第三話 あの夏の続き
春の夜のまだ冷たい風が頬をかすめる。
商店街を抜け、河川敷へと向かう道は、記憶の中よりも少し狭く感じた。
あの夜と同じ場所に立つと、川面に映る街の灯りが静かに揺れていた。
手の中には、小さな紙袋。その中にはさっき駄菓子屋で買った線香花火が入っている。
こんな季節に花火をするなんて、きっと誰も思わないだろう。だけど、僕は確かめたかった。
――あの夏の夜、彼女は何を言おうとしたのか。
ベンチに腰掛け、ライターを取り出す。指先に触れる冷たい金属の感触が、妙に現実を引き戻すようだった。
「……まさか、本当にここに来てるなんてね」
不意に、背後から声がした。
驚いて振り向くと、そこに彼女が立っていた。
少し驚いたような表情のまま、彼女は僕の隣に歩み寄る。髪が夜風に揺れ、遠くの街灯の光を帯びて、やわらかくきらめいた。
「どうしてここに?」
「……なんとなく」
彼女は線香花火の入った袋に気づき、目を細めて微笑んだ。
「それ……私も一緒にやっていい?」
僕は黙って袋を差し出す。彼女がそっと手を伸ばし、一本の線香花火を取り出した。
二人、並んでしゃがみ込む。ライターの火を灯し、それぞれの花火に火をつける。
パチ、パチ……
闇の中で、小さな火花が弾けた。
「懐かしいね」
彼女の声は、まるで遠い記憶の中から聞こえてくるみたいだった。
「ねえ」
彼女は静かに口を開く。
「本当に、思い出せない?」
火花を見つめながら、僕は少しだけ息をのむ。
「少しだけ思い出した。でも、多分……肝心な部分が思い出せないんだ」
彼女はそっと視線を落とし、線香花火を持つ指先をきゅっと握り直す。
「そっか」
火花が静かに揺れた。
「あの夜、君はこう言ったの。『それ、本当だったらいいのにな』って」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが弾けるように、記憶が鮮明になっていく。
あの夜――彼女は言った。
「線香花火ってね、最後まで火が落ちなかったら、願いが叶うんだって」
「誰かと一緒にやって、二人とも最後まで残せたら、その人とはずっと一緒にいられるんだって」
僕は笑って、「そんなの、ただの迷信だろ?」と答えた。
彼女は少し笑って、それから線香花火をじっと見つめていた。
そして、僕は確かに言った。
「でもそれ、本当だったらいいのにな」
その直後――彼女の線香花火の火が落ちたんだ。
思い出した僕は、思わず息を呑んだ。
「覚えてる……確かに、そう言った」
「うん」
彼女は静かに頷く。
「君の言葉、すごく嬉しかった。でも――」
彼女は一瞬だけ、視線を落とす。
「私の線香花火の火は、すぐに落ちちゃった」
火花がかすかに揺れる。
「だから……そのとき、私は言えなかった」
僕の胸の奥がざわつく。
「言えなかった?」
「うん」
彼女はそっと微笑む。
「君と同じ気持ちだったはずなのに。でも、私の花火が先に落ちたから……何となく、言えなくなってしまったの」
あの夜、交わされるはずだった言葉。
それが、ようやく明かされた。
「……今なら、言える?」
僕の問いかけに、彼女は静かに線香花火を見つめる。
「うん」
そして、ふっと息を吸い込んだ。
「――本当だったら、いいのにな」
彼女の声が、夜の静寂に溶けていく。
その瞬間、僕の線香花火が最後の火花を弾けさせ、静かに燃え尽きた。
だけど、今度は何も失われない。
僕は、迷わず言った。
「これからも、君と一緒にいたい」
彼女がゆっくりと顔を上げ、僕を見つめる。少し何かを考えているような顔つきだった。
彼女がここに来たのは偶然じゃない。あの夏の日の言葉を思い出させたかったのは、きっと……。
僕は静かに彼女の言葉を待った。火花が消えた暗闇の中で、その目だけが微かに光を帯びていた。
「ねえ、もう一本だけ、しない?」
彼女の言葉に僕は頷く。僕らは、再び線香花火を手に取る。
今度は、どちらの火も最後まで落とさずにいられる気がした。