第一話 運命の再会
彼女の名前を最後に口にしたのがいつだったか、正確には思い出せない。ただ、一度たりとも忘れたことはなかった。途切れた連絡。終わりのなかった関係。頭の片隅で埃をかぶりながら、それでも捨てられないまま残り続けた記憶。
だから、彼女が目の前に現れた瞬間、胸の奥で何かが軋む音を立てた。
「久しぶり」
窓際の席に彼女がいた。僕がいつも座る場所。まるで僕が来ることを知っていたように、彼女は振り向き、微笑んだ。目の前のカップに映る薄曇りの空が、その場面をどこかの映画のワンシーンみたいに切り取っていた。
僕は言葉を失い、数秒遅れてようやく口を開く。
「本当に……久しぶりだね」
彼女の微笑みは、あの頃と変わらない。儚げで、どこか触れれば消えてしまいそうな、そんな微笑み。その一瞬の表情だけで、何もかもが懐かしくて胸の奥が疼いた。
「ここ、いい?」
指さした椅子に彼女は小さく頷く。僕は静かに腰を下ろし、メニューも見ずに「日替わりコーヒー」と注文した。
マスターが豆を挽く音が店内に響く。ガリガリという音が妙に心に染みた。いや、違う。僕はただ、何か話すべき言葉を探していたのかもしれない。
「まさか、ここで会うとは思わなかった」
「私も」
カップを傾け、一口飲む彼女。その仕草がひどく懐かしかった。
「今、何してる?」
「それを聞いてどうするの?」
「ただの雑談」
彼女は少し考えた後、静かに答えた。
「翻訳の仕事をしてる。ずっと家にいるから、あまり人と話さないけど」
コーヒーの表面に浮かぶ波紋を見つめながら、僕は呟くように言う。
「へえ」
会話が途切れ、店内のBGMが妙にクリアに聞こえる。僕らの間の沈黙を、音楽が埋めていくようだった。
沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「君は? 最近どうしてるの?」
「相変わらず」
「相変わらず?」
「ただ生きてるって感じかな」
彼女はクスッと笑った。
「昔から、そういう言い方するよね」
「そうだったっけ?」
「そうだった」
指でカップの縁をなぞる彼女の仕草。その仕草一つに、言葉にならない感情が詰まっているような気がした。
「ねえ、覚えてる?」
「何を?」
「あのときのこと」
記憶が霞む。夏祭りの帰り道。提灯の灯り、浴衣姿の彼女、線香花火の火花――。
「……ごめん、よく覚えてない」
「そう」
彼女はそれ以上何も言わなかった。でも、その横顔がどこか寂しげに見えた。
マスターが運んできたコーヒーを一口飲む。ほのかな苦味。その奥に微かに残る酸味が、記憶の味に似ている気がした。
「ねえ、また会える?」
「それはどうだろう」
彼女が小さく息をつく。そして、ゆっくりと席を立つ。
「じゃあね」
彼女の背中が遠ざかる。僕は何も言えなかった。ただそれは、久々の再会で何ひとつ気の利いた言葉をかけられなかった、自分への罪悪感がそう思わせたのかもしれない。
コーヒーをもう一口。さっきより少し温度が下がった苦味が舌に広がる。
その瞬間、脳裏に一つの映像がよみがえった。
――夏祭りの帰り道。
僕らは河辺にいた。祭りの屋台で買った線香花火の袋を持ち、静かな水面を眺めていた。
「誰もいないね」
彼女がぽつりと言った。花火を取り出し、ライターで火をつける。小さな炎がゆっくりと光の粒を落としていく。
「こういうの、最後まで落とさずに残せたら、願い事が叶うって聞いたことある」
彼女はそう言って、線香花火を見つめていた。
僕は――何かを言った。でも、それが思い出せない。
次の瞬間、はじけるように火花が消えた。彼女が小さく息をのむのが聞こえた。
そのときの表情が、どうしても思い出せない。
僕はなぜ、この記憶を忘れていた?
心臓が妙な鼓動を打つ。
ふと、コーヒーの表面に映った自分の顔を見る。
そこにあるのは、どこか自分ではないような表情だった。
僕は気づかないふりをして、もう一度コーヒーを口に運んだ。
彼女が去ったあとも、僕はしばらく席を立てなかった。
コーヒーの苦味が舌に残る。
だけど、それ以上に、脳裏にこびりついて離れないものがあった。
なぜ、あの記憶を忘れていたのか?
河辺での線香花火。
彼女の静かな声。
夜の水面に映る微かな灯り。
でも、そのあとに続くはずの記憶が抜け落ちている。
いや、違う。
記憶はあるはずだ。
ただ、どこかに封じ込めてしまっている。
僕は思わず、手元のカップを見つめた。
その瞬間、決して閉じることのできなかった記憶の扉が、ゆっくりと開き始めるのを感じていた――。
(続く)