僕の好きな人は。
窓を開ければ心地の良い柔らかな風が薫る5月、昼下がりの教室。
授業中であるにも関わらず、気を抜けば意識がどこか遠くに飛んでいってしまいそうな、ゆったりとした時間がそこには流れていた。
「……ぁっ」
1人の男の子がついに堪えきれなくなったのか、目をギュッとつむると共に、口を大きく開けて欠伸をした。
満足いくまで欠伸をしたのか、目尻に涙を浮かべている。
「ははっ、みんな眠そうだね」
それを見た教師の僕は思わず笑ってしまった。
僕の仕事は『小学校教諭』だ。
つまり僕は今、先生として、子どもたちの前に立っていた。
片手には「5年生国語(上)」と書かれた教科書を、もう片方の手には、白のチョークを持っている。
すると、教室の右側、後ろ端に座る背の高い女の子が座ったまま口を尖らせた。
「ご飯食べた後って、どうしても眠くなるんだよねぇ」
「分かる!特に、休み明けだとヤバいよね」
すぐに隣の児童から同意の声があがる。
見渡して他の子の様子を見ると、愛想笑いを浮かべながら頷く子や、この隙にとばかりに、両手を上にグッと伸ばして背伸びする子、首を上下に振りながら今も1人で睡魔と戦う子が目に入った。
授業をこのまま無理に進めても、子どもたちのためにならないと判断する。
「まぁ、ゴールデンウィーク明けだしね。ちょとだけ余談でも」
教科書を閉じて教卓にコトンと置くと、チョークを持った右手を黒板に向けて掲げた。
静かな教室にカッカッと甲高い音が響く。
文字を書き終えチョークを置くと、手をはたいて粉を落としながら、子どもたちを見た。
「これ、今日の国語にも出てきた夏目漱石の言葉なんだけど、読めるかな」
こういった学習内容外の与太話が好きな子どもたちが、先程よりも興味を持った様子で前を見てくる。そのうちの1人がボソッと呟いた。
「月が……綺麗ですね?で合ってるよね」
その通りだった。授業内容が途中で中断され、黒板には、他の文書とは少し間を空けて、『月が綺麗ですね』と縦書きで書かれていた。
「合ってるよ。じゃあ、次の質問。これは夏目漱石が『ある英文を日本語に訳したときのもの』なんだけど、なんて英文を訳したものがわかるかな」
少し難易度の高い質問。しかし、5年生にもなればある程度英語のできる児童も増えてくる。
自然と近くの席の子と話す子が現れ、ちらほらと手が挙がった。
「じゃあ、瀬川君」
最前列の先ほど大きな欠伸をしていた少年が立ち上がる。彼は自信満々に答えた。
「むーん いず びゅーてぃふる!!」
「なるほど、確かにMoon is beautifulは日本語にすると、月が綺麗ですねになるね」
子どもが答えるであろうと、思った通りの解答だった。
そもそも、これは元ネタを知っていなければ、よほどの文豪でもない限り、分からないだろう。
「でもね、夏目漱石は違ったんだ」
またチョークを右手の親指と人差し指でつまむと、黒板に『I love you』と書く。
すると、クラスの中で複数の児童が黄色い声を上げた。
「先生、何書いてるの!?」
今まで眠そうにしていた子たちも、『恋愛トーク』という大好物なネタに惹かれて、目を爛々と輝かせる。
「まぁ落ち着いて、夏目漱石はね、この『I love you』を訳すのに、『私、貴方を、愛す』じゃなくて、『月が綺麗ですね』と言ったんだ」
その繋がりに納得できない子が首を横に捻る。
「なんで?全然違うじゃん」
「まぁそうなんだけどさ、それでも伝わるのが日本語の趣き……奥ゆかしさってわけだよ」
意味が分かっているのか分かっていないのか、子どもたちは黒板に書かれた二つの文章を見ていた。
そこで、少し難しかったかと、話題を変える。
「なら、恋、繋がりね。彼は『草枕』という作品で、こんなことを言ってるんだ。『嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ』意味わかるかな?」
失敗した。首を傾げる子どもたちの数が増えてしまった。ここはすかさず説明を入れる。
「えっとね、要は、恋をすると、恋をしなかった頃が恋しくなるよねってこと。まぁ、解釈は人それぞれなんだけど」
すると、しばらく考えた後で、先ほど眠気についてぼやいていた山畑という背の高い少女が、尋ねてきた。
「……??意味分かんない。恋してる方がいんじゃないの?」
それを聞いて、同調するように、ウンウンと頷く児童がいる。
子どもの純粋な質問。その子の言うことに間違いはない。
恋とはいいものだ。
恋は人を美しくする。
恋は人を楽しくする。
恋は人を努力させる。
恋は人を成長させる。
恋は人を強くさせる。
恋は人を充実させる。
恋は人を心で支える。
恋は人を健気にする。
恋は人を陽気にする。
恋は人を元気にする。
だから、恋はいいものだ。
しかし自分は大人だ。だから知っている。その素敵さ以上の残酷さを。
恋の儚さを。
恋の苦さを。
恋の愚かさを。
そして、恋は、やめたくても、自分だけの力では終わらせられないことを。
でもだからって、未来ある若者にそんな暗い話はしない。これから青春真っ只中を迎える彼ら彼女らに、そんな情報は必要ない。
自分で経験し、自分で気づいていけば良いのだ。
胸の内を悟られないように、なるべく笑顔で。
「そうだね。うん、その通りだ。恋はいいよ!君たちもいっぱい恋しなね」
自分の言葉に、子どもたちは照れたように顔を伏せてしまった。5年生ともなれば、好きな子の1人や2人いて当然だろう。
彼らは、今誰を思い浮かべているのだろうか。
キーンコーン……
そんなことをしているうちに、チャイムがなった。
結果的に今日の授業ではほとんど学習内容を進めることができなかった……授業計画を改めて考える必要があるかもしれない。
「ま、今日の授業はこれまで、終わりの会して帰ろうか」
かくして、30分もしないうちに、学校中の子どもたちは皆下駄箱から出てしまい、校舎に静かさが訪れた。
最近改修工事を終えた校門前。
昔からそこにある桜の木はもう新緑に染まっており、今年も夏の訪れを感じさせた。
「さようなら、気をつけて帰ってね」
「はーい!春咲先生、さようなら」
「はい、さようなら」
門をくぐる最後の児童に手を振った。
春咲 遥太それが、僕の名前だ。
25歳、男、独身。1学年2クラスの中規模校、市立城堀小学校勤務で、社会人4年目のペーペーだ。今年は5年2組の子どもたちを担任している。
中肉中背。視力が低く、眼鏡をかけている。
身長は170cmと言い張っているが、実は169cmで1cm足りていない。これは、トップシークレットだ。
あと特徴があるとすれば、癖っ毛だろうか。若干の天然パーマがかかっており、雨の日なんかは頭の上がクルンクルンと渦を巻いている。
そんな僕は今、この歳で『恋』をしている。
子どもたちを帰した後は、職員室に戻ってすべき仕事が山積みだ。そう思って足を進めると、向こうから走ってくる先生が1人。
「春咲先生ぇ〜もうみんな帰っちゃった!?」
「夏川先生?はい、ちょうどさっき」
校舎から走ってきた彼女の名前は、夏川菜月先生。普段は中学年から高学年にかけての音楽の授業を担当している。
よほど急いで来たのか、彼女は両手を膝に当てて、肩で息をしていた。栗色の柔らかそうなショートの髪が、その動きにつられて上下に動く。
「そんな慌ててどうしたんです?」
すると、彼女は左手は膝に手をついたまま、右手に持った何かを上に掲げた。
「教科書!山畑さんに、授業の時に借りてて、返すの忘れてたの……」
「えっと……先生が、子どもから借りてたんですか?」
「……」
夏川先生は気まずそうに目線を逸らした。汗とともに、乾いた笑いが浮かぶ。
「いやいや、違うよ!?まさか、職員室に教科書を置きっぱなしにしてた……なんてことはないんだよ」
「じゃあ、何で山畑に?」
「いやぁ、それが掃除してたら、教科書を掃除用バケツに突っ込んじゃってさ!まさに、ブックブックだね!」
そうおどけながら、夏川先生は大きくのけぞると、子どもから借りた教科書で自分の頭をポンッと叩いた。
しばらく黙っていると、間に耐えられなくなったのか、夏川先生が苦笑いを浮かべた。
「……いや、そう黙られると恥ずかしんですが、春咲先生」
「えっ、ああ、なるほど、本が沈む様子をブックとかけたんですね!」
なるほど、これは中々に上手い。さすがは夏川先生だと感心する。
「冷静な分析、ありがたき幸せ」
夏川先生は敬礼をしながら、綺麗な歯を覗かせて笑った。それから、彼女はクルッと半回転した。長いスカートが空気を含んで、ひらりと揺れる。
「じゃ、私はこれで!これは明日返すかな〜」
それから彼女は、小さな声で鼻歌を歌いながら、校舎へと戻って行った。きっと、彼女は僕に聞こえてないと思っているのだろう。
去っていく夏川先生を、僕は立ったままぼんやりと眺める。すると、ふと言葉が漏れた。
「月が、綺麗ですね」
それは、先ほど授業で触れた言葉。
もちろん、月なんて一切出ていない。太陽が、まだ己の時間だと豪語するように、ジリジリと頭の上で照りつけている。
「なんだかなぁ」
僕よりも小さな華奢な体。
リズムに乗って揺れる、彼女が手に持った音楽の教科書。
彼女が遠くなるにつれて、遊園地を出る時のような喪失感に見舞われる。
彼女は、音楽教師だった。
いつも明るくて元気な先生。多少天然なところもあるけれど、むしろそこがチャームポイントになっていた。
とっつきやすくて、面白くて、優しい先生。
彼女は教員だけでなく保護者、もちろん子どもからも大人気だった。
恥ずかしながら自分自身も、そんな彼女の虜になっていた。
そう、端的に。
僕には好きな人がいる。
好きな人の名前は、夏川 菜月。
同僚の先輩教師だ。
そして、その恋は叶わぬものだった。
理由は簡単。
僕の好きな人には彼氏がいる。