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手を動かすにつれて考えもしなかった新しいアイデアが浮かび、それらが式に反映される。この目で視たアルトの感情、それに影響を与えてみてはどうか。感情が視える特殊能力と、静琉が得意な縛りの綺化式を組み合わせると何ができるか。式の構築にのめりこむにつれて、静琉の中から雑念が消えて意識がとぎすまされてゆく。
式に没頭する一方で、静琉は自分にとっての綺化式の意味を考えていた。
まだ小さな時に綺化式を知って以来、思えば自分の歩んできた道には綺化式がついて回ってきたような気がする。式を操ればどんなことができるんだろうという好奇心と興味、それはつたない式を自分で書いてみたり両親に質問したり世の中と式の関わりを想像すること表れた。小学生、中学生、高校生と成長するにつれて日々の雑務に追われてそういうことは少なくなったけれど、今でも確かに式への興味はある。
アルバイト先に式本を貸す白夜堂を選んだのだって、たぶん関心の表れだ。静琉はべつに遊ぶお金が欲しいわけではなかった。進学という道も就職という道も心に響くものはなく、灰色に見える世界とどうしようもない行きづまり感にうんざりして、それをまぎらわせようと白夜堂でバイトを始めたのだ。
少しだけ式が書けることと感情が目に視える特技を店長に買われて、静琉は白夜堂のバイト店員になった。客がめったに来ないので仕事は想像以上に退屈だったけれど、式本をあつかっている間は気持ちが充実していたように思う。こんな効果の本もあるのかという感心や客が求める式本を案内する時の高揚感は、"楽しい"と言い表してもさしつかえないだろう。
なぜ綺化式が好きかという理由は分からない。静琉が式を操る素質に恵まれているという理由かもしれないし、親やもっと前の先祖から綺化式好きという性格が遺伝したのかもしれない。理由は不明だが静琉は式が好きなのだ。
好きな綺化式を、静琉は心をこめて書き続ける。新しく式を作ることは一曲の音楽や一編の小説を創ることに似る。1つのテーマを定めてそれから外れないように全体像に気を配り、構成に過不足がないように注意し、始めから終わりまで破綻なく式が進むよう細部の構造を丁寧に作り、より式の効果を高めるために無駄を減らして構成を巧みにしてゆく。それらを成すために必要なのは知識と技術、そして創作物への愛。
静琉は手芸や絵画のような芸術的な趣味とは無縁の女だが、それでも「斐七もこんな風にぬいぐるみを作っているんじゃないかな」と静琉はぼんやり考えた。
「ねえ静琉、何を書いてるの?」
無言で延々と作業を進める静琉にしびれを切らせたのか、フィーユがペン先に歩みよって顔を見上げた。閉じた思考の世界にもぐりこんでいた静琉はフィーユに引き戻され、「フィーユを守るための式だよ」と微笑みながら答えた後に、壁にかけてあるアナログ時計を見てみる。いつのまにか2時間近く経っていた。
この2時間で11ページが式文字で埋まった。疲れはしても苦痛ではなく、幸せな疲労感に静琉は「ふう」と軽く息をつく。両腕を左右に伸ばして胸を張り、こり固まった身体をほぐす。
「あれがとう静琉。わたしを
まもってくれて」
「うん。……気にしないでね。
私は式もフィーユも好きだよ」
フィーユの笑顔はどこか曇って見えた。小さな女の子には似合わない遠慮がちな顔は、静琉の様子がそうさせてしまったのかもしれない。静琉の嘘偽りない言葉を子どものまっすぐな目は本当だととらえたようで、フィーユの顔がぱっと明るくなった。そしてフィーユは白い本の上に乗って胸を張り、こほんと小さなせきばらいをする。
「Temps heureux
Temps triste
Il y a de plusieurs facons le
Le temps avec toi
Ce n'est pas lequel」
本をステージにして、フィーユは歌い出した。目を閉じて身体を左右に揺らし、顔にはうっすらと笑みを浮かべている。
「C'est temps merveilleux avec toi
J'aime le tel temps
Parce que tu l'aimes
Merci pour le temps heureux
Remerciements grand pour toi」
フィーユの歌唱力は見た目通りの子どもなみ、そして静琉にはフィーユが何語で歌っているのかも分からなかった。英語ではないだろうと思ったが、あまり自信はない。
フィーユが歌うのが好きだということを静琉は知っていたが、実際に聴くのはこれが初めて。どんな物語の歌かは分からないが、楽しく、心が温まる調子の歌だった。静琉を想うフィーユの気持ちが歌となって伝わってくる。
静琉は目を閉じ、ほおづえをついてフィーユの歌に聴き入る。そしてハミングで歌い、フィーユと合唱する。静琉の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
美しい感情をこめて歌うように、静琉は式を綴る。心は綺麗に澄んでいて不安や恐れは消えている。本当に気持ちのいい夜だった。
他人の負の感情ばかりが目について静琉はこの世界に希望はないと思っていた。ふと今の自分がまとっている感情はどんな色なんだろうと思う。それは、きっと素敵な色なんじゃないだろうか。
「本当、フィーユって可愛らしい。
世界の裏に隠された宝物よね」
冴夜がカーペット敷きの床に寝そべって、目の前に立つフィーユをうっとりと見つめている。惜しみない賞賛を受けるフィーユは「へへっ」と笑い、まんざらでもない様子。フィーユの隣には静琉が横座りし、今の慣れない状況に少し気持ちをこわばらせていた。
「冴夜が静琉の家に来るなんて、
わたし、びっくりした。
いつもは学校でしか会えないのに」
「貴女に会うためだったらどこにでも
出向くわよ。それが静琉の家でもね」
今まで一度として遊びに来たことがないのに、休日の土曜日に冴夜はフィーユ目当てで静琉の家に押しかけてきた。冴夜のなにげない嫌みな言葉と現金な態度に、静琉は頭が痛くなる。
静琉は長そでのカーディガンにジーンズという飾らない普段着姿だが、冴夜といえば真っ黒なパーカーと同じく黒いスカート姿。上下のデザインは良く調和していて、しかも見るからに高価そうだ。そんな服を当たり前に着こなす冴夜に、静琉は友人の強い美学を感じとる。
「フィーユってなんなのかしら……。
静琉にも分からないんでしょう?」
「うん。普通の式じゃフィーユは
出来ない。
フィーユも昔のことは憶えてない
って言うしね」
「そう。貴女は謎の少女なのね」
冴夜は気のない返事をしただけで、フィーユの正体にそれほどこだわっている様子はない。
危険に巻きこみたくないから、荊姫についてのもろもろは冴夜にふせてある。精神を本に閉じこめられた佐々倉美香のように、フィーユの本体もどこかで眠りに就いてるのかと静琉は考えていた。
「ねえフィーユ。静琉なんかより
私のところへやってこない?
今よりもずっと良い思いをさせて
あげられると思うわ」
「おいおい……」
頭痛が倍増する思いで、静琉はため息まじりにつぶやいた。
フィーユは腕組みをして「んーー」とうなった後、「わたし、静琉の方がいい」と率直に答えた。
「どうして?」
誘いを断られた冴夜は動じる様子も見せず、にっこり微笑みながらフィーユに聞いた。
「冴夜、わたしを人形みたいに
見るんだもの。
前にわたしを持ってた人と同じ。
すごくいやだった」
「……そう。それは残念ね」
すべての感情が欠落したかのような冴夜の透明な声に、静琉は自分の耳を疑った。常に余裕にあふれた物腰の冴夜がのぞかせる、静琉の知らない一面だったからだ。
飼い主にじゃれつく子犬のようにフィーユが静琉のひざ元に走り寄ってきた。寄りそうフィーユに、静琉は思わず顔をほころばせる。
「静琉、何か良いことがあったの?
今までの貴女と少し違う気がする」
突然冴夜にそんなことを言われて、静琉はとまどいつつも一瞬考えをめぐらせた。
「そうかな。久しぶりに式を組んで、
ちょっと楽しかったけどね」
静琉が思い当たるふしといえばそれくらいしかない。変わったような自覚はなかったが、静琉は何となく嬉しくなって微笑んだ。
「寂しくなるわね」
「え?」
「ただのひとり言。気にしないで」
なにやら意味深長なことを言った後の冴夜は、すでにいつもの柔らかな物腰に戻っていた。
冴夜の言葉の意味を尋ねようかと静琉が迷っていると、不意に携帯電話の着信メロディーが鳴り始めた。跳ねるようなアップテンポのクラシック音楽、ショパンの「黒鍵」。冴夜はあわてもせずにトートバッグの中から折りたたみ式の携帯電話を取り出し、画面を見て着信内容を確認した。
「そろそろお暇しましょうか」
「……うん、もう暗くなるしね。
1人で大丈夫?」
「平気よ。1人じゃないから」
「?」
その時、ピンポンとドアチャイムが鳴った。今の家には静琉しかいなかったので、静琉は自室を出て小走りで玄関へ向かった。
玄関ドアを開けると、そこには静琉と同年代の少女が立っていた。お客の顔に見覚えもなく、静琉はとまどって言葉につまった。