第5章 夜警のバフ回し
雨が闇を厚くした。石壁に灯が点り、合唱隊舎から調律の音が細く流れる。
掲示板の札は短い文で全てを告げていた。霧帯降下、夜警要請。各区画のバフ回しと見張りの編成、至急。
——【全域警戒:死霧濃度 上昇予報/視程 40m→30m】
——【結界塔:北・東・西=未同期/試作塔:南市場脇(出力 低)】
——【合唱隊:常設 1(舎)、臨時 2(市場裏・治療院前)】
「回すぞ」
倉庫に集めた面々を前に、俺は壁板に粗い地図を描いた。
四角い区画にA〜Fの文字。矢印が時計回りに巡る。
「今夜は“二拍回し”。一拍目に“温”、二拍目に“軽”、三拍目で“温”を落とし、四拍目に“固”で締める。ひと区画ごと四拍=一巡。合唱が主旋律、印が下支え、鍋が回復、屋根が警笛。路地は流れを作る」
ミラが顎を上げる。「屋根は斥候と警笛、了解。笛矢も用意する」
エレナが医療袋を抱え直す。「鍋は温の補助と咳のケア。水と便所の導線は逆流禁止」
ゲイルが拳を鳴らす。「路地は人流を押さえる。肩で角度を作るやつだな」
タオは灰袋を抱え、真剣な顔で頷いた。「印は持続を見る。薄れたら上書き」
——【隊編成:屋根 4/路地 6/鍋 3/印 3 予備 2】
——【バフ持続(印):温 90秒/軽 60秒/固 75秒(雨中、実測)】
——【推奨テンポ:♪=72 “雨宿り”→“止まない”へ転調タイミング=霧帯接近時】
俺は旗の棒で軽く拍を刻む。タン……タン……ターン。
暖炉の上の鍋がコトリと鳴り、皆の足が無意識に拍へ乗った。
「入場曲。温→軽→固で出る。戻るときは固→軽→温。目は前、返事は一言」
「「傘の下!」」
扉が開き、雨が匂いを連れてきた。外に出ると、夜の街は息をひそめている。
*
最初の巡回区画は市場裏(B)。古樽と濡れた布、野良犬の影。
合唱隊の若者が喉慣らしをしていた。ほほえみは引きつっている。
「拍に乗れ。温を先に置く」
タオが灰を指にとり、地面に素早く輪を描く。温の外円を太く、軽の中円を軽く、固の内円を細く。
——【印:温 起動/効果見込み 微温・士気+】
若者の声が安定する。
エレナが肺の弱い老人の背をさすり、濡れ布を渡す。
「軽へ。二拍目」
足が軽くなる。市場の狭い路地でも、合唱の息が合って詰まりが解ける。
夜の商いに未練を残している露店が、軽の輪を踏むたびにため息を吐いた。
——【群衆ヘイト:振幅 減少】
角を曲がると、酒臭い怒声が飛んできた。
若い男が二人、桶の上で肩をぶつけ合っている。
——【人為ヘイト:急上昇/誘発因子=酒・密集】
「止める?」「回す」
俺は固の円を男たちの間に置いた。
固は守りの印だが、呼吸を整える作用がある。
さらに軽の小円を連続で点在させ、二人の足場を斜めにずらす。
「三拍目、温を前に。歌、短く」
タン、タン、ターン。
体勢が崩れ、肩が当たらなくなる。
怒声が二つ、同時に息になって抜け、男たちは気まずそうに目をそらした。
——【小競り合い:自然解消】
合唱が細く転調する。
「止まないへ」
若者の声が低い調へ落ち、街灯の炎が小さく揺れた。
——【霧帯:市場裏の北端に接触/視程 25m】
「B区画、四拍目の固で締め。次、Cへ回す」
俺たちは拍とともに動いた。二拍回しはテンポが肝だ。
遅すぎると効果が切れ、早すぎると認知疲労が加速する。
——【Umbra 認知疲労:18%→24%】
*
C区画(治療院前)。
白衣の老人が門前で待っていた。
「霧が低い。子らの咳が増えるぞ」
「軽で呼吸の拍を作り、温で胸を守る。固は靴底だ」
俺は門前に軽を三つ、温を一つ、固を門の敷居に重ねて描く。
子どもたちが軽を踏むたび、咳の間が伸びた。
エレナが小声で拍に合わせて数える。「いち、に、さん……吸って、吐く」
——【咳嗽:頻度 減少/呼吸リズム 安定】
その時、屋根からミラの警笛が短く鳴った。
鋭い音が夜を裂く。
——【接近:灰燼 3(偵察個体)/方向 W→E】
「C区画、軽→温を残して路地に受け渡し。屋根、西端で囮準備!」
タオが印の受け渡しをする。
B区画で置いた温の輪から、C区画の軽へ拍で橋渡し。
印は線ではなく拍で繋ぐ――それが回しの肝だ。
「ゲイル、角を作れ。人流を南へ逃がす」
「任せろ」
ゲイルが肩で角度をつけ、群衆の流れに切れ目を作る。
軽の小円が点々と伸び、人の足がそこへ吸い寄せられる。
ミラが屋根の端で弩を構え、薄く笑った。「赤は私」
「赤(精鋭)が出たら継ぎ目を狙え。風で殻を剥がす」
俺はふいごに濡れ布を巻き、灰を少し含ませる。
霧が低く唸り、影が路地口に現れた。
——【敵対ユニット:3/一般 2・精鋭 1】
——【ヘイト:合唱 22/Umbra 41】
「囮歌、半拍早め。温で引き、固で締める」
タン、タン、タ――
半拍の早さが獣の衝動を前へ引き出す。
俺はふいごを吹き、風で灰殻を乱す。
ミラの矢が継ぎ目を抜き、精鋭がよろめいた。
一般個体の一体が軽の小円に足を取られてすべり、エレナが投げた濡れ布が顔に被さる。
——【敵:精鋭 失血(中)/一般 1 転倒】
「固、足元!」
タオが固の小円を転倒個体の前に置く。
踏み込んだ瞬間に踏ん張りが利かず、体勢が崩れる。
ゲイルが角の内側から押さえ、群衆へ寄せない。
矢が二度鳴り、影が沈んだ。
霧がわずかに薄くなる。
——【敵対ユニット:3→0】
——【合唱:負荷 中維持/持続 08:10(推定)】
息を吐く。
HUDの端が少し揺れた。
——【Umbra 認知疲労:24%→33%】
見過ぎだ。夜は長い。
「回す。CからDへ。拍を切るな」
*
D区画(雑居住居群)では、灯の扱いが問題だった。
死霧は火を好まないが、灯は人を呼ぶ。
呼べば集まり、ヘイトが上がる。
「灯は壁際。窓は斜めに。軽の小円を窓下に置いて、通風を拍で切る」
タオが窓下に軽を点在させると、空気の流れが細くなる。
エレナが水壺と便壺の位置を再点検し、泥の溝に固の細線を引いて靴底の泥落としを作る。
子どもが眠い目をこすりながら拍に合わせてハミングする。
歌は恐怖を外へ出す呼吸でもあった。
——【家内感染リスク:小→極小】
路地の奥で、盗りが二人、隙を窺っていた。
夜は、怪物だけのものではない。
——【人為ヘイト:局所上昇】
「旗を見せろ」
俺は傘印の旗を高く掲げ、温をひとつ足元に落とす。
盗りの目が無意識に温へ引かれ、肩の張りが抜ける。
「明日もある。今日は動くな」
ミラが屋根から低く言い、弩の影だけを見せた。
盗りは舌打ちを飲み込み、闇へ消えた。
——【小事件:抑止/ヘイト 低下】
拍が街を回る。
A→B→C→D→E——Fで風向きが変わった。
——【風向:NE→N(微)】
——【霧帯:E区画へ拡散予兆】
「転調。“止まない”を一段落とせ。軽の置き方を扇形に」
E区画は洗い場が多く、路面が滑る。
軽の小円を扇形に置くと、足が自然に安全側へ流れる。
合唱が低い調で拍を刻み、霧の舌が路地から退く。
——【滑倒事故:発生 0】
Fを抜けて一巡。
鐘が一度、低く鳴った。半夜だ。
——【夜警:第一巡 回完了/持続 3:40(推定)】
——【Umbra 認知疲労:33%→41%】
目の裏が熱い。
エレナがいつの間にか隣に立ち、濡れ布を額に当てた。
「落とす」
HUDの明度を一段落とす。
視界の数字が遠くなり、代わりに音が近づく。歌の拍、足の音、雨の粒。
「まだやれる?」
「やれる。拍がある」
ミラが屋根から降り、肩で俺を小突いた。「無理はするな。拍が乱れる」
「乱さない」
俺たちは二巡目に入る。
B→C——そこで、合唱隊舎の屋根の上に、影がひとつ。
——【不明ユニット:1/人型/危険度:低】
フードを深く被り、遠くを見ている。
視線の先は、北門。
雨の帳の向こう、石壁の上に、赤い灯が一瞬だけ瞬いた。
——【塔上信号:北門 警戒→注意(赤)】
——【死霧濃度:北帯にて異常上昇】
影がこちらへ視線を投げ、唇だけがかすかに笑った。
風の匂いが変わる。湿りの底に、鉄の味。
「傘の下、三巡目は北へ引き上げだ。回す。拍を上げろ」
合唱が一段、速くなる。
タン、タン、ターン、タン、タン、ターン。
二拍回しが、街を走る。
——【全域:夜警 バフ回し 移行 北帯優先】
——【提案:北門前 “囮歌”→“止まない”の揺らぎ混合/印:三角(迷走)+扇(誘導)】
雨は止まない。
でも、拍は途切れない。
俺たちは、街を抱えたまま、北へ向かった。
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