第0章 序章:死霧の夜
帝国歴五一二年、レヴィオン北門。
鐘が三度、重く鳴った。石壁の上で、雨と霧が混ざる。
——【全域警戒:死霧濃度 上昇/視程 30m】
——【市街ユニット:民兵 874/医療 63/合唱隊 112】
——【防衛施設:結界塔 6/投石機 4/矢倉 9 同期率 87%(遅延 0.8s)】
「合唱隊、階調Aから。市街区画BとEは“灯”を落として。北門前、囮の印を二重に」
声を張ると、返事が波のように返ってきた。
俺は胸の奥でゆっくり息を整える。視界の端にHUDが薄青い層を作っている。
【用語】HUD(Heads-Up Display/ヘッドアップ・ディスプレイ)
視界に重ねて戦術情報を表示する機能。俺――Umbraだけが常時可視化できる。味方・敵のHP、バフ/デバフ、ヘイト(敵対値)、簡易ログ、危険度など。結界塔と同期すれば街規模で俯瞰できるが、遅延と認知疲労の代償つき。
霧の縁で黒い塊が膨らんだ。灰燼の群れ。
——【敵対ユニット:推定 600→720→……】
数字は嘘をつかない。だが数字に勝たせるのは、人だ。
「ミラ、屋根経由の遊撃は“赤”だけを刺す。緑は合唱の間合いまで釣って」
「了解、傘の下!」
フードを濡らした斥候長が、雨粒を切って消えた。
矢倉の影で治癒術師エレナが合図。合唱隊が息を吸う。
結界塔の水晶が同時に脈を打った。
——【合唱陣:準備 80%→92%→100%】
——【市街バフ:防御+12%/出血耐性+10%/視認補正+15%】
——【発動コスト:魔力回廊 温度上昇/持続見込み 09:30】
「行くよ――!」
歌声が石と雨を震わせ、薄青の紋が街路に走る。
灰燼の群れが霧を押し分け、歯と爪を鳴らして突っ込んできた。
「囮、展開。Aラインは“踏み石”、Bラインは“引き弓”。ヘイトは俺に寄せる」
俺は北門前に囮の印を二重に切り、足で軽く叩いた。
——【囮効果:範囲 18m/初期値 0→ヘイト遷移 75】
先頭の怪物が目を剥いて向きを変える。来い。全員、俺を見ろ。
「今!」
投石機の唸り。火のない石が霧を裂き、獣の群れの中心に落ちる。
“火ではなく風と水”。灰燼は乾きに弱い。石は粉塵を巻き、合唱の風音がそれを刃に変える。
——【敵:鈍足(中)/視認阻害(小)】
「矢倉、重ねない! 出し惜しみ禁止、でも重ねない!」
城壁が鳴り続ける。
HUDの片隅で“ノイズ”が微かに走った。
——【仕様揺らぎ:敵装甲、表皮硬化(微)/貫通補正 −3%(推定)】
来た。**“パッチノート予見”**のざわめき。今夜、敵は少し硬い。
「ボルド、矢じりを換装。風切りに寄せて」
「もうやってらぁ!」
ドワーフの怒鳴り声。工房の煙突から白い蒸気が唸る。
ミラが屋根を飛び移り、赤い印のついた個体の眼を撃ち抜いた。
——【精鋭個体 撃破:士気 −6%】
「エレナ、B街区の出血、流れてる。回廊、ひとつ貸せ」
「貸すけど、あなたの目が真っ赤。HUD落として」
「まだ持つ」
認知疲労の鈍い痛みが眼窩に溜まっていく。
それでも、数字が街を守るなら、まだ見ていられる。
「北門、最終ラインまで後退。合唱、転調D。……終わらせる」
合唱陣が一段階、明るくなった。
霧が一瞬だけ薄れ、街の外まで視界が通る。
そこで、群れの後ろに背の高い影を見た。角と灰の外套。
——【敵将:灰燼軍 戦略官“セシュム”/危険度:高】
奴がいるなら、ここで折る。ここで街の独立を勝ち取る。
「全隊、前へ――」
そして、レヴィオンは雨音を越えて吠えた。