第7章 赤鉄工房の門
仮認可の木札を旗の下へ括りつけ、俺たちは市場北の坂道を上がった。
雨は細く、石段に薄い光が差している。
坂の上、峡谷を見下ろす位置に、赤く錆びた鉄門があった。門扉は分厚い鋼板。中央に槌と炉の紋。
ここが赤鉄工房だ。
——【目的地:赤鉄工房/交渉:技術同盟+結界塔試作】
——【同伴:ミラ・エレナ・ゲイル・タオ】
——【天候:降雨(弱)/風 NNE】
「入門の癖がある。三度叩く、長・短・長だ」
ミラが囁く。
「拍だな」
俺は鉄門の鋲を拳で叩いた。タン……タン、タン……タン。
内側で閂が引かれ、覗き窓が開く。
のぞき込んだ目は琥珀色、煤の縁取り。
「用件は」
「Umbra。《傘の下》だ。契約を叩きに来た」
沈黙。覗き窓が閉じ、重い鉄が引かれる音。
門が開くと、熱が押し寄せた。炉の息。
背の低い、しかし肩の広い影が三つ現れ、その奥に大槌を杖にした男が立つ。
「ボルド・ハンマースミス。工房親方だ。歌う支援屋の噂は聞いた」
灰色の髭、煤で黒い指。片目のまぶたに古傷。
低い声は、炉と同じ温度で響いた。
「歌うだけじゃない。結界塔が要る。塔と塔を繋ぐ線で街を守る。赤鉄の腕が必要だ」
「金か、栄誉か」
「順番だ」
ボルドの片眉が上がる。
「順番?」
「街を守る順番。印→人流→塔。印と人流は揃えた。残るは塔だ」
炉の奥で槌音が鳴る。タン、タン、タタン。
ボルドは顎で合図し、俺たちを中へ入れた。
*
工房は迷路だった。炉が四基、送風のふいごが二十。
天井には鎖と滑車、床には溝。
溝は工房の奥から手前へ斜めに走り、雨水と炉の水がそこへ流れ込む。
——【環境:炉温 高/気流 断続/重金属粉塵(中)】
——【提案:通風の“拍”化/溝に“軽”の小円】
ボルドが振り向く。「交渉は三打。一、何ができる。二、何を欲しい。三、何を渡す」
「一、俺たちは“拍”で通風を整える。炉の息を安定させ、結界線を引く。二、塔の脚、晶座、導線。三、街の護り。塔が立つ間、工房の外縁は《傘の下》が持つ。夜警も引き受ける」
槌音が一瞬止まり、工房の中の目がこちらへ向いた。
通風の話に、ドワーフは弱い。炉は彼らの心臓だ。
「口だけじゃないか、見せろ」
ボルドは杖にした大槌で、試験炉を示した。
炉の口は半開き、火は荒い息で揺れている。
「この炉は狂っている。送風が合わず、温度が波打つ。さあ、拍で直せ」
俺はタオに目で合図し、軽の小円を溝沿いに点在させる。
温をふいごの足元に一つ、固を炉の左右の踏み位置へ。
ゲイルとエレナに拍を刻ませ、ミラは天井の鎖を半拍遅らせて引く。
「入場曲。温→軽→固で踏んでから、ふいご。二拍回しで送風」
タン、タン、ターン。
ふいごの手足が揃う。
送風が拍に合い、炉の火が呼吸を覚える。
——【炉圧:1.46→1.32→1.28(安定)】
——【温度波形:±90→±35→±18】
——【火色:黄→白黄(理想に近接)】
ドワーフの職人たちの眼が細くなる。
ボルドは黙って見ていたが、やがて小さく頷いた。
「――火が歌ってやがる」
「火はいつも歌ってる。聞こえない時は、拍を足すだけだ」
俺はふいごの脇に扇の印を置く。
天井の煙抜きが弱い風を拾い、粉塵の渦が砕ける。
——【粉塵濃度:中→低】
「結界は風と線で立つ。塔まで運べば、街全体で息が合う」
「塔の脚はどうする」
「赤鉄の仕事だ」
そう言って、俺は布を広げた。結界塔の簡易設計。
晶座は三点支持、導線は銅と魔糸の撚り、脚は三角で負荷を受ける。
「三角は迷走を防ぐ。“角”で衝動が逃げなくなる。昨日の三角印と同じ理屈だ」
「……面白ぇ」
ボルドの口元に、ようやく笑いが乗った。
だが、その時。工房の奥の扉が乱暴に開き、濡れた外套の男たちが雪崩れ込んだ。
胸に、剣と盾の紋。
市警に寄生する外注ギルド――城門狼。
「工房の護衛は俺たちの枠だ。傘の下? 歌って跳ねる踊り子か」
先頭の男が鼻で笑い、ボルドを押しやるように近づく。
ミラの指が弩の引き金の上で止まる。
ボルドの職人たちが手を止め、炉が低く唸る。
「口上を」
俺は一歩進み、旗を垂らして短く告げた。
「《傘の下》。仮認可。夜警枠一、衛生導線維持、灰札外流禁止。本日の誓約:工房外縁の夜警担当。合唱隊舎と結界塔の同期試験を実施予定」
男が眉を歪める。「法律かぶれが。こっちは武の契約だ」
「契約なら三打」
俺はボルドの言葉を返す。「一、何ができる。二、何を欲しい。三、何を渡す。
城門狼は何を渡す?」
男が言葉に詰まる。威圧は渡し物ではない。
代わりに彼は剣の柄に手をかけた。
「拍で決めよう」
俺は試験炉を指差した。「炉を二拍で安定させたら、赤鉄の外縁は《傘の下》が預かる。失敗したら、城門狼へ。拍は公平だ」
職人たちがざわめく。
ボルドは口を固く結び、やがて低く言った。「――受けろ。拍は見える」
城門狼の男がふいごへ飛びつき、力任せに送風する。
拍は無視。
火が暴れる。温度が跳ね、炉口が唸る。
——【炉圧:1.28→1.55→1.71(危険)】
——【温度波形:±18→±120】
「止めろ、吹き過ぎだ」
俺は軽の小円をふいごの足場に連打し、固を炉の脇へ置く。
エレナが温を男の背に置き、肩の力を抜かせる。
ゲイルが角で男の姿勢を斜めにし、ミラが天井の鎖を半拍ずらして引く。
「二拍だ。温→軽、固で締め、もう一度軽。囮歌を半拍早め」
タン、タン、タ――ン。タン、タン、タ――ン。
火が息を取り戻し、炉口の唸りが低音に落ちる。
男の手が無意識に拍へ合い、ふいごの皮が均一に膨らんだ。
——【炉圧:1.71→1.39→1.30(安定)】
——【温度波形:±120→±26→±14】
——【火色:白黄→白(最適)】
工房の空気が一段、軽くなる。
男が歯噛みし、手を離す。
ボルドは無言で大槌の柄を床に突いた。カン、と乾いた音。
「傘の下に外縁を任せる。城門狼は引け」
「親方!」
「炉が決めた」
城門狼の足音が遠ざかり、炉の呼吸だけが残った。
ボルドはゆっくり俺の方を向く。
「――塔は作る。ただし試射だ。明朝、工房裏の空地で“結界塔 試射”。晶座は手持ちの白晶、導線は銅。脚は鉄木で間に合わせる。合唱と同期できるか、見せろ」
「やる」
タオが目を輝かせ、ミラが弩の弦を指で弾いた。
エレナは息を吐き、濡れ布を額へ当てる仕草を俺に促す。
俺はHUDの明度を一段落とし、視界の数値を遠ざけた。
「契約は三行で刻む」ボルドが続ける。
「一、塔は赤鉄が打つ。二、外縁は傘の下が守る。三、拍を共有する」
「拍を共有?」
「炉の歌を、街へ出す。合唱の声を、炉へ戻す。“拍が行き来する”。それが同盟だ」
俺は笑った。
「それは――いい歌だ」
*
工房の裏手は、雨に洗われた赤土の空地だった。
ボルドは職人に指示を飛ばし、脚の鉄木を組ませる。
タオは泥の上に晶座の紋を描き、俺は導線の撚りをチェックする。
ミラは周囲に三角印を散らし、ゲイルは搬入路に軽の小円を点在させた。
エレナは鍋の位置を決め、水と衛生導線を引く。
——【結界塔:仮設 1号/脚=鉄木三角/晶座=白晶/導線=銅撚り+魔糸】
——【同期先:合唱隊舎(臨時)/遅延 推定 0.7s】
——【天候:降雨(弱)/風 NE→E(微)】
ボルドが白晶を晶座へ載せ、槌で軽く叩く。
コン……コン、コン……
拍が合えば、晶が鳴る。
白晶は一度、低く鳴って黙った。
「固が足りない」
俺は脚の接合に固の細線を入れ、軽の点を導線の曲がり角に足した。
温は晶座から半歩離して置き、熱の滞留を避ける。
「合唱、止まないを半音上。拍を工房へ返す」
合唱隊舎から声が流れ、工房の屋根が小さく震えた。
炉が応え、空地の風が揃う。
——【同期率:62%→74%→83%】
——【遅延:0.7s→0.5s】
「試射――点灯」
ボルドが槌を一打。
白晶が淡青に灯り、塔の先端から薄い幕が四方へ花のように開いた。
合唱の拍に合わせて、幕の縁が脈打つ。
——【局所結界:張力(小)/風切り補正 +/視認補正 +】
——【HUD 同期:市街ミニマップに“塔範囲”レイヤ表示】
俺の視界に、薄青の円が重なる。
塔の範囲と拍の流れが、見える。
街の線が、一本増えた。
ミラが目を細め、「――良い」と短く言う。
エレナが笑い、ゲイルが拳を握る。タオは控えめに跳ねた。
ボルドは槌を肩に担ぎ、口の端を上げた。
「一号は、雨でも立つ。……いいか、Umbra。これは門だ。街の門だ。
塔が増えれば、城塞になる」
「射線を通す。次は街路の角を削る。塔と塔の視線で、街が見えるようにする」
俺はHUDに指で線を引く仕草をした。
塔の円と円が重なる場所に、薄い緑の射線が浮かぶ。
——【射線プラン:北門→市場→治療院→赤鉄→南峠(案)】
——【課題:視程/曲がり角の角多すぎ/雨天時の遅延】
「角は俺らの鉋で落とす。遅延は撚りを改良する。拍はお前が持て」
ボルドが目で笑う。
「傘の下と赤鉄で、城塞を打つ。約束だ」
「約束」
俺は右手を差し出し、煤と灰で汚れた手と固く握った。
その瞬間、HUDの端に薄いノイズ。
——【仕様揺らぎ:局所磁気線の乱れ(微)/北谷の風向 変調】
視界の上で、北谷の雲が逆巻く。
まだ小さい。だが、二日後の予見に似ているざわめきだ。
「塔を、もう一本。谷側だ」
俺が言うと、ボルドは槌で空地を二度叩いた。カン、カン。
「――やる」
雨は細く、しかし止まない。
工房の門は開いている。
街は、線を手に入れた。
次は、射線の都市設計だ。
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