第1章 雨の下で
目を開けると、空が低かった。鉛色の雲が渓谷を塞ぎ、斜めの雨が石畳を叩いている。
——【視界内ユニット 23/敵対 0】
視界の端にHUDが薄く浮かぶ。HUD(Heads-Up Display/ヘッドアップ・ディスプレイ)――視界に戦術情報を重ねる機能。俺、Umbraだけが常時これを見られる。味方・敵のHP、バフ/デバフ、ヘイト、危険度……。
骨と皮だけの少年が二人、壊れた扉の隙間からこちらを覗いている。背後で若い女が咳をこらえ、布切れに包んだ赤子を抱いていた。
——【状態:飢餓/低体温/咳嗽】
ここは、辺境都市レヴィオンのスラムだ。
「動けるか」
俺が問うと、少年は肩を竦めた。「動く理由がない」
「理由を作る」
濡れた外套を脱ぎ、焚き火の灰に手を突っ込む。
——【クラフト:即席“灰の印”→成功率 62%】
石畳に三つの円を描く。入口、中央、奥。雨に消される前にバフ陣を組む。
「ここに立て。踏んだ者は温かく、足が軽くなる」
胡散臭いのは自覚している。だが、女が一歩、恐る恐る円に足を入れた瞬間――
——【効果:微温/疲労軽減(小)】
女の目が見開いた。赤子の泣き声が、少しだけ弱まる。
「……どうやったの?」
「俺は支援職だ。戦わない代わりに、みんなを立たせる」
外で、獣の唸り。
——【敵対ユニット接近:3 ヘイト=0→増加中】
雨の匂いに誘われた雑食の魔物。扉が軋む。少年が震え、女が赤子を抱き締める。
「三十呼吸、俺だけを見ろ。合図で奥へ」
扉の前に囮の印を二重に描き、灰の壺を置く。
深く息を吸う。雨は、余計な考えを切ってくれる。
扉を開ける。黄色い眼が三つ、灯る。
——【囮効果:範囲 12m/ヘイト遷移 0→85】
「こっちだ」
獣が躍りかかった瞬間、灰壺を蹴って割る。煙。
——【状態異常:目潰し(微)/持続 7秒】
「今だ、走れ!」
足音。少年と女が奥へ走る。俺は逆へ飛び、狭い路地に獣を誘い込む。
石壁に背を預けた瞬間、矢が唸りを上げて獣の眼を貫いた。
「外すなって言ったろ、ミラ!」
屋根の端に、濡れたフードの影。細い腕が弩を引き、もう一本。
——【敵対ユニット 0】
フードの女が軽やかに地面へ降りる。目は鋭く、手は震えていない。
「借りは返す。あんた、何者?」
「Umbra。支援職。ここに、傘を作る」
「傘?」
「雨から守る場所。雨が止むまでじゃない、止まなくても歩ける場所だ」
HUDに、新しい緑の光点が灯る。
——【ミラ・グリント/適性:斥候(高)/忠誠:未設定】
雨はまだ降っている。だが、ひとつ目印が立った。ここから始める。
*
その日の夕方、壊れた倉庫に大鍋を据え、灰の印で暖を取り、壁際に射線を描いた。
——【拠点:暫定ランクF→E】
集まったのは、飢えた子どもと、傷の多い大人と、物好きな弓手が少し。
「名前は《傘の下》。理念は一行。“弱い者を雨から守る”」
「守るだけか?」と、古傷の男。
「守って、歩かせる。歩くと街になる」
雨音の向こうで、鐘が遠く鳴った。
——【治安警鐘:郊外街道で小規模の群れ】
「試運転だ。行くぞ、ミラ」
「了解。囮歌はあなた、合いの手は私」
「歌は下手だ」
「大丈夫、敵には効く」
俺たちは雨の中へ出た。
最初の一歩は、小さくて、しかし確実に街へ繋がっている。