第3章 傘の下、結成
朝、雨脚は弱まらなかったが、倉庫の中の空気は少しだけ軽かった。
鍋は昨夜より濃く、壁には煤で描かれた三つの円のルールが黒く光っている。
——【拠点:ランクE+/内部人口:定住 14/一時 9】
——【負傷:軽傷 5/感染疑い 0 衛生導線:稼働】
エレナが水壺の位置を直し、ミラは屋根伝いの見張り印を増やしていた。
子どもたちの靴底には、灰で描いた小さな矢印。踏み方を忘れないための合図だ。
「今日は名前を決める」
俺は倉庫の中央に粗い板を立て、炭で文字を走らせた。
《傘の下》。
その下に、短く**掟**を書き足す。
一、弱い者を雨から守る
二、順番を守る(温→軽→固/固→軽→温)
三、歌を忘れない
ミラが肩を竦めた。「三つ、好きね」
「覚えやすさは武器だ」
古傷の男――昨夜、疑い深い目を向けていた彼が、一歩前に出る。
「俺はゲイル。荷運びをやる。掟に“取り分”を足したい」
「言え」
「働きに応じて灰札を配れ。灰で印をつけた木札だ。十枚でパン一つ、五十で靴を新しく――みたいにな」
俺は頷き、木片を三つ拾ってHUDに視線を落とす。
——【内部経済:導入可/灰札=勤労・供出の記録】
——【期待効果:動機付け+/不正リスク:中(偽造・横流し)】
「偽造に弱い。だが今は重さより流れが大事だ。やろう」
俺は木片に小さな傘印を刻み、灰で縁を染めた。
「灰札は歌で清算する。収支を読み上げ、皆の前で一拍ごとに配る。ごまかしが減る」
「……歌で会計?」とエレナが目を瞬く。
「歩幅を合わせるのと同じ理屈だ」
子どもたちが笑う。
笑いは、いい。士気は、数字では測りきれない。
——【士気:+/不満:見当たらず】
*
「入団の試しをしよう」
俺は床に三つの円をもう一度描いた。
「一巡で三拍――タン、タン、ターン。温→軽→固で外へ、戻りは固→軽→温。目は前、指示は一言で返事」
列の先頭で、ゲイルが先に足を出した。
大きな男の足が温に触れ、肩の力が少し抜ける。軽で膝が上がり、固で踏み止まる。
続くのは、子ども、女、弓手。
ふらついた者には、ミラが肩を貸す。
全員が一巡したところで、俺は短く告げた。
「これが傘の下の入場曲だ。街へ出る時も、戻る時も、最初と最後にこれを踏む」
——【隊列整序:成功/歩幅同期:良好】
壁の板に、さらに四行書き加える。
屋根組(見張り・斥候)/路地組(護送・交渉)/鍋組(衛生・食)/印組(印の敷設・補修)。
役目を四つに割り、担当を割り振る。
「私は屋根だね」ミラが笑う。
「エレナは鍋の長を。ゲイル、路地を見てくれ。印はタオを中心に」
端で墨だらけの少年タオが顔を上げる。「はい」
肩書と線が責任になる。
名付けるだけで、人は自分の位置を知る。
*
昼近く、鐘が一度鳴った。
ギルドの掲示板に新しい札が出た合図だ。
ミラが屋根から飛び降り、掲示板の写しを持って戻ってくる。
「護送依頼。治療院への薬箱。報酬は灰札30相当。ついでに避難誘導で+10」
エレナが前に出た。「それ、うちの――必要です」
彼女の目は、迷っていない。
俺はうなずいた。「初仕事にする」
——【クエスト:市内護送(低危険)/避難誘導 付与】
——【路線:スラム西→市場北→治療院(合唱隊舎隣)】
——【警戒:街道で“水賃取り”増員/灰燼痕跡 少】
「水賃取りは昨夜と同じ面子か?」
「増えてる。徴収係が替わった」ミラの口元がわずかに歪む。
交渉は変数が多い。だが規則を提示すれば、変数の幅は狭くできる。
「隊列は路地→鍋→印の順で。屋根は頭と尻。歌は短い“雨宿り”。傘印の旗を一本持っていく」
俺は布の切れ端に簡単な傘を描き、棒に括って旗にした。
旗は目印であり、約束でもある。
*
スラム西の路地。昨夜の中継点に、槍の男がいた。
人数は倍、顔ぶれは違う。徴収係が腕を組んで笑う。
「今度は旗か。宗教か?」
「規則だ。昨日と同じ――一、子どもから取らない。二、病人から取らない。三、荷の一割まで」
「守れば取れる、と?」
「明日も取れる」
男は鼻で笑い、足で灰の外円を踏み潰した。
周囲の空気が少し固くなる。
ミラの視線が冷たく光った。
「歌」
俺は言い、隊列の先頭がタン、タン、ターン、と踏む。
温が広がり、足元の泥の冷気が薄まる。軽で心拍が整い、固で肩が下がる。
槍の男の眉が僅かに寄る。
「馬鹿らしい」
「馬鹿らしさで秩序を作るのが俺たちのやり方だ。今日は護送だ。帰りに十を置く」
エレナが前に出て、包みを掲げる。
「薬だ。病気は移る。ここを通る全員にとって、こいつは傘になる」
しばしの沈黙。
男の後ろで、昨日の槍の男が口を開いた。「通せ。中継点の印、残ってる。便利だ」
徴収係が舌打ちをし、身を引いた。
——【交渉:成功/徴収 10%(帰路)/中継点 承認】
旗が薄い雨に濡れ、灰の色が濃くなった。
俺たちは歩く。歌は短く、揃っていた。
*
市場北は混んでいた。
濡れた屋台、怒声、押し合う肩。ヘイトが乱高下する。
——【群衆ヘイト:振幅 大/誘発因子=押し合い/空腹】
——【提案:通路の矢印/“軽”の小円を点在】
俺はタオに目で合図し、軽の小円を点々と置かせる。
足場が軽くなるだけで、渋滞の角が薄まる。
ゲイルが前に出て、胸板で押し返すのではなく、肩で角度を作った。
人の流れは、一度角が付けば戻ってこない。
「Umbra、子どもが泣いてる」
エレナが指差す先で、濡れ鼠の少女が籠を抱えて震えていた。
籠の中で、赤い布に包まれた小瓶が鳴る。
「咳止め。治療院へ向かってた」
「連れていく。鍋に入れろ」
——【護送対象:追加/報酬 変動なし】
市の外れで、死霧の薄い帯が路地を横切っていた。
昼の霧は短いが、肺をやられる可能性がある。
「止まれ。固→軽→温で息を整えろ」
俺は灰を握り、路地の入口に扇形の印を刻む。
霧の縁に、矢印をふたつ。
風は西から。扇の開きは東へ。
——【霧流:西→東/扇形誘導:成功率 68%】
タン、タン、ターン――
隊列が固で身を締め、軽で歩幅を合わせ、温で落ち着く。
息を浅く、長く。
霧は扇に沿って流れ、路地の向こうへ薄く逃げた。
——【通過:成功/咳嗽 発生 0】
治療院の前には、湿った木札が下がっていた。
合唱隊舎の隣。歌が薄く聞こえる。
門を叩くと、白衣の老人が顔を出した。
「その包み、待っていた」
エレナが頷き、箱を渡す。
少女の籠から小瓶を取り出し、老人に託した。
「代金は?」少女が不安げに問う。
「傘の下が払う。灰札で」
「灰札?」
「歌で清算する札だ」
老人が目を瞬かせ、笑った。「変わったやり方だが、覚えやすいな」
——【護送:達成/避難誘導:達成/報酬 受領】
帰路、雨は少し強まった。
中継点で十の薪を置き、灰札のやり取りを歌で読み上げる。
タン、タン、ターン――三十。
木札が三十枚、皆の前で回る。
ごまかしは拍に合わない。
それだけで、妙に透明になる。
*
倉庫に戻ると、空は少しだけ明るかった。
壁の板の下に、細い布を垂らす。即席の旗だ。
掟の横に、短い言葉を足す。
「止まなくても、歩く」
その時、遠くで鐘が二度鳴った。
ミラが屋根から飛び降りる。「掲示板更新。郊外で“灰燼の小群れ”。誘導と囮の依頼――報酬は高い」
初陣の匂いが、雨に混ざった。
HUDの端が、薄く赤く灯る。
——【緊急依頼:郊外街道/灰燼 小群れ 誘導・囮】
——【提案:囮歌/三角印(迷走)/矢倉の事前配置】
——【認知疲労:回復 62%/運用 可】
「傘の下、出る」
俺は旗を取り、円の前に立つ。
「温→軽→固。入場曲からだ」
タン、タン、ターン。
雨は止まない。
だが、俺たちはもう、傘の下にいる。
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