私の彼氏は。
城堀小学校は、児童数300人と少し、各学年2クラスで構成された小・中規模の学校だった。
校舎は北館と南館に別れており、その間には中庭が。南館のさらに南側には体育館や運動場が広がっている。
今は20分間の大きな休み時間ということもあり、窓から見える運動場には、多くの子どもたちが走り回っていた。
私は、南館の3階『音楽室』で窓を開けて、そこからのんびり見える景色を眺めていた。
「みんな、よく走ってるなぁ」
春終わりの暖かい風が、頬を掠めた。髪がふわりと膨らむ。
運動場で鬼ごっこをしている子ども達の、キャッキャという笑い声が心地いい。
「現実逃避してないで、掃除しないと」
今窓を開けているのだって、別に黄昏れるためではない。ゴールデンウィークの間に少し埃っぽくなった音楽室を掃除するために、換気のため開けたのだ。
「夏川先生ぇー!!」
校舎の下から声がする。
呼ばれた方を見ると、運動場で鬼ごっこをしていた低学年の男子児童が、上から眺めるこちらに気づいたようで、両手で目一杯体を使って手を振ってくれていた。
それに釣られて、周りで一緒に遊んでいた子達もこちらを見上げる。
「平和だねぇ」
私は彼らを無視するわけもなく、左手を窓に掛けながら、右の手を振り返した。
その時だ。
「あっ、夏川先生!失礼しまーす」
背後で私に呼びかける女の子の声が聞こえた。窓から目を離し、音楽室前にある扉に目を向ける。
そこにいたのは、扉から顔を覗かせる高学年の女子。2人いる。
「山畑さんに田中さん。3時間目の授業?」
チラリと掛けられている時計に目を向けると、時刻は10時25分を指していた。休み時間の終わりまでまだ10分以上ある。
「うん、ちょっと早めに来たんだ」
「次は5年2組の授業だから」
山畑さん、田中さんの順にそう答えて、2人は元気に音楽室に入ってきた。2人とも手には教科書とリコーダーを持っている。
「素晴らしい!さすが5年生だね!」
時間前行動、うん、素晴らしい。彼女たちのことは小学3年生の頃から音楽の授業で見てきたが、どんなことでも成長が感じられると嬉しくなる。
私は親指を立ててサムズアップをすると、2人に向けてグッと伸ばした。
そこで、せっかく早くに来たのだからと、1つ手伝いを申し込んだ。彼女たちなら、なんだかんだ受け入れてくれるだろう。
「そんな5年生の2人に先生から頼みがあります!」
私は両手を合わせて、2人に可愛らしく。それはもう可愛らしく。26歳ピチピチ女教師のウインクをかました。
「音楽室のお掃除、手伝ってくれない?」
それから、休み時間が終わるまで、私と子ども2人で音楽室の掃除をする。
「いやぁ、助かるよ、2人とも」
T字ほうきを使ってゴミを教室の後方に頭ながら、声をかける。
「もう、なんで私たちが」
水入りバケツから雑巾を取り出して、絞りながらそう文句を言うのは山畑さんだ。
彼女は雑巾を持って立ち上がると、教卓の上を丁寧に拭き始めた。
「まぁまぁ、どうせ暇なんだし」
山畑さんを宥めるのは、田中さんだ。彼女も雑巾片手に机の上を拭いて回ってくれていた。
「なんていい子たちなの!?先生、涙が……」
私は右手にほうきを持ったまま、大袈裟に涙を拭うフリをする。その中でチラッと彼女たちの方を見るが、どうやら相手にもしてくれないようだ。
2人は黙々と掃除を続ける。
「そうだ、先生、今日の授業は前の続きの『劇』をテレビで観るの?」
「劇、あぁ、シェイクスピアの喜劇……『お気に召すまま』ね」
そこで、ゴールデンウィークの前に、彼女らのクラスで余った授業の合間を使って、ウィリアム・シェイクスピアの作品『お気に召すまま』を観ていたことを思い出した。
お気に召すままという作品は、簡単に言えば恋愛劇だ。好きな男女が色々な試練を乗り越えて、最後には結ばれる、そんなハッピーエンドだ。
「うーん、途中で終わってたっけ?でも、授業進めなきゃだしなぁ」
難色を示す私に、山畑さんが噛みついた。
「えー!先生、でも気になるよ!最後どうなるの!?」
これにはそれまで静かに掃除をしていた田中さんも、興味をもったようで、手を止めてこちらを見ている。
「気になる?ネタバレになっちゃうよ」
それでも、彼女たちは譲る気がないようだ。
「観れないなら、せめて結末だけ!」
こうもねだられては仕方がない。本当なら興味をもったのなら自分で劇場に観に行くとか、本で調べてみるとかして欲しいが、今は何せ手伝ってもらっている身だ。そんなこと言えるはずもない。
「まぁ、『喜劇』なんだし、最後はハッピーエンドじゃないかな」
それとなくオブラートに包んだ言葉。実際『お気に召すまま』では、互いを想う者同士がみんなくっついて、最後これでもかというくらい幸せな幕引きをしている。
「恋は盲目って名言が出てくるんだよね」
田中さんが食い気味に言った。どうやら、彼女はこの手の恋愛的な話が好きらしい。女の子の定めだろうか。
「田中さんすごい!でも惜しいなぁ、『恋は盲目』っていうのは、同じシェイクスピアの作品でも、『ヴェニスの商人』で出てくる言葉なんだよ」
「へーじゃあさ、その、オキニのメス?オキニのママ?にはそんな名言ないの?」
「山畑さん、『お気に召すまま』ね!それは、ちょっと!アレだよ!」
慌てて訂正するが、山畑さんは己の言葉の不味さに気づいていないようで、何をそんなに慌てているの?と首を傾げている。
ちなみに、田中さんは横で顔を真っ赤にしていたから、ある程度分かっているのだろう。
とにかく、話を戻そうと私は言った。
「そうだなぁ、私が好きで、ある程度有名なセリフは、『恋ってのは、それはもう、ため息と涙でできたものですよ』ってシルヴィアスのセリフかな」
「何それ、何で好きな人がいてため息と涙が出るの?」
山畑さんのセリフに対して、田中さんは食い気味に答えた。
「恋ってね、簡単に『好き』だけで語れるようなもんじゃないんだよ!うまくいくまでに葛藤がたくさんあるものだし、うまくいってからも、思い通りにいくとは限らないしね」
「おぉ、田中さん、大人だなぁ」
小学5年生とは思えないほど、達観している田中さんの恋愛観に、私は思わず唸り声を上げる。
私はほうきを窓枠に立てかけると、そのままピアノのそばのバケツのもとまで歩いていった。
「解釈は人それぞれだけどね、私も同じような考えかな」
ピアノの横でかがむと、そこに置いていた水入りのバケツに手を突っ込んだ。
見えはしないが手探りで、濁った水の中から、自分で使う予定だった雑巾を1枚引っ張り出した。
水を吸った雑巾が、ポタポタと水滴を垂らす。
「さて、後は私がするから、2人とも掃除道具片付けだけお願いしていいかな」
2人が手伝ってくれたおかげで、気になるところはある程度綺麗になっている。後は自分が目についた気になるところをチョチョイと拭いたらそれでいいだろう。
すると、山畑さんはまだ納得がいかないようで、汚れた雑巾を片手に口を尖らせた。
「分かんないなぁ……じゃあ、大人な夏川先生はそんな恋してるってこと?」
「私!?」
急なフリに、私はバランスを崩して、そのまま立ち上がった。仰け反りながら、大きな声を出してしまう。
その拍子、私はピアノに腰をぶつけた。
ぶつけたところを中心にじわりと痛みが広がる。
パチャンッ!!
泣き面に蜂とはこのことだ。
ピアノにぶつかったことで、その上にあった何かがバケツの中に落ちた。
「「「あっ!!」」」
3人の声が重なる。
急いでしゃがんで、バケツに手を突っ込む。
薄い何かを掴む。嫌な予感がした。
とにかく急いで掴んだ物を持ち上げると、そこにあったのは音楽の教科書だ。
それも、指導者用、つまり自分のものだった。
「……」
水を目一杯に吸った教科書は少し膨らみ、まるで紅茶のティーパックのように、角のあたりから水滴をポタポタと垂れ流している。
「やっちゃったぁぁああ!!」
渾身の叫び声が音楽室に響く。
「あ〜ぁ」
「先生……」
子ども2人の哀れに満ちた声が聞こえる。
私はいつもこうだ。何をしてもうまくいかない。
すると、さっきの叫び声を聞きつけたのか、廊下の方から声がした。
「何だ今の声!?」
ぐにょぐにょになった教科書を指先でつまみながら、声のした方を見る。
「あっ、秋吉先生だ」
そこに立っていたのは、身長が180センチにとどくであろう高身長をした男の先生だった。
「あきと……し先生!」
危ない。思わず『あきとくん』呼びをしてしまいそうになった。
「あきとし?俺はあきよしだ」
知っている。彼の名前は、秋吉彰人。今は6年2組の担任をしている、私とは同期だった。
そして彼は、『同僚』であると共に、この私、夏川菜月の『彼氏』でもある。
つまり、私の恋人である。
もちろん、このことは子どもたちは知らない。
「また夏川先生がやらかしたのか……」
彼はどうしようもないなと頭を掻きながら、廊下からジト目を送りつけてくる。
「はははっ、見ての通りでございます。はい」
「笑い事じゃないだろ。ヘラヘラするな」
「はい……」
怒られてしまった。
これには、子どもたち2人も苦笑いだ。
彼との関係は、大体2ヶ月くらい前からのことだった。昨年度の3学期の終わり、恥ずかしながら私の方から告白をして、無事結ばれたのだ。
あの時の胸の高鳴りと、高揚感はもう失われてしまったけれど、落ち着いてきた今は、学生の頃とは違った大人な恋人関係が心地よかった。
「ほら、職員室の扇風機で乾かしといてやるから」
そう言って、彼はこちらに向けて手を差し出した。
「は、はいぃ……ありがとうございます」
彼は普段通りの口調で話してくるが、子どもたちの前でタメ口で話すのはどうも抵抗があり、敬語で返す。
その後、私から教科書を受け取ると、彰人君はそのまま去って行ってしまった。
「秋吉先生、かっこいい〜」
山畑さんがそう言うと顔を赤らめた。憧れの的とは彼のような存在を言うのだろう。
「ね!ちょいワルそうなのがギャップあっていいよね!」
普段は真面目で寡黙な田中さんが達者に喋る。
「分かる!分かるよ、田中さん!」と、同意したくなるが、ここはグッと堪える。
しかし、補足したい。彰人君の好きなところは、ギャップだけではない。彼は、こんな不器用な私にも優しいのだ。以前、仕事中にトラブルがあったとき、それに寄り添ってくれたのが彼だった。
それから意識するようになって、私からアプローチしたわけだ。
私は、雑巾を拾うとギュッと絞った。
トラブルがあったせいで、授業までそれほど時間がない。
「じゃあ、あと雑巾とバケツは先生が片付けるから、2人は休んでて」
「「はーい」」
それから、私は使用済みの雑巾を窓に引っ掛かけて、水の入ったバケツを持ち上げた。
バケツの水が跳ねないように気をつけながら、慎重にトイレまで歩く。
「よい、しょっと」
トイレまで着いた私は、バケツの底を持ち上げて、排水溝から水を流す。勢いよく流れている水を見ながら、ふとため息が漏れた。
「はぁ……また、彰人君に嫌われたかな」
ドジばっかりする彼女に愛想を尽かされたかもしれない。
『また』というのも、実はどうも、最近彼に避けられている気がするのだ。学校ではもちろんほぼ毎日会うが、週末、こちらが会おうと提案しても、なんだかんだ言い訳をつけて会えていない。
最近あった大型の休み、ゴールデンウィークの間、彼とは一度も会えていない。
「体調不良だっけ……次の日、普通に学校、来てたのに」
そう言って、すぐに首を横に振った。正面を見ると、目が赤くなった鏡の自分と目が合った。
自分のダメなところだ。彰人を疑ってかかってしまう。
「恋ってのは、それはもう、ため息と涙でできたものですよ……か」
さっき、2人に言った言葉を思い出す。
「恋……か」
私は今年で27歳になる。これは、彰人と同じだ。恋なんて、大学で終わりだと思っていた。
この歳にもなれば、もう見据えるものがある。
「はぁ……」
色々考えて、もう一度大きなため息が出た。
そこでチャイムがなる。
「授業、いかなきゃ」
子どもの前でこんなみっともない姿見せられない。私はバケツを持ったまま、服の肩のあたりで涙を拭った。
目をぎゅっと閉めて、また開く。
「よし!行こう」
5年2組の授業が始まる。
ちなみに、教科書は山畑さんが貸してくれた。