星に願わず
『おかあさんにおこられませんように』
数秒後、破壊的な字でぐりぐりと書かれた願い事のすぐわきに、綺麗な手書き風のフォントで言葉が浮かび上がった。
『おかあさんにおこられないためには、おかあさんをおこらせないようにしましょう。くつをぬいだらきちんとそろえましょう。はやくねてはやくおきましょう。げーむをやめなさいといわれたら、ごふんいないにやめましょう。きらいなやさいもちゃんとたべましょう。ごはんをたべたらかならずはをみがきましょう。そうすればあなたのねがいごとはかないます』
むー、と唇をとんがらせて鉛筆を握りしめる男の子の背後で、うんうんと頷く母親の姿があった。
一般人にとって七夕というのは欲しいプレゼントが手に入りますようにとか、将来こうなりたいといった願い事を書いた短冊を七月七日前後に飾り立てた笹に吊すだけのものだ。いや、かつてはそうだった。とあるデジタルイベントディレクターが閃くまでは。
実現してほしい未来のかたち、人生をこのようにしたいという欲求を短冊に書いただけでかなうわけがもちろん、ない。
だからこそ『かならず願い事がかなう短冊の色選び』『書き方のコツ』、『願い事が実現するおまじない』といったプロトコルが自然発生し伝播する。願い事の実現可能性を上げる対価に、手順を少々込み入ったものにするという形で。
しかし、『宝くじにあたりますように』という願い事を『半年後までに10万円あてる』というように、目的や達成までの期間をより具体的に明示したり、『自分に対する意思表示や誓約』という形で書くだけでどうにかなるという考えは、他力本願を自助努力の殻で覆っているだけだ。
ならば、ビッグデータとの組み合わせによって、願い事達成までのスモールステップをAIに設定・呈示させたらどうだろうか?
小目標を達成し続けることで大目標を達成するゲーム要素を取り込んだら、楽しんで願い事達成につなげることができないだろうか。
その発想に基づいて企画された電子七夕イベントは、巨大モニターにそよぐ笹へスキャニングした短冊データが張り込まれると、回答が付記されるというものだった。個人端末に取り込むことで、一年間はずっと願い事を目にすることができ、スモールステップを達成するたびにチェックがつけられる。すべてのチェックが埋まった短冊はキラキラと輝き砕け、金銀砂子の星となり、協賛企業のポイントとして使うことができる。
イベントディレクターの狙いは当たり、電子七夕イベントの会場はどこも大盛況になった。『けんきゅうしゃになりたい』とか『がっこうのせんせいになりたい』『ぱてぃしえになりたい』という願い事を書いた子どもたちは、それぞれ『べんきょうをがんばりましょう』『おうちでりょうりをおてつだいすることからはじめましょう』といった努力目標をきらきらした目で受け入れていた。
だが、まあ、さすがに『かっこいいカブトムシになりたい』という願い事はどうしようもない。『種が異なる以上不可能です』と返されて大泣きする幼稚園児がいたが、それはそれで微笑ましい情景であったろう。
しかし、そこに飛びついたのはさらなる府省再編の中、生き残りの一手として少子化対策を掲げ『適性と動因の連動支援事業』を打ち出した労働産業省だった。
好きこそものの上手なれ、という格言は下手の横好きという言葉で相殺されてしまう。適性と明後日方向に努力し続けていても物にはならない。好きなものとなりやすいものは違うのだ。
ならば適性の有無を早期から判定し、将来への展望を具体的に与えればいい。進路と適性の一致は重要だ。やる気が加わればなおのこと。
少子化が進めば進むほどより効率的な人材育成が求められている以上、人材育成という観点からの少子化対策が有効であると評価されれば、さらなる府省の分割統合で消えることはないはずだ。そう考えた彼らは電子七夕イベントで使われた技術を基盤に『Hope:Resプロジェクト』と銘打った事業に着手した。
『サッカーせんしゅになって、ワールドカップでかつやくしたい』
ディスプレイの短冊にぐりぐりと書き込まれた文字を緊張して見つめる男の子の目の前で、短冊の幅が広がり、さらに読みやすいフォントで文章が浮かび上がっていく。
『現在のワールドカップ出場選手最年少記録は16才8ヶ月です。ワールドカップ優勝チームの平均敏捷性スコアは932ポイント、平均筋力スコアは634ポイント、動体視力は…、判断力は…、反射神経は…。6才2ヶ月の現在のあなたの敏捷性スコアは124ポイント、筋力スコアは51ポイント、動体視力は…、判断力は…、反射神経は…。去年からの一年間で総合身体能力スコアが21ポイント伸びています。すばらしい。これからも練習に励みましょう。あと10年6ヶ月で各スコアを目標値まで上げるには、トレーニングメニュー208091328を毎日続けることが必要です。そうすれば、あなたの願い事はかなうでしょう』
やったっ!とガッツポーズをする男の子の周りには、笑顔で見守る両親や祖父母の姿があり、それをVRで共有する曾祖父母の姿があった。
電子短冊は選んだ色、形、筆跡、願い事すべてがデータ化されている。色彩心理学の応用によりどれだけの熱意をもって願われたことなのか、筆跡からは性格や精神年齢などを読み取り、書いた人間の氏名や年齢、性別などの個人情報と紐付ける。
呈示される内容は、目標の具体化と対策である。トレーニングメニューは、性別や生育歴、体力などの各種チェック項目別に細分化し組み上げられたものだ。筋力や敏捷性の個人差、成長過程を数値化したものがフィードバックされることにより最適な運動負荷が与えられるメニューが選出される。
加えて負傷や病気などのアクシデントにも即時対応できるよう、リハビリまでの手順も含み込まれている。これらは逐次ビッグデータ化されてスポーツ生理学やコーチング分野の発展に貢献しているが、その成果は再度利用者へトレーニングメニューの改良という形で利益が還元されるのでWin-Winの関係と言えるだろう。
そして最後にトレーニングメニューの達成率が下がっていれば指摘し、上昇していれば褒め、継続して努力を促す文言が組み込まれる。
単純すぎるアルゴリズムによるレスポンスだが、これが意外なほど効果があった。ほとんどの願い事が数年間にわたり成長による変化を加味しても連続性のあるものになっていたという調査結果が出たのだ。
達成率が高水準で推移していたこともある。
やればできる、努力すれば望みがかなうと思えば、飽きっぽい子どもでもある程度は勤勉になるものなのだ。
この効果に保護者層が目の色を変えた。
自分の子どもの願い事がかなうようなら後押しも喜んでしてやりたい。
しかし、モノにならないのなら早く止めさせて別の道を歩いてほしい。
教育は投資でもある。それ相応の生産性が見込めなければ躊躇もするし、我が子にあやまった人生を送らせたくないという親心もある。
しかし、それ以上に彼らを突き動かしていたのは自分自身が自信ある人生を送りたいという願いだった。
意図的であろうがなかろうが、親は果たせなかった自身の夢を子に投影してしまうものだ。それはより正しい人生を、まっとうに生きていることを、今の自分は間違ってはいないのだと誰かに保証してほしいという無意識の動因となった。
少なくとも子どもがひきこもりになってしまうような、自分の子育てが失敗だとはっきりしてしまう事態だけは絶対に避けたい。
つまるところ、誰もが育児というほぼ初体験の、しかも長期間にわたる生涯イベントに絶対の自信など持ってはおらず、だからこそ不安を抑えてくれるような提案を欲しがっていたのだ。
しかしながら、助言を与えてもらったからといって借りを作るような人間関係も築きたくはない。
この複雑な心理が父母や義父母、ママ友といった人間ではなく、AIという、利用に見返りも求めず、助けを乞うても呵責も感じずにすむ助言者にすがる行動に走らせたのだろう。
この目的の変質は様々な想定外の事態をもたらした。
一つ目がレスポンスエラーの多発である。
『しあわせになりたい』
『願い事が曖昧です。今のあなたにとっての幸せとはなんですか。別の言葉で幸せの定義を明記してください』
「ねえ、お父さん。しあわせって、なに?」
「し、質問が哲学的すぎて困っちゃうな……。えーと、お父さんの幸せはみんな元気で仲良くいられることかな?」
『おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃんが健康で長生きしますように。おとうとができますように』
『そのために今あなたができることはありません』
電子短冊の前で呼吸もうまくできないほど大泣きしている子どもを見つけたのは、残業から帰ってきた母親だった。
将来の夢や進路に関する回答のバリエーションが増えたが、自助努力だけではなんともならない願い事への回答不備はなかなか解消せず、やがてエンドユーザにも一定の理解と学習がゆきわたった。
願い事に『今すぐ』といった明らかに達成困難な表現や使われなくなり、幸運が願われなくなっていったのはそのためである。
次の想定外の事態は、使用年齢層が上昇し始めたことだった。それも自発的にだ。中高生までも自分が書きたいから書くようになったのだ。
彼らにとってみれば、従来の適性検査よりも自分の性格や長所、特性を客観的に評価してくれる上、懇切丁寧に対策まで教えてくれるのだ。ぼんやりした夢を具現化し実現できるものにするのに利用しない手はない。これまで人間がしてきた仕事のほとんどがAIに代替できるようになった以上、AIの動作用端末を導入するよりも低コストの人件費で安く使われる人間になるか、AIを活用する人間になるかのどちらかしかないのだから。
『お医者さんになって、たくさんの人を病気から救いたい』
『医師になるには大学医学部に入り、6年間医学及び医療倫理を学び卒業したのち、医師免許を取得、さらにAI専門医とのカンファレンスを含む医療現場での実地研修を行う必要があります。大学医学部に入部するためには理数系科目の成績を偏差値65以上を取得し、大学入試期間終了まで維持し続けることが前提となります。学習スタイルを現在のものからMDR329053へ変更しましょう。そうすれば、あなたの願い事は実現しやすくなります。
一方、医学部のある大学へ今のあなたの住所から通うことは難しいので、寮生活か一人暮らしをしなければなりません。また、生活費を除いた学費だけでも国立大学の場合350万~400万、私立大学は2000万から4000万以上となります。
今のあなたが利用できる奨学金制度は9つあります。そのうち成績優秀者ならば返済金額が最大半額になるものは5つあります。僻地勤務命令受諾者には学費免除などの制度を設けている大学は全国に16校あります。これらの制度を活用することで、より無理なくあなたの願い事をかなえることができるでしょう』
眉を顰めた女の子は、短冊が紙ベースだったら問答無用で穴が開きそうなほどに電子短冊に意味の無い渦巻きを書いていた。
先輩から聞いていたとおり、電子短冊は実現したい目的のために『何が必要か』は答えてくれるが、『どのような障害があるか』には触れない。たとえば大学生の自殺率は医学部生が最も多いこととか、医師免許を取得して実際の臨床研修に入った後でも性差バイアスが激しい職種だってこととか。
もっと重要な、AIのサポートは知識とその応用を底上げしてくれているが、結果として人間は責任を取るために存在しているとみなされるようになりつつあることもだ。
しかしその唇はほころんでいた。
「大変なんだけど、可能性はある。お金もなんとかなる。だったら、しっかり頑張ろう」
利用目的の変質と並行して、電子短冊に反映されるビッグデータも、学資など当人の適性以外の達成条件に高い比重が与えられるよう変化していた。願い事達成をサポートするためには必要なことだった。
反面、選択した進路への適性が高ければ高いほど学費や奨学金返還金などの免除率は高くなり、適性が低ければ免除率も低くなるよう、奨学金貸与条件の設定も見直された。
これはなるべく適性の高い職種に就くためには必要なことなのだ。そのためにも学習は効率よく行われねばならぬ。
希望される進路を割り出し確定するために有用であると検証された電子短冊は、どんどんと活用の幅を広げた。自分が志望するより進路よりも、適性から望まれる進路を選べば食いはぐれることはない。
どの大学の学部に入るかを悩むことはあっても、卒業後内定取れますように、という願い事はなくなった。これも『Hope:Resプロジェクト』の波及効果である。
人の適性も能力は、努力や熱意によって刻々と変化することが確認された。ならば、より適性の高い職種により柔軟に転属できる方が旧来の職種固定制度よりもはるかに経済効率がいい。
一年ごとに集積されたデータをもとにした契約更改制が一般化し正規非正規の壁が低くなりつつあったこと、人件費の最適化を求めて副業を公認する企業が増加したこと、労働時間差別完全禁止基本法案が施行され、ワークシェアリングやパートタイム労働が一般化したことも人材配置の最適化を進めた要因となった。
契約更改制による短期間労働により妊娠出産が減るのではという予測は外れ、育児休暇取得による更改凍結を狙ってか逆に急増した。
自分の子どもが欲しい織姫たちは、天の川どころかルビコン川すら素足で渡る。婚姻制度に縛られることなく出産を選択する女性が増え、福利厚生サービスは婚外児にも同等に適用されるようになった。倫理観の乱れにぶつぶついう男性もいないわけではなかったが、なに、そんな人間ほど妊娠させた責任も取らずワンオペ育児解消に取り組むわけでもないのだ。イメージ戦略上も企業が対策を講じないわけにはいかない。
今や電子短冊は外国人労働者も含めた国内全ての人間に生涯継続して使用されるものとなっていた。『TANZAKUシステム』へと名称が変更され、目的はさらに変質した。有能な人材は単なる労働力ではなく人間である以上、その人物像把握を把握することは雇用側にも重要であり、被雇用者には自身の人間性を担保してくれる資料となったのだ。
結果として、外国人や職種へのバイアス軽減と終身雇用制の完全消滅はサービス業に対する理不尽なクレーマーをも消滅させた。
誰でも現在の立場以外に立つ可能性がある。
他者は自分であったかもしれない。
そう思えば自然と自分の言動を顧みる。
神様のような高みに客という立場を設定しても、それが支えるもののないガラスの床とあっては、これまでのように何も考えずにふんぞり返ったふるまいはできない。
『来年度も今の職場で契約が継続されますように』
祈るようなまなざしの前にコメントが綴られる。
『現在のあなたの勤労スコアは59ポイントです。後半年で31ポイント以上の伸長が必要です。頑張りましょう。また、あなたの能力および適性は事務系、IT、法務系に適切です』
「ああああああ~っ、俺は営業職一本でやってきたってのに!」
がしがしと頭をかきむしった男性は、がっくりとうなだれた。
婚活でも彼らはまたもやTANZAKUを頼みにした。
何度も発生した大手メディアの個人情報漏洩や消費者情報教育の浸透により、自発的な情報公開の場であるSNSには発信者が意図的に限定し加工されきった情報しか集まらない。
それに対し、TANZAKUシステムの保有する各個人の消費行動傾向から嗜好、性格分析データの精度は質量ともに充実していた。なにせ個々人の本心から実現を希求する願い事である。それはプライベートな願いであるほど顕著であった。
『いい人がほしい』
『いい人の定義が曖昧です。また人は物ではありません。ほしがるだけでは人間関係を築くことはできません。いい人をすぐれた人格を持つ人物と仮定義するならば、そのような人物とまず知り合いになるには、あなたの人格スコアを34ポイント上昇する必要があります。行動パターンをHT9N18fに変更しましょう。出会いを求めるなら、最寄りのスポットは…です』
むー、と口を尖らせていたジャージ姿の女性は、手早く情報を携帯端末に移すと服を選び始めた。達成条件が多いほど願いは叶うのだから。
デートスポットに提案されるのは、これまでのように夜景が美しいといったシチュエーションが安定して存在する場所ではなく、個々人の趣味嗜好のすりあわせを行うための場所となった。
新しいスポットが呈示されるたびにカップルが密集する空間があちこちに誕生し、当然のことながら既存の利用者の中にはカップルで充満する空間に耐えきれなくなる人間もいた。
『もげろ』
『他人を羨むよりも、あなた自身がもてるように努力しましょう。行動パターンをHT8MSに変更しましょう。髪型や服装を工夫するだけで清潔感が生まれます』
理不尽な恨みつらみをため込む前に、願い事というかたちで発散させることもTANZAKUには求められるようになっていた。凶悪犯罪になる前に歯止めをかける心のセーフィティネットとしての機能が高まれば、ソフトターゲットとなりやすい市街地での無差別殺傷事件の発生率の低下が期待されたからだ。
同時に選ぶ短冊の色や表記内容から犯罪の実行危険性を予測し、警告を表示することで煮詰まった人間への抑止力も期待されるようになった。
『みんないなくなってしまえ』
『あなたの周囲から人がいなくなるには、あなたが人から遠ざかるのが最も簡単な方法です。破滅的性向を記録しました』
ひきつった顔は幼かった。
契約更改制が一般化すると、同じ事しかできなくなること、評価が固まることを嫌って複数回転職をするのが当たり前になった。
結果として人生モデルは失われた。これまでどう生きるかを決定する絞り込み条件は個人の適性にあった。適性の高い仕事であれば多少の不利はあっても成果が出るのだからと、それに向けて目的意識が醸成されていた。
しかし、30代から50代にかけて、適性が低いものへの再チャレンジをする人間が増えていった。よりよく生きることはできることをして社会的評価を高めることではなく、自分のしたいことができるかどうかという嗜好の問題だと彼らは口を揃えるように言った。
よくあるのが趣味を本業にしたいというものだ。これまでの副職その他で稼いだ金を元手に、勢いよく人生のセカンドステージに進み出た彼らが頼ったのもまた、TANZAKUシステムであった。
『喫茶店が繁盛しますように』
『コーヒー豆の種類を揃えることも大切ですが、まずは店の清掃に力をいれましょう。トイレの汚い店舗はリターン率が下がります。また立地条件的に利用者は女性に偏ります。広告ターゲットをF1に絞り、コーヒーの飲めない顧客も取りこむために、ビジュアルの美しいスイーツやジュース類のメニューを豊富にしましょう』
「豆だけじゃなく焙煎にだってこだわってるのに……。ただ俺のこの味に共感してくれるお客さんが増えてほしいだけなのになあ……。掃除も甘いもんも俺は嫌いなんだよぉ……」
バリスタエプロンの男性が、がっくりとうなだれた。
『おいしい桃が作れるようになりますように』
農家になることを夢見て農業学校に通う女性がTANZAKUを書く。
『あなたの希望する大きさの敷地内で果樹栽培を行うには約2000万の初期費用が必要です。また果樹園は果樹が育つまで数年間は赤字になる傾向がみられます。後継者不足の地域では、安く農地を貸してくれたり、ノウハウを提供してくれたりという助力は期待できますが、天候不順リスクには要注意です。高温や多雨に強い品種を選びましょう。加えて果樹の成熟を待つまで農業民宿を開くことを提案します。あなたのように農業に関心のある人を呼び込むメリットを説明することで、自治体から支援金を獲得できるかもしれません。参考サイトは……、また相互支援者をコネで呼び集める際には最初の意識すりあわせが重要です。人間関係のトラブルに発展してしまうと事業から撤退する必要も生じます』
「うーん……最初はもっと小規模からっていうと……。お父さんたちを呼び寄せるのはやっぱり無理か」
伝統芸能や農業など後継者不足に悩む分野についての願い事には、有益な情報も付加されるのだが、それでもなり手は少なかった。
『今年こそ○○○賞取りたい』
『昨年の応募総数は一億を超えます。もう少し筆力を磨きましょう』
「はいはいどーせ描写だって下手だし人物描写は記号にしか見えないって酷評されてますよーと」
ぶつぶつ言いながら男性はさらにコメントを読んでゆく。
『今回の公表審査員エイ氏が好む文体は簡潔な短文です』
「へー。まあ参考程度だな、これは」
どんな文学賞でも、ちょっと目端の利いた応募者なら、たいてい過去の受賞作から傾向分析を行い対策を考える。だが主催者側も、もちろん対策の対策を行っている。
公表審査員は話題性を目的にその存在をオープンにされた審査員のことだ。作家、芸能人などが任命される。しかし審査にはAIを含めその数倍の審査員が加わっているのだ。
『著述用人工知能完全作成作品は応募総数の半数を、作成支援作品は四分の一を超えます。また、AI不使用で個人による完全作成作品の受賞作は減少傾向にあります。より賞金が多い賞や取得しやすい賞も増えていますので、方向性を変えて、そちらに応募することを検討してはいかがでしょうか』
「ふざけんなーっ!俺は、○○○が好きだから十年以上落ちまくろうと応募し続けてるんだ、好きとかやる気とかを感じないAIに負けてたまるかーっ!」
男は机を叩いて吼えた。悔しさも負けん気もAIは持つことができない。動因の強さこそ、どんなにAIが発達しようと、唯一人間が負けないものになるのだろうか。
人生の巻き返しを諦めた中高年からは、願い事を問い続けられることが苦痛だという声も上がった。
無数の願い事には確かに星の数ほども達成可能性が示される。ただし星と星との間には天文学的な距離があるのだ。彦星と織姫の間にも15光年の距離があるように。
しかし、努力を投げ出す人間はごく僅かだった。確かに能力伸長可能性は頭打ちになる年代であるが、すでに何度も願い事を叶えてきたという達成経験が彼らにはあった。ならば適性や環境条件の有意差はあれ願い事が叶うのが当然ではないか。
そしてTANZAKUの願い事達成条件も、いつのまにかAIの保有しない数少ない要素、動因の強さを、適性より上位に設定変更していた。資金の多寡などは熱意の前に問題にはならなかった。
記憶は常に上書きされ、新たな願いと欲望を生み、生じた途端叶うように技術はまた発展する。
人生はどんどん思い通りに運ぶようになり、それは人が憧れと表裏一体の恨みを持つことの苦しさを漠然としか認識できないほど当たり前になっていった。
「ガンボサーん、短冊をお持ちしマシたー」
母国語のアクセントが残る介護士の笑顔に、老人はベッドの上でやつれた顔をほころばせた。
「サあ、今年ノ願い事を書きましょネー」
震える手に握らされた電子ペンは、だがしっかりと書き記した。
『ない』
真顔になった介護士が人間の看護師とAI医師を呼び、AI医師から連絡を受けた人間の医師は真剣な表情で老人を見つめた。
「本当に、願い事は『ない』のですね」
「はい。わたしは充分生きました。子どもにも恵まれ、したいこともやりつくし、欲しいもんもない、なりたいと思っていた職業にもつけ、この年まで生きた。これ以上病状が好転する見込みもなく、苦痛は多い。だから、願い事はない。強いて言えば楽になりたい。過去に遺書も尊厳死意思表示証も作成しとります。法的な問題もありません」
「わかりました。それでは」
てきぱきと尊厳死装置を取り付けたAI医師がコントローラを老人の手に握らせると、老人は笑顔でスイッチを押した。
人生120年時代において、短冊に願い事が『ない』と書くことが尊厳死条件に加えられたのは、それがただしく人生をやりきったという決断を示すものであり、最後の人生決定の表明だと見なされるようになったからだった。
「ああ、人生の最後に一番いい願い事をした……」
老人は笑顔で目を閉じた。
しかし、こうもトントン拍子では、人生というモノもやや物足りなくはある。何かもうちょっと達成感のある人生が送れなかったものだろうか。山あり谷あり、スリルとどん底から這い上がる悦びはきっと比べようもないものだったろうに……。
TANZAKUシステムサービス終了の日、一つの受精卵が人工子宮に着床した。
これはとある賞に応募し、最終選考までいった作品です。
講評では「ひと味足りない(意訳)」と言われて悶絶。
そのひと味が難しいんだよなあ……!
七夕がテーマということで、没の中から引っ張り出してきました。