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「て、店長。この子……」
「……なんだこいつは?」
静琉の視線の先で身をちぢめる女の子を見てさすがの店長も目を見張り、表紙も裏表紙も白い謎の式本を手に取った。女の子が「あっ……」と心配そうな声を上げて本と店長を見る。
「こいつは本当に式本か?
こんな式、見たことないな」
店長は本のページを適当にめくり、確認をとるために静琉に本を手渡した。ささやかな奇跡を具現する綺化式……それを組むことができる数少ない一人の静琉も見たことがない不可思議な文字列がページいっぱいにつづられ、それが本の初めから終わりまで延々と続いていた。
「おい。お前はどんな式だ?
何ができる?」
「歌うのが、すき」
店長の問いに、女の子は静琉に寄りそい半身を隠したままぽつりと答えた。「ほかには?」「それだけ」とごく短いやりとりを経て、店長は本をカウンターに乱暴に置いた。
「ごみじゃねぇかよ。品物にならん」
「おねがい、捨てないで。
きらいにならないで。
もう1人は、捨てられるのは、いやだ」
問題の白い本は、気味悪がられて人から人の手を次々と転がってゆき、しまいには特製の拘束布で封印固定されたのだ。本の中にずっと閉じこめられていたらしい女の子は、静琉と店長の顔を見比べながら泣いてしまいそうな顔だった。
「まあ見てくれは悪くないし、店の入り口に
飾って客寄せパンダとしてなら使えるか?」
「だめですよ、そんな見世物みたいな風に。
可哀想じゃないですか」
きょとんとしたままの女の子を、静琉は心からかばってあげた。店長は「はっ」と酷薄に笑い、軽く肩をすくめる。
「冗談だよ。そんなの店先に置いといたら
客に笑われちまう。ここは乙女チックな店
ですねえ、ってな。
使えねぇもん置いといてもしょうがないし、
欲しけりゃお前にやるよ、静琉。
煮るなり焼くなりご自由に」
「欲しいです。もらいます」
「元はタダだしな、そう美味い話はないか」とつぶやき別室へ歩いてゆく店長を見送った後、静琉は女の子と見つめ合った。
「お姉ちゃん。わたしとお友達になって」
「うん。今から友達。もう大丈夫だよ。」
なりゆきから白い本の所有者になった静琉は、孤独に押しつぶされそうな少女を安心させようとやわらかく笑った。そして、女の子の前にそっと手を出した。
女の子は服のカーテンから歩み出すと、小さな手でおずおずと静琉の中指に触れた。その繊細な指とよどみない動きに、まるで本物の人間のようだと静琉はおどろいた。この本と女の子のことをもっとよく知りたいという好奇心が、ずっと灰色にくすんでいた静琉の心に鮮やかな感情を取り戻させてゆく。静琉が謎の式本を引き取ったのは、綺化式を知り組むことができる者として本の原理と女の子の秘密に魅了されてしまったからだ。
「この本、見たことない式だね。もしかして新言語なのかな」「本の式、誰に書いてもらったの?」「どこで書かれたのかな」と静琉が本のルーツについてあれこれ質問しても、女の子は困ったように首をかしげて黙ってしまう。質問していくうちに、女の子は自身が本をよりどころにして成り立っていることは分かっていても、本に記された正体不明の式や自分が生まれた理由と背景については何も知らないらしいことを静琉は理解した。
「あなたのお名前は?」
「フィーユって呼ばれてた」
白い霧におおわれた記憶の中をさまよってようやく引っぱり出してくるように、女の子は時間をかけてそう名乗った。
「お姉ちゃんはなんていうの?」
「私は透風静琉。高校二年。
心読みの末裔で、人の感情が
目に視えるんだ」
「ユキってきれいね、静琉。
白くて、ふわふわ落ちてきて」
「うん。でも寒いし、積もると
大変だよ」
肩に腰かけて耳元にささやくフィーユに小声で返し、静琉は窓の向こうに降る雪と、灰色の雲と校舎を見つめていた。慣れた者には生活のさまたげでしかない雪と灰色の雪雲は、静琉の心からも熱と活力を奪ってゆく。白と灰色に染まる退屈な風景は、いつも静琉が考える世界の成り立ちをそのまま表しているようで、静琉は好きでなかった。
四時間目の英語の授業が終わり、今は昼休み。静琉は窓際の席に座ったまま、昼食を用意しに教室から出て行った2人の友達が帰ってくるのを待っている。
静琉が通っている高校は私立の女子校で、静琉とクラスメイトの少女達は紺のブレザーにチェック柄のプリーツスカート、そして胸元に臙脂のリボンをあしらった制服に身を包んでいる。親しい女の子同士が机を寄せ合って、おしゃべりをしたり携帯電話でメールを打ったりしながら昼食をとっていた。
白夜堂でフィーユと出会ったのが先週の土曜日夜、今は月曜日で一月の下旬だ。1人で家に残されるのがとても不安らしいフィーユは、静琉といっしょに高校へ行きたがった。綺化式や式本の存在は世間一般に知られておらず、知っている人でもたいていは占いや怪しいおまじない程度にしか考えていない。小さなフィーユが学校の面々に見られたら大騒ぎになるよ!と静琉は一度断ったが、フィーユは身体を透明化する力をもっていた。会話は最小限でしかも小声で行うこと、静琉からの返事は肩のフィーユを向いてしないことを約束し、静琉は白い本を通学カバンに入れてしぶしぶフィーユを連れてきた。約束を破って見捨てられるのが恐いのか、フィーユはしっかり約束を守り、今のところ問題は起こっていない。
教室の引き戸が乱暴に引かれ、購買部で買ったパンを持った生徒が入ってきた。
「来た。本に戻って、フィーユ」
「うん。静琉」
意識のすみで生徒の出入りをチェックしていた静琉は、帰ってきた友達の姿を見てフィーユに指示した。静琉の肩からフィーユの感触が消え、彼女は大人しく本へと戻っていったようだった。静琉は何食わぬ顔で、友達の1人……綾森斐七がやってくるのを待つ。
斐七はまず自分の席へ向かいカバンから作りかけのぬいぐるみとぬいぐるみのカタログ本を取り出すと、静琉の前までやってきて近くの机を引き寄せた。椅子を引いてどかっと座ると、机の上にぬいぐるみをそっと置き、カタログを開いて本の写真を見つめる。
こっそり連れてきたフィーユに気づかれていないだろうかと、静琉は斐七の顔を少し見た。綾森斐七の顔は可愛いというよりも綺麗に整っていて、見る人に冷たく無情な印象を与える。ふわりとした柔らかい髪を青いリボンでツインテールにし、両肩に下げている。誰も気づかないどこか別の世界を見つめて目指すかのような視線はするどく、言動も男子のように荒々しいので、静琉と同じようにクラスの異端児、変人あつかいされている女生徒だ。
「そのぬいぐるみ、新作だね。
今度はどんなテーマなの?」
「"早死にした子どもの棺に入れる人形"。
日曜の昼にアイデアが固まった」
「……誰か死んだの」
「あたしの頭の中で」
斐七はカタログに顔を向けたまま、さずかったアイデアをさらにみがき上げるヒントを探している。作り始めたばかりのぬいぐるみは最低限の人の形しかとっていなかったが、斐七はこれからそれを兵隊の姿にしたいと静琉に話した。
昼休みの時間までぬいぐるみ作りに費やす斐七の情熱はあいかわらずものすごいと、静琉はしみじみ思った。斐七の趣味と特技はぬいぐるみ創作で、彼女は愛するぬいぐるみを作り続けることで才能の芽生えを日々育てているのだが、斐七の性格には創作に傾倒する者にありがちな悪い特徴がしっかりと表れていた。すなわち、他人と世の中の慣習への無関心だ。少女たちのあらゆる感情が入り乱れる繊細でグロテスクな閉鎖社会で、ルールを無視する斐七のぶっきらぼうさは異常とされた。斐七は空気としきたりを解さぬ野人として皆から軽蔑され孤立し、同じく孤立していた静琉と自然に同盟を組んだ。
静琉と斐七が黙ってもう1人の友人を待っていると、待ち人の女生徒はおもむろに教室に入ってきた。彼女は今日もおともの下級生を1人連れている。
その名を紅月冴夜という少女は、長髪の静琉よりもさらに長いウェーブのかかった髪をもつ。黒アゲハを思わせる暗黒色のリボンで側頭部を飾り、澄ました表情の童顔は美しく可愛らしいが、冴夜のまとう雰囲気はどこか奇妙だ。彼女を見つめる人間に名状しがたい違和感……非人間的な暗い何かを感じさせることがあった。
冴夜は周囲の白い眼を黙殺しておともと共に静琉達の前まで歩いてくると、いつものようにおともに労働を命じる。おともは手近な机を動かして静琉達の机に寄せて、冴夜のための席を整えた。おともに椅子まで引かせると冴夜はしとやかに座り、おともの少女が嬉しそうに差し出した弁当箱を受け取った。冴夜が軽く礼を言うと、おともは深くおじぎをして教室からそそくさと去っていった。
静琉、斐七、冴夜の3人がようやくそろい、静琉は机の上に用意していた母親製の弁当を開け、斐七はクリームパンの袋を開け、冴夜は桃色の弁当包みをほどいた。
「恋人の手作り弁当はうまいか?」
「恋人なんかじゃないわ。あの子は
ただのしもべなんだから。
そうね、心がこもってて美味しいわ」
カタログを見ながら馬鹿にするふうでもなく淡々と問う斐七に、冴夜は色鮮やかな卵焼きを口に運びつつゆったりと答えた。