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ゆっくりと、優しくギャンブルルールを説明するオルール。この時静琉は彼女を敵だと忘れ、気持ちを集中させてルールの理解に努めた。オルールが先に言ったとおり、それは初心者にも分かりやすい単純なギャンブルだった。
「ちょっといい……?」
「何かご質問が?」
「質問じゃないけど、ここって
喫茶店の中でしょう。
ギャンブルなんかしていたら
店員に止められると思うけど」
「ああ、その点はご心配なく」
オルールは微笑んで、空になった静琉のティーカップを手に取った。そして静琉が止める間もなく、カップを上に放り投げる。
天井近くまで昇ったカップは重力にしたがい、オルールの横に落ちてカシャンと割れた。「な、何やって」と静琉はおろおろとオルールを見るが、オルールは静琉を見つめたまま笑うだけだ。
何も起こらなかった。カップが宙に舞う様子は見逃したとしても、割れる音はかなり大きかった。それを店員や客が聞き逃すはずがないのだが、店員が静琉たちの前にやって来ることも、視線を集めることさえなかった。
「手品を使って、この席には誰の
注意も向かないようにしてあります」
そう言われて静琉は気がついた。思い返せば、オルールの相席に店員が何も言わなかったことといい、オルールが正体を現しても髪や目の色が人目を引かないことといい、この喫茶店はオルールの支配下にあるようだ。
少女の心を本に転写するような魔女に、そんなことができたとしても静琉はおかしいとは思わない。綺化式だって似たようなことができる。この席はオルールが用意した2人のための個室……フィーユをめぐる決戦場なのだ。
「誰の邪魔も入りません。
静琉さん、この勝負、
受けて頂けますか」
2人のやりとりは誰の意識にもとまらず、誰の助けも期待できない。静琉独りの力で乗り切るしかない。
答えはすでに決まっていたが、まるで言葉が重い鉛にでもなったかのようになかなか口から出てこなかった。うつむいたまま、数秒……もしかすると数十秒も黙っていたのかもしれない。
「受けましょう」
人ならざる金色の目をしたオルール、薄笑いを浮かべる魔女の顔をしっかりと見て、静琉は勝負を受けた。腹の底では震えていたが、それでも声と表情にだけは固い意思をこめた。ここで弱みを見せれば押し負ける。静琉はそれを肌で感じとっていた。
負けられない。勝たなければならない。フィーユの勇気と献身に応え、生ける屍と化した荊姫たちをオルールから救い出すために。
ブラックジャック。
それがオルールが提案したギャンブルの種類だった。トランプカードの数字を2から10はそのままの数で、ジャック、クイーン、キングは10として扱う。1であるエースのみ1もしくは11の好きな方に数えることができる。ジョーカーのカードはゲームに関係しない。手札の数字の合計が21に最も近い者を勝ちとし、21を超えれば即座に負けとなる。
カードの配り手であるディーラーはプレーヤーの2倍の数のチップをもち、プレーヤーはチップを賭けてディーラーの手札と数を競う。プレーヤーが勝てば賭けたチップと同額のチップを手にすることができるが、負ければ賭けた分のチップをディーラーに没収される。ディーラーが全てのチップを失って破産するか、その逆にプレーヤーが破産すればゲームは終了する。
ルールとして、ディーラーは手札の数の合計が16以下ならば必ずカードを追加しなければならず、17もしくは17以上になればカードの追加は許されない。つまり、ディーラーの手札が17を下回ることはありえない。必ず17から21までのどれかの手札であり、もしくは21を超えてバストした状態である。カードを追加した後に21を超えてしまうことをバストといい、バストすれば必ず負ける。ディーラーがバストすればプレーヤーの勝ちが決定し、プレーヤーがバストすればディーラーが勝つ。ディーラーとプレーヤーの両者がともにバストしていればプレーヤーの負け。ディーラーとプレーヤーの手札が同点だった場合、勝負は引き分けとなりプレーヤーが賭けたチップはそのままプレーヤーに戻る。
ディーラーの手札がどれくらいなのかを読みながら、バストする危険をおかしてカードを引き21に近づけてゆくか、それともディーラーのバストを期待して安全策をとるか。その選択がブラックジャックをギャンブルにしている要素だった。
このゲームで使われるチップは、今日の勝負のためにオルールが持ってきていた本物のメイプルリーフ金貨。カナダ王室造幣局が発行する硬貨で、その金の純度は99.99%以上だ。1オンス金貨のまばゆい輝きと大きさ、そして沈みこむような重量感に静琉は息をのむ。
オルールは魔法か手品のように手の中から出して見せた金貨を、静琉の前に20枚、自身の前に40枚積んだ。金貨を10枚積んだ山が静琉の前に2つ、オルールの前に4つある。
ブラックジャックの勝負で、プレーヤーは静琉が、ディーラーはオルールがそれぞれになう。ディーラーはカードを配ったりチップを配るなど仕事が複雑なため、「私がやりましょう」とオルールが買って出たのだ。
ディーラーはプレーヤーの倍のチップを持っているため不公平なように映るが、ディーラーは手札が17かそれ以上になるまで機械的にカードを追加しなければならないため、選択の自由がない上にバストしやすい。そのためプレーヤーばかりが勝ちディーラーはチップを奪われる一方という状況に陥ることもしばしばだ。そういった不利をおぎない伯仲した勝負を成立させるために、プレーヤーの倍のチップをもつのである。
ブラックジャックにはスプリットやインシュランス、サレンダーといったサブのルールが存在するが、これらの要素はゲームを複雑にして初心者の静琉を混乱させかねない。そのため今回の勝負ではカットされた。
その代わり、ブラックジャックの役と倍賭けのダブルダウンだけはギャンブルの醍醐味としてそのままゲームに取り入れることになった。
プレーヤーに配られた最初の2枚がエースと10として数えるカードだった場合、エースを11とすれば合計が21になる。この役をブラックジャックと呼び、プレーヤーは賭けたチップの1.5倍の配当を得ることができる。ディーラー側の役がブラックジャックだった場合でも、プレーヤー側が1.5倍のチップを没収されるようなことはない。そして静琉とオルールの勝負では0.5枚を1枚とすると事前に取り決めがなされた。例えば静琉がチップを5枚を賭けてブラックジャックの役で勝った場合、配当は5×1.5=7.5枚だが、1枚の金貨を半分に分けることはできないため、0.5を1として計8枚の配当にするということだ。
ダブルダウンとは、プレーヤーが最初に配られた2枚のカードの合計を見て、初めに賭けたチップと同額のチップを追加して賭ける選択だ。ダブルダウンを宣言した場合、あと1枚だけディーラーからカードが配られる。勝てば最初の2倍の配当が得られるが、もしも負ければ追加して賭けた分のチップまで没収されてプレーヤーの損害も倍になる。
「静琉さん。シャッフルをどうぞ」
オルールが笑顔で差し出すトランプの箱を受け取り、静琉は封を切った。買ったばかりの未使用のトランプで、カードの表にも裏にも目印となるような傷や汚れ、何かのマークはついていない。静琉はそれを確認してシャッフルしようとする寸前、「一番下のジョーカーを抜いて下さい」とオルールに言われ、ブラックジャックに関係のないジョーカーを抜いた。
ピエロの絵柄。ジョーカーはどことなく不吉な雰囲気を放っている。静琉はジョーカーを裏にして机に伏せ、ぎこちない手つきでトランプをシャッフルした。できるだけカードがよく混ざるようにシャッフルをくり返し、トランプをオルールに返す。
オルールはトランプの束を裏側にして自身の前に置き、ジョーカーはテーブルのすみにどける。
「それでは勝負を始めましょう」
微笑むオルールには、気負った様子などまるでない。静琉は固い表情で、黙ったままこくんとうなずいた。
「賭けるチップを前に置いて下さい」
静琉はチップの山から1枚のメイプルリーフ金貨を取って、それを前に置いた。たった1枚の勝負。しかし、静琉には見栄を張っている余裕などない。
オルールはやわらかな表情のままトランプの束を持ち、水が流れるような手つきで静琉の前に表向きにした2枚のカードを置いた。
ハートのクイーンとクラブのキング。それらのカードが意味することを飲みこむのに、静琉は数瞬を要した。
オルールは自分の前に裏向きにしたカードを二枚置き、その片方をめくって表向きにする。それはハートの3だったが、静琉はろくに見ていなかった。
「追加のカードは要りますか?」