヤーがヒットの結果バストすれば、その時点でプレーヤーの負けが確定する。たとえディーラーも同じようにバストしようと、プレーヤーの負けというルールなのだ。だからオルールはホールカードを確認する必要がなかった。
「フィーユは私の精神を分離させた
分身……子ども……娘といっても
いいかもしれません。
だからfilleと名付けました。filleは
フランス語で"娘"という意味です」
オルールに目でうながされ、静琉は3枚のチップを取り、それを前に置いて賭けた。
静琉の手札はハートの3とハートの8。オルールのアップカードはクラブのエース。静琉は迷わずヒットし、ダイヤの7を引く。手札の合計は18で、ここでスタンドを宣言。
オルールがホールカードをめくり、それはスペードの8だった。
「19です」
静琉は僅差で負け、賭けたチップを没収される。ドローを経てから二連続の負けで、静琉は合計6枚もチップを失った。
静琉は賭けるチップを3枚から2枚に減らした。このところ、悪い流れが続いている。それを思うと静琉は無理ができなかった。
「実験というのは理詰めで進めれば
必ず上手くいくというものでもなく、
偶然に成功することもよくあります。
フィーユの場合がまさにそれでした」
静琉に配られたカードはクラブの4とダイヤの3。オルールのアップカードはクラブの10。静琉はヒットしダイヤのジャックを引いた。静琉の手札の合計は17。静琉はオルールのバストを願ってスタンドを宣言。
オルールはホールカードをめくり、それはクラブの9だった。
「19です」
オルールは笑顔でそう言って、無情にチップを没収する。
「実験が成功しフィーユが生まれたのは
偶然です。
必然ではなく偶然の成功というところが
悔しいですが、それでも成功は成功です。
成功例であるフィーユの身体を分析して、
上手くいった条件と方法を再現すれば
私の研究は成就します。
しかし、フィーユは私たちの所から消えて
しまいました。
フィーユが私の分身だと言っても、私には
フィーユが何を考えているのかもどこにいる
のかも分かりません。
だからフィーユがいなくなって、私は困って
いました。
研究の仕上げにはフィーユが不可欠です
からね」
プレッシャーと緊張で静琉の指先はかすかに震えていた。チップを2枚取り、それを前に置く。
静琉の手札はスペードの5とダイヤの10。オルールのアップカードはダイヤのエース。静琉は危険を承知でヒットし、クラブの5を引き当てた。これで手札の合計は20となり、まず負けない。静琉は安堵の思いでスタンドを宣言した。
オルールはホールカードをめくる。クラブのキングだった。
「ブラックジャックです。
残念でしたね」
さっと持って行かれるチップを、静琉はぼう然と見送った。
ブラックジャックにおいて、ブラックジャックの役は最強だ。相手の手札もブラックジャックの役でない限り、絶対に勝つ。
静琉の優勢が逆転し、勝負の流れはオルールに味方している。勝てない。オルールに良いカードとツキが集中している。
「フィーユの見た目も声も性格も大きさも
私とはまったく違います。
転写した精神はほんの一部分ですから、
量が少なければフィーユも小さくなるのは
当然ですが、私と姿形や性格が違うのは
それだけ精神が"揺らぎ"をもち多様性を
もつということの実証ですね。
ある人が突然良い人になったり、その逆に
悪くなったりするのはそう珍しくありません。
心は定まらず、たくさんの要素を内包して
いるのです。善も、悪も、中庸も。
ちょうどこのトランプカードのようなものです。
ハート、クラブ、スペード、ダイヤ、それぞれの
印のカードがエースからキングまで1枚ずつ、
13枚×4種類=52枚とジョーカーで53枚。
トランプカードのセットの中でもこれだけの
種類、多様性があります。
トランプセットという存在の精神を一部分だけ
抽出しそれを本に転写するとして、トランプ
の山から引く精神はハートの10かも知れない。
あるいはダイヤの5かも知れない。もしかすると
ジョーカーかも知れない。
様々な要素をもつ私の精神を一部分抽出し、
それを結晶化させると、たまたまフィーユのような
姿形や性格をとったというわけです」
オルールは勝負に使ったカードを横に廃棄し、淡い笑みを浮かべながらフィーユの正体の説明を続け、ついに終えた。
静琉がテーブルの左隣に立つフィーユをちらりと見れば、やはりフィーユは口をあんぐり開けたまま石像のように固まっている。無理もないと静琉は悲しみのうちに思った。静琉でさえフィーユの正体には意識が白くなるほどの大きな衝撃を受けたのだ。当人のフィーユのショックたるや想像を絶する。
「研究の完成に不可欠なフィーユを……
取りかえすのに……どうしてギャンブルなんて
方法を選んだの……。
運次第で、もうフィーユが取り戻せなくなるし、
荊姫を失って研究がつぶれる可能性もある。
なのに、どうして運任せのギャンブルなんかで」
ヒットかスタンドを選ぶことができる自由な戦略、ブラックジャックの役で得られる1.5倍の配当、ダブルダウンという状況を有利にするかもしれない選択を保証されている静琉に対し、ディーラーのオルールに自由はない。
手札が17か17以上になるまで機械的にヒットを続けなければならず、そこに戦略や選択をはさむ余地はない。ディーラーの手札が強くなるかバストするかは完全な運任せである。いかにプレーヤーの倍のチップをもつとはいえ、ゲームが進みチップを奪われてプレーヤーと並ぶような状況になればゲーム開始時の有利などあっさり消える。
「簡単な理由ですよ。勝負は
危ない方が面白いからです」
静琉の問いにそう答えて、オルールはどこか不気味な笑いを浮かべた。
「賭けるものが大きければ大きいほど、
大切であればあるほど、ギャンブルは
スリルがあって燃えるんです。
長く生きて色んな遊びを味わい尽くすと、
もうギャンブルくらいしか楽しめなくなる
ものなんですよ」
真面目な学生の静琉には、オルールの言うようなただれた境地はまったく理解できなかった。本気で言っているのか、それともこけおどしか。それを確かめて少しでも混乱を鎮めようと、静琉はオルールの感情を盗み視た。
オルールが身にまとう感情はひどく奇怪で異質なカタチをしていた。人間の感情とはその質感がまるで違う。オルールの外見は人間の少女だが、その皮の下には巨大な昆虫かハ虫類でもひそんでいるのかと思うほどだった。静琉は目を見張り、凍りついたように身動きひとつできない。
質感は違っても人の感情と共通している色や形状があり、オルールが何を感じているのかはだいたい推測できた。そこにある感情は強い楽しさとかすかな悲しみだけで、嘘をついているときに発生する恐怖や自責の念がかけらも見当たらない。
オルールは本当にギャンブルを楽しんでいる。勝負に負けて永久にフィーユを失い、長年の研究が達成不能になることもまったく恐れていない。それどころか、今の危険な状況を心から喜んでいる。
静琉はチップの増減に一喜一憂しているが、オルールは死も破滅もなにも恐れていない。ギャンブルの腕や運以前に、恐怖への耐性と感じ方に静琉とオルールでは差がありすぎた。
「さあ、ゲームを続けましょう」
オルールにうながされ、静琉は震える手で2枚のチップを差し出した。
静琉の手札はハートの7とスペードの5。オルールのアップカードはスペードの3。静琉の合計は12であり、このままではまず勝てない。
「ヒ……ヒット……」
そしてヒットしたカードはダイヤのクイーン。
「バストですね」
またしてもバスト。オルールは無情にチップを没収してゆく。
まるでオルールの話が呪いとなって静琉に降りかかり彼女の運を吸い尽くしたかのように、静琉は一方的に負け続けた。
動脈を切られどんなに押さえても出血が止まらないように、静琉のチップが湯水のごとく消えオルール側に流れてゆく。
ギャンブルで正常な判断が下せるのは、あくまで自分が有利か負けが積もっていない時だけ。人は異常事態におちいると混乱し、恐怖に支配されてまともにものを考えられなくなる。静琉はまさにこの状態だった。
何とかオルールの手札に勝とうと、すでに合計15や16といった時にヒットをし、バストをくり返す。そしてバストを恐れるがあまり12や13といった数でスタンドし、結局オルールに負ける。静琉はこのような暴挙と逃避をくり返した。
たまに勝てばついに勝ちの流れが来たと早合点し、今までの負けを取り戻そうと3枚賭け4枚賭けをして負け、さらに傷口を広げるはめになった。
負けが続けば静琉はさらにあせって冷静さを失い、そして目の前のオルールからにじみ出す異様な雰囲気……負けも死も恐れない理解不能な狂気に恐怖し、静琉の混乱はさらに加速する。
どんなにあがいても静琉の出血は止まらない。恐怖しまともな手を打てない静琉をあきれたと言わんばかりに運からも見放され、静琉にはエースや絵札のような有用なカードは集まらず、逆に欲しくもないカードばかりが寄ってくる。
そして、オルールと並んだときが夢だったかのように静琉の残りチップは5枚。今や失血死寸前の状況にまで追いこまれていた。