第2章 灰の印、三つの円
倉庫に雨が打ちつけ、屋根から筋になって落ちる。
大鍋は湯気をあげ、薄い野草の匂いが漂っていた。子どもたちは鍋の周りに集まり、濡れた手を焚き火にかざす。
——【拠点:暫定ランクE/衛生評価 D→D+(仮)】
——【内部人口:定住 11/一時 7/負傷 3】
「教える。灰の印には、役割がある。今日は“三つの円”を覚えろ」
石床の煤を拭き、俺は白い粉袋を置く。安い塩と、古い油、そして炉の灰。
ミラが腕を組み、子どもたちは息を呑む。
「外が温。真ん中が軽。一番内側が固。踏む場所と順番を間違えるな」
指先で、床に大きな円を引く。灰にほんの少し塩を混ぜ、油で指を湿らせて滑らせる。
円は三重。外円は太く、内に行くほど細い。
——【クラフト:灰の印(温・軽・固)→成功率 71%】
——【効果見込み:温=微温/士気+ 軽=疲労軽減(小) 固=防御+・止血補助(微)】
「温は、体を冷やさない。軽は、足と心を軽くする。固は、踏んだ者の皮膚と息を固める」
「魔法?」と誰かが囁いた。
「魔法というより、段取りだ」
俺は円の継ぎ目に灰を足し、四方に矢印を描く。
「この並びで動くと、ヘイトが偏らない。温で集め、軽で散り、固で締める。覚えろ」
ミラが鼻で笑った。「言うは易し。実地でやる?」
「やる」
雨は弱くならない。だが、鍋は減る。食べるためには、外に出るしかない。
*
倉庫の前庭。三つの円を、泥の上にもう一度描く。
子ども四人、弓手二人、荷役の男一人。ミラと俺で先導する。
「順番。出る者は温→軽→固を踏んでから外へ。戻る時は固→軽→温。踏み忘れたら、もう一周」
「なんで戻る時に固が最初?」
「帰りは狙われやすい。収穫=ヘイトだ。固で硬くしてから軽で足を回し、温で落ち着かせる」
——【遠隔警戒:郊外街道 小規模群れ 1】
——【天候:降雨(中)/体感温度 6℃】
「ミラ、偵察」
「了解。屋根から行く」
ミラが雨樋に足をかけ、軽やかに上へ消える。
子どもたちの視線が追う。憧れと不安が混ざった目。
「怖い人が来たら?」と幼い声。
「円の中に入って、歌え」
「歌?」
「囮になる歌だ。敵は音に釣られる。歌は短くて、同じ節を繰り返せ」
「どんな歌?」
俺は喉を鳴らし、昔のレイドで使った、三拍のコールを刻む。
タン、タン、ターン。
すぐ覚えられて、すぐ輪になれるリズム。
子どもたちが真似をする。ぎこちないが、雨と意外に合う。
——【士気:+】
*
目指すのは、川沿いの旧パン工房。小麦はもうないが、薪と粉塵はあるはずだ。粉は危険だが、扱えば武器にもなる。
路地の角で、ミラが手を上げた。
「先に二影。槍一本、棍一本。スラムの“水賃取り”だね」
水場を押さえる連中だ。通行料を取る。
いまは戦わない。戦っても失う。俺たちは歩き続けるのが目的だ。
「交渉する。円、出す」
俺は路地の入口に三つの円を描き、外円だけ少しはみ出させる。
灰が雨で滲み、細い筋が路地へ伸びた。
——【囮補助:温(外円)に微弱な視線誘導】
槍の男が近づく。目が無意識に円の縁を踏む。
「止まれ」
俺は手を上げ、落ち着いた声で言った。
「ここから先に印を張った。踏んで喧嘩を売るなら、売ってからでも渡せる」
「脅しか?」
「いや、順番の話だ。俺たちは帰りに“税”を払う。今は空だ」
槍の男が笑う。「何を根拠に」
「根拠は明日もここを通ること。通る側に規則があると、取る側も得をする。通行が増える」
棍の男がミラの弩を見て、肩を竦めた。「規則って?」
「三つ。一、子どもからは取らない。二、病人からは取らない。三、荷の一割まで。守れば、“明日も払える”」
ミラが視線だけで俺に訊く。
俺は小さく頷いて続ける。「今は空。帰りに、薪と粉を。一割、ここに置く」
槍の男は円の外に退いた。
「面白ぇじゃねえか。通れ」
——【交渉成功:通行許可/帰路徴収 10%】
通り過ぎざま、ミラが目線で子どもに合図する。
「怖い時は温に入って歌え」
小さな声が、タン、タン、ターンと鳴った。
*
旧パン工房は、半分崩れていた。
窓から覗くと、粉塵が薄く舞っている。
危険だ。火が入れば爆ぜる。
「火気、厳禁」
「じゃあどうやって薪を運ぶ?」
「粉を落とす」
俺は外で三つの円を作り、軽の上で子ども二人に跳ねさせる。
リズムを踏むと、衣服の粉が小さく舞い、それを温が吸う。
ミラは屋根から入って窓を開け、板で粉をゆっくり落とす。
——【粉塵濃度:高→中→低】
中では、古い棚と、湿った薪束が見つかった。
子どもたちが固の円を踏んで、棚をゆっくり運ぶ。
手のひらの擦り傷が少なくて済む。固の止血が効いている。
「これ、効いてる」
少年が驚いて言った。
「効く。だが万能じゃない。順番を守って初めて効く」
外に積み上がる薪。粉袋。古い布。
荷が膨らむほど、ヘイトも膨らむ。
——【ヘイト推定:隊列合計 34→52】
——【警戒:灰燼小群れ、風下より接近】
「戻る。固→軽→温で出ろ」
俺は囮の灰を手のひらに摺り込む。
円に一歩、斜めに踏み込むよう矢印を足す。ここからが本番だ。
風下から四足の影が三つ。
ミラが屋根から手信号。距離、十五。
矢は温存する。ここは三つの円で捌く。
「歌え」
子どもたちの三拍が鳴る。
俺は路地口に灰を撒き、足で扇形に散らす。
温が声と熱で注意を引き、軽が足を回し、固が最後尾を守る。
——【囮効果:音誘導/範囲 10m/ヘイト遷移 0→68】
——【軽:移動ペース+10%/疲労上限+】
——【固:被打撲ダメージ −8%(推定)】
獣の一体が横から抜けようとした瞬間、ミラの矢が地面に刺さり、泥が跳ねた。
獣は驚き、方向を変え、温に吸われるように近づいた。
「今、角を曲がれ。固→軽→温」
隊列が流れる。
俺は最後尾で、灰を踵で掬い上げ、獣の鼻先に撒いた。
目を細め、息を絞る。
獣が一瞬たじろぎ、固を踏んだ子どもが肩を掴んで引く。
通り抜けた。
——【追尾:解除/敵対ユニット 3→0】
息を吐く。目の裏がじんと痛む。
HUDの文字が少し揺れた。
認知疲労。見過ぎだ。
「Umbra、目が赤い」
「知ってる。帰ったら少し落とす」
*
帰り道。路地の入口で、槍の男が腕を組んで待っていた。
俺は荷を降ろし、薪束の一割を置く。粉袋からひと掬い、灰に混ぜて温の円を描いた。
「印は残していけ。ここを中継点にしろ」
「おいしいのか、それ」
「ぬるいだけだ。だが、順番を覚えるには丁度いい」
槍の男が円を踏む。
顔が少し緩む。
「……悪くない」
——【通行協定:更新/中継点 設置(仮)】
倉庫に戻ると、鍋の湯気が濃くなっていた。
薪が増え、子どもたちの顔色が少しだけ赤い。
「三つの円のルールを壁に書く。出る時は温→軽→固、戻る時は固→軽→温。歌を忘れるな。印は踏んでから信じろ」
煤で壁に書くと、みんなが頷いた。
エレナが来たのはその時だ。薄い外套、肩から革の鞄。目は真っ直ぐで、手は温かい。
「噂を聞いた。“灰で温める支援職”がいる、と」
彼女は鞄から包帯と清潔な布を出し、子どもの擦り傷に手を置く。
——【治癒術:軽度/止血・消炎】
「私はエレナ。治療院から来た。ここに衛生を入れたい」
「歓迎する」
「条件がある。水と便所の導線を分ける。灰の印で“入っていい円”と“入ってはダメな円”を明示する」
俺は頷き、床に新しい印を描いた。
円の中に×と+。
「ここからここまで、水。ここから先は排泄。間に軽を入れて靴底の泥を落とす」
——【衛生導線:暫定敷設/感染リスク −】
エレナは満足げに頷いた。「歌もいい。咳が出る子が、歌うと呼吸が整う」
「歌は、歩幅を合わせる道具だ」
雨音が少し遠くなる。
HUDの片隅で、薄いノイズが走った。
——【仕様揺らぎ:夜間の湿度変動/死霧の侵入角度(微)】
——【予見:二夜後、霧の帯が低地に降りる(確率 62%)】
俺は鍋の蓋を閉じた。
「二日。二日で外縁に円を増やす。エレナ、衛生の線を頼む。ミラ、屋根から見張りの印を置け」
「了解、傘の下」
ミラが笑い、子どもたちが真似をする。
鍋の湯気が、天井に新しい輪を作った。
——【拠点:ランクE→E+/警戒網:外縁 一部敷設】
雨は止まない。
だが三つの円は、もうここにある。
止まないなら、踏んで進めばいい。
雨の下で、街になる。
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