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私はとくに夢ももたず、快楽と怠惰を楽しむ毎日です。性に合った生き方なので私はべつにそれで構わないのですが、静琉まで遠くに行ってしまうのは少々寂しい思いがします。私の孤独を埋めてくれていた、操り人形でない愛しいお友達。静琉や斐七がいなくなったら、また私は人形遊びにふける可哀想な子に逆戻りでしょうか。
でも、それも仕方のないことかもしれませんね。人の生き方や考え方はそれぞれバラバラなのですから。無理に足並みをそろえようとするには、お金や権力といったなにかしらの方法で人を操るか、さもなければ同情や空気の流れに訴えかけるしかないでしょう。この世の中には、他人と違うのが恐いからという理由で自分の頭で考えもせずに人の群について回る風見鶏さんがたくさんいます。だからわざわざ操らずとも人はおのずと固まってゆきます。その集団が自分の心を殺してしまうとうすうす気づいていようとも、彼らは安心を選ぶのです。
人形を操る者から見れば、私の愛玩人形たちも、世間の風見鶏さんたちも、大した違いはないように思います。誰かに操られていようと、空気に従っていようと、自由な意志を失った人間は悲しいものです。
だから私は静琉の変化を祝福しましょう。去りゆく彼女を操って歩みを止めるようなまねはひかえましょう。私は残酷な女ですが、友達の生き方を敬うくらいの普通さは備えているつもりです。人とは違う私の流儀を、私は苦しむと同時に誇ってもいました。人との不和が、歪みが、違いが、私が他の誰でもない紅月冴夜という個人の証であると思うのです。静琉の進む荒野の道を祝福の花々で飾り、私は静琉や斐七とは別の道を見つけて進んでいきましょう。
気がつけば、胸を雪原のように冷たくしていた悲しい気持ちは薄れていました。静琉の変化やフィーユの指摘で心が乱されていたのですが、「私はただ自分の色を深めていけばいい」という、いつからか私の中に芽生えた持論を思考の果てに思い出したからです。
しもべの子と腕を組んで歩くうちに駅に近づきました。ここから電車に乗って、私は家に帰るつもりでした。降りる駅から家はすぐそばで、もう付き添いの子は必要ありませんでした。
しもべとの別れ際、私は気まぐれを起こしました。籠のふたを取り、中に囚われていた小鳥を逃がしてやることに決めたのです。
「今までありがとう。――さん」とその子の名前を呼んであげた後、軽いキスを差し上げました。自分の声が思いもよらず優しく温かなものでしたので、私は少し驚きました。
いつわりの恋に頬を赤らめる子の目をじっと見て、私は心を縛っていた魔法の糸をほどいてあげました。美しいドレスに身を包み王子とダンスを楽しむシンデレラがいきなり元のたたずまいに戻ってしまったように、その子はぼう然と私の顔を見つめていました。もう恋の呪縛は解かれたのです。
「さようなら」と言って、私はひとり駅の中へ入っていきました。早くも私の頭からしもべの子の記憶がうすれ始め、私は軽くなった気持ちで改札口の向こうへと歩いていきました。
紅月冴夜より、私の操り人形たちへ
下校途中、静琉は学生カバンを片手に1人で路地を歩いていた。空は鉛色に曇っていて、今にも雪が降ってきそうだった。風はなく肌に触れる空気はみょうに湿っていて、冬らしからぬ雰囲気だった。雪に降られてはたまらないから、静琉は急ぎ足で家に向かっていた。
突然、何かが静琉の肩をつかんで動きを止めた。一瞬思考が白く凍りつき、その後静琉は自分の肩を見る。
人の手だった。腕から手首までを、黒いそでがおおっている。腕の先は……民家のコンクリート塀。黒いペンキで塗ったような円状の黒、そこから腕が伸びている。
もう一本の腕が闇から突き出し、静琉の胸を抱いた。そして塀に向かって引っぱられる。静琉は恐怖と混乱で声も出せず、歩いていた道をすがるように見るもそこに通行人は1人もいない。
せいぜい人の胴ほどの大きさだった塀の闇が静琉の身体と同じほどまでに広がった。とっさの異常事態に静琉は体を引く腕にあらがうことができず、またたく間に闇の内側へ引きずりこまれた。
突然夜になったかと思うような暗闇の中に、静琉はぽつんと立っていた。薄明かりが降る黒い空を見上げれば、そこには月とも電灯ともつかない白く光る円が等間隔で一列に並んでいるのが見えた。光の列はずっと向こうまで続いていて、果てが見えない。それは静琉の前と後ろの両方向に続いていた。何匹もの蝙蝠、さもなくば巨大な蝶か蛾のような何かが白い円の周りをぱたぱたと舞っているのが見えた。あまりに狂った状況に、静琉はぞっとする。
静琉が今いる場所は、周囲の暗さといい空の光といい高速道路の途中にあるトンネルの中に似ている。だからといって、ここが静琉のよく知る現世であるという保証はない。
静琉の意識ははっきりしているし、衣服の乱れも怪我をしているところもない。静琉の右手には学生カバンも提げられている。
「……フィーユ、いる……?」
「うん、静琉」
肩に現れたフィーユの姿に、静琉は少し気持ちが安らいだ。「ねえ静琉、ここ、どこ?」と不思議そうに尋ねるフィーユにも、静琉はただ「だいじょうぶ」としか言ってあげられなかった。
静琉は念のためにほおをぎゅうっとつねってみたが、痛みは確かに感じた。今の状況は夢や幻覚のたぐいではないらしい。感覚もあるし、フィーユもいて、衣服や持ち物もそのままということは……。
「どこかに移動させられた?」
「透風静琉」
暗闇の向こうから不意に名を呼ばれ、静琉はびくりと震えた。
油断なく身がまえる静琉の前に歩み出したのは周囲の闇を服にしてまとったような黒スーツの女、オルールの部下のアルトだった。
闇に浮かぶアルトの白い顔は亡霊じみていて、静琉は恐怖を感じた。アルトは笑っておらず、焦燥がにじんだ表情からは紳士然とした余裕が失われているように見えた。
「……ここは、どこ?」
「僕が地面に消えるのを
君は前に見ただろう?」
得体の知れないアルトとなれあうことはできず、静琉はうなずくことも返事もしなかった。
「ここは僕が移動に使う場所。
世界の狭間、いわば亜空間さ。
ある地点とある地点をつなぐバイパス、
近道のような場所だと考えていい」
「どうして私たちをここに?」
「非礼は承知の上だよ。
君と2人きりになりたかった」
静琉は急に自分とアルトを包む空気が重く、冷たくなったような気がした。静琉は逃げ出したくなったが、ここはすでに敵の領域でどうすれば現実世界に帰還できるのかも分からない。
「またフィーユを奪いに来た……
ってわけ?」
「そうだよ」
アルトの目も声も熱がない無感情なものだ。以前とは明らかに違う無情な態度に、静琉の恐れと緊張はじわじわとふくらんでゆく。
「君も損をしないし、僕も
わずらわしい思いをせずに
済む良い方法があるんだ。
こんな場所へ引っ張りこんだ
お詫びに、平和的な提案を
勧めよう」
「……?」
「僕に大人しくフィーユを渡す。
たったそれだけのことさ。
そうすれば君をすぐにここから
出してあげよう。
そしてもう二度と君に関わらない。
約束しよう」
「……前に言ったはずだよ。
はいそうですかってフィーユは
渡さない」
「しなくてもいい怪我などしたくは
ないだろう? 透風静琉。
もしも顔にでも傷がついたら大変
だと思うけどね」
冷笑に口元を歪めるアルト。しかしその目は笑っておらず、闇の中にたたずむアルトはどこか異様な空気をまとっていた。
「オルールに暴力はふるうなって
言われているんでしょう?
そんなことをしたら怒られるよ」
予想外に好戦的な姿勢のアルトに、静琉の指先が冷たくなり口の中がかわいてゆく。静琉の指摘に、アルトは冷笑さえも消して死人のような無表情になった。
「このことはオルールは知らない。
僕の独断だよ。
オルールと違って、僕は戦いを
いとわない」
「静琉……」と肩に乗ったフィーユから弱々しい声が届く。アルトから目を離せないから静琉はフィーユを見ることはなかったが、それでも意識だけはフィーユにかたむいていた。
「アルト、いったいあなたは
フィーユをどうするつもり?」
「処分する。それは邪魔だ」
「そんな……。オルールには
フィーユが必要なはずだよ」
「そうだよ。
でも、オルールがフィーユを
手にするとまずいことになる。
だからそうなる前に僕が消す」
「絶対に渡さない」
声はかすかに震えていたが、静琉は不退転の決意をこめてそう宣言した。それを受けて、アルトの表情が不機嫌に曇った。
「じゃあ僕の提案は蹴るのかい?
先に言っておくけど、ここには
誰もやってこないよ。というよりも
誰も入れない隔絶した空間だ。
だから誰も君を助けないし、僕も
人目を気にせず力をふるえる。
戦えば僕が勝つし、君は傷つく。
最悪、死ぬことにもなるだろう」
死。まるで現実感がわかない言葉だった。身体が痺れたときのように、頭のどこかが麻痺して恐怖心が感じられない。静琉はごく自然にカバンの中から自分用の式本を取りだして右手に持つ。フィーユの白い本を左手に持ち、残りの邪魔なカバンはその場に落とした。




