端から
端っこで蹲る。持久走大会当日、私はコース半ばで倒れた。冬らしくない低気圧の日で、空は雲に覆われ、ここ最近で一番寒かった。天気のせいか、体育の授業以外で運動しない私は、示し合わせたように、今、道路の端っこにいる。息が荒い、眼がチカチカする、耳鳴りもする、心臓の音がうるさい。他の生徒は自分の走りに精一杯。道端の私に見向きもせず、走り抜けていく。苦しい身体に従って閉じていく瞳が、金色の何かを写した後、私はそのまま意識を失った。
知ってる天井だ。倒れた後、私は家に運ばれたらしい。本の匂いが漂う私の部屋、ベッドから出ようとすると、体が悲鳴を上げた。高校二年生、おそらく人生最後の持久走大会は途中欠場で終わった。走りたくない人も、強制的に走らされるのは如何なものかと考えながら、私はなんとかベッドから這い出る。そして部屋から出て階段を降りていく。
「ことちゃん、起きたのね。大丈夫?学校から急に倒れたって連絡入って、お母さんびっくりしたんだから。」
「うん、大丈夫、筋肉痛はするけど。」
泣きそうな母。とりあえず大丈夫だと伝える。別に反抗期というわけではないが、心配性な母の相手をするのが少し面倒だった。
「そう、もし酷かったら、湿布貼ってあげるね。もしまだ体調悪かったら、明日学校休んでもいいからね。」
「ありがとう。」
素っ気無い態度で、台所へ逃げるように水を取りに行く。晩御飯の香りがした。
「あ、ことちゃん。」
珍しく母が、呼び止めてきた。
「ことちゃんが倒れた時、先生を呼んできてくれた男の子がいたみたいなの。『さわきあいく』君って言うらしいんだけど、学校でちゃんとお礼言うのよ。」
「わかった。」
正直私は面倒くさいと思った。『沢樹和九』はクラスどころか学校の人気者で文武両道、眉目秀麗、温厚篤実、さらにはハーフで金髪碧眼、高身長。私が軽い気持ちで声をかけられるような人間ではなかった。
「じゃあ、お母さんからって言ってこれも渡してね。」
何かを急に握らされた。それは刺繍で作られた花模様の栞だった。
「命の恩人なんだから、ちゃんと渡してくるのよ。」
私が必ずお礼を彼に言うよう、お手製の栞まで用意していた。こういった用意周到で義理堅く、心配性なところが、私に母を少し鬱陶しく感じさせる。
「命の恩人なんて、大袈裟だよ。」
私はそう言い放って水を飲んだ。そしてすぐ部屋に戻り、栞を学校用の鞄に突っ込んでおいた。
次の日、私は『沢樹和九』にお礼を言うことができなかった。彼自身が学校に来なかった。だから私に非はない、きっと。教室内の会話を聞くと、どうやら彼は体調不良になったらしい。加えて、彼は持久走大会で余裕の一位だったみたい。私のせいで先生を呼びに行ったはずなのに、なんだそれ。ちなみに、昨日私が倒れたことは誰も知らない、というか私を誰も気にしていない。
学校では、私は授業以外のほぼ全ての時間を読書に費やしている。クラスでは端っこの席で、昼休みと放課後は図書室で本を読む。この学校の図書室はとても小さく、存在を知っている人も少ない。国語担当教師の部屋を図書室にしたらしい。おかげで来る人は私以外にほとんどいない。
放課後、図書室で一人読書に浸る。今日も本を読んでいるうちに下校時間が近づき、図書室が閉まる時間になった。十二月に入ってから、この時間の外は真っ暗だ。本を閉じ、鞄にしまう。ひらっと何かが鞄から舞い、床に落ちた。それは昨日母から渡された栞だった。
「一橋さん、そろそろ図書室閉めますよ。それと、昨日は大丈夫でしたか?」
栞を拾うと、初老の先生に声をかけられた。図書室の管理をしている国語の九十九先生で、私のクラスの担任でもあった。私の性格を理解しているようで、心配の言葉をわざわざ図書室でかけてくれた。
「はい、大丈夫です。」
「そうですか、それでは気をつけて帰ってください。」
先生は丁寧な礼をする。
「はい、あ、その、私が倒れた後、沢樹君が先生を呼んでくれたんですよね。」
「そうなんですよ。できれば一橋さんからもお礼を言えたらいいですね。沢樹君、きっと喜ぶと思いますよ。」
優しい顔で先生にも、釘を刺されてしまった。
「はい、頑張ってみます。」
私は拾った栞を読んでいた本に挟み、鞄にしまった。
一週間経っても、二週間経っても、私は沢樹君にお礼を言うことができなかった。彼が学校に来ない。毎朝、沢樹君が学校に来るか否かで、教室が騒がしい。それでも私は本を読み、彼に渡すはずの栞を使っていた。そんな日々が続くうちに二学期最後の日が来てしまった。
私はいつも早めに学校に行き、本を読む。そうすれば目立たないし、先生以外の人に挨拶をする必要もないからだ。教室の端っこで、朝日に照らされながら本を読むのが、私は好き。今日もいつものように教室で一人本を読んでいると、金髪の彼がやってきた。『沢樹和九』君だ。
「おはよう。」
私と目が合うと、彼は柔らかい声で挨拶をしてきた。
「…。」
声が出なかった。彼はそんな私から目を外し、席に鞄を置き、マフラーと手袋をとった。教室には私と彼以外誰もいなかった。今しかない、そう思って席から立ち、栞を手に持ち、彼に声をかける。
「おはよう、沢樹君。えっと持久走大会の時、先生呼んでくれてありがとう。」
急に声をかけられ、お礼を言われた沢樹君は眼を開き、驚いている。
「うん、どういたしまして。琴葉さん。」
今度は私が驚かされた。彼が私の名前を口にするなんて考えたことなかった。教室の端っこで、いつも本を読んでいる地味な私の名前を、彼は覚えていた。
「あ、『一橋琴葉』さん、であってるよね、間違えてた?」
彼は綺麗な青い眼を細めて申し訳なさそうにする。ハーフの人ってなんでこんなに綺麗なんだろう。
「ううん、あってるよ。下の名前で呼ばれたのが珍しくて。あ、あとコレ。私の母が沢樹君に渡してって。」
とんでもない早口で喋り、私は押し付けるように栞を手渡した。
「…ありがとう。」
若干、いや大分引き気味に、彼は栞を受け取った。私はとても恥ずかしくなり、そそくさと自分の席に戻った。彼の方に視線をやることなんてできず、そのまま本を読み始めようとした。しかし、栞はもう渡してしまったし、恥ずかしさで頭も混乱し、どこまで読み進めたか分からず、ただ文字の集合体を眺めるだけになった。
帰りのホームルームが終わり、私は教室から図書室へ移動する。図書室の端っこ、中庭の木がよく見え、そこにはよくスズメがとまっている。ここも私のお気に入りの場所だ。そんなお気に入りの場所に着いても、頭がまだ少し混乱していた。今朝、沢樹君に名前を呼ばれただけで、こんなにも自分の調子が狂うと思わなかった。終了式やホームルームの際も沢樹君をチラチラ見てしまっていた。沢樹君はいつも誰かに囲まれ、真ん中にいた。私とは正反対。
「一橋さん、ちょっといい?」
ぼーっと窓の外を見ていると、一人の女子生徒に声をかけられた。茶髪が特徴的で綺麗な顔をした同じクラスの中心人物、確か名前は玲奈さん。クールで格好いい女の子だ。
「うん、大丈夫だけど…。」
普段なら絶対私と関わることのない人物に話しかけられ、私の全身は縮こまった。
「えーっと、朝、沢樹君にプレゼント渡してたよね。一橋さんって沢樹君のこと、好きなの?」
予想外のことを聞かれ、私の全身は固まった。
「あ、あれは持久走で私が倒れた時、沢樹君が先生を呼んでくれたお礼で、別にプレゼントとかじゃないよ。」
「そうなんだ。」
肯定の言葉を口にしていても、玲奈さんの顔には『納得いかない』と書いてある。
「別に、私が沢樹君のこと好きで、狙ってるとかじゃないから。本当に、ただのお礼だから。」
私は久しぶりに『伝えること』に必死になった。
「そっか、じゃあ大丈夫。沢樹君、ファンクラブとかあるから、気をつけたほうがいいと思うよ。」
玲奈さんはそれだけ言うと早足で去っていった。何に気をつけるべきかは教えてくれなかった。その後、私は本を読み進めようとしたが、あまり頭に入ってこず、空が暗くなる前に家に帰った。
「お帰りなさい、ことちゃん。」
家に帰ると母がちょうど玄関にいた。
「ただいま。」
また素っ気無い態度で、私は部屋に行こうとする。
「ことちゃん、後でいいから、ちゃんと手洗いうがいしてね。それと、ことちゃん、今年のクリスマスプレゼントは何がいい? もう二十三日だからそろそろお母さんに教えて欲しいんだけど。」
「クリスマス? ああ、そういうことか。」
母に言われて気づく、今日は二十三日、だから沢樹君に、他の生徒がクリスマスプレゼントを渡すには、おそらく今日しかない。だから玲奈さんも朝早くに登校し、沢樹君に何らかの方法でプレゼントをあげるつもりだったんだと、そう推理できる。母には適当に返事をして、私は自分の部屋に戻り、ベッドにダイブした。
「タイミング悪いなあ。」
そう口にこぼして、私はしばらく枕に顔を埋めた。
家族とクリスマスを過ごし、冬休みの課題を終わらせる頃には、もう大晦日だった。ちなみにクリスマスプレゼントは栞とブックカバーのセットだった。おばあちゃん家で大晦日を過ごし、二十三日の出来事なんて無かったように、毎年恒例の音楽番組を日付が変わるまで見て、私の一年は始まった。
「ことちゃん、初詣行かない?」
元旦翌日、こたつに入って、携帯で猫の動画を見ながら蜜柑を食べていると、母に誘われた。ここ数日家から出ていないのを気にしているんだろう。
「うん、行く。」
こういう時は変に反抗しない方がいい。そもそも私も初詣などの伝統行事は嫌いじゃない、人混みは少し嫌いだけど。
「そう、それじゃ十四時半ぐらいにはお家出るからね。お父さんもちゃんと準備してね。」
「えっ…、わかりました。」
私と同じようにこたつに入って、テレビを見ながら蜜柑を食べていた父は驚く。しかし拒否権は無い。父は母の尻に敷かれているから。
近所の、しかも有名でもなんでもない神社だから、人はそこまでいなかった。手水舎で手を洗い、冬の寒さを改めて感じる。拝殿の前は短い列ができており、私たちもそこに並ぶ。
「外国の方もお参りしてるんだなぁ、グローバル化だなぁ。」
父が列の先頭を見ながら間の抜けたことを言う。
「あ。」
金髪の彼がいた。沢樹君が真面目な顔で二礼二拍手一礼をしている姿はとても綺麗だった。顔を合わすのが恥ずかしくて、沢樹君が私に気づかないことを願ってしまった。沢樹君は一人で来ているようで、そのままお守りが売っている方へ行った。願いが叶ったのか、彼は私に気づいた素振りを見せなかった。この後、私はどんなことを神様に祈ればいいんだろう。
母と父がお守りを買うと言うので、私は御神木の方で待つことにした。子供の頃怖かった大きな御神木も今はあまり怖くない。あれは恐怖ではなくて畏怖を感じていたんだな、と理解する。
「琴葉さん、あけましておめでとう。」
御神木を見ていると、急に肩を叩かれ、新年の挨拶をされる。私は驚き、振り向きながら転んだ。
「ごめん、琴葉さん。びっくりしたよね。」
差し出された手を掴み、顔を上げると、沢樹君がそこにいた。私はほぼ彼の力だけで立ち上がった。
「だ、大丈夫。あけましておめでとう。」
自分の顔が赤くなるのを自覚しながら、彼に挨拶を返す。
「琴葉さんは今日一人?」
至近距離で彼と目が合う。思わずサッと目を逸らしてしまった。どんどん赤くなる顔をなんとか沢樹君に向けて、会話をする。
「えっと、親と一緒に来てるんだけど、お守り買いに行ってて。」
「そっか。」
目を瞑って頷く彼の所作一つ一つが太陽のようで、私は溶けてしまいそうになる。彼の金髪と青い瞳、高級そうな茶色のコートは俳優のようだった。私は今日自分の服装に気を使わなかったことを後悔した。
「琴葉さんはお守りとか信じないタイプ?」
黙っている私に質問をして、沢樹君が場を繋いでくれる。喋っているだけでコミュニケーション能力の差を痛感する。
「ううん、信じないわけじゃないんだけど、えっと、うん、御神木見たいなって思って。」
沢樹君から逃げた、なんて言えるわけない。
「いいよね。なんか神秘性感じるよね。」
茶化すわけでもなく、沢樹君は私の言葉を真摯に肯定してくれた。
「うん、でも小さい頃はなんか怖かったなって思うかな。」
「確かに、小さい頃っておっきい物が少し怖かったかも。」
親族以外でこんなに会話するのは久しぶりかもしれない。一呼吸置いて、会話相手が沢樹君であることに気づき、周りの視線が恥ずかしくなる。格好いい沢樹君と地味な私、釣り合うはずもない。
「あ、沢樹君は一人できたの?」
「ううん、僕も一人だよ。彼女でもいれば良かったんだけどね。」
笑いながら、沢樹君が言う。誰かの冗談も久しぶりに聞いた気がする。私はちゃんと笑えているかな。
「えっと私そろそろ行こうかな。」
小さな声で私はこの場から撤退しようとする。なんだか、さっきから心がザラザラしたり、サラサラしたりを繰り返している。
「え?」
沢樹君は心底驚いた表情をする。
「いや、ほら、私と沢樹君一緒にいるのを、学校の人に見られたりしたら迷惑かけちゃうかもだし、地味な私といると、沢樹君の評価が下がっちゃうかな、なんて。」
冗談っぽく、それでもちゃんと自虐をしながら、私は沢樹君に伝えて目を逸らす。
「地味かな。私服の琴葉さん、冬毛のスズメみたいで可愛いと思うけど。」
私は自分の耳を疑った。でも聞き返す勇気なんてあるわけない。だから自分の耳を信じる他なかった。可愛いなんて人生で最後に言われたのはいつだったろうか。母には意外と言われているかもしれない。でも同年代の男の子に言われたことは間違いなく無かった。私が惚けていると、『ピコン』と私の携帯がなった。母が私を探している。
「ごめん、沢樹君、お母さんが私を探してるみたいだから。じゃあね、また。」
手を振りながら、逃げるように駆け出す。
「…そっか、じゃあ、また。」
手を振る沢樹君の顔はよく見えなかった。
寝る直前、携帯を片手に、ベッドの上。『冬毛 スズメ』とまた検索をかける。沢樹君の言った言葉が、まだ私の心に残っていた。神社から家に帰るときも、ご飯を食べるときも、本を読んでいるときですら、彼の『冬毛のスズメみたいで可愛いと思うよ。』が私の頭から全く飛び立たない。もちろん彼が、私のことをそういう気持ちで見ているわけじゃないとわかっている。それでも私は寝る前に、冬毛のスズメがどんな格好をしているか確認するぐらいには、意識してしまっていた。
冬毛のスズメは可愛かった。ふわふわした羽毛にふっくらとしたシルエットがとても愛くるしい。沢樹君には、私の厚着で白と茶色の服装が、冬毛の雀に見えたのかもしれない。私が太って見えたから、ではないと信じたい。うん、私は痩せてる方だし。お母さんに、もっとご飯食べた方がいいんじゃない、と言われるぐらいには痩せっぽっちだし、うん。
「はぁ。」
大きく息を吐く。携帯をサイドテーブルに置いて、目を瞑った。頭の中がぐるぐるしている。すぐには寝られなさそうだった。
翌日、お年玉をもらったので、私は本を買うことにした。ホッカイロをポケットの中で触りながら、ショッピングモールの本屋まで歩いて行く。もちろん自転車で行った方が早いけれど、吹き付ける冷たい風に耐えられる気がしなかった。冬真っ只中で、快晴のお昼時でも指先まで冷たくなる。
お正月ということもあって、ショッピングモールはそれなりに人がいた。さっさと本を買い、家に帰ろう。買う本はもう決めてある。
「ありがとうございました~。」
店員さんの挨拶を背に、スッと本屋から出る。私は、本を買ったあとの家まで帰る時間が好きだ。これから読む物語の重みを、物理的に感じて家に帰るのがとてもワクワクする。
『ピコン』浮き足立つ私を地に下ろすような電子音。携帯を見ると、母からちょっとしたお使いのお願いが来ていた。本による機嫌の良さとお使いによる面倒臭さで、足取りは沈んだり浮いたりを繰り返す。モール内のスーパーに行き、頼まれたものをカゴに入れ、レジに並ぶ。
「ちょっと俺ジュース買ってくるわー。」
突然聞こえてきた男子高校生の大きな声に眼を向ける。私と同じ高校の男女たちが五人ほどいた。気づかれないように眼をさっと伏せようとする。でも金色の髪がそれを許してくれなかった。沢樹君がその五人のうちの一人だった。男子三人、女子二人、みんなお洒落な私服を着ている。蛍光色のスニーカーや綺麗なアクセサリー、茶色の髪。沢樹君が彼女たちといても、全く違和感なんて無い。沢樹君も楽しそうな笑顔で女の子と喋っている。
「こちら、空いてますよー。」
店員さんに声をかけられ、沢樹君たちから眼を離す。会計を済ませた後、私は今日一番の早歩きでモールから出た。
重い。本よりもよっぽど重い。何かがお腹の奥に沈んでいる。向かい風の中、一人で歩き、家に帰る。私はその何かの正体に本当は気づいている。でも言葉にしたくない。早く家に帰って物語の世界に没頭したい。ポケットの中のホッカイロは、もうあまり暖かくない。本を読むのが好きだからといって、孤独や劣等感を感じないわけじゃない。私だって、と思わずにいられないときがある。それでもやっぱりできないことはできなくて、苦しいものは苦しい。無理矢理に顔をあげると、街路樹から夕焼け空へ飛び立つスズメが見えた。
「ジャンルと五十音順で本棚に戻せばいいんだね。」
「うん、それで大丈夫。」
冬休みが終わり、学校が再開して三日目の放課後、私は図書室で、なぜか沢樹君に図書係の仕事を教えていた。沢樹君は、彼の親の都合で学校に来られる日と来られない日があるとのことで、仕事の少ない図書係になった。そのため、二学期に図書係を担当していた私が、沢樹君に仕事内容を教えることになり、今に至る。
「うん、教えることはこれくらいかな。元々小さい図書室だし、先生が基本管理してくれてるから、週に一回来るぐらいで大丈夫だよ。」
「そうなんだ。」
沢樹君が私と会話しながら、図書室で作業をしている。本来なら学級委員や体育委員をするはずの沢樹君が隣にいる。それだけで見慣れた図書室を新鮮に感じた。
「琴葉さん、この後はここで本読むの?」
「うん、いつもここで読んでる。」
「じゃあ、僕も何か読んでいこうかな。琴葉さんのオススメ教えてくれない?」
(え、帰らないんだ)と思わず口にしてしまいそうだった。
「えーっと、入り口のテーブルにある本は基本面白いと思うよ。」
正直、私と住む世界が違いすぎて、何をオススメしていいか分からない。先生の推薦図書を投げやりに教えてしまった。
「なるほど、ありがとう。」
沢樹君は頷いて本を取りに行った。彼がいると、いつもより図書室が明るく見える。そんな図書室に、私と沢樹君二人きり、誰かに見られたら大問題。そう分かっているのに、私はいつもの席に座り、本を鞄から取り出した。
「…。」
戻ってきた沢樹君は私と眼を合わせると、無言で私の正面の席に座る。そして、私たちはテーブルを挟んで向かい合い、本を読み始めた。
窓からの夕日が、沢樹君の金髪を柔らかに照らしている。女子の私よりも綺麗な髪だ。窓の外からは、スズメのさえずりが聞こえる。彼と私の住む世界は違うのだと、私は独りで本の世界に住むのだと、あのときそう思った。でも今は彼の紙をめくる音が、目の前から聞こえてくる。本を読もうにも集中できない。
「琴葉さん、どうかした?」
沢樹くんが私の様子に気づく。
「えっと、スズメが可愛いなあって。」
私は窓の外の木を指差し、誤魔化す。咄嗟に出てきたのは、神社で沢樹君に言われたスズメのことだった。
「ホントだ、可愛いね。」
「うん。」
スズメが鳴き止んで、少し沈黙が生まれる。
「読書っていいね。なんか、現実にいないみたい。」
沢樹君が優しい笑顔で言う。
「うん、私は現実より本の世界にいる時間の方が多いかも。」
自分で言って少し笑ってしまった。沢樹君も笑ってくれた。
「そっか。じゃあそろそろ本の世界に戻ろうかな。」
「うん、私も。」
沢樹君は再び本を読み始めた。スズメもどこかへ飛び立つ。なんだか今度は本に集中できそうだ。
結局、私は沢樹君と下校時間まで図書室で本を読んでいた。幸いその間、誰も図書室に来なかった。そしてお互いの帰り道は逆方向だったので、校門まで一緒に行って帰ることになった。外はもう暗く、冬の空気が冷えていた。
「琴葉さん、また一緒に本読んでもいいかな?」
昇降口、沢樹君が靴を履き替えながら、聞いてきた。
「私は大丈夫だけど、沢樹君は大丈夫なの?」
私と一緒にいて、と心の中ではそう続いた。
「大丈夫だよ。もし迷惑かけたら出禁にしてくれてもいいから。」
「出禁って、そんなことしないよ。」
二人一緒に笑う。
「寒いね。」
「寒いねー。」
「息が真っ白。」
「ホントだ。」
「体育終わった後とか頭から湯気出てたよ。」
「すごいね、私そんなに動けないよ。」
喋っているうちに、校門に着く。グラウンドの方から生徒の声が聞こえる。
「それじゃ、また。」
「うん。」
沢樹君が手を振る。私も小さく手を振る。そして私は沢樹君に背を向けて、歩き出す。しばらく歩いていると、沢樹君と誰かの声が聞こえた。一瞬、振り返りそうになって、やめた。
あれから沢樹君は週に二日ぐらい図書室に来て、本を読んでいる。そもそも学校に来てない日もあって、いつも私が沢樹君と、楽しい楽しい放課後を過ごしているわけではない。沢樹君が図書室に来ても、会話はそこまで多くない。私も彼も静かに黙って本を読む。最初の頃は読書に全く集中できなかった。でも沢樹君が図書係になってから、私の時間は早く進んでいるようで、あっという間に二月上旬になった。
『チョコもらえるかな。』
『沢樹君、明日来るかなぁ。』
『誰か明日チョコくださーい。』
二月といえばバレンタイン。教室がいつもより騒がしい。沢樹君が明日登校するか、登校しないか、で今日は特に賑やかだ。無理して当日に渡さなくてもいいんじゃないかと私は思う。でもそれじゃあダメらしい。沢樹君なら日付なんて気にしなさそうなのに。私も毎年父に、母と作ったチョコレートを渡している。でも学校での振る舞いには特に変化はない。いつも通り本を読む、それだけ。
家の台所にて、私は母とチョコを作る。リビングから野球中継の音が聞こえる。チョコ作りは慣れたもので、面倒臭さも感じないうちに、チョコは完成間近。
「ことちゃんは渡す人、お父さん以外にいないの?」
母がチョコを型に入れながら、聞いてきた。
「いない。」
即答。型に入れられたチョコを冷蔵庫にしまう。
「そっか、一応多めに作るから、もし欲しかったら冷蔵庫から勝手に取っていってね。」
「だからいないって。」
変な勘ぐりをされても困る。私はエプロンを脱いで、母に渡す。
「えー、ことちゃん可愛いから、告白したら断れないと思うのに。」
「お母さん、そういうのやめて。」
キッパリ言い放ち、私は台所から自分の部屋に戻った。
もし私が沢樹君にチョコを渡したらどうなるんだろう。ベッドに腰掛け、私は考える。きっと沢樹君のことだから、『ありがとう。今度お返しするね。』なんて言って、次会うときには『チョコ美味しかったよ』的な感想を言ってくれるんだろう。ホワイトデーにはいいお店のチョコを渡してくれそうだ。そして私はついに色々と勘違いを始め、勝手に心身をぐちゃぐちゃにするんだろうな。
「はぁ…。」
息を一つ大きく吐いて、ベッドに倒れ込む。頭に浮かんでくるのは沢樹君の顔や仕草に言葉。その一つ一つに、優しさと心地良さを思い出す。多分、それらの一つたりとも、私だけに見せているモノはない。図書室に来ない日は、私とは違うキラキラした友達に囲まれ、私には見せない顔を、言わない言葉を、しない仕草をするんだ。考えれば考えるほど、重力が大きくなって、私の体がベッドに埋もれていく。本のヒロインは参考にならない、物語として、とても面白いし、私を十分救ってくれているけど、本の世界と現実は違う。違うからこそ本の世界に意味がある。もう瞼すら重くなってきた。
「お父さん、先にお風呂もらうよー。」
階段の方から父の声が聞こえてきた。返事なんてできず、私はそのまま瞼を閉じた。
バレンタイン当日、教室いや学校全体がうわついた空気感。しかし沢樹君は学校に来なかった。これで良かったんだ、私はそう思い、昼休みにチョコレートを食べる。我ながら美味しく作れたと思う。甘さの中に、ほんのりとした苦味があって、全然くどくない。渡せるタイミングがあったら渡そうと思っていたぐらいで、自分から積極的に渡す気はなかった。だから沢樹君が学校に来ていたとしても、彼に渡すことは難しかったと思う。きっと彼にチョコを渡す女の子がたくさんいて、放課後になっても沢樹君は図書室に来なかっただろうし。
ひとりぼっちの図書室、今までずっと当たり前だった空間。最近ときどき沢樹君が来て、一人じゃなくなるのは週に二日ほど。なのに特別今日は、この小さな図書室が広く感じる。そんな図書室の窓から見える空は曇っており、久しぶりに雨が降りそうだった。中庭の木の枝が風に揺れていた。
翌日、教室が騒がしい。沢樹君が学校に来ている。休み時間ごとに、沢樹君のところに女の子が入れ替わり立ち替わりやってきている。私はいつも通り本を読む、そう、いつも通り。普段なら気にならない教室の喧騒が、今日はちょっと気になるだけ。
昼休み、喧しい教室から離れて図書室へ。いつも通りの場所で、いつも通りご飯を食べる。
「あ。」
鞄の中には、父のお弁当袋が入っていた。ステンレス製の大きなお弁当箱とお煎餅が、袋の中で鎮座している。いつも通りが少し崩れる。まあでも、と気を取り直してお弁当を食べ始めた。いつもより量が多いな、そう意識すると、さらにお箸が遅くなる。お弁当から目を離し、窓の外を見る。昨日と今日の朝まで、曇りで堪えていた天気はもう限界に達したようで、しとしとと雨を降らせている。
「琴葉さん、かくまって!」
沢樹君が突然図書室に入ってきた。半分ほど残ったお弁当をどうするか悩んでいた私は驚き、反射的に頷いた。沢樹君は『ありがとう』と口の動きで表し、申し訳なさそうな顔をして、本棚の後ろに隠れた。
数十秒後、ガラガラという戸の音が響き、また誰かが図書室に入ってきた。
「琴葉さん、誰か来なかった?」
玲奈さんだった。私に沢樹君が好きかどうか聞いてきた女の子。
「…誰も来てないよ。」
無言で見つめ合う。雨の音が大きくなる。
「そっか…、驚かせてごめんね。」
呟くように謝って、玲奈さんは扉を閉め図書室から出ていった。
玲奈さんが来てから一分後ぐらいに、沢樹君は本棚の影から出てきた。
「琴葉さんごめんね、匿ってもらって。」
「ううん、大丈夫。」
沢樹君はハンカチで顔と肩を拭きながら、いつも通りかのように、私の前の席に座った。私のいつも通りはとっくに崩れ去っているのに。
「さっきまで外で隠れてたんだけど、雨が降ってきちゃって。」
「えっと、なんで追いかけられてたの?」
沢樹君の濡れた金髪と雨水で透けた白シャツが艶かしい。私の眼には劇毒だ。
「昨日渡せなかったチョコを渡したいって子がたくさんいて。僕も嬉しいんだけど、毎年量がすごいから、今年は断ってたんだ。」
「うん。」
断らず受け取っていたら、沢樹君の両手が紙袋で塞り、机の上もチョコで埋め尽くされるに違いない。『嬉しいんだけど』という沢樹君が彼らしい。
「それでも無理矢理手に預けてきたり、ここで食べてくだいって言う子も多くて、チョコで死んじゃいそうだったから、隠れてたんだよね。」
ハハハと笑う沢樹君だけど、彼の碧い眼は疲弊していた。
「そうなんだ。」
私とは住む世界が違うなあと、改めて思う。
「しばらくここにいてもいいかな?」
「うん、大丈夫。」
「ありがとう。」
心底安心したような様子を見せる沢樹君。よっぽどのチョコ地獄だったんだろう。
「…。」
沢樹君が黙って半分残った私の、いや父のお弁当を見つめる。
「あ、えっとこれは、今日間違えてお父さんのやつを持ってきちゃってて。いつもはもっと小さいお弁当箱だから、ほら半分残しちゃって。」
パタパタと手を振りながら、私は沢樹君に説明する。
「そっかそっか、すっごい美味しそうだったから。意外とたくさん食べるんだ、なんて思ってないから安心して。」
少し意地悪な顔をして笑う沢樹君、今まで初めて見た顔だった。
『ぎゅるる』
突然、変な音が鳴った。沢樹君と目を合わすと、彼の顔が少し赤くなる。
「…さっきまで隠れてたから、その昼ご飯まだ食べてなくって。」
先ほど見せた意地悪な顔から一転。恥ずかしくて堪らない様子で沢樹君は片手で顔を、片手でお腹を隠した。
「私の残りで良かったら、食べる?」
チョコに追われてお腹を空かせた沢樹君を見て、私は自分でも思わぬ提案をしていた。
「いいの?」
「うん、あ、スプーンは使ってないからこれで。」
流石に私の使ったお箸を沢樹君に使わせるわけにはいかない。
「ホントにありがとう。」
潤んだ眼で笑顔を見せる沢樹君。
沢樹君がお弁当を食べている間、彼をじっと見つめるわけにもいかず、私は窓の外を眺めた。まだ雨は弱まらず、この調子だと今日はずっと降っていそうだった。昨日風に揺られていた木の枝は、風雨に振り回されていた。
「ご馳走様でした。」
手を合わせて軽く頭を下げる沢樹君。
「お粗末さまでした。」
私も軽く頭を下げる。
「すっごい美味しかったよ。手作りのお弁当なんて久しぶりだから、なおさら。」
沢樹君はハンカチで口を拭きながら、お弁当を誉める。
「そっか、お母さんが聞いたら飛んで喜ぶと思う。」
「飛んで喜ぶんだ。」
「うん、だからお母さんには内緒。」
図書室に小さく響く二人の笑い声。いつの間にか、私は沢樹君に対して気兼ねなく冗談を言えるようになっていた。二人でしばらく笑っていると、不意に沢樹君の顔に影が差した、ような気がした。
「午後の授業、サボってもいいかな。」
模範優等生であるはずの沢樹君が呟く。私に是非を解いているような、いないような、絶妙な声のトーン。
「沢樹君が大丈夫なら、いいんじゃないかな。」
私も呟くように言葉をこぼした。今日の沢樹君を見るに、彼には彼なりのストレスが、たくさん溜まっていそうだった。
「ホント?」
また眼を潤ませる沢樹君。
「ホント。沢樹君ならちょっと休んでも大丈夫。なんならお釣りが来るくらいだと思うよ。」
「お釣り…?」
「ごめん、変なこと言ったかも。ほら沢樹君いつもしっかりしてるから、ちょっと休んだって問題無し、みたいな。」
首を傾げながら私は説明する。沢樹君も私を真似して首を傾けた。
「うん、ちょっとサボろうかな。お釣りも来るらしいし。」
さっき見せた意地悪な顔をして、沢樹君は微笑む。なんだか眼を合わしづらくて、時計に眼を逃す。ちょうど昼休み終了三分前ぐらいだった。
「あ、そろそろ昼休み終わるね。」
沢樹君も時計を見て気がつく。
「琴葉さん、誰かに僕のこと聞かれても、何も言わなくていいからね。琴葉さんにサボりの片棒担がせるわけにはいかないから。」
「それは大丈夫。」
私に沢樹君の動向を聞く人なんていないはず。
「あ、沢樹君これ。」
私は弁当袋に残っていたお煎餅を渡した。
「チョコ味のお煎餅?」
沢樹君はそんな冗談を言う。
「違う違う。しょっぱいの食べたかったら、これ食べてね。お父さんのだから全然気にしないで。」
「うん、ありがとう。」
頷いて、沢樹君は笑っているような、泣いているような顔する。今日は相当疲れているみたいだった。恐るべしチョコ地獄。
「それじゃ、またね。」
「うん、またね。」
私は沢樹君に手を振りながら図書室から出る。後ろを見ながら歩いたもんだから、扉にぶつかりそうになった。沢樹君にバレていないことを祈る。
案の定、午後の教室はいつも以上に騒がしくなった。午後最初は歴史の授業で、先生の雑談に、天照大神の岩戸隠れが出てきた。暴れ者のスサノオに心を痛めた天照大神が天の岩戸に篭ってしまう。沢樹君と天照大神が重なって、私は少し面白いと思ってしまった。今日はまだ雨が強く降っている。
授業が終わっても、誰かに沢樹君の居場所を聞かれることはなかった。ときどき茶髪でクールな女の子の視線は感じたが、私に直接何かをしてくることはなかった。私に『沢樹君が好きか』と聞いてきた彼女。好きなのは玲奈さんの方じゃないのか、と思っていたけれど、今日の昼休みから、それは確信に変わった。玲奈さんは沢樹君のことが好きなんだ。休み時間中、誰かが教室に入ってくるたびに、彼女は視線を向けている。器用なことに、彼女は周りの女の子と喋りながら、チラチラと入口を見る。きっと沢樹君が教室に戻ってきていないか、確認しているんだろう。学年で一、二を争うぐらいに綺麗な玲奈さん、多分十人に聞けば十人が、沢樹君にお似合いだと言うだろう。そんな彼女に図書室で私は嘘をついた。今考えると、とんでもないことをしたんだと実感する。でも後悔はそんなにない。嘘のおかげで、今まで見たことのない沢樹君の顔が見られた。それだけで、なんだか満足だった。
放課後、私は図書室へ戻った。沢樹君はいなかった。きっと家に帰ったんだろう。いつもの席に座る。雨脚は少し弱まったようで、沢樹君もびしょ濡れにならず帰宅したことだろう。バレンタインという特別な日は、昨日終わったはずだった。でも今日は、いつも通りとは程遠い日になった。とりあえず本を読もう。
「琴葉さん。」
いきなり名前を呼ばれ肩を叩かれた。読書に浸り始めていた私は驚き、結構な勢いで振り向く。
「ごめん、びっくりさせちゃった。」
手を合わせ、申し訳なさそうにする沢樹君が後ろにいた。私は胸を撫で下ろす。
「どこにいたの?」
少なくとも私が図書室に入ってきたときは、誰もいないはずだった。
「本棚の後ろ。ずっとここにいたんだけど、誰かの足音が聞こえたから。」
「帰らなかったんだ。雨強かったもんね。」
帰らない理由は、雨ぐらいしか思い浮かばない。
「いや、雨じゃなくって、琴葉さんがくるの待ってたんだよね。」
「え、なんで。」
もしかして、『今までのことは全部ドッキリでした』なんて言うんだろうか。そんな卑屈な考えが頭をよぎる。でもそれくらいあり得ないことが起こっている。そもそも地味な私が、人気者の沢樹君と図書室で仲良くしていること自体が不自然だった。極め付けに、沢樹君も言いにくそうな顔をしている。
「琴葉さん…、連絡先交換しない?」
「えぅ。」
変な声が出てしまった。
「え、連絡先?」
「うん、連絡先。」
柄にないことしちゃったかな、そんなことを言い出しそうな表情の沢樹君。
「わ、わかった。ちょっと待ってね。携帯出すから。」
学校でほぼ使うことのない携帯を、鞄の底から引っ張り出す。
「えっと、どうすればいいんだっけ。」
連絡先なんて、私は家族としか交換していない。
「ちょっと貸してね。」
私の携帯は沢樹君の手に移る。
「クラスのグループからやっても良かったんだけど、ちゃんと理ってからにした方がいいかなと思って。」
沢樹君は片手で携帯をいじり、片手で頭をかきながら、そんなことを言う。
「えっと、連絡先聞かれたの初めてだから、私よくわかんないかも。」
私も沢樹君の前をして頭をかきながら言った。
「そっか。僕も連絡先聞くの初めてだからよくわかんないんだよね。」
えへへ、と沢樹君は笑う。
「でも連絡先たくさん持ってそうだけど、沢樹君。」
単純な疑問が私の口からこぼれた。
「確かにたくさん持ってるんだけど、家族以外は全部聞かれたことしかなくって。」
えへへ、と沢樹君はまた笑う。やっぱり私と沢樹君では住む世界が違った。
「はい、琴葉さん。ありがとう。」
私の手に携帯が返ってきた。
「今日帰らなきゃいけなくて、またね。琴葉さん。」
連絡先を交換した後すぐに、早口で別れの挨拶をする沢樹君。
「そっか、じゃあ、またね。」
手を振っている途中、珍しく沢樹君の方から眼を逸らした。私には彼が照れ隠しをしているように見えた。いつもの席に座り直して、窓の外を見る。もしかしたら、帰り際の沢樹君が見えるかもしれない。風雨に揺れていた中庭の木にスズメが止まっている。窓越しではよく分からないけれど、雨は止んだのかもしれない。
「あ。」
沢樹君が校門に向かって走っている。何人かの男子生徒に追いかけられていた。少し微笑ましい、沢樹君にはたまったものじゃないかもしれないけれど。彼の金髪がすばしっこく動いて、あっという間に校門へ辿り着いた。そのまま沢樹君が校門を走り抜けると思っていたら、彼が急に止まって、こちらに振り向いて手を振った。沢樹君の碧い瞳がこちらを見ている気がする。私も彼に向かって手を振った。すると沢樹君はより大きく手を振って、笑った。そして男子生徒たちに捕まるギリギリに校門を走り抜けていった。
その後しばらく外は騒がしかった。私も外を見てぼーっとしていた。『ピコン』、携帯が鳴った。沢樹君から、スズメが翼を振りながら『またね』、と言っているスタンプが送られてきた。沢樹君、スズメ好きなんだ。もう一度、窓の外を見る。曇った空から校門へ、一筋の日光が差していた。
バレンタインから、じゃなくてバレンタイ翌日の騒動から、私と沢樹君の距離はグッと縮まった。自分で言ってて恥ずかしいけれど、以前より明らかに会話が増えたし、三月に入ってからはお互いが持ってきたお菓子を交換して食べたりしている。一緒に談笑しているところを、九十九先生に目撃されたときは少し気まずかった。でも先生はお菓子を見ても注意することはなく、資料か何かを取って、すぐに図書室から退出していった。そのときの顔が、満面の笑みだったので、ある意味ちょっと怖かった。
三月に入って少しずつ暖かくなってきた。朝早く起きて、寒さに凍えながら登校する日も少なくなる。図書室から見ることのできる中庭の木の枝には、花の蕾がつき始めた。春がもうそこまで来ている。
今日も一時限目が始まるまで教室で本を読む。生徒が登校してくるうちに、少しずつ教室が騒がしくなっていく。バレンタインの日と似たような雰囲気を感じながら、私は本の世界に没頭する。
沢樹君と仲良くなってから、彼との距離が近くなり、ときどき連絡もとる。授業のこと、課題のこと、先生のこと、本のこと、今日のお弁当のこと、当たり障りのない話を沢樹君と交わす。お互いに気負わずコミュニケーションが取れていると思う。本についての感想なんかを一緒に共有できたときは、とても嬉しい気持ちになる。沢樹君が私に見せる顔は様々で、教室や他の生徒と一緒にいるときには、見られないような表情を見せてくれる。それを発見するたび、心に春風の心地がする。
沢樹君が今日学校にくることを、私は教室で唯一先に知っている。彼が学校を休むときには、私に連絡がくるからだ。そして私がその日の授業のノートやプリントの写真を撮って送る。私じゃなくても他にいくらでも頼れる人がいるだろうから、私に頼んできたときは驚いた。でも頼まれて嬉しかった。沢樹君は先生に直接プリントをもらったり、自分で教科書を読んだりして、学校の進度について来ていたらしい。さすが沢樹君、優秀。こういったことを彼に直接言うと、彼は渋い顔をする。だから頭の中で思うにとどめている。でもときどき、彼の渋い顔を見たくて意地悪するときもある。沢樹君が来るか来ないかで、ざわざわしている教室を尻目に、私は落ち着いて本を読むのだった。
放課後、沢樹君と図書室にて課題を進める。私はいつも通りの席に座っている。沢樹君もいつも通り私の前の席に座っている。沢樹君が図書室に通うようになる以前は、よく図書室で課題を消化していた。沢樹君と仲良くなる前は、彼の前で課題をするのが小っ恥ずかしくてできていなかった。でも今となっては一緒に課題を進めるようになった。
「琴葉さん、これでいいかな。」
今、沢樹君は欠席した日の国語課題に取り組んでいる。
「うん、いいと思うよ。」
「よっし、琴葉さんに言ってもらえると安心できるよ。」
沢樹君は国語が少し苦手。よく私に課題のチェックを頼んでくる。
「ありがとう。伊達に本ばっかり読んでないからね。」
「はい、ありがとうございます。一橋先生。」
教室ではクールな沢樹君だけど、図書室ではよくふざけてくる。
「うむ、沢樹君も精進するように。」
私も沢樹君に乗っかってふざける。えへへ、と二人で微笑む。
「そういえば、琴葉さん。今日何の日か知ってる?」
「ううん、知らない。」
「そっか。」
沢樹君は少し驚くと、紙袋を机の上に出した。
「じゃじゃーん。」
紙袋の正体が分からず、私は何それ状態だった。
「今日、ホワイトデーだから、これバレンタインデーのお返し。」
可愛らしいドヤ顔で、沢樹君は私に紙袋を渡してきた。
「ありがとう。でも私チョコあげてないよ。ていうか沢樹君バレンタイン休んでなかったっけ。」
私は照れを隠すために、早口で沢樹君の言動にツッコミをした。赤くなるな私の顔。
「あれ、そっか。でもお煎餅とお弁当もらったし。日々の感謝も含めて、どうぞ。」
「どうもありがとう。」
ホワイトデーなんて私には関係が無さすぎて存在すら忘れてしまっていた。携帯を見ると、画面に大きく三月十四日と表示されていた。
「あ、中身は帰ってから見てね。」
「えー、どうしよっかなあ。」
意地悪なことを言って、私は自分の照れに影を作る。
「それは恥ずかしいから。」
珍しく沢樹君が顔を赤くし、私の持つ紙袋に手を伸ばしてきた。
「よいしょ。」
彼の手が紙袋に届く前に、私は席を立ち。紙袋を背中に隠した。
「あ、ちょっと。」
沢樹君も席を立ち、じっと私を青い瞳で見つめる。
「もう私がもらったものだから。」
私はじりじりと図書室の奥へ後退する。
「じゃあ、返してもらうね。」
沢樹君もじりじりと前進し、さらに鋭くさせた眼で私を見つめる。
「…。」
「…。」
二人とも黙る。中庭の方からスズメのさえずりが響いた。
「はい。」
「きゃっ。」
沢樹君の横を駆け抜けようとした私。しかし、彼の長い腕に捕まる。さらに彼の強い力で、貧相な私はそのまま倒れてしまった。
「ごめん、大丈夫?琴葉さん思ったよりも軽くって。」
沢樹君が私の上に覆いかぶさっている。彼の綺麗な金髪が、私の髪に掠れる。私の体は硬直し、動かなくなった。彼の碧い瞳を至近距離で見ると吸い込まれてしまいそうだ。眼をそらそうにも、視界の全てが沢樹君で、彼の目元のほくろまでハッキリ見えた。沢樹君の息遣いまで耳に届いてくる。嗅いだことのない種類の匂いが、私の頭を機能不全に陥れた。
「琴葉さん?」
「え?」
気づくと沢樹君はもう立ち上がり、私に手を差し出していた。
「ごめん、沢樹君。腰抜けちゃった。」
紙袋は家に帰るまで開けないと沢樹君に約束して、二人とも席に座って下校まで本を読んだ。その間、沢樹君は私と眼が合うたびに、倒してしまったことを謝ってきた。大丈夫だと、その度に言うけれど、沢樹君はずっと心配していた。そんなやりとりを何回も繰り返すものだから、読書はそんなに捗らなかった。
「琴葉さん。」
「うん、どうしたの?」
帰りの支度、鞄に本を入れ、整理していると、沢樹君が私の名前を呼んだ。少しくすぐったい。
「僕、いや、僕の家、今結構ややこしいことになっててさ。四月終わりぐらいまで、学校来れないと思うんだ。」
「そう…なんだ。」
今日、私を片腕で捕まえた沢樹君。今なら彼をデコピンで倒せそうだった。
「だから、その、ときどき連絡してもいいかな、授業とか、係とか、そういうのじゃなくても。」
「もちろん。」
漂った悲しい雰囲気を飛ばすために、私は笑顔で答えた。
「…ありがとう。キャラメルの感想教えてね。」
沢樹君が紙袋を指差さした。
「うん。これ、キャラメルが入ってるんだ。」
なぜ沢樹君が紙袋の中身を恥かしがったのか、よくわからなかった。
「そう…かも。」
首を傾げ、何かを誤魔化す沢樹君。
「帰ってからのお楽しみにするね。」
今ここで開けるなんてことは、流石にできなかった。約束もしたし。
三月に入って日も長くなり、下校する時の空は真っ暗じゃなくなった。青というか、赤というか、紫というか、形容しがたい空の色。こういう色をとどめ色というのかもしれない。沢樹君としばらく会えなくなる、きっと私の心も空と同じ色をしている。沢樹君と一緒に校門まで歩いていく。無理に会話することなく、お互いに沈黙を受容する。一人でいるときの沈黙とは全く違う。この感覚もしばらく感じられなくなるのかな。
「じゃあ、またね。琴葉さん。」
「うん、またね。沢樹君。」
沢樹君が背を向ける。彼の背中に寂しさを感じた。
「沢樹君。沢樹君の席、取っておくね。いつ来ても大丈夫なように。」
振り向く沢樹君。驚きと喜びが混じったような表情。
「もし沢樹君の席取ってくる人がいたら、出禁にしちゃうから。」
腰に手を当てて大袈裟に言う。沢樹君は目を丸くして驚いた後、今までで一番の笑顔で笑った。
「うん、ありがとう。じゃあ、またね。」
「うん、またね。」
手を振って私も背を向ける。落ち葉が風で舞った。淡い春風が吹いた気がして、顔を上げると、とどめ色の空に一番星が光っていた。
「ただいま。」
家に帰り、母のおかえりを背中で聞いて、自分の部屋に入る。紙袋を母に見られたら、説明するのが面倒臭い。机の上に紙袋を置いて、ベッドに腰を下ろす。窓から見える空は暗くなっていて、星々がそれぞれの光を主張していた。カーテンを閉める。紙袋の中のキャラメルは晩御飯の後に食べようかなと、帰宅途中は考えていた。でも沢樹君が恥ずかしがっていた理由を知りたくて、とりあえず開封してしまった。
「わぁ…。」
思わず声が出てしまった。ものすごく高価そうな箱が出てきた。高級なんだけど、悪趣味ではなくて、『主役は中のキャラメルです』と言わんばかりの箱だった。
「ん?」
紙袋の中には、キャメルの箱だけではなく、一枚の封筒が入っていた。それも開けると、沢樹君直筆の手紙が入っていた。手紙を目の前で読まれるのを、沢樹君は恥ずかしがったんだろう。
「ラブレター、では無いよね。」
声に出して期待に近い高揚感を押し殺す。沢樹君と私の距離が近づいても、交わり切ることはない。一呼吸吐いて、眼を瞑り、手紙を読み始める。沢樹君らしい、彼の優しさが感じられる字だった。
『琴葉さんへ バレンタインのときはどうもありがとう、本当に助かりました。実は明日から四月の終わりまで、家の用事で学校に行けなさそうです。十二月ごろから色々と大変で、今でも少し混乱してます。でも図書室で琴葉さんといるときは、凄くリラックスできていました。そういえば、持久走大会のお礼が、言葉にできないほど嬉しかったです。僕のやってきたことが全部ぐちゃぐちゃになっちゃうような感覚が、あの頃あったんだけど、僕のしたことが誰かの助けになって、『ありがとう』と言われたとき、とても救われました。命の恩人なんて言ったら、大袈裟かもしれないけど、本当にありがとう。これからも変わらず仲良くしてください。 沢樹和九より 』
読み終わって、また一呼吸吐いて、眼を瞑り、手紙を封筒に戻した。手紙から沢樹君の感情が渦巻いて私を巻き込んでいく。持久走大会の日からの沢樹君しか私は知らない。私と違って、沢樹君は色々なものを持っていると思っていた。でもこの手紙からは、沢樹君が色々なものを背負っているように感じた。眉目秀麗、文武両道、温厚篤実、模範優等生。もしかしたら彼はそうなりたいと思ったことは一度もなくて、勝手に担ぎ上げられただけなのかもしれない。私にできることはなんだろう。ベッドに体を預けて、眼を閉じ、晩御飯までぐるぐる回る頭の中を整理したようと試みたけど、上手くいかなかった。
晩御飯を母と食べていると、父が帰ってきた。
「ただいま。」
「おかえり」
母の声に重ねておかえりを言って、口の中のご飯とおかずを飲み込んだ。
「はい、これ二人で食べてね。」
父が食卓に大きな紙袋を置いた。
「バレンタインのお返し、マカロンだよ。いつもありがとうね。」
「こちらこそありがとう、お父さん。」
母と父が抱き合っている。この歳で何やってるんだか。
「ホワイトデーのお返しにはお菓子ごとに意味があって、マカロンの意味は『これからもずっと一緒にいましょう』なんだよ。」
「へー。」
適当に返事をして、お皿をシンクに持っていく。
「ごちそうさまでした。」
お皿を洗う、そういえば春になって、水の冷たさもそんなに感じなくなった。母と父の会話を右耳から左耳へ流し通して、私は部屋に戻った。
沢樹君からもらったキャラメルを口に放り込む。市販の甘いキャラメルしか食べたことのない私には、初めての味だった。砂糖の甘さだけじゃなくて、他の材料の甘さや苦さ、酸味を感じる。崩れそうで崩れない、絶妙なバランスで成り立っている美味しいキャラメル。そんな感想を抱いた。
「キャラメルの意味ってなんだろう。」
充電器を差して、ベッドの上に放り出しておいた携帯を手に取る。『キャラメル ホワイトデー 意味』で検索をかけて、上から三つくらいのサイトを読み漁る。本とは違って、写真や広告、色味が豊富で、遊園地で遊ぶ感覚を覚える。
「一緒にいると安心する、か。」
『親しい人や家族に渡すと良いかもしれません』そんなことも書いてあった。沢樹君が私に求めているものが分かった気がする。それは愛情や色恋ではなくて、安堵や平穏。枕に携帯を放り預けて、ベッドから立ち上がる。
「よし。」
両手を上げて背を伸ばす。沢樹君が私に安心を求めている。数時間前に私が妄想したこととは少し違ったけれど、それでもいい。むしろこっちの方が良かったかもしれない。彼が私に明確に求めるものがあると感じられた。また会えたときに彼が安心できるように、私らしく明日、明後日とやっていこう。
ホワイトデーの翌日から春休みまでずっと、沢樹君は学校へ来なかった。学校最終日の教室はそれなりに騒がしかったけれど、みんな沢樹君がいない日常に慣れつつあった。私は逆に彼のいない日常がやってきて、心に小さな穴が空いた。十二月ごろまでは当たり前だった、一人でただ本を読む日常。図書室のいつもの席の前には誰もいない。自分以外のページをめくる音やお菓子を食べる音が聞こえてこない。代わりに自分の出す音がいつもよりはっきり聞こえるようになった。ときどき吐き出す大きな呼吸とか、自分の服が擦れる音。沢樹君と一緒に本を読む前は全く気にならなかったのに。窓の外を眺めることも増えた。スズメだけじゃなくて、カラスやヒヨドリみたいな強そうな鳥も、よく木に留まっていることに気づいた。
春休みになっても沢樹君と会うことはなかった。でも用事が少し落ち着いたのか、彼からちょっとずつ連絡が来るようになった。今読んでいる本の展開とか、今日食べた朝ごはんの話とか、図書室で話していたことをやりとりするようになった。私はそのせいで、いつも携帯を体のそばに置くようになってしまった。ご飯を食べているとき、お風呂に入っているとき、携帯をすぐ確認できるところに置いている。携帯を確認しながら生活しているのか、生活しながら携帯を確認しているか、よく分からない。授業中にも携帯をチラチラ見るようになった。着信音をオフにしていなかったので、本当に連絡が来たときはものすごく焦った。でも私が携帯をいじっているとは、誰も思わなかったみたいで、先生にはバレなかった。ちょっと複雑な気分。
四月になって、すぐ桜の花びらが降るようになった。私ももう三年生、進路についてはあんまり考えていない。沢樹君は考えてるかな、今度聞いてみよう。ちなみに沢樹君とまた同じクラスで、九十九先生も同じく担任だった。
放課後、今日も図書室のいつもの席に座る。そして鞄から本ではなくて、携帯とイヤホンを取り出す。今までずっと読書しかしてこなかった私は、沢樹君からおすすめの曲を教えてもらい、聴くようになった。彼と携帯でやり取りしているときに、音楽の話になったことがきっかけだ。彼が勧める曲は優しい曲と楽しい曲が中心で、今流行りの曲を始め、私の好きそうなマイナーな曲も教えてくれる。そのおかげで、沢樹君と仲良くなってから気づいたことがある。それは『読書だけしかない自分』による読書よりも、『読書以外もある自分』による読書の方が格段に楽しいっていうこと。沢樹君から勧められた曲の歌詞や世界観が、本の世界観につながる。読書しかしてこなかった私にとって物凄く刺激的だった。今日もそんな刺激的な感覚を求めて耳に音を贈る。
「一橋さん、ちょっといい?」
眼を瞑って音楽を聴いていたからか、誰かが図書室に来たことに全く気づかなかった。
「え、うん、いいよ。」
急いでイヤホンを外し、前の席に座った彼女と眼を合わす。玲奈さん、きっと沢樹君のことが好きな女の子。
「一橋さんっていつも図書室にいるの?」
茶色の髪をくるくるといじりながら、玲奈さんが聞いてくる。
「うん、そうだよ。」
沢樹君以外と、いや人と会話するのが久しぶりで、素っ気無い声で返してしまった。
「じゃあ、二年生のときは結構沢樹君と会ったりしてたの?」
真顔になる玲奈さん。美人の真顔は迫力がすごい。
「えっと、週に二回ぐらいしか会ってなかったよ。だから全然、仲良いとかそんな感じじゃないよ。」
愛想笑いをしながら答える。私は嘘を混ぜた、一月こそ、そんな感じだったものの、三月からは仲良くしていた。
「ふーん。」
いつか見た、玲奈さんの納得いかないと主張する顔。
「沢樹君、なんか色々大変らしくって。前相談されたんだけど、なんか上手く話せなかったんだよね。一橋さんなら、どうしたらいいと思う?」
玲奈さんが片目を瞑って私を見つめる。
「えっと…私にはよくわかんないや。」
えへへと笑う私。玲奈さんは笑わない。美人の真顔は怖いからやめてほしい。数十秒間の沈黙が訪れる。こういう時間が私は本当に苦手だ。
「じゃあ、何か沢樹君から聞かれたら、私にも教えてくれない?」
「え。」
「私、沢樹君の力になりたいんだよね。」
玲奈さんの笑顔から圧が発せられる。
「それは…無理かも。」
頑張れ私、もう泣きそうだ。
「なんで。」
「えっと。ほら私、沢樹君と話すことなんて全く無いし。」
眼を瞑って、私は泳ぐ瞳を誤魔化す。
「そっか。なんか、ごめんね。」
眼を開くと、申し訳なさそうな顔をした玲奈さんが髪の毛をいじっていた。
「じゃあ、またね一橋さん。色々と気をつけて。」
何に気をつけるかはやっぱり教えてくれなかった。玲奈さんが図書室を出ていった後、私は大きく息を吐く。どうやら耐え切ったらしい。沢樹君に、彼の事情を秘密にするよう言われているわけじゃない。でも玲奈さんに教える気にはならなかった。私だって彼にどんな事情があるかは詳しく知らないし、あえて聞いていない。『家の事情』彼は手紙にそう書いていた。私が無理に聞き出す必要は多分ない、彼が自然に話してくれるときを待っている。だって私は沢樹君にキャラメルをもらったから。外はもう夕焼け空になっていて、カラスの鳴き声が響いた。
四月の終わり、桜も散りきって新緑が見られるようになった頃、沢樹くんが久しぶりに学校に来た。教室は、それはもう大騒ぎで、他のクラスの生徒が覗きにくるぐらいだった。新しいクラスになっても沢樹君は大人気。しばらく学校を休んでいたことなんて無かったように、あっという間にクラスの中心になった。私はというと、いつも通り教室の端っこで本を読んでいた。沢樹君が学校に来るという連絡を、私は本人からは受けていなかった。前日の携帯でのやりとりは本と音楽の話だった。だから実を言うとだいぶ驚いたし、嬉しかった。今日の放課後が待ち遠しい。
図書室、中庭の木が見える席に座る。目の前の席は長らく空いていた。今日、その席がおそらく埋まる。沢樹君が図書室に来るという連絡自体はなかったけれど、何だか来てくれる気がする。彼が来なくなってから、薄色になった図書室が、春の日差しに照らされて色味溢れて見える。まだ彼は来ていない、それなのに心が浮ついている、春がやっと私にも訪れたのかもしれない。
「久しぶり、琴葉さん。」
図書室の扉を開けて、沢樹君が片手を上げて挨拶する。久しぶりに見る沢樹君の顔、相変わらずとても綺麗だった。ちょっと髪が伸びているかも。
「久しぶり、沢樹君。」
私は自分の声が上ずってないか、震えてないか心配になりながら、言葉を返す。沢樹君が私の前の席に座る。
「帰って来てたんだね。」
「うん。ビックリさせたくって、連絡しなかったんだよね。」
えへへと笑う沢樹君、彼らしい可愛い笑顔だ。
「琴葉さんは、えっと、どんな感じだった?」
珍しく沢樹君が言葉に詰まった。久しぶりに会ったことで緊張しているのは、私だけじゃないみたいだ。なんか嬉しい。
「うーん、特に何もなかったかな。うん、沢樹君が教えてくれた曲聴いたり、本を読んだり、いつも通りだったと思う。」
本当は沢樹君がいなくて、物足りない感じがしていたけど、それは言わないことにした。
「そっかそっか、あの曲聴いてくれた?」
「うん、聴いたよ。やっぱり沢樹君が教えてくれる曲にハズレはないね。」
頭をかいて、沢樹君は照れる。彼の金髪が日光を反射する。この情景も久しぶりに見た気がする。相変わらず綺麗な金色の髪だ。
「そうだ、後夜祭でその曲やるらしいんだよね。」
嬉しくてたまらない、そんな顔をする沢樹君。
「えっと、後夜祭…。」
一方、間抜けな表情をする私。文化祭が近づいていたことをすっかり忘れていた。
「もし良かったら後夜祭、一緒に行かない?」
沢樹君が碧い眼で真っ直ぐ私を見つめる。
「体育館で真っ暗だから、その目立たないと思うから、どうかな。」
言葉を繋げて、沢樹君が私に気を遣いながら誘ってくれる。
「うん、私も一緒に行きたい。」
断れる訳が無い、というより嬉しさとか、恥ずかしさとか、何かよく分からない感情に心が混乱している。沢樹君に久しぶりに会えて浮ついた心が、そのまま春空に飛んでいったような感じ。
「ありがとう。」
沢樹君の声にハッとして彼の顔を見る。真っ直ぐだった碧い眼が揺れていた。
「じゃあ、後夜祭の他の曲も送るね。」
沢樹君が恥ずかしそうに眼を逸らして、ポケットから出した携帯をフリフリした。
「うん、ありがとう。」
私も小恥ずかしいけれど、何だかこの言葉だけは言わなくちゃいけない気がした。
下校時間を知らせるチャイムが鳴るまで、今まで話せなかった分を取り戻すように、私と沢樹君は本や音楽や春休みのことを話した。彼の話はやっぱり優しくて楽しくて面白かった。校門に向かって二人で歩く。初めて沢樹君と図書室で一緒に本を読んだ日を思い出す。
「あったかくなったね。」
「うん、でも厚めの肌着着るか悩まない?」
「あー、確かに。」
「あったかくなったと思ったら寒い日もあるよね。」
「雨の日とかよくわかんないよね。」
「そうそう、寒いんだかあったかいんだか。」
「春雨前線だっけ、そのせいかな。」
「でももう五月だし、梅雨の方かもね。」
「なんか面白いよね、春雨と梅って。」
「そうかも、美味しそうだよね。」
喋っているうちに、校門に着く。中庭の方からスズメのさえずりが聴こえる。
「それじゃ、また。」
「うん。」
沢樹君が手を振る。私も小さく手を振る。そして沢樹君は私に背を向けて、歩き出す。しばらく彼が歩いているのを眺めていると、沢樹君がこちらに振り向いた。数秒、二人で見つめ合って、吹き出すように笑い出した。もう一回大きく手を振り合う。
「またね。」
「うん、またね。」
お互いに振り返って歩き出した。スズメのさえずりがまた聴こえた。
楽しみがある、沢樹君と後夜祭に行くこと。待ち遠しい日があるのはいつぶりだろう。小学生の頃、自分の誕生日とかクリスマスとかお正月とか、そんな行事が待ち遠しかった。中学生になってから、変に達観するようになって本ばかり読むようになった。本という別世界を楽しんでいた。でも悪く言えば、きっと本の世界に逃げていた、現実逃避だ。沢樹君が学校に来るようになってからは、本の世界だけじゃなくて現実の方も楽しくなった。図書室で話したり、家で連絡を取り合ったり、彼の一言や彼の返信が物凄く嬉しい。部屋で一人のとき、最近使っていなかった表情筋を使ったせいで、変な笑いが漏れることもある。きっと、私は沢樹君に―-。
「一橋さん、おねがい。」
「おねがーい。」
「一橋さんにしか頼めないの。」
教室の端っこ、女子三人に囲まれて、私は『おねがい』された。
「えっと、私よりも適任の人がいると思うんだけど…。」
休み時間、いつもなら私は誰とも喋らない時間。
「他の子だと、どーしても部活とか委員会のシフトでは入れないみたいでさ。」
「そうなんよ、あと一人いれば完璧なんだけど。」
女子三人の名前は、右から三輪さん、四宮さん、五十嵐さん、特徴的な並びだから覚えている。髪留めとか、ネイルとか、お化粧とか、靴とか、色々キラキラしていて、私は眼を瞑りたくなる。玲奈さんと一緒にいるところはよく見るけれど、名前以外に目の前の三人について、私は何も知らない。
「できれば、その、他の人をあたってみて欲しいかな…。」
『おねがい』を引き受けてしまいそうな自分を抑え込んで、もうちょっと粘ってみる。
「大丈夫、絶対一橋さんメイド服似合うから。」
「うん、絶対、一部に需要あるから。」
「おねがい、メイド一橋さん。」
三人の『おねがい』はとんでもない物だった。文化祭のクラス展が『執事喫茶』になったから、その手伝いとしてメイドさんをやって欲しいという『おねがい』。
「あくまで主役は執事たちだから、私たち女子は配膳と会計ぐらいしかないから。」
「いわゆーるメイド喫茶みたいなことはしなくて大丈夫だから。」
三人の勢いは強くなる一方だった。巣から顔を出して餌をねだるツバメの雛みたい。
「…わかった。やってみるね。」
あまりに必死そうな三人の顔を見て、断ることはできなかった。
「ありがとう、一橋さん。」
「ありがとうねー。」
「マジ女神。」
三者三様に感謝を伝えてくる。話しかけられたときは怖かった、正直今も少し怖い。でもこの三人は、私より自分自身の感情に素直なんだろう。だから臆することもなく、私と話すし、おねがいもしてくる。
「じゃあ、グループにシフト表と衣装合わせの日程貼っておくから、よろしくね。」
「私たちもメイドさんやるから、一緒に頑張ろうねー。」
「分かんないことあったら、なんでも聞いてね。」
三人が私の周りからいなくなる。台風の次の日みたいな気分。雨やら風やら雷やらが過ぎ去って、いつもよりちょっと強い風だけが吹いてる晴れの日、そんな感じ。まあ何とかなるかなぁ、と思いながら、私は本の世界に戻った。
放課後、図書室、読書中、沢樹君と二人。
「琴葉さん、メイドさんやるの?」
沢樹君が驚きと嬉しさ半分の表情で質問してきた。今日の沢樹君は距離感が近い、と言うよりも顔が近い。彼の碧い瞳に映る私が間抜けな顔をしている。
「うん、人手が足りないらしくて。二日目だけだけど、手伝うんだよね。」
基本一人で読書するだけだった私が、メイドさんをするなんて知って、沢樹君は何を思うんだろうか。私は物凄い恥ずかしい。
「そうなんだ、僕も二日目だけ執事やるからさ、琴葉さんも一緒ならすごい心強いよ。」
感嘆符が三つくらい付きそうな勢いで、沢樹君は満面の笑みになる。
「じゃあ一緒に頑張ろうね。」
沢樹君の勢いに驚きながら、私もなんかよく分からないけれど嬉しくなった。
「うん、いやあ皆んなから僕に執事やってってお願いされちゃって、あんまり乗り気じゃなかったんだけど、頑張れそうだよ。」
沢樹君に執事服を着てもらうために、出し物が執事喫茶になったなんて、沢樹君はこれっぽっちも考えにないんだろう。
「うん、沢樹君の執事服は皆んな見たいんじゃないかな。」
苦笑いする私。
「そうなのかな、でもまあ取り敢えず頑張ろうね。」
変わらず笑顔の沢樹君。
「あ、そうだ。沢樹君、私あのバンドの曲聴いたよ。すっごい良かった。」
私は話を逸らした。沢樹君と私との間にある、文化祭に対する気持ちのギャップに耐えられなそうだった。
「そっかそっか、いいよねえ、どの曲も英語のフレーズに疾走感があって。」
「うん、確かに。他にもおすすめの曲あったりする?」
「えーっとねえ、例えば―。」
沢樹君が携帯をポケットから取り出す。話逸らし作戦成功、沢樹君がおすすめの曲を教えてくれる。ちょっと申し訳なさを感じながら、私は沢樹君と音楽話に花を咲かせることにした。
文化祭当日までの間、もちろん準備や衣装合わせ、設営があったけれど私と沢樹君がそのときに話すことは無かった。沢樹君はクラスの中心にいて、私は端っこにいたから、会話がないのは当然と言ったら当然。でも時間と場所が放課後と図書室に変われば、沢樹君と私は本の話、音楽の話、日常の何でもない話をする。図書室、あそこは私にとって、以前と比べたら全くの別世界になった。そんな関係に、不思議さと喜びを感じながら過ごしていると、いつの間にか文化祭当日になった。
人生でもう一生着ないだろう、クラシックなザ・メイド服を身につけて、私はこれまたクラシックな喫茶風にデザインされた教室に入る。そこには執事服とメイド服を着たクラスメイトがいた。この教室内なら、私も案外浮かないかもしれない。
「おおー、似合ってるねー。」
「やっぱり需要あるよ、一橋さん。」
「メイド一橋さんかわいいよ。」
私と同じようにメイド服を着た三輪さん、四宮さん、五十嵐さんが私に気づき、声をかけてくれて、褒めてくれた。
「ありがとう、三人もすごい可愛い。」
三人の明るさに当てられてか、私も三人を褒める。実際に、三人のメイド服は私の着ているものよりもカジュアルで可愛かった。
「どういたしましてー。」
「ありがとね。」
「照れるなぁー。」
私の褒め言葉に三者三様のリアクションを見せてくれた。こうやって見ると、この三人も本の登場人物みたいで面白いかもしれない。私はちょっと失礼なことを思ってしまった。
「ねえ、まだ沢樹君来ないねー。」
「ね、執事沢樹君見るために私たち頑張ったって言っても過言じゃないからね。」
「待ち遠しいねぇー。」
私のメイド服にはもう眼を離して、三人は沢樹君のことを話し出した。そうだ、沢樹君も今日執事服を着てくるんだった。急に私も気になり始める。金髪に碧眼、高身長にハーフのイケメン、そんな沢樹君が執事服を着たらどんな風になるんだろう。
「えっ…。」
誰かが声を漏らして、教室が静かになった。皆んなの目線の先には沢樹君と玲奈さんがいた。朝方の太陽光に照らされて、沢樹君と玲奈さんの衣装とヴィジュアルが輝く。部屋の電球を白色電球からLEDに変えたときみたいに、教室の色味がパッと変わった。沢樹君の金髪碧眼に、黒と白の執事服が映えている。沢樹君と執事服が絶妙なバランスでお互いの良さを引き出す。隣にいる玲奈さんも映画の中から飛びたしてきたみたいな美人っぷりだった。メイド服を着ても、彼女にはコスプレ感がなかった。彼女の美しさが本物のメイドさんのような気品を立てていた。
「なんか、恥ずかしいんだけど…。」
「うん、恥ずかしい…。」
頭をかきながら、顔を赤らめて呟く沢樹君と玲奈さんを見て、クラスメイトたちが遅れて騒ぎ出す。それぞれが思い思いの賛美を二人に送っている。私は心の中で、綺麗だな、と呟くことしかできなかった。放課後の図書室では眼線を合わして話せるようになった沢樹君を今は視界にも入れられない。隣にいる玲奈さんも綺麗すぎる。沢樹君を理解したつもりになって、舞い上がっていた自分は、ただ思い上がっていただけなんじゃないかと不安になる。クラスメイトたちのざわめきが一段落ついても、私の心は騒めいて痛かった。
沢樹君と玲奈さんの綺麗さに打ちひしがれてから、私の視界はカクカクになった。コマ撮りした写真みたいに、出来の悪いパラパラ漫画みたいに、時間が進んでいく。お会計や配膳を手伝っている最中に、他の生徒から面白半分で喋りかけられたり、お父さんとお母さんが来て写真を撮ったりした気もするけれど、あんまり正確に覚えていない。ときどき視界の端に映る、綺麗な沢樹君と玲奈さんが、私を感情の冷めたロボットへと変貌させる。もう家に帰りたい。
気がつくと、片付けも終わって文化祭は閉幕していた。さあ家に帰ろうと思って、クラスメイトの声を背に、鞄を持って、逃げるように教室から出た。あの日、道路の端っこで沢樹君に助けられた。教室の端っこや図書室で一人本を読んでいた私が、沢樹君と話すようになった。沢樹君が前に座る、あの図書室の席が、私の避難所じゃなくて居場所になった気がした。バレンタイやホワイトデーで、私は沢樹君の特別な存在になった気がした。気がした、だけだった。特別なのは沢樹君の方で、私は特別じゃない。痛い、心が痛い。
「琴葉さん? …琴葉さん!」
急に名前を呼ばれて、私は糸の切れた人形みたいにその場で止まった。
「ねえ、琴葉さん、一緒に写真撮らない?」
着替える時間が無かったのか、まだ執事姿の沢樹君が私の前に後ろにいた。
「せっかくだし、嫌じゃ無かったら、琴葉さんもメイド服着て写真撮らない?」
沢樹君が悪戯っぽく笑って、私の手を掴んだ。
「ほら、図書室行こうよ。」
悪戯っぽい沢樹君の碧い瞳に、優しさが見え隠れする。私は何も言えなくって、彼に手を引かれるまま、図書室にたどり着いた。
「やっぱりメイド服は着ない?」
首を傾げながら、お願いしてくる沢樹君。
「…いいよ、着るね。」
さっきまで底の底まで落ち込んでいた心が沢樹君と話しただけで浮ついている。もう何が何だかわからなくて、私は鞄からメイド服を引っ張り出して、着替え始めた。
「わわわ、じゃ、じゃあ僕外で待ってるね。」
沢樹君が慌てて図書室の外へ出て行った。着替えていると、だんだん頭が正気を取り戻してきて、私は自分の状況を把握し始める。沢樹君に手を引かれ図書室に来て、写真を撮ることになっている。なんだこれ。今日の朝、沢樹君と玲奈さんの綺麗さに、特別っぷりに、ぶっ飛ばされたのに、今はこんなことになっている。
「琴葉さん、もう大丈夫そう?」
沢樹君が確認の声をかけてきた。ちょっと着替えるにしては時間をかけすぎたのかもしれない。
「う、うん。もう大丈夫だよ。」
言ってから自分の身なりが気になり始める。ゴミとかついてないかな。
「わあ、やっぱり、すごい似合ってるよ。」
心の底から声を絞り出すようにして、沢樹君はメイド服姿の私を褒めてくれた。
「ありがとう、沢樹君もすごい似合ってるよ。」
私も沢樹君の執事姿を褒める。やっと沢樹君と文化祭関連の話ができた。
「じゃ、写真とろうよ。」
沢樹君が携帯を片手で構える。自撮りと言うやつだ。私は人生で初めて自撮りを経験した。うまく笑えてるかな。心配しているうちに、沢樹君が連写して何回もシャッター音が鳴った。それが可笑しくって私は自然と笑った。沢樹君も同じように笑ってくれた。
「ありがとう、琴葉さん。」
「うん、こちらこそありがとう。」
ほんのさっきまで心に渦巻いていた痛みが無くなっている。でもこの特別感を信じていいのか分からない。また何かに打ちひしがれてしまうんじゃないかと、私は怖くなる。
「あ、琴葉さん。後夜祭始まっちゃうよ。ほら行こう。」
私の心の内なんて吹っ飛ばすように、沢樹君はまた私の手を引いて走り出した。後夜祭、そういえば一緒に行こうって約束してたっけ。あんなに楽しみにしていたのに忘れていた。沢樹君に置いてかれないよう、私も一生懸命に足を動かしてついていった。図書室から体育館までの、人生で一番楽しい持久走だったかもしれない。
「間に合ったね。」
「…うん、間に合った。」
嬉しそうに胸を撫で下ろす沢樹君。対照的に私は息を切らして、胸がちょっと苦しかった。流石に繋いでいた手は途中で離れたけれど、服装はそのままで、執事とメイドだから目立ってしまいそうだった。体育館の中はすでに生徒でいっぱいだった。バチッと大きな音が響いて、体育館の照明が消えた。暗闇に私たち二人の姿は紛れていく。
吹奏楽部のマーチングバンドから始まり、後夜祭が開幕となった。音楽に合わせて、少し体を揺らす。沢樹君を見ると、彼も体を揺らしていた。眼があって笑いながら、一緒に体を揺らした。周りの生徒も同じような感じで、皆んな楽しそうに合いの手を入れて、歌って、踊って、はしゃいでいる。沢樹君も私もだんだんと他の生徒に飲まれるようにして大きく体を揺らして、大きな声を出す。楽しい、今日の朝あったことなんて、もう記憶から消し飛ぶくらい、楽しさに心が塗り替えられている。マーチングバンドは終わって、ついに軽音部、ダンス部のパフォーマンスが始まった。会場は最高の盛り上がりになって、どんどん人がもみくちゃになっていく。
「えっ…。」
いきなり誰かに押されて、私は倒れそうになった。私よりも背の高い人がたくさんいて、踏み潰されてしまうかもしれない、そんな恐怖が襲ってくる。
「さ、沢樹君っ。」
情けない声で私は助けを求めた。楽しい世界が一変して真っ暗になっていく。このまま人混みに溺れ死んでしまいそうだった。
「琴葉さん!」
沢樹君の声が耳に届いた。瞬間、私の手を誰かが握った。誰の手かも分からないのに、私はその手をぎゅっと掴んで離さなかった。そのまま手を引かれ、私は沢樹君の前に浮き上がった。
「琴葉さん、大丈夫?」
そう問いかけてくる沢樹君の顔が物凄く近い。これ以上ないほどの至近距離。握った手は沢樹君のものだった。今日三度目の沢樹君の手だ。
「うん、大丈夫。ありがとう沢樹君、もうずっと、大丈夫な気がする!」
半分くらい自分で何を言っているか分からない。暗闇の中で光る沢樹君の金髪と碧い眼と発色の良い唇を見て、頭がハッピーになってしまったのかもしれない。でも沢樹君と手を繋いでいれば大丈夫、それだけは強く感じた。そんな私の感情を読み取ってくれたのか、沢樹君はそのままずっと、後夜祭が終わるまで手を繋いでいてくれた。沢樹君と一緒に聴いたバンドの曲が演奏される、人生で最高潮に楽しい時間だった。アンコールを迎えて、先生が後夜祭終了の合図を上げるまで、私は沢樹君と一瞬一瞬を全身で楽しんだ。
後夜祭が終わり、生徒たちが体育館から履けていく。私と沢樹君は体育館の端の方へ行って、立ちっぱなしだった足を休め、座った。
「琴葉さん、大丈夫だった? 転びそうになってたけど。」
私の隣に座った沢樹君が心配してくれた。沢樹君は横顔もすごい綺麗だ。
「大丈夫。転びそうになった時はちょっと怖かったけど、うん。」
自分の手を繰り返し握って開いて、私は沢樹君に含みのある視線を向ける。
「あ、ごめんね。急に手つかんじゃって。」
顔の前で両手を合わせて、沢樹君がごめんのポーズを作る。
「いやいや、大丈夫。本当に、その、安心して楽しめたから…。うん、本当にありがとう。」
改めて振り返ると、私も少し恥ずかしい。正直嬉しさが勝っていたけれど。
「そうだ、この後―。」
「あ、和九くんいた!」
「お、マジじゃん。アイク!」
沢樹君が私に何か言おうとしたとき、クラスメイトが沢樹君を見つけてしまった。すぐに他の生徒が集まってくる。私は本当に臆病者で、沢樹君から人三人分くらいの距離をとってしまった。
「アイク、今から花火やるんだけど、お前も来いよ。」
「九十九先生にも許可とってあるからさ。」
「ていうか和九くん、まだ執事の格好してるじゃん。写真撮ってよー。」
どんどんと沢樹君がクラスメイトたちに囲まれていく。私に気づく人なんていなかった。沢樹君がクラスメイトたちと、どんな会話をしているか聞こえない。それくらい私と彼の距離は離れ、その間がクラスメイトたちに埋められてしまった。今さらそのクラスメイトのうちの一人になるわけにもいかなくて、私は体育館から出た。しょうがない、彼らが誘いたいのは沢樹君であって、私を誘いたいわけじゃない、実際誘われていない。大人しく、私は帰った方がいいんだ。
帰ると言っても、鞄を図書室に置いてきてしまった。図書室から体育館に行くまでは楽しかったのに、戻りは虚しさでいっぱいだ。そういえば今日は色々なことがありすぎた。沢樹君の特別には成れない、そう感じたのに、沢樹君と特別な時間を過ごした。彼から見た私は一体どんな存在なんだろう。本人に聞かなきゃ分からないか。
頭をぐるぐる回して考えているうちに、図書室に着いた。外はもう暗くなっていて、花火が綺麗に咲きそうだった。もう着替えたし鞄も取ったし、図書室に残る理由なんてないのに、私はなぜかいつもの席に座ってしまった。校庭の方から、生徒たちのはしゃぎ声が聞こえる。きっと花火をしているクラスメイトの声だ。沢樹君もあの中に混じって、玲奈さんあたりと一緒に花火をしているに違いない。
私は本当に何をしているんだろう。こんな虚しさに包まれてしまうぐらいなら、周りの目なんか気にしないで、花火に混ざればよかったのに。ため息を大きく吐いて、中庭の方を見た。そこにはスズメが一羽とまっていた。陽が沈んだ後にスズメをちゃんと見るのは初めてだった。
「…何やってるの?」
スズメに言ったのか、自分に言ったのか分からない。声を出したその後すぐに、スズメは飛んでいってしまった。昼の間、群れにいるスズメは夜の間どうしているんだろう。皆んなで集まって夜を越すのかな。さっきのスズメは群れから逸れてしまったのかな。
自分でもなんで図書室に残っているか分からないまま、ついに私は音楽を聴き始めた。沢樹君におすすめされて聴き始めたバンド。後夜祭のセトリに入っていると教えてもらったから聴き始めた曲。そういえば私は沢樹君と話すようになってから随分世界が広がった気がする。本だけだった私の世界は、彼のおかげでとても広くなった。きっと前までの自分だったら、今こんなに虚しさを感じていない。それを喜ぶべきか悲しむべきかは分からない。分からないことだらけだな、私は。
音楽を聴いていたら、図書室に向かってくる誰かの足音が聞こえた。きっと九十九先生だろう、流石にこんな時間まで図書室を開けて置けないだろうし。イヤホンを外して鞄に入れる、もう家に帰ろう。
「琴葉さん?」
入ってきたのは、沢樹君だった。流石にもう執事服は着ておらず、普通に制服を着ていた。
「え、沢樹君、花火はもう終わったの?」
私は沢樹君を二度見してしまった。まだ校庭からクラスメイトたちの声が聞こえる。
「抜け出してきちゃった。」
えへへ、と笑う沢樹君。私は呆気に取られた。
「もう帰るの? 琴葉さん。」
「えーっと、うん、帰ろうとしてた。」
「じゃあさ、ちょっと河川敷まで行かない?」
どこからか取り出した花火セットを見せて、沢樹君はニヤリと笑った。
外はもう完全に夜。空は曇り、星も月も見えず、真っ暗だ。六月上旬、梅雨の少し湿った空気が夜に満ちていた。
「ねえ、沢樹君。なんで図書室に来たの?」
「電気が付いてたからね。ひょっとして琴葉さんがまだいるんじゃないかって思ってさ。」
「そうなんだ。」
「九十九先生も校庭にいたしね。こっそり抜け出したんだけどさ。」
「うん、何かあったの?」
「九十九先生だけ僕に気付いてたんだよね。」
「おー、さすが九十九先生。」
「鋭いよね、九十九先生。校庭から出るとき振り返ったら、先生だけ手振ってたよ。」
「それはすごいっていうか、ちょっと怖いかも。」
「確かに。」
談笑しながら、沢樹君に連れられて、学校近くの河川敷まで来てしまった。街灯だけを頼りに暗い道を歩くのは怖かった。でも沢樹君と一緒だったからか、少しワクワクもしていた。
「ねえ沢樹君。その花火どこから取ってきたの?」
多少予想はつくけれど、沢樹君に限って…と思い、一応聞いてみる。
「こっそり持ってきちゃった。」
えへへ、と笑う沢樹君。やっぱり持ってきたんだ。
「ねえ沢樹君。ここって花火してもいいのかな。」
これも多少予想はつくけれど、一応聞いてみた。
「うーん、ダメかも。」
えへへ、と笑う沢樹君。流石に笑い事じゃない。
「じゃあダメだよ。誰かに怒られちゃうって。」
「橋の下ならバレないと思うんだけど。」
さっきから優等生の沢樹君では、考えられない言動が飛び出してくる。
「ダメかいいか確かめなければ、いい可能性もあるからさ。」
えへへ、と沢樹君はまた笑う。
「そんな『シュレーディンガーの猫』みたいなこと言って…。」
「さすが琴葉さん。よく知ってるね。シュレーディンガーの花火だよ、これ。」
いたずら小僧みたいな顔で沢樹君は笑う。
「そうだね。うん、そうだね。」
私もなんだか可笑しくなって、花火を楽しむことにした。
「でも火とバケツはどうするの?」
「お、琴葉さんも楽しむ気になってきた?」
私の反応を見て、沢樹君はさらに楽しそうな笑顔になった。鼻歌でも歌い出しそうだった。
「バケツはこのビニール袋と水筒を使って、火はこのマッチを使います。」
料理番組みたいに沢樹君は道具を取り出した。
「はい、マッチ持っててくれる?」
沢樹君にマッチを預けられた。
「よいしょ。」
川の水を沢樹君がビニール袋にを水筒に入れて、水を汲んできた。
「ジャーン、バケツの完成です。」
おどける沢樹君。
「おおー。」
拍手する私。
「じゃ、花火を始めましょう。」
沢樹君が私に預けていたマッチを取って、今度は私に花火を手渡した。
「はい、琴葉さん。レディ・ファーストで。」
マッチ棒を擦り、沢樹君が花火に火をつけてくれた。
「ありがとう。」
河川敷、橋の下に綺麗な火の花が咲いた。キラキラとした赤色だ。沢樹君はマッチを消し、花火を手に持っている。どうやって火をつけるんだろうと思っていたら。
「琴葉さん、火もらうね。」
「え、うん。」
沢樹君は、持っていた花火の先っちょを私の持っていた花火につけた。すると沢樹君の花火も咲き始めた。
「うわあ、頭いいね。」
「ジャーン。」
ドヤ顔をする沢樹君。可愛い。
「琴葉さんの花火が消えたら、すぐ次の花火を取って今みたいな感じにしてね。途切れちゃったら面倒だし。」
若干のプレッシャーをかけてくる沢樹君。
「分かった。」
先を見越して、私は手に新しい花火を持った。
「うわあ、頭いいね。」
「ジャーン。」
お互いについさっきのお互いを真似して笑う。
「あ、琴葉さんのもう消えそうだよ。」
「うん。」
沢樹君の持っている花火に新しい花火を近づけて開花させる。なんだか面白い。
「沢樹君のも消えそうだよ。」
「ホントだ。」
赤や緑、黄色に青、カラフルな花が咲く。放射状に咲くのもあれば、球状に咲くのもある。チカチカと花弁を飛ばすものもあれば、ささやかに花弁を落とすものもあった。なかなかのハイスピードで花火が咲いては散っていった。
「あとは線香花火だけだね。」
「どっちが長く点いてるか勝負しよっか。」
沢樹君がマッチを擦り、私がマッチの火に二本の線香花火をつける。
「はい。」
「ありがとう。」
二人で綺麗に短くなっていく線香花火を見つめる。お互いの顔がお互いの線香花火に照らされてよく見える。沢樹君は物凄い幸せそうな顔で笑っている。私も笑う、玲奈さんほど綺麗な顔じゃなくても、幸せを顔に表すぐらい許してください。
「同時だね。」
「うん、じゃあもう一回勝負。」
同じ手順で線香花火をつける。
「せっかくだし写真撮る?」
物悲しそうな雰囲気を察したのか、沢樹君が携帯を取り出して写真を撮ろうとする。本日二度目、人生二度目の自撮りを沢樹君とする。
「難しいな。」
「焦らなくて大丈夫だよ。」
線香花火と二人の顔を画角に入れるのは難しいみたいで、沢樹君が苦戦する。私は応援する。
「よっし、いいの撮れた。」
「やった、ありがとう。」
花火が消える前に、沢樹君がいい写真を撮ってくれたみたい。
『あ。』
写真を撮るのに夢中で、線香花火が落ちる瞬間を二人とも見ていなかった。さっきまでほのかな明かりを灯していた線香花火の小さい丸が地面に転がっている。
「最後はちゃんと見よっか。」
「うん。でも、もう一本しかないね。」
沢樹君が最後の一本を取り出す。
「あ、私もマッチやってみていい?」
「うん、いいよ。でも気をつけてね。」
沢樹君からマッチを受け取って、火をつける。火がつくまではドキドキするんだけれど、火がつくと安心するような感じ、私は久しぶりに体験した。
「小学校の理科の授業以来かも。」
「ホント? 上手いね。」
褒められた。ちょっと嬉しい。
「綺麗だね。」
「うん。」
沢樹君の碧い瞳と眼があう。そんな真っ直ぐな瞳で見つめられると、私はまた勘違いしてしまう。線香花火のほのかな明かりを反射する彼の金髪に眼をそらす。
「花火も小学校以来かも。」
「そうなの?」
パチパチと線香花火が花弁を散らす。
「うん、小学四年の時だっけ、家の庭でやったんだよね。」
「おー、いいねえ。」
線香花火はゆっくりと短くなっていく。
「お姉ちゃんが十本ぐらい一気に火をつけてさ、大変だったよ。」
「面白いお姉さんだね。」
消える前最後の輝きか、線香花火がより綺麗に灯る。
「お父さんに写真撮ってーって急接近してね、お父さん火傷しちゃったんだよね。」
「え、お父さんひどく怒らなかった?」
もう後少しで、線香花火は散ってしまいそう。
「全然怒らなかったよ、むしろいい写真が撮れた、なんて言っててさ。お母さんと私が心配したよ。」
「…いいお父さんだね。」
ついに線香花火が落ちた。
「終わっちゃったね。」
沢樹君が呟いて、花火を急造バケツに入れた。
「うん、でもめちゃくちゃ楽しかったよ。」
めちゃくちゃ、なんて言葉が自分の口から飛び出て、私自身も改めて楽しさを実感した。
「そっか、じゃあ良かった。」
「うん、ありがとう沢樹君。」
花火が終わって、ちょっとした沈黙は二人の間に流れる。何か話したいような、このまま二人で静かに川を眺めていたいような感傷に浸る。花火の光や音がなくなって、川の反射光や音がよく感じられる。
「ん。」
沈黙を破ったのは沢樹君だった。
「どうかした?」
何かに気づいて声を漏らしたみたい。
「雨降ってきちゃってるよね。」
空を指差す沢樹君。
「ホントだ。」
眼を凝らすと、小さな雨粒が降っていた。
「琴葉さん、傘持ってる?」
「ううん持ってない。」
文化祭で頭がいっぱいだったから、私は天気予報を確認しなかった。沢樹君は鞄の中をゴソゴソとしている。もしかして傘を持っているのかもしれない。
「ジャーン。」
折り畳み傘を取り出す沢樹君。
「さすが沢樹君。」
拍手する私。
「琴葉さん、歩きだったよね。送ってくよ、もう夜だし。」
沢樹君がイケメンな提案をしてきた。
「え、でも沢樹君帰る方向逆だよね。ここからだと私の家まで十分ぐらいかかるよ。」
「大丈夫。花火に誘って雨降ってきちゃったの、僕のせいだし。」
いくら私が大丈夫だと言っても、沢樹君は聞かなかった。結局沢樹君に相合傘をしてもらいながら、私の家まで送ってもらうことになった。
霧雨だ。音もなく細糸のような滴が連なって降っている。沢樹君は私よりもだいぶ背が高い。よく見ると彼の肩が少し傘からはみ出ている。申し訳ないから、できるだけ沢樹君側に寄って、彼の肩が濡れないようにと思うけれど、ほんの数ミリくらいしか肩を寄せられなかった。沢樹君は真っ直ぐに前を見て、私の歩幅に合わせて歩いてくれている。私はどこを見たらいいかわからないくて、キョロキョロとしてしまう。下を見ると、アスファルトの色が雨粒によって、水玉模様になっていた。
「道、こっちであってる?」
「うん、あってるよ。」
沢樹君はあんまり緊張していないみたいで、私に道を聞きながら歩いていく。相合傘なんて、沢樹君は数えられないほど経験しているのかな。私は自分の心臓の音と雨の音を勘違いするくらいだ。
「もう文化祭も終わっちゃったから、受験だね。」
受験、そういえば私たちはもう高校三年生だった。
「そうだね、沢樹君は進路どうするの?」
持久走大会までは高速で進んでいた時間が、最近は濃密で、早いんだか遅いんだか私には分からない。
「うーん、進学はするつもりだけど、どこに行こうとかは全然考えてないかな。」
「私もそんな感じかな。」
沢樹君は頭の良い大学に行きそうだと思ったけれど、何となく口にするのはやめた。
「図書室でさ、これから一緒に勉強しない? 課題みたいに、琴葉先生に国語とか社会教えて欲しいな。」
「もちろん、沢樹君も英語とか数学教えてね。」
迷う間も無く、私は提案を受け入れた。沢樹君と教え合いながらする勉強は何倍も楽しい。
「赤だね。」
「うん。」
交差点、信号の周りだけ赤い雨糸が流れている。ここの信号は長い、地方の信号のくせに。でもこの交差点を越えたら、もう家まで一瞬だ。
「沢樹君、ちょっと気持ち悪いこと聞いてもいい?」
頭に浮かんだ言葉をそのまま口から出す。
「うん、いいよ。」
ちょっと眼を見開いて、沢樹君が私を見つめる。
「沢樹君にとって、私ってどんな存在かな。」
上ずった震えた声で、私はついに沢樹君に聞いてしまった。
「うーん…。」
傘を持っていない方の手で口を抑え、沢樹君が真面目な表情をする。はぐらかしたり、馬鹿にしたりしないで、ちゃんと考えてくれている。それだけで私は嬉しい。
「僕も気持ち悪いこと言ってもいい?」
「うん、いいよ。」
断るはずない。心臓の音がうるさい、沢樹君の声を聞き逃したら一体どうしてくれるんだ。
「特別な存在、かな…。」
言ってから、沢樹君が顔を真っ赤にした。私も真っ赤。
「ちょ、ちょっと待って、えっと、やっぱり、ありがたい存在、かな。」
言い直した沢樹君は自分の言葉に納得したようで、落ち着きを取り戻している。私は浮ついている。
「ホワイトデーのとき手紙でも書いたんだけどさ。持久走大会の辺りから、家がごちゃごちゃしてさ。母さんと父さんっていうか、父さんの会社っていうか、なんかぐちゃぐちゃで。」
沢樹君が少し辛そうな顔をしながら、雨の降り始めみたいにポツポツと喋り出す
「色々悩んでて、誰かに相談したかったし、実際したんだけど、あんまり良い感じにならなかったんだよね。それは多分、僕の周りにいる人が、僕の考えているより僕のことを、強いって思ってたから、なんだと思うんだけど。」
沢樹君の言葉の雨はどんどん強くなってきた。
「それはしょうがないんだ。しょうがないんだけどさ、すごい辛かったんだ。すごい辛いとき、琴葉さんと会ってさ、話すようになって、すごい救われたんだ。自分のことを真っさらな状態で見てくれて、弱い僕も独りじゃないんだって思えてさ。だからさ。」
交差点の信号機はもう青色だ。でも沢樹君の碧い瞳が私を動かさない。
「だから、ありがとう、琴葉さん。」
碧い瞳から雨粒が垂れた。それは頬に小さな川を流して、アスファルトに新しい水玉模様をつくった。
「うん、どういたしまして。」
今度は私がちゃんと伝えるべきだ。
「私もね、持久走大会辺りまでの人生、あんまり楽しくなかった。読書は好きだけど、それだけだったし、放課後はいつも図書室に逃げてた。だから沢樹君と仲良くなって、世界が広がって、本当に楽しい。ときどき沢樹君の強いところを見て、不安になるけど。」
交差点の信号機は黄色に点滅している。でも沢樹君の金髪の方が綺麗だ。
「ありがたい存在だって言ってもらえて、すごい安心した。だから私からも、ありがとう、沢樹君。」
伝えきった。私も沢樹君も、涙を流しながら笑った。交差点の信号機は赤色になったけれど、もう一周くらい待たされても全然問題ないと思った。
交差点を渡ってすぐに、私の家に着いた。
「あ、花火のごみ、捨てとくね。」
沢樹君が傘の持ち手にくぐらせていたビニール袋を、私はスッと取る。
「ありがとう。」
「うん。」
傘を自分の真上に持ち直す沢樹君。彼の右肩は結構濡れてしまっていた。
「沢樹君。傘、ありがとう。風邪引かないようね。」
「うん、ありがとう。琴葉さんもあったかくしてね。」
霧雨はだいぶ弱まっている。
「じゃあ、またね、沢樹君。」
「またね、琴葉さん。」
塞がっていない方の手を使って、お互いに手を振って、二人で力みの抜けた笑顔をする。数秒後、沢樹君は背を向けて歩いて行った。私はその姿が見えなくなった後に、家に入る。
「ただいまー。」
いつもよりちょっと大きな声が出た。
文化祭が終わっても、私と沢樹君の関係は特別変わらなかった。図書室で勉強することが増えたくらいで、読者したりお菓子を食べたり駄弁ったりする日々だ。日々と言っても毎日沢樹君が来るようになったわけじゃない。今まで通り、私と沢樹君が会うのは週に三日ぐらいだ。
湿っぽい梅雨が去って行って、七月、暑い夏がやって来た。図書室から見える中庭の木には青々と葉が茂り、スズメだけじゃなくて、蝉の声も聞こえるようになった。
今日は一人でノートに英単語を書き連ねていく。消しゴムを擦って、間違えた字を消す。消した字の少し下が湿る。エアコンの効いた図書室でも夏の湿気を感じた。湿った部分が破れないように、慎重に続きを書いていく。すると、図書室の扉が開いた。今日は沢樹君が学校に来ていないから、珍しい来客だった。
「琴葉さん、ちょっといい?」
来客は玲奈さんだった。そういえば文化祭の時から、彼女の髪は黒色になっていた。
「うん、大丈夫だよ。」
今回は一体何を言われるか緊張しながら、返事をする。
「ありがとう。」
綺麗な顔をにこりとさせて、玲奈さんが隣の席に座った。
「後夜祭の後、沢樹君と帰ったの?」
ストレートな言葉が飛んできた。ジャブも無しに。どうしよう、正直に言うべきか、嘘をつくべきか。これは私だけの問題じゃない。
「琴葉さんと沢樹君っぽい二人が一緒に帰ってる写真が、女子の間で出回っててさ。前、私からも言ったけど、沢樹君のファンクラブもあったりして―。」
喋りながら、玲奈さんは私に携帯で写真を見せてくれた。それは夜の中、校舎から出て一緒に歩く私と沢樹君の姿だった。写真はブレているから、何とか誤魔化せるかもしれない。
「それでね、過激派っていうのかな。そういう子たちが琴葉さんに変なことするかもしれなくって。」
玲奈さんの顔が曇っている。私の顔からは冷や汗が流れている。
「へ、変なことって?」
「あんまり気持ち良くないこと。嫌なことかも…。」
脅すでもなく、玲奈さんは淡々と説明する。私の頭の中で、中学生のときの嫌な記憶が再生される。
「ねえ、琴葉さん。私、持久走の後とか、バレンタインのときとか、そういうときに、沢樹君と琴葉さんが仲良くしてるの、実は知ってたよ。」
頭も体も深く落ち込んで、返事が返せない。
「…。」
「えっと、とりあえず私からちゃんと沢樹君のことについて話すね。」
物言わなくなった私に対して、玲奈さんは優しく何かを打ち明けようとする。
「去年の十二月ごろ、沢樹君が珍しく元気なさそうだったから、よく一緒にいるグループの子たちが、しつこく『どうしたの』って聞いたの。そしたら沢樹君が色々打ち明け始めたんだけど―。」
玲奈さんは悔しそうに一度唇を噛んだ。
「他の子が笑い話にしようとしたの。中には落ち込んでる沢樹君に漬け込もうとする子もいた…。何とかして沢樹君と真面目に話す方向に持って行こうとしたけど、私にはできなかった。」
「そうなんだ。」
私はやっと相槌が打てた。沢樹君の話を聞いて、嫌な思い出に苛まれる頭が元に戻った。
「だからその後、何度か沢樹君と二人で話そうとしたんだけど、避けられるようになっちゃって。どうしようって思ってたら、琴葉さんと楽しそうに帰る沢樹君を見かけたの。」
「それって一月くらい?」
「うん、そう。」
だいぶ前から玲奈さんは、私と沢樹君の関係について知っていたみたい。
「それで、琴葉さんが沢樹君を救ってくれるんじゃないかって思って。私も二人の助けになりたくて、今日ここに来たの。」
真っ黒で綺麗な瞳が私を貫く。とても嘘を言っているように見えない。もし嘘を言っていたら、私はもう誰も信じられない。
「ときどき図書室に来てたのって…。」
「そう、二人の助けになれると思って。」
玲奈さんを信じてみよう。
「実はね、後夜祭の後―-。」
後夜祭後に何があったか、私は玲奈さんに話した。玲奈さんは最初から最後まで真剣に聞いてくれた。
「じゃあ、この写真は事実ってことね。」
「うん。私どうしたらいいかな。」
変なことも嫌なこともされたくない。私の眼に夏の湿気が溜まっている。
「何もしなくていいよ。私が全部何とかするから。」
力強い声で、玲奈さんが宣言した。
「何とかって、どうやって?」
「まあ、何とかなるでしょ。」
早速、玲奈さんが携帯を使って何かをし始めた。
「玲奈さんって、その…。沢樹君のこと好きじゃないの?」
私は今日一番の疑問をぶつけた。
「…。」
携帯を触る指は止めないまま、玲奈さんは私を見つめる。
「タイプじゃない。」
バッサリ。玲奈さんは沢樹君への恋心を否定した。
「あ、でもイケメンだとは思うよ。性格もいいし。でも私イケメンっていうより、ハンサムの方が好きだから。別に嫌いとかじゃないよ、じゃなきゃ助けようとしないし。」
さっきからの数分で、私の玲奈さんに対するイメージはまるっきり変わった。
「ごめん、玲奈さん。私勝手に勘違いしてた。」
「いいよ別に、よく言われるし。琴葉さんはマシな方だよ。」
一通り作業し終えたようで、玲奈さんは携帯から手を離し、体も私に向ける。
「偏見とか思い込みとかって、あるのはしょうがないし、それを露骨に出さないだけ、琴葉さんは立派だよ。ちゃんと今も聞いてくれたしね。陰で変なこと言われるよりいいよ。沢樹君も、そういうところが救いになったんじゃないかな。」
「出さないっていうか、上手く喋れないだけなんだけど…。」
ネガティブな私。
「いいじゃん。長所も短所も紙一重だよ。」
ポジティブな玲奈さん。
「うん、何とかなりそう。だから後は全部私に任せて。」
携帯を確認して、玲奈さんは満足げに頷く。
「ありがとう、本当に。」
私は深々と頭を下げる。
「別にいいよ。私は、私のせいで誰かが傷つくの嫌いなだけだから。」
そっぽを向く玲奈さんの頬が少し赤かった。照れている姿も美人だ。
「じゃ、私帰るね。」
最後に連絡先だけ交換して、玲奈さんは図書室から出て行ってしまった。美人特有の香りだけが図書室に残っている。ジジジッという音にびっくりして、中庭の木を見ると、蝉が逃げて行った代わりに、三羽のスズメがとまっていた。
後夜祭の写真については、本当に玲奈さんが何とかしてくれたみたいで、私たちの図書室での日々は彼女によって守られた。中庭の木では、蝉たちの大合唱が響く。夏休みまで残り一週間、今日も私は図書室で沢樹君と勉強に勤しんでいる。
「夏休み、一緒に猫カフェ行かない?」
沢樹君がそれとなく、私に聞いてきた。
「うん、行きたい。」
可愛い猫と沢樹君、最高の息抜きになるに違いない。
「前、琴葉さんが猫の動画見せてくれたでしょ。あれから自分でも見るようになってさ。」
「それで我慢できなくなっちゃったってこと?」
鉛筆から手を離して、私と沢樹君はお喋りモードになる。
「そうそう。リアル猫に癒されたいなーって思って。せっかくなら琴葉さんも誘おうってね。」
「ありがとう。いやー、リアル猫はいいよ。」
腕を組んでしみじみと私は言う。
「琴葉さんって猫飼ってたっけ?」
「家にはいないんだけど、おばあちゃん家にいるの。すっごい可愛いんだよ。」
携帯で何枚か写真を撮っていたことを思い出して、沢樹君に写真を見せる。
「うわあ、可愛いね。」
「可愛いでしょ。」
写真の中で、日向ぼっこ中の白い猫が縁側に寝転がっている。
「名前はなんて言うの?」
「ケンゾウ。」
自分で答えて、沢樹君と一緒に笑う。
「い、いい名前だね。」
ツボにハマったみたいで、沢樹君はお腹を抱えて笑っている。
「うん、おじいちゃんが決めたんだよ。『ヒトツバシ・ケンゾウ』で、いいじゃないかって言ってさ。」
沢樹君はさらに笑う。
「ゲホッ、ゲホッ。」
ついには咳き込んだ。呼吸より笑いが優先されて、息ができなくなっちゃってる。
「大丈夫?」
私は沢樹君の背中をさする。そういえば沢樹君に触れることが、あんまり気にならなくなった。
「うん、ありがとう。」
まだちょっと口の端に笑いを残しながら、沢樹君は大きく息を吸った。
「予定は八月の頭くらいでいい?」
吸った息を吐いた後、沢樹君が日程の確認をする。
「うん、大丈夫。沢樹君の予定で決めていいよ。私特に用事ないから。」
「了解しました。じゃあ、勉強がんばろっか。」
私も沢樹君も、鉛筆を持ち直す。ちなみに沢樹君はこの後ずっと『ケンゾウ』の思い出し笑いを繰り返していた。蝉たちの声に紛れる沢樹君の笑い声が可愛らしかった。
持ってる服の中で一番お洒落なものを着てきた。新幹線も止まる駅の前は、夏休みということもあって、結構な人混みになっていた。やっぱり人混みは少し嫌い。蝉の声と人の声が不協和音になって響く。夏の暑さと人混みの熱、緊張で汗が垂れる。
「琴葉さーん!」
人混みの中から顔を覗かせた沢樹君が、手を振っている。夏休み中も図書室で一緒に勉強しているから、久しぶり気分は感じない。それ以上にドキドキ気分だ。
「沢樹君、早いね。まだ集合時間の三十分前だけど。」
集合時間は十五時半。絶対に遅れないようにと、私は三十分早く来ていた。
「琴葉さんなら、三十分ぐらい早く来るんじゃないかなって。」
自慢げな沢樹君。私の動向なんてバレバレらしい、これは喜んでいいのかな。
「服似合ってるね、琴葉さん。」
一緒に歩き始めてすぐに、沢樹君が私の服装を褒めてくれた。
「ありがとう。スズメを参考にしました。」
お洒落はよく分からないから、冗談ぽく言ってみる。
「うん、可愛いよ。」
深く頷いて、沢樹君がまた褒める。可愛いの矢印はスズメに向いていることにして、高揚を落ち着かせる。
「沢樹君も…、うん、いつも通り格好いいね。」
気の利いたことを言えれば良かったけれど、私服の沢樹君も格好いい、で着陸してしまった。
「ありがとう。」
私たちの近くを通り過ぎる人たちが、チラチラと視線を向けている。九分九厘の人が沢樹君に眼を奪われていた。そのおかげか、私に眼を向ける人は少ない。私がスズメなら、沢樹君はキジかな、そこまで派手な服を着ているわけじゃないけど。
「沢樹君はこの辺に住んでるんだっけ。」
この前、沢樹君は駅前のマンションに住んでいると言っていた。
「うん、あそこに住んでいるよ。」
背の高い沢樹君がさらに高いところを指差す。彼の綺麗な指の先には、駅前で一番高いビルがあった。
「うわー、たっかいね。」
小学生みたいな感想しか出てこなかった。
「うん、たっかいよ。」
沢樹君はニコニコと笑う。私の反応がそんなに面白かったんだろうか。
「琴葉さん緊張してる?」
「うーん、ちょっとしてるかも。初めての猫カフェだし。」
正直言うと、沢樹君と二人で出歩いていることの方が緊張する。駅前の人混みを避けながら、私は沢樹君の斜め後ろを歩いていく。
「案ずるよりも産むが易しだよ。」
「うーん、言うは易し行うは難しかも。」
二人で言葉遊びをしながら、どんどんと歩いていく。照りつける日差しがちょっと痛い。私が緊張に慣れるころに、猫カフェに着いた。
『わあ…。』
私と沢樹君、二人揃って感嘆の声を漏らした。他の人が見たら、ちょっとアホっぽかったかもしれない。象徴的なキャットタワーが真ん中にあって、お洒落なソファやテーブル、漫画や雑誌の棚がたくさん置いてあった。そして猫さんたちがいたるところにいた。黒に白、茶色に鼠色、三毛に虎柄、色々な子たちがのびのびと過ごしている。沢樹君と顔を合わせて、猫さんたちのところへゆっくり歩いて行った。
人懐っこい子なのか、虎柄の猫さんが沢樹君の足元にやってきた。動物にもモテるんだ。
「よしよし。」
「可愛いね。」
二人で虎柄の子を撫でる。猫特有の液体みたいな動きをして、私たちに甘えてくる。
「琴葉さん。」
沢樹君に肩を叩かれ、周りを見渡す。他の人懐っこい子たちも、私たちのところへ来ていた。
「最高だねぇ。」
「そうだねぇ。」
猫ちゃんたちの可愛さに、私たちの語尾も液体みたいに溶ける。小声で猫たちの可愛さを喋りながら、私たちは猫カフェを堪能していく。おやつをあげたり、一緒に遊んだり、せっかくなので店オリジナルのココアを飲んだりもした。
時間はあっという間に過ぎていった。十五時ごろ入店して、今はもう十七時半ぐらい。猫と沢樹君がいれば、いつまでも楽しめそうだった。
「琴葉さん、お腹空いてない?」
沢樹君の声が耳に届いた。ソファに座り猫を眺めながら、ぼーっとしていた私はハッとする。もう夕食時だった。
「うん、そろそろ帰らなきゃだよね。」
こんな最高の空間から出ていくのは名残惜しいけれども、沢樹君に迷惑はかけられない。
「じゃあ、帰ろっか。」
「あ、ちょっと待って。」
本棚が並んでいるところに白猫と三毛猫が戯れあっていた。
「なんか、似てるね。」
「確かに。」
最後にその子たちをちょっと眺めて、私と沢樹君は店から出た。
駅まで来た道を戻っていく。十七時過ぎと言うこともあって、人の数が増えていた。ずっと空調の効いた店内にいたから、蒸し暑い外の空気が重くのしかかってくる。
「琴葉さん、ちょっと行きたい喫茶店があって、一緒に夕ご飯食べない?」
暑さを感じさせない涼しげな様子で沢樹君が聞いてきた。
「うん、一緒に食べよう。」
私もできるだけ爽やかに返事をする。心のうちは高揚で熱くなっている。
「じゃあ、着いてきて。」
「うん。」
駅を越えて、飲食店が立ち並ぶところへ入っていく。私一人なら絶対こないところだ。
「ぁ…。」
「どうかした?」
漏らした声を沢樹君は逃してくれなかった。
「何でもないよ。」
「ホントに?」
私の体温が上がる。夏のせいだけじゃない。
「うん、何でもない。」
「えー、ホントかなぁ。」
笑って誤魔化す。今更、私は沢樹君とデートしていることに気づいた。沢樹君はデートだと思っていないかもしれないけれど、状況的にはデートで間違いなかった。上昇した体温に従って、心臓が音を大きくし始め、顔はだんだんと赤らんでいく。
「大丈夫? 琴葉さん。」
赤くなった私を沢樹君が心配する。
「だいじょぶ。」
「暑いから無理しないでね。あとちょっとで着くから。」
沢樹君の金髪も汗で少し濡れていた。今はあんまり顔を近付けないで欲しい。頭が沸騰しちゃう。
沢樹君が来たかったという喫茶店に着いた。私の頭から湯気が出る前に着いてよかった。半地下って言ったらいいのか、一階と地下の間みたいなところにある喫茶店だった。文化祭のクラス展ほどクラシックではないけれど、お洒落な店内だ。涼しい空気と渋みのあるマスターさんが出迎えてくれた。マスターさんみたいな人が、玲奈さんのタイプなのかな。
「沢樹君はよく来るの?」
携帯の地図も見ずに、案内してくれたから、何度か来たことがあるんだろう。
「家族で一回来たことあるよ。」
「そうなんだ。」
沢樹君はサッと私からメニュー表へ視線を移した。
「何食べよっか。」
「うーん。」
メニュー表にはパスタやハンバーグ、カレーなどの洋食を中心に、美味しそうなレパートリーが並んでいた。写真じゃなくて、暖かみのあるイラストが載っていてどれも美味しそうだ。
「せっかくだし、日替わりの頼んでみる?」
「うん、そうしよう。」
沢樹君が優柔不断な私を引っ張ってくれた。
「すいません、注文いいですか?」
注文まで沢樹君がしてくれた。マスターさんの声は、これまた渋みのある低い声だった。
『美味しそう。』
猫カフェに入った時みたいに、私と沢樹君は運ばれてきた料理を見て、同じ反応をした。二人で笑いながら、料理を見つめる。本格的なドリアだった。
「手を合わせてください。」
沢樹君が小学生みたいな声で言った。
「合わせました。」
私も小学生みたいな声で言う。
『いただきます。』
今度はわざと二人で声を合わして、料理を食べ始めた。
「美味しいね。」
「うん、美味しいね。」
初めて食べる本格的なドリアはものすごく美味しかった。小学生のとき家族でファミレスに行って、お姉ちゃんが吐きそうになるまで、食べていたことを思い出す。あの日のドリアとは違う美味しさが舌の上で踊っている。
「美味しいねえ。」
「うん、本当に美味しい。」
私も沢樹君も食べている間、美味しいばっかり言っていた。
私が食べ終わると、沢樹君は最後の一口を味わっていた。私に食べるスピードを合わせてくれたのかな。
「ご馳走様でした。」
「ご馳走様でした。」
ふざけず、心を込めてご馳走様をする。それから私たちは料理の感想や猫カフェの感想を改めて喋った。沢樹君も私と同じくらい楽しんでいたみたいで嬉しかった。
「琴葉さん、ちょっと真面目な話してもいい?」
お冷やをマスターさんに注いでもらい。話が途切れると、沢樹君が真面目な口調になった。
「うん、いいよ。」
私も少し気を引き締める。
「真面目って言っても、まあ、僕の家の話なんだけど。」
ことわりを入れて、沢樹君が話し出した。
「僕の家っていうか、父さん家系の会社が結構大きくてさ。『誰が社長を継ぐんだ!』みたいな感じの結構お堅い会社なんだよね。」
腕を組んで、会社の堅さを表現する沢樹君。私はそのまま真面目に話を聞く。
「それで去年の十一月ごろ、会社と父さんと母さんの間ですごい喧嘩になったんだよね。会社は血筋で僕が絶対つぐべきだって言って、父さんは一度試しでやらせてみようって言って、母さんは僕の好きにさせようって言って。」
沢樹君が遠い眼をする。まだ半年しか経っていないから、その喧嘩でできた傷が癒えてないんだ。
「学校行ってないときは大体それ関係なんだよね…。」
「そうなんだ、大変だったね。」
私の言葉で沢樹君が救えるか分からないけれど、私は自分の言うべきだと思った言葉を言う。
「辛いときはさ、私で良かったら相談してね。」
「うん、ありがとう。」
沢樹君の顔が真面目な表情から安心したような表情に変わった。
「でも良くはなっててさ。全然、家庭環境が悪いとかじゃないんだよ。」
私は頷くのみ。沢樹君のその言葉が、彼自身に言い聞かせているわけじゃないと思いたい。
「ごめん、なんか堅い話しちゃって。」
「ううん、大丈夫大丈夫。私で良かったら何でも話聞くから。」
力の抜けた笑顔を二人で交わして、一緒に真面目モードを解除した。お冷やを一口飲んで、喉を潤す。
しばらく二人でお喋りをして、そろそろお店を出た方がいいかな、と思い出していると、マスターさんがテーブルの上に小さなタルトを置いた。マスターさんはニコニコしながら、そのままキッチンに戻ってしまった。
「あれ? 沢樹君、これ私たち頼んでないよね。」
私は手を上げて、マスターさんに『すいません!』と声をかけようとする。
「あー、待って待って琴葉さん。」
焦った様子で沢樹君が私を止める。私は上がった手をゆっくりと下ろす。
「誕生日おめでとう。琴葉さん。生まれてきてくれて、僕と仲良くしてくれて、ありがとう。」
えへへ、と笑う沢樹君。
「あ、ありがとう。」
ハッとする私。そういえば、今日・八月八日は私の誕生日だった。朝、家で両親に祝いの言葉をかけてもらった気もする。沢樹君と出掛けることに集中し過ぎて、自分の誕生日がすっかり頭から抜け落ちていた。
「玲奈さんに、琴葉さんの誕生日教えてもらったんだよね。」
「そうなんだ、玲奈さんにも感謝しないと。ほんとうに、ありがとうね。」
家族以外に誕生日を祝われるなんて久々だ。さらに『生まれてきてくれて、』と言われた。自分の人生丸ごと肯定された感覚が、私の胸を貫く。気を抜くと涙がこぼれてしまいそうだった。
「沢樹君の誕生日っていつ?」
絶対に沢樹君の誕生日に同じ言葉を送ろうと思って尋ねる。
「二月二十九日だよ。」
「珍しいね。」
閏年の、あったりなかったりする日付だ。
「うん、二十八日にしても良かったらしいんだけど、母さんがちゃんと生まれた日にしたいって譲らなかったらしくって。」
「今年は二十九日ってあるのかな。」
「絶対にあるよ。母さんが閏年はいっつも誕生日のこと言うから。」
沢樹君が愛されているようで、私は勝手に安心した。
「琴葉さん、食べて食べて。」
誕生日の話に夢中になって、タルトをほったらかしにしていた。
「うん、いただきます。」
フルーツの乗った可愛らしいタルトを一切れ食べる。果物の酸味と生地の甘さが、私の顔を自然と笑顔にする。夏が来る前の、私と沢樹君みたいな味、とても美味しい。
「美味しいそうで良かった。」
私の表情で沢樹君に、タルトの美味しさが伝わったらしい。沢樹君も一切れ食べる。
「うん、美味しい。」
小さなタルトだったから、すぐに無くなってしまった。でも私はこの小さなタルトの味を一生忘れないと思う。誕生日だけじゃなくて、死んでしまう前にも食べたいと思った。
小さなタルトを食べ終わった後、二人でお会計を済まして店を出る。小さなタルトはサービスにしてくれた。マスターさんと、いつの間にかキッチンにいた優しそうな女性が『また二人で来てね。待ってるね。』と言ってくれた。二人の距離感から、何となくマスターさんのお嫁さんなんだなと思った。ざんねん、玲奈さん。沢樹君と猫とタルト、人生で今日が一番、心休まった。
「ありがとね、一緒に来てくれて。」
駅に向かって二人で、また歩く。日はもう沈んでいて、空には月と星が見えていた。地面では、日中に溜め込んだ熱気を、アスファルトが吐き出している。
「沢樹君も誘ってくれて、ありがとう。」
猫カフェもお洒落なカフェも、一人ではきっと行けなかった。行けたとしても、一人で楽しめたかは分からない。
「猫カフェ…。」
「どうかしたの? 琴葉さん。」
「ねえ、沢樹君。私、猫カフェのお金払ってないよ。」
「ああ、大丈夫。予約取ったから、もう払ってあるんだよ。」
「いや、そういうことじゃなくって。私が払ってないってこと。いくらだった?」
歩きながら、私はお財布を取り出す。
「うーん、教えない。」
「え、ダメだよ。沢樹君、教えて。」
自分から初めて沢樹君に顔を近づける。赤くなる頬で、怒りも表す。
「誕生日でしょ、琴葉さん。僕からの誕生日プレゼントってことでさ。」
「えぇ…。」
「じゃあさ。今度また、どこか一緒に行こうよ。」
「…うーん、分かった。じゃあ私にも何かプレゼントさせてね。」
はぐらかされちゃった気もするけれど、また沢樹君と出かけられるなら、いっか。
「また、明日から勉強がんばんないとね。」
手を伸ばし背伸びする沢樹君。
「そうだねぇ。」
私も真似して背を伸ばす。
「明後日からでもいいかな。」
「いいんじゃないかなぁ。」
歩いて行きながら、あんまり頭を使わず会話する。
「明々後日はどうかな。」
「うーん、ぎりぎりセーフ?」
えへへと一緒に笑って話しているうちに、駅に着いてしまった。
「またね、沢樹君。人生で一番楽しい誕生日だったよ、ありがとう。」
「どういたしまして。僕も楽しかったよ、また一緒にどこか行こう。」
いつも通り、手を振って私は沢樹君に背を向ける。きっと私の姿が見えなくなるまで、見守ってくれているんだろう。振り返らなくても、なんとなく分かった。
ガタンゴトン。電車らしい音に包まれながら、窓の外の景色が後ろに走るのを眺める。電車内はそれほど混んでいなかった。会社帰りの人や学生さんや高校生が微妙な距離を空けて席に座っている。私も座席の端っこに座った。そういえば今日、沢樹君と一緒にいる間は周りの人があんまり気にならなかったな。スズメと一緒の色合いの服を着た私が電車の窓に反射して映る。その向こうでは、高いビルが徐々に低くなっていって、背の低い住宅が並び始めていた。沢樹君が住んでいると言った一番高いマンションはまだ電車内からも見えた。沢樹君もあそこから、電車に乗った私を見ているかもしれない。
なにはともあれ、私は今日人生最高の誕生日を過ごした。携帯を見るとお母さんから、『できるだけ早く帰ってきてくれたら嬉しいです、ケーキあるよ!』と連絡が入っていた。夕食を外で食べるとは言っていなかったけれど、お母さんは怒っていないみたいで良かった。携帯を取り出したついでに、イヤホンも鞄から尻尾を出していた。せっかくなので、私は音楽を聴きながら家に帰った。