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「冴夜様をお迎えに来ました」
「は……?」
幸福そうな笑みを浮かべる来訪者に静琉が固まっていると、「ご苦労さま」と背後から声が届く。右肩にバッグを提げた冴夜だった。
「帰るわ」
冴夜はそう言って、玄関土間に並べてあった黒いブーツをはき始める。はき終えた冴夜はトップスから足の先まで全身黒ずくめで、闇人間のようだった。
「付き添いにその子を呼び出したの」
「その通り」
携帯への着信の直後に女の子がやって来たことから静琉は事情を読み取った。あきれ顔の静琉にも冴夜は涼しい微笑をもって応えるばかり。
「フィーユに会っておきたいわね。
静琉、彼女を連れてきて?」
「だ、ダメだよ……!」
玄関土間に立つしもべを見やりつつ、静琉は冴夜に耳打ちした。「ああ」とうなずいて暗黙のメッセージを受け取った冴夜は、ちらりと女の子に目をやった。
「少し外して」
「はい」
冴夜のそっけないひと声で、女の子は忠実なロボットのように玄関ドアを開けて外に出て行ってしまった。
「さあ、もういいでしょう?」と笑う冴夜。静琉はもやもやした思いを胸に抱えながら、自室へ行ってフィーユの白い本を持ってきた。
静琉の肩に腰かけるフィーユに「またね、フィーユ」と冴夜は微笑みかけて、フィーユも笑みを浮かべつつ「またね」と返事をした。
「それじゃ、さようなら」
「うん。ばいばい」
静琉に別れの挨拶をすると、冴夜は背を向けてドアを開けた。ドアの向こうで待っているしもべの子が静琉の目についたが、それはほんの一瞬だったのでフィーユに気づかれる恐れはない。冴夜が出て行くと同時にドアが閉められ、家の中が静かになった。
「静琉。向こうにいた人、
冴夜のおともだち?」
「……うん、多分……」
冴夜と恋奴隷の主従関係を子どものフィーユに説明するのはまずかった。
「冴夜、ともだちがたくさん
いるんだね」
「う、うん」
悪気のない勘違いに、静琉の胸はちくりと痛む。冴夜にはたくさんの友達などいやしない。そしてそれは静琉も同じ。
自分の部屋に向かって歩きながら、冴夜の様子が少し変だったことを静琉は思い出す。フィーユを人形のように見ていると言われたときの無感情な声、そして寂しくなるという意味深な台詞。冴夜は何を思ってあんな態度をとったんだろうというあわい疑問が静琉の胸に差し、それは水に混ざった一滴の色水のようににじんで消えていった。
薄暗い雲におおわれた夕暮れ時、私――紅月冴夜はしもべの子とともに道を歩きました。重くてわずらわしい荷物のバッグをその子に持たせ、私はまるで女王か貴族の令嬢のごとく堂々と道を進んでいます。
私がしもべに話しかけたり目を向けたりすることはなく、その子も忠実な従者のように私の隣を黙々と歩いていました。今の私の心は冬の空さながらに冷たくなっていたので、彼女の労をわざわざねぎらってやろうなどという殊勝な気持ちは浮かびませんでした。
薄闇の道を無言で歩いていると、桜吹雪のような白いものが視界に入るのに気がつきました。それは細かな雪でした。天気予報で今日の夜から雪が降ると言っていたことを、私はどこか他人事のように思い出しました。不思議なことですが、通常ならばいまいましいはずの雪に、この時私はほとんど怒りやいらだちを感じませんでした。何十kmも離れた場所から向こう側を眺めるように、「ああ、雪」と無関心に思っただけでした。
しもべの子がコートの内側から白い折りたたみ傘を取り出し、それを開いて差しました。帰り道、このように雪に見舞われるだろうことを予想していたようでした。
私を雪に濡らすまいと、しもべが寄りそい傘の中へ入れてくれました。相合傘にその子は喜んでいたようでしたが、私は表情一つ変えずに「用意がいいのね」と小さくささやいただけです。べつに傘が無くとも、私はいっこうに構わない気持ちでした。むしろ雪の寒さに身をさらしたいという、どこか自虐的な思いさえ抱いていた気がします。私は少し自棄になっていたのでしょうか。
私と密着し、恋人にそうするように腕を組むしもべ。私は自他共に認める女性好きで通っているので、すれちがう通行人がときおり寄せる好奇の眼差しにも動じることはありません。
腕から伝わる彼女の体温は本物でも、その心はどうでしょう。心をもたない機械人形のように空っぽな気持ちで笑みを浮かべているのかも知れませんね。他人の感情が視える透風静琉に確認してもらうのも面白いでしょうか。
私に従うしもべの女たちは私が生まれもった能力でとりこにした奴隷……いや、この際ですから本心を告白してしまいましょう。彼女たちは奴隷にも劣る操り人形です。糸に吊られて手足を動かす意思なきマリオネットのように、私に心を支配されているだけの存在なのです。
だから、私への愛も忠誠もすべてはいつわり。操り人形との間に本当の友情や想いなど、生まれるはずがないのです。それは常々思っていたことですが、今はなおさら身にしみるようでした。
私は平均よりも容姿が美しいらしく、小学生、中学生とたくさんの男達から愛の言葉を捧げられました。その現象は高校生になってからも続き、他校の男に言い寄られることがよくあります。惹かれない男からの告白は耳元で不快にはばたく虫の羽音に似ていて、ましてやラブレターなど企業から勝手に送りつけられるダイレクトメールに等しい芥屑であることを私は学びました。
同じ学校の女にさえ恋愛感情を抱かれることがままあります。ご存じでしょうか、女子校では少女同士のささやかな恋は珍しくないのです。もっともそれは、不意に訪れる風邪のようにある程度の時間が経てば過ぎ去ってしまうものがほとんどですけれど。
人から好かれることには慣れていたので、私に恋する女の微妙な気配を感じとることは難しくありませんでした。
罪のない女たちを、私は透明な巣で待ちかまえる蜘蛛のように次々とからめ取りました。とりこにするには相手の目をじっと見て心を操るだけでいいのです。それだけで彼女たちはいともたやすく私の操り人形になってくれました。
人を思うままに操り人の心を所有する感覚は、初め私に大きな優越感をもたらしました。国を支配する王や政治家、官僚の心境を、小規模ながらも疑似体験したわけです。
しかし、そんな感覚に楽しく酔っていられたのも昔の話で、だんだん嫌な気持ちを覚えるようになりました。その原因は分かっています。私を取りまくしもべたちはただの人形であり、そして私のさびしさをまぎらわすためのおもちゃでしかないのですから。
私の祖先は魔物の吸血鬼、その血がかすかに流れる身体は暗いオーラとでも表現すべきモノを発しているらしく、それを感じとる普通人たちから避けられることが日常でした。彼らは言葉にできない違和感を私に感じとり、何となく私をさけるのです。大多数とは違う暗黒の雰囲気に魅力を感じて言い寄ってくる人も少なくありませんでしたけど。羊のむれにひそむ、羊の皮をかぶった黒い狼。羊らしく振る舞っていても身体からにじむ臭いでバレてしまうので、私は下手な演技をやめて孤立することを選びました。
自分の特異な血をうらめしく思うこともあれば誇らしく思うこともあり、私は自分を憎みぬくこともできなければ愛することもできませんでした。普通の人とは違うのだから孤立して当然という屈折したエリート意識のようなものを抱くことで、私は孤独をしのんでいるように思います。
そんな私が同性をとりこにする能力をもっていたことは、神様からの慈悲であり同時に呪いでもありました。孤立のさびしさを埋めるために奴隷たちをはべらせ、そのせいで私はよりいっそう異常視されました。操り人形に囲まれようがしょせんは友達ごっこでしかなく、自分の気持ちをいつわる行為でさびしさが深まったような気もします。
それでも可愛い女の子は生きる宝石です。なにしろ大人よりも若く、肌がつややかで、感性もみずみずしいのですから。可愛いものに心を奪われるのは、女の本能といってもいいでしょう。私は自分が真性のレズビアンではないと思っているのですが、貴重で美しい花を収集するように可愛い子を見つけてとりこにするのは楽しいことでした。
そして今日、愛すべき本の妖精フィーユに、私が相手を物扱いしていることを見破られました。気まぐれに女を操り人形にするように、フィーユをかわいらしいおもちゃのように見ていたことがあの子には分かっていたのです。
まっすぐな目をもつフィーユが私を軽蔑しているかどうか分かりませんが、私は自分を人でなしのように思いました。私はいつの間にか、他人をお菓子や飲み薬のような自分の不満を満たすための消耗品のように見ていたことに気づきました。これは能力を使って操り人形にちやほやされた結果でしょうか。それとも人の血をすすって生きたと言われる吸血鬼の気質が影響を与えたのでしょうか。
透風静琉も綾森斐七も私と同じクラスのはみだし者です。それぞれが変人であるから私たち3人が結束することなどありえるはずもなく、友達なのか知り合いなのか分からない奇妙な関係です。斐七はぬいぐるみ作りに打ち込み、彼女が目指すべき場所をすでに知っています。静琉の雰囲気から少し迷いが薄れていたから、彼女も何かの目標をもったのかもしれません。