第4章 初陣、囮歌
緊急依頼の木札は湿っていた。
郊外街道の外れで“灰燼の小群れ”を誘導・囮せよ。報酬は灰札六十、成功度で加算。
掲示板の下で、雨脚が板を叩く。
——【任務:外周 誘導・囮/推定個体 9〜12】
——【地形:浅い渓(枯川)→放牧地→捨て石切り場(落差 2m)】
——【風向:NW→W(変動)/降雨(中)】
「落ち口に流し込めれば勝ち」
俺は地図の上に灰を三点置いた。
「ここ、ここ、ここに三角印(迷走)。角を回るたびに奴らの向きが一拍遅れる。囮歌で引っ張る」
「矢倉は?」ミラが訊く。
「二本。市場の職人から脚立を借りる。泥場の手前と石切り場の縁」
ゲイルが頷いて笑った。「脚立の担ぎは任せろ」
エレナは小さな包みを差し出す。「咳止め。囮歌で息が乱れたら舐める。あと――粉塵対策に濡れ布」
「助かる」
俺は旧パン工房から拝借したふいごを背に括った。
灰燼は“火よりも風と水”が弱い。風で灰殻を剥がし、水で足を取る。
「傘の下、出る。入場曲」
タン、タン、ターン。
温→軽→固を踏み、旗を掲げて倉庫を出た。
*
郊外街道の中継点。昨夜の徴収係は顔をしかめたが、傘印の旗を見ると黙った。
「今日は護送じゃない。通行は後で払う」
「……勝手にしろ」
路地を抜けると、視界は開けた。灰色の空、低い丘、濡れた草。
遠くで、羊の声と、怯えた農夫の叫びが混ざった。
——【敵対ユニット:視程外/推定 10】
——【非戦闘員:牧夫 2/羊群 17】
「屋根はミラ、脚立へ。路地のゲイルは隊列誘導。鍋のエレナは後衛ケア。印のタオ、三角印を打つ」
「合図は?」
「囮歌――“雨宿り”。三拍。俺が先、お前たち応答」
俺は喉を軽く叩き、三拍を刻んだ。
タン、タン、ターン。
最初の三角印は枯川の浅瀬脇。灰で角を描き、矢印を風下へ向ける。
タオの手が迷いなく走る。
——【印:迷走三角(小)/敵の進行方向に遅延(推定)】
「ミラ、笛矢」
「了解」
ミラは矢羽根に小さな穴付きの薄板を噛ませる。風切り音が出る矢だ。
矢が鳴った。低く、湿った音。
草むらで、灰色の影が振り向いた。
——【敵対ユニット:検出 11/ヘイト 0→27】
「歌」
俺は声を出す。
タン、タン、ターン――
応答が重なる。
タン、タン、ターン。
温の印に合わせて、体が少し軽くなる。軽が足を回し、固が心を留める。
「来る」
灰燼が地面を掻き、泥を跳ね、低く唸って近づく。
先頭の一体が三角印の角を踏み、わずかに向きがズレた。
一拍遅れ。それが波のように後続へ伝搬する。
「ふいご、準備――いま!」
俺は灰を含ませた風を、獣の側面へ吹き付けた。
——【状態:表皮の灰殻 乱れ(微)/視認遮蔽 上昇】
「矢、重ねるな。角だけ刺せ!」
ミラの矢が先頭の眼窩を打つ。
ゲイルが羊群を軽の小円で脇へ送り、牧夫を温で落ち着かせる。
エレナは咳をする子に濡れ布を押し当て、呼吸を整える。
「二つ目の三角へ」
俺たちは囮歌で距離を計りながら後退する。
灰燼は角を踏むたびに衝動の向きを失い、落ち口へ近づく。
——【敵隊列:乱れ(中)/ヘイト:Umbra 68/隊列合計 41】
——【風向:W→WSW(微変動)】
空気が少し温んだ。HUDの端にノイズが走る。
——【仕様揺らぎ:雨脚の間欠化/摩擦係数 −1%(推定)】
滑る。つまり、落ちる。
「脚立、構え!」
石切り場の縁に置いた矢倉二本。ミラが一本、もう一本は市場の弓手の若者が立つ。
「ミラ、赤は任せろ。若者は群れの腰を抑えろ」
灰燼の群れが縁へ差しかかった瞬間、俺は囮歌の拍をわずかに速くした。
タン、タン、ターン、タン、タン、ターン――
追う衝動がリズムに釣られて前のめりになる。
足元が崩れ、二体、三体が落差に呑まれた。
泥と水が弾ける。
——【転落:3/戦闘不能(推定)】
「押すな、刺すな、落とせ!」
矢が腰と腿を打ち、体勢を崩した個体が次々と落ちる。
残りの一体が縁に爪を立て、皮膚が硬く光った。
——【敵:精鋭個体/表皮硬化(中)/貫通補正 −6%】
「水!」
ゲイルが水袋を投げる。
俺は両手で握り潰し、獣の顔へ叩きつけた。
濡れた灰殻が膨らんで剥がれ、ミラの矢がその継ぎ目を抜く。
精鋭が仰け反り、落ちた。
——【敵対ユニット:11→2】
——【士気:敵 −】
最後の二体は踵を返し、丘の影へ逃げた。
追わない。囮の任務は逸らすことだ。
静けさが、一瞬だけ降りた。
牧夫が泣きながら羊を数え、若者弓手が縁から降りる足を震わせた。
エレナが胸に手を当てて笑う。「歌、効くね」
「段取りだ」
俺も笑った。少し、頭が重い。
——【任務:達成/成功度:高】
——【認知疲労:56%】
ふいごを外し、灰を払う。
ミラが矢を回収しながら言う。「傘の下、初陣にしては上等」
「次は夜だ」
HUDの端で、赤が薄く点った。
——【予見:本夜、霧帯の降下 可能性 68%】
*
夕方、掲示板の前で、灰札が歌とともに配られた。
タン、タン、ターン――六十。
市場の若者にも十が渡り、彼は耳まで赤くして礼を言った。
「矢倉、固かった。脚立に固を踏むっての、効くね」
「順番を守れば効く」
その時、鐘が三度鳴った。低く、長く。
人々が顔を見合わせる。
掲示板に新しい札が打たれた。
夜警要請。霧帯が降りる。各区画のバフ回しと見張りの編成、至急。
「来た」
エレナが息を吸い、ミラが顎を上げる。
俺は板の前に立ち、短く告げた。
「傘の下、夜警に入る。合唱隊舎と結界塔の間を印で繋げ。バフ回しは二拍ごと、歌は“雨宿り”から“止まない”へ転調だ」
雨は強くなり始めていた。
俺たちは倉庫へ走る。
初陣は終わった。
夜が、始まる。
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