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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔女ルクセナの恋

作者: 雨足怜

 自分の荒い呼吸の音だけが、闇の中に消えていく。

 ドクン、ドクンと耳の奥で心臓が激しく音を鳴らす。

 木の根に躓いた体が投げ出されて、大地を滑る。

 湿った枯草の上に放り出された体は強い疲労を訴える。


「う、ぁ……っ」


 背後、あれほど聞こえてきていた悲鳴も怒号も、もう届かない。

 ざわざわと枝葉が鳴る音が俺の体を包み込む。


 じくりと、額が熱を帯びる。


「ぁ、あああああああああああああッ」


 恐怖と怒りが渦巻き、激しい雄たけびとなって迸る。


 それは、歓喜だった。

 ざまぁみろという、ほの暗い喜びだった。

 狂ったように笑って、そして。

 空っぽな心を抱えて、俺は歩きだした。もっと体が大きければ、もっと力があれば、そんなたらればを考えながら。


 頭上を覆う枝葉は月明かりも星の輝きも届けてはくれない。

 暗闇の中、少し落ち着けば、無数の虫のさざめきが聞こえてくる。それから、遠く、魔獣の咆哮。


 疲労を訴える足を、一歩、また一歩、前へと無理やり突き出す。

 体が重い。カラカラに渇いた喉が水を求める。

 こんな闇では、歩くのがやっと。水なんて見つからない。

 そうして歩くうち、どろりとしたものが背中を伝う感触に気づく。

 それが、血の流れだということを思い出して。


 傷の痛みが、今更体を蹂躙した。


 今度は、木の根に躓いたわけでもなく、体が大地へと放り出される。

 打ち据えた膝の痛みより、背中に刺さった矢が肉をえぐる痛みのほうがずっと大きかった。


「……く、そ」


 こんなところで、終わりなのか?

 せっかく自由を手にしたのに、ここで死ぬのか?


 こみ上げる恐怖に、けれど体はもう、立ち上がる気力を失っていて。

 そうして俺は、眠るように意識を失って。


 そのまま、だれも知らぬ森の片隅で息絶える――その、はずだった。





 音が聞こえた。

 ブクブクと、湯が沸騰する音。それは、「躾けてやっているんだ」と粘着質に告げるあの男が浴びせてきた熱湯を思い出させた。

 全身の毛が逆立つ。肌が粟立つような感覚が襲う。

 逃げなければ――そこまで考えて。

 自分が、あの悪夢から脱出したことを思い出した。


 ならば、この音は何なのか。

 目を開けることなく、耳を澄ます。

 生活の音がした。湯が沸く音、何かを束ねるような音。それから、独特な草のにおい。


「……あら、眠ったふり?」


 声は、思っていたよりもずっと近くから聞こえた。

 ぶはぁ、と。

 顔に吐き出された煙に、俺は我慢ならずにむせ返った。


 悪臭ではない。けれど、慣れなければ強烈と表現できる刺激のある煙。


「安心しなさい。薬煙草だから害はないわよ」

「げほ、ごほっ……何が、害がないだ」


 涙目になるほどにむせ返りながら、俺はその女をにらむ。

 年齢は、20くらいか。癖の強い深緑の髪と、金色の瞳、薄汚れた黒のローブを身に着けたそいつは、物語に登場する敵役を連想させた。


「……まさか、魔女か」

「ご明察」


 フゥ、と女が紫煙を吐き出す。文字通り、それは薄紫の煙。

 とっさに口や鼻に手を当てて覆い、煙を避ける。


 こみ上げる怒りは、悪臭を吐きつけてくることに対してか、あるいは、魔女に対してか。


 魔女、それは、魔法を使うことのできる人間。どう説明することもかなわない、神秘的で、あるいは悪魔に魂を売ることで使えるようになる禁断の力――そんな魔法を扱う魔女は、忌むべき怪物だった。

 魔法を使い、人間を殺し、むさぼる魔獣よりもよほど。


「……あら、助けた人間にそんな目をするのね。今の貴方のほうがよほど悪役にふさわしいわ」

「俺の心を、読んだのか?」


 強烈な不快感と怒りで、腹の中がぐらぐらと煮え立っていた。

 パイプ煙草をくわえる魔女は、今度は俺ではなく天井のほうへと紫煙を吐き出し、目を補足する。

 その先、視線を追っても、そこには少し埃っぽい、何の面白みもない木目調の天井があるだけ。


「まさか。心を読むなんてこと、私にはできないわよ」

「だっただ、何だよ」

「貴方の顔と、これまで私が出会ってきた人間の傾向から、一番ありえそうなことを言ったまでよ。魔女は悪、魔女は敵、魔女は忌むべき、人間社会の中に紛れ込んだ害虫――でしょう?」

「そこまでは思ってねぇよ」


 流石にバツが悪くなって、告げる俺の言葉には覇気がかけていた。

 どうでもいいけれど、と言いながら、魔女は片手に持っていた本を読むのに戻る。俺のことなど眼中にないように、あるいは俺なんて一瞬で無力化できるとでも言いたげに。

 その魔女を視界に収めながら、俺は改めて建物の中を見回す。


 陋屋と呼ぶにふさわしい、狭い木造の建物。天井の隅には年季のある蜘蛛の巣。足元には無数に積み上げられた荷物が散乱していて、目の前の魔女のずぼらさがうかがえた。

 いくつも色あせた表紙の本が並ぶ棚、天井からつるされた薬草の類。狭い炊事場ではガラスの容器の中でポコポコと水が沸騰を続けていた。


「……なぁ、ここはどこだ?」

「見ての通り、魔女の庵よ」

「いおり……?」

「そ。まあ私の住処くらいに思っていればいいのよ」

「俺は、どうしてここにいる?」

「さっきから質問ばかりね」


 嘆息する魔女をにらめば、「はいはい」とおざなりに返事をして本を近くの物の山の上に積み上げる。

 絶妙なバランスによって成立していたらしいその山は、本という最後の一押しによって崩れ、雪崩を起こす。


「あら」

「あら、じゃねぇだろ」

「貴方にはどうでもいいことでしょ。それより、本当に覚えていないの?」

「……何がだ」


 最後に記憶があるのは、森の中を必死に逃げて、力尽きたこと。おそらくは背中に刺さった矢が原因で……矢?


「傷は、怪我が……」

「ああ、治したわ。そうじゃないと貴方が私の足をつかんで離さなかったんだもの」


 見て、と。

 なんのためらいもなく、魔女はローブのすそを引き上げる。

 流石に目をそらし、けれど完全に視界から彼女の姿を消すよりも早く、それが見えてしまった。


 赤黒く変色した、手の形をした痣。

 彼女の言葉が正しければ、それは俺が強く握りしめたことによる怪我だった。


「……俺が、やったのか?」

「そうよ。森の中で血の匂いがしたから近づけば、こう、ガシッとつかんできたの」


 あの時は思わず悲鳴を上げそうになったと、けだるげに語る。


「死んでいると思ったのだけれど……事実、死にかけていたのだけれど。意識がもうろうとしながらも私の足をつかんで、俺を治せと叫び続けたのよ。本当、面倒だったわ。寄りにもよって毒矢を射かけられるなんて、どんな盗賊かと思ったわ」

「盗賊なんかじゃねぇよ」

「でしょうね」

「あ?………っ、まさか、お前!?」


 とんとん、と。

 額を指でたたく彼女の身振りが指し示すものに気づくまで数秒。

 一気に顔から血の気が引き、恐怖と、それから怒りが沸き起こる。

 思わず額を片手で覆い隠し、やっぱりこいつは魔女だと、殺意を高ぶらせる。

 ここで殺しておけ。今すぐに――殺して、どうする?


「ほら。やっぱりあなたのほうが悪人じゃない」


 悪――命の恩人を、魔女だからと、秘密を暴いた相手だからと、殺すのか?

 俺は、そんな畜生にはなり下がらない。あの屑共と同じになるのはごめんだ。


 体から力が抜けて、がっくりと倒れこむ。固いベッドから香る自分のものではない匂いに表情がゆがむ。


「改めて、私はルクセナよ。しがない魔女の一人。命を救った以上、貴方が完全に回復をするまで面倒を見てあげるわ。逃亡奴隷さん?」

「……アイセティオだ。奴隷呼ばわりはやめろ」


 呼ばれも、仕方ないとはわかっている。

 俺の額には、奴隷であることを示す焼き印がつけられているのだから。

 これがあるから、俺はもう、人間として生きることは許されない。


 よろしく、と。

 魔女ルクセナが、俺に向けて手を伸ばしてくる。

 少しだけ、ためらって。


 ……奴隷と、魔女、果たして人間社会でより下に位置するのはどちらかと。

 くだらないことを考えながら、俺はルクセナと握手を交わした。


「少しだけ、ここで休ませてもらう」

「ああ、そうするといいさ、少年」

「……俺はガキじゃねぇ」

「この背丈ではまだまだガキだな」


 そういって俺の頭に手をのせるそいつが、俺の心に怒りをもたらす。

 やっぱりこいつは魔女だと、そう思った。


 魔女――不思議な魔法によってあらゆる不可能を可能とする、神の領域に足をかけた者たち。

 人によって、魔女は悪魔に魂を売っただとか、いけにえを捧げることで邪法を扱う者だとかいろいろな表現がなされる。

 物語に登場する魔女はいつだって悪役。化け物じみた人間で、悪しき力を使い、主人公を阻む敵。


 その、はずなのだ。


 なのに、魔女ルクセナは、そうした俺の中にあった魔女像からは遠く離れた存在だった。


 まず、家事ができない。びっくりするほど生活力がない。

 ルクセナが起きるのは昼に差し掛かるころ。毎日夜更かしをするために寝起きは悪く、朝に大きな音を立てると物が飛んでくる。

 片づけはできず、元の置き場がどこかもわからないほどに物が床に散乱する。正確には、彼女曰く「秩序性をもって」積みあがっている。

 食事は、森でとれた木の実。乾燥させたそれは、容器によってはカビが生えていて、けれどルクセナは熱湯で消毒して食べれば問題がないと言い張る。たとえ、ほとんど完全に腐敗して、ヘドロのようになっていようとだ。

 洗濯なんてそもそも発想がない。体がかゆくなったら近くの泉に行って着の身着のまま飛び込む。髪を洗うことはない。切ることもない。だから傷んだ深緑の髪は伸び放題で、それが一層、ルクセナを魔女らしい姿にしている。

 ああ、あと、魔女だからか、ルクセナは薬を作ることができた。基本的に何でも作れるというのは、きっとルクセナが悪魔に魂を売り払って、薬の知識を教わったからだ。


 とにかく、俺は、ルクセナのような食事で耐えられるはずがない。

 だから森に向かうも、このあたりの植生は最悪だった。少なくとも、もともとただの農家だった俺が知るような食べられるものはほとんど見つからなかった。

 唯一持ち帰ることができたのは、おそらくは魔獣の食べ残しであろう熊の肉。

 持ち帰ったそれは、半分以上をルクセナに奪われた。


 そうして今日も俺は朝から森をさまよい、ルクセナに教わったわずかな薬草と、途中で泉に寄って汲んできた水を手に狭苦しい庵へと戻った。


「……まだ寝てるのかよ」


 ローブを脱ぎ、麻布の服一枚に身を包んだルクセナは、その見た目から魔女と判断するのは難しい。

 その息遣いはなまめかしく、食生活もずさんなのになぜか艶めく唇から、悶えるような声がかすかに漏れる。

 眠っていても淫靡であるあたりは、魔女らしいといえるのかもしれない。


「……んん」


 寝返りを打ち、押しつぶされた豊満な二つの果実から目を背け、何度も言い聞かせる。

 こいつは、魔女だ。人間の敵だ。いい顔をして人の心の弱いところに付け込んで、人を魔法のためのいけにえにしようとするような連中だ。

 その、はずだ。

 じゃあ、どうしてルクセナは俺を助けたのか。生きている俺を、贄にするためか?

 いや、ルクセナは以前、森で倒れていた俺を「死んでいると思った」なんていう風に話していたはずだ。

 つまり、死んでいる俺に価値があるから近づいてきた?だとすればやっぱり、俺を生かした理由がわからない。

 たとえ最後の力を振り絞って無我夢中で俺がルクセナの足首をつかんでいたとしても、そんな力は長くは続かない。そのうちに力尽きるだけの俺を、こいつは、どうして助けた。

 魔女のくせに――


 開いていた窓の向こう、雲間から太陽が顔をのぞかせる。

 まばゆい光がルクセナの顔を照らし出し、彼女の表情がゆがむ。

 眉間に深いしわが寄り、そして。


「まぶしいッ」


 大きく腕を動かし、近くに積みあがっていた山の上にあった古びた靴を手に取って。

 それを全力で窓のほうへと投げつけた。

 窓の手前に落下したそれは、アリ塚のようになっていた山の一つを崩し、音を立てる。その音に、ますますルクセナの眉間のしわが深くなる。


「…………何がしたいんだよ」

「まぶしい、のよ……さっさと閉めなさいよ下僕」

「俺は下僕じゃないっての……くそ」


 下僕呼ばわりも嫌だが、言われるままに窓を閉めてしまう自分自身も嫌だった。

 光が瞼を貫くことがなくなったルクセナは狭いベッドの上で寝返りを打ち、またすやすやと寝息を立て始める。

 乱れた衣服から肉感的な太ももがのぞいており、俺は近くにあった布を投げつけて目に毒なそれを隠した。


「さっさと、出て行きゃあいいだろうが」


 魔女とともにいるということへの不快感。さっさとこんな女との関わりなんて捨てるべきだという心の声。

 それに重ねて告げるも、俺の足は玄関へと向かうことはない。


 行くべき場所なんてなかった。

 俺はただ、あの奴隷商人のところから逃げ出したかっただけだった。

 一団が魔獣に襲われる中逃げ出したのは、生きたかったから。解放されたかったから。


 そうしてつかの間の自由を手にして。

 けれど、額に刻まれた奴隷の焼き印があるから、俺はもう、どこに行くこともできない。

 人間社会に向かえば、逃亡奴隷として捕まって、同じように屑に暴行を受ける日々に舞い戻る。

 なら、あの日死んでいればよかったのか?

 逃げることなく魔獣に食われていればよかった?矢傷を受けた時点で、諦めればよかった?

 俺は、どうして生きたいと思ったんだ。ほとんど無意識に、ルクセナに縋ったんだ?

 その答えはまだ見つからない。

 ただ、このぬるま湯にもうしばらく浸かっていようという、どうしようもない答えしか得られなかった。


「……なぁ、お前って魔女なんだよな?」

「突然何?」

「いや、お前が魔法を使うところを一度も見てないから、気になっただけだ」

「見ての通りだけれど」


 相変わらず、ルクセナの食事は少量のナッツ。ずいぶん前に干したというそれを小動物のようにカリカリとかじっていた彼女は、両手を広げて己を俺に見せてくる。

 ローブ姿、ぼさぼさ髪の女。部屋にはいくつもの薬草が干されていて、物取りでも入ったんじゃないかというほどに中は荒れている。

 ああ、確かに魔女らしい。

 だが、魔女だと、確信できるような要素は何もない。


「魔法を見せることもできないのか?」


 なぜ俺はこんなにも苛立っているのか、自分で自分に困惑しながらルクセナをにらむ。いや、きっと、こいつが悪しき魔女であると確認して、ここから出て行くためだ。

 ……その言い方だと、まるで善良な魔女がいるみたいじゃないか。


 彼女はじっと俺を見つめ返す。俺の心の中を読み取るように。

 その金色の目は、何を考えているかわからない。

 ただ、少しだけうつむいた彼女の嘆息に、どこか悲しげな響きがあった気がした。


「……貴方が私をどう思おうと知ったことじゃないわ。魔法は見せない。わざわざ見せるようなものでもない。それだけよ」

「魔法のために必要なものが足りないからか?例えば、死んだ人間の肉体とか」


 バキ、とテーブルが致命的な音を響かせる。

 天板に手をついて勢いよく立ち上がったルクセナが、射殺すような目で俺を見ていた。

 ごくり、と喉が鳴る。気圧される自分を落ち着かせようとしても、体の震えが止まらない。


「……な、なんだ。図星か?それで怒ったのか?」


 方々に跳ねた緑の髪が不自然に揺れているように見えたのは、きっと俺の錯覚。彼女の瞳の中に、憎悪の炎が燃えているように見えたのも気のせい。


「……何とか、言ったらどうだ?お前は魔女なんだろ。魔女の誇りはないのかよ。一つくらい、魔法を見せてみろよ、なぁ」


 俺は、なぜ煽っている?なぜ、魔法を求めている。

 千々に乱れた心は、正しい思考をさせない。


 ふぅ、と。

 短い吐息に、怒りと悲しみと憎しみを込めて。

 ルクセナは、無表情でじっと俺を見出す。


 開かれた窓から差し込む陽光を背負う彼女の顔はやや暗い。


「……魔女なんて、ろくなものじゃないわ」


 それだけ告げて、彼女は俺に背を向けて歩き出す。

 いくつかの物の山をけり崩しながら、扉から出て行く。

 そうして、俺は一人になった。

 薬草の香りが満ちる魔女の庵――そこで、呆けた顔をさらしながら。


「お前は、魔女なんだろ?だったらもっと、悪人であれよ。俺よりも……奴隷よりも、下でいてくれよ」


 零れ落ちた言葉にハッとした。それがきっと、自分の本心だった。

 最下層まで落ちた。奴隷にされた。

 人生に絶望して、それでも心は生きることを求めていて。

 だから、自分よりも下の存在を見出そうとしていた。魔女を、俺よりも下等な存在だと考えることで、生きる力を得ようとしていた。

 なんて屑。どれだけふざけた考えをしていやがる。

 これではまるで、俺たちを家畜のように扱った奴隷商人と同じじゃないか。


『お前のそれは、呪われた目なんだよ』


 そう告げて、俺を奴隷商人に売り払った両親と、同じじゃないか。

 両手で顔を覆い、机に伏せる。

 じくじくと額が痛んだ。いや、額だけじゃなかった。

 全身のあちこちに、みみずばれのような痛みが走った。

 それは、投げられた石の痛み。打たれた鞭の痛み。


「……クソ」


 ぐちゃぐちゃの心が、俺の記憶を過去へと飛ばす。

 その中に、恐怖にゆがむ両親の顔があった。





 俺の目は、まるで血を凝縮したような色をしていると言われる。

 光を反射することもない、ハイライトの消えた目。のっぺりとした赤黒い目。両親の、緑とも茶色とも違うその目は、俺を異物にした。

 生まれ育った村落に、俺の味方はいなかった。居場所はなかった。


 いや、たった一人だけいた。そいつは、盲目の老婆だった。

 名前は――なかった。いや、彼女には名前はあったのだろうが、だれも、そいつを名前では呼ばなかった。


 ただ「魔女」と、そう呼ばれていた。


 呪われた子どもである俺を拾った、気の迷いを起こした女だと。いつかこの村にわざわいをもたらすだろう俺を死なせなかった、悪しき女だと。

 だから、彼女は魔女と呼ばれ、石を投げられた。それでも折れず、ひるまず、あちこちに痣を作りながら、必死に小さな畑を耕し、森に入って糧を得て、俺を育ててくれた。


 両親は俺を視界に入れようとしなかった。俺は、魔女のおかげで育った。命を拾った。


 両親は俺の後に妹と弟を作り、二人に、俺のことを「呪われた子」だと教え込んだ。

 あいつらは、俺が兄であることも知らず、大人に言われるままに、無邪気に俺たちに石を投げた。魔女と、魔女の子どもだと。

 魔女じゃない。俺の育ての親は、魔女なんかじゃない。


 その、はずだった。

 目が見えない魔女は、腰が曲がり、やせ細り、ある日倒れた。

 それは、俺が十歳になる日だった。


『今日はお前の誕生日だね』


 病床に伏して、彼女は笑う。笑うと、くしゃりと顔がゆがみ、しわだらけの頬にえくぼができる。それが唯一、俺と同じだった。


 死――それを、当時の俺はまだ知らなかった。あまり理解できていなかった。

 俺にとっての死は、救いだった。俺を殴ってうっぷんを晴らす村の男が死んだとき、俺の身の危険が減った。村の村長が死んだとき、呪われた子どもに触れたからだとされ、俺から人が遠ざかった。

 もともと村人との交流なんて無いほうがよかったからちょうどよかった。


 だから、俺にとって死は平穏をもたらしてくれるもので。

 けれど、魔女の死だけは、そうじゃなかった。


 それは、長い、長い戦いだった。

 痛みに苦しむ魔女は絶えずうなり続けた。喉が裂けたのか、血を吐き出し、もだえ苦しみ、脂汗をにじませ、獣のような咆哮を挙げた。

 それはまるで、灼熱の鍋で炙られる虫のようだった。


 死との闘いに、俺は恐怖した。おびえた。

 その声は、粗末な、そしてほとんど何の物もない魔女の家から飛び出し、村中に響き渡る程だった。

 そして、声を聴いた村の人間は思った。


 魔女が、とうとう村を巻き込むような魔法を使おうとしている、と。

 扉が、けり破られた。それは、魔女が死と戦いを始めてから、二時間ほど後のことだった。

 ずかずかと入ってくる大人を止めようと立ちはだかった俺は、実の父親に全力で蹴り飛ばされて転がり、壁にたたきつけられた。

 頭を打ったせいで視界はぼんやりしていた。

 村の者たちが、男も女も、魔女を取り囲んでいた。俺の母さんを、育ててくれた親を、取り囲んでいて。


 そして。

 魔女は、その人並の向こうで死んだ。

 殺された。

 誰かに首をへし折られた魔女だけがその場に残されて。

 俺は、気晴らしに殴られて意識を失った。


 ぴちゃん、と。

 朽ちかけた屋根の隙間から滴るしずくが顔にかかり、意識が覚醒した。

 ごうごうと、大気がうなりを上げていた。建物をたたきつけるように雨が降っていた。

 ピシャ――雷光が世界を切り裂く。

 闇の中に浮かび上がった雷は、近くに落ちて、激しい音を響かせた。腹の底から恐怖があふれ出した。


 震えながら体を起こして、俺はそこに魔女を見た。

 首を折られ、息絶えた魔女。村人に蹴られたのか、体はくの字に折れ曲がり、白目をむき、腕は折れていた。

 その目は、ひらきっぱしの扉のほうを見ていた。嵐が吹きすさぶ世界を見ていた。


 魔法だ――そう思った。

 魔女は、自分の命を代償に、村に嵐を襲わせたのだと。この人は、本当に魔女だったのだと。


 ごうごうと大気がうなり、部屋に雨が吹き込む。屋根がバキバキを嫌な音を立て、そして、屋根板の一つが吹き飛んで穴が開く。

 風はますます強さを増し、家はぎしぎしと悲鳴を上げていた。

 逃げないといけないと思った。

 逃げて、どうする?どこへ行く?

 いや、少なくとも、この村から逃げればきっと、俺にだって居場所が――魔女のような、俺のことを受け入れてくれる人が――本当に?


 それが、俺の歩みを押しとどめた。

 だから、俺は間に合わなかった。


 魔女が起こした嵐は、粗末な家が耐えることのできるものではなかった。

 家屋はあっという間に崩落し、そして、俺はその下敷きになった。

 幸運なことに大けがはせず、けれど動くこともできなくて。

 近くで押しつぶされている魔女の、言葉にならなかった無言の怒りの声。それを代弁するように吹き荒れる風の音を聞きながら、俺は「ざまぁみろ」と笑った。


 魔女の怒りは、村に致命的なダメージを与えた。

 農産物はことごとくやられた。

 枝が折れ、実は吹き飛んだ。葉も軒並み散り、すべてが収穫を前に枯れようとしていた。

 食料の危機――それは、途方もない怒りのうねりを生み出した。

 だが、魔女の呪いは、まだ健在だった。


 誰かが、ぼそりとつぶやいたのだ。魔女は、己の死と同時に、周囲に魔法をばらまくのかもしれない。この、魔女に育てられた呪われた子が、もし死んだら――


 村人たちは、激しく恐れた。

 もし俺が魔女で。そして、またしても死と同時に周囲に嵐が吹き荒れたら。

 かろうじて失われずに済んだ家畜や常備している作物もダメになるかもしれないと。あるいは、もっとひどい魔法が襲うかもしれないと。


 恐れた村人は、俺を殺せなかった。

 俺を死なせることができなかった。


 だから、両親は俺を売った。

 魔女に育てられた悪しき子どもとして、俺を奴隷商人に二束三文で売った。


 ――彼女は、きっと魔女だった。

 視力を失っていたのも、きっと、魔法の代償にしたから。俺を育てていたのも、きっと、贄にするため。

 俺が魔法を使えないと分かった際の奴隷省の言葉が、頭の奥で反響する。


 お前は、魔女の駒に過ぎなかったんだよ――






 気づけば眠っていた。

 すっかり日が暮れて、開けっ放しの窓の外から冷たい夜の風が吹き込んでくる。

 森の匂い。土の匂い。それは、魔女と育ったあの村の匂いによく似ていた。それよりも少しだけ濃密な香り。


 伏せていたテーブルから顔を上げて周囲を見回す。

 暗くてよく見えない。


 手探りで、物を蹴り飛ばしながら移動する。

 ルクセナはきっと怒るだろうと考え、自分が崩したときには何も言わないのにと、その理不尽さに苛立ちを覚えた。


 火打石で火種を作り、蝋燭の火をつける。


「……ルクセナ?」


 立ち上がり、見回すそこに彼女の姿はない。

 そういえば、喧嘩のようなものをして、彼女は出て行ったのだったかと、ぼんやりと思い、苦笑が漏れる。


 喧嘩ではない。喧嘩は、同等の人間がすることだから。


 屑で、畜生で、呪われていて、育ての親に守られることしかできなかった、無力な奴隷。俺とルクセナでは、明らかにルクセナのほうが上だ。


「なぁ、そうだろ?」


 暗闇の中、くすんだ銅の鏡に映った俺に問いかける。

 当然、ぼやけた俺が何を言い返すこともない。

 無性に、空しかった。俺は何をしているのかと思って、また、苦笑がこぼれた。

 俺は今から、おかしなことをする。狂ったことをする。

 魔女に手を伸ばそうなんて、狂ってる。


 だが、助けてもらった。命を救われた。

 魔女かどうかもわからない、魔女と呼ばれる育ての母に。

 魔女を名乗る、魔法を使おうとしない女に。


 だから、俺は。

 奴隷にされて、人間社会のどこにも居場所のない俺が。

 魔女に手を差し伸べるんだ。


 蝋燭台を手に、俺は扉の先へと一歩を踏み出す。

 森の中、大きな木の枝に支えらえるようにして、魔女の庵はひっそりとたたずんでいる。

 この場所にやってくる者は誰もいない。深い森の中、助けてくれる者はいない。

 遠く、鳴き出すフクロウの声が、俺の心に生まれた孤独感を強める。


 ルクセナは、ずっと一人で生きてきたのだろうか。

 考え、そして思い出す。

 家には、たくさんのものがあった。その多くは古く、ずいぶんと埃が積もっていて。

 そうした箱の多くには、けれどぴったりと物が詰め込まれていた。

 ルクセナは、そんなことはしない。ずぼらな彼女に、そんなことはできない。

 ならば、誰かいたのだ。ルクセナが魔女であると分かっても、彼女を受け入れてくれる誰かが。

 呪われている俺を受け入れてくれた、魔女のように――


「……ああ、そうか」


 答えは、簡単だった。

 あそこは、魔女の庵。ならば、ルクセナとともに居た者も、魔女であるのが自然だった。


 足は、自然と獣道を進みだす。

 飛び出すように家を出たルクセナが向かうだろうところは少なくない。

 人の手がほとんど入っていないだろうこの森には獣が多い。その獣を求めるように、魔獣もいるだろう。

 魔法を使う獣――遭遇が死を意味するそれは、時折ふらりと人間社会にやってきては災いを振りまく怪物。

 彼らがいるからこそ、魔女は、魔獣と同じ力を持った存在として忌み嫌われる。

 だから、魔女は姿を隠す。魔女であることを隠す。

 ならばどうして、ルクセナは俺に、魔女であると告げた。認めた。

 薬師だと、そう言えばよかったはずだ。それなのに、どうしてわざわざ自分から魔女と認めるのか。それでいて、どうして魔法を使わないのか。


 ルクセナは、魔女であることに、何か、こだわりのようなものを抱いているのだと、そう思った。


 慣れた道。もう何度通ったかわからない道は、蝋燭の明かり一つでも迷うことはなかった。

 曲がりくねりながら森を進む道の先。

 突然視界は開け、木々の隙間にぽっかりと広がる空で輝く月が世界を照らし出す。

 その、中央。

 澄み渡った泉の中央に、ルクセナは浮かんでいた。

 仰向けになり、ふわり、ふわりと漂う。黒いローブと緑の髪がいっぱいに広がり、やけに白い肌が月明かりに照らされ、闇の中に浮かび上がる。

 その金色の瞳に、同じ色味をした丸い月を映して。彼女は無機質に空を見上げる。


 泉に、近づく。

 足音で気づいているだろうに、ルクセナは俺を見ない。見ようとしない。

 やがて、泉にたどり着いて。

 蝋燭を近くにおろして、そっと水に手を触れる。

 驚くほどに冷たい。


 突然、激しい恐怖が俺を襲った。

 また――また、魔女を失うんじゃないか。


 恐怖が、俺を突き動かす。

 ドボンと、泉に身を投げて、必死に水を掻いて、ルクセナのもとへと急ぐ。


「おい、いつから浸かって――冷た!?」


 ぞっとした。

 ぞっとするほどに、ルクセナの体は冷たかった。血の気が引いて白かった。腕も、足も、顔も、すべてが、蝋のように白く、血色が悪かった。


「おい、死ぬぞ!?このままじゃ、お前――」

「だから?」


 静かな声に、背筋が凍る。

 水中で足を止めてしまった体が沈もうとする。

 もがいた拍子に飛び跳ねた雫が、ルクセナの顔にかかる。けれど、彼女は瞬きをすることもなく、空を見つめ続ける。

 目に入った水が、目じりから零れ落ちる。まるで、泣いているように。


「……死ぬつもり、なのか?」

「貴方が来たとき、運命だと思ったわ」


 何を、言っているんだ。

 恐怖のせいか、あるいは、泉の水の冷たさのせいか、体がガタガタと震えた。


「貴方もすでに感づいているのかもしれないけれど……私は、魔女じゃないのよ」


 がぁんと、頭を殴られたように衝撃を感じた。


「魔女じゃ、ない?」

「…………気づいたわけじゃなかったの?」


 ようやく、ルクセナが俺を見る。その黄金の瞳に俺を映す。

 ドクン、と心臓が強く鼓動を刻む。

 ルクセナが、俺を見ている。俺だけを、その目に映している――。


「早く、泉から出るぞ!」


 ルクセナは、抵抗はしなかった。

 どこか諦めの光をその目に浮かべながら、俺に引っ張られる。

 それは、知っている目だった。

 奴隷商人のところで、同じように奴隷として生きていた、同じ部屋にいたやつの目だった。地下牢のようなそこには布団なんて無くて、地べたに座り、寒さから身を守るように体を抱えているばかり。

 そんな中、そいつは手足を投げ出し、うつろな目でぼんやりとしていた。

 そいつはまだ、確かに生きていた。でも、俺が手を振っても、声をかけても、反応はしなかった。

 無言。無動。

 ただ呼吸をするだけの人形のようになって、すべてを諦めて存在だけを続けていた。

 その、やせ細った男の姿が、ルクセナと重なった。


 水を吸ったルクセナのローブはひどく重かった。どうしてこんなものを着ていて浮いていられたのか、それが不思議だった。

 何とか騎士にたどり着き、その体を泉の外に引っ張り上げる。

 ガタガタと歯が鳴る。俺の歯だけが。

 もう、寒さすら感じていないように、ルクセナは震えない。


「……なぁ、お前は、魔女じゃないのかよ」

「そうね。貴方がそんな目を持ちながら魔女じゃないように、私も、魔女ではないのよ」


 はかない笑みを浮かべて、彼女はゆっくりと起き上がる。泉を背に、両手を広げて、ぬれねずみになった自分を俺に見せつける。

 はだにぴったりと張り付いた布は、彼女の体の輪郭を浮き彫りにさせる。長い髪も、背中にべったりと張り付いていて、ぼさぼさ感はない。

 そこには、ただ一人の女の人がいた。

 もう、彼女が魔女には見えなかった。


「……人はね、自分とは違う存在を嫌うの」


 ああ、よく知っている。

 この血を固めたような目じゃなければ、俺はきっと、呪われた子どもなんて言われなかった。両親と一緒に、普通に育っていたはずだ。

 俺を育ててくれた「魔女」だって、目が見えていれば、魔女なんて呼ばれることはなかったはずだ。俺を育てることを反対されながらも、元の名前で呼ばれていたはずだ。


「そうして、魔女というレッテルを張って、異分子を排除して。……次に、人はどうすると思う?」

「異物の条件を増やして、どんどん魔女を排除する?」

「おしいわ。正しくは、魔女という悪名を利用するのよ」


 魔女の名前の、利用?

 空を見上げ、目を細める。

 ルクセナは、はるか過去を見ながら、静かに、歌うように告げる。


「私は、育ちのいいほうだったわ。貴方がいつも目を奪われているくらいには、豊満な胸を持っているしね」

「な、ぁ……!?」

「少年らしい反応ね。擦れていても、そういうところは同じなんだから面白いわ」


 顔がひどく熱い。

 怒りのままに叫ぼうとして。からかう彼女の唇に浮かぶ微笑が、俺の唇を縫い付ける。

 有無を言わさない圧のようなものが、そこにあった。


「魔女だといわれたくないだろ、なんて脅せば、その者は受け入れざるを得ない。魔女だと言われれば、排斥される。本当にその人が魔女なのかも関係なく、人は後ろ指をさすの。あいつは魔女だ。排除すべき敵だって。……私も、同じ」


 水にぬれて張り付いた髪をかき上げる。深緑の髪、それがずれた先、右の額に、ざっくりと切れたような傷があった。


「魔女だと言われたくなければ黙っていろと、そういわれて、男にのしかかられたわ。下種な笑みをした、腐った男。その男の手が、私の胸を鷲掴みにして、痛くて、怖くて、抵抗して、怪我をしたわ。……おかげで、逃げることはできた」


 体を掻き抱きながら告げる彼女は、震える唇を閉ざす。


 逃げた。抵抗した。魔女だと言われたくなければ――そう、脅してきた相手から。

 そのあとは、もう、予想するまでもなかった。


「魔女だと呼ばれて、追われたわ。そうして逃げて、逃げて……たどり着いたのが、あの陋屋。先代の魔女の庵よ」


 年老いた男の魔女だったという。

 いつ倒れてもおかしくないと思える、枯れ木のような男。その男はルクセナを救い、自分が培った、魔女として生き方を叩き込んだ。


「私は必死に吸収したわ。生きるために……魔女として、生きていくために。そうして、特別な力なんて、魔法なんて持たないただの魔女になったの」

「…………魔女にならなくても、よかっただろ。だって、ルクセナには、奴隷の焼き印がない。遠く離れた地に行けば、自由に生きていけるだろ?」

「……女が異国の地で生きていくなんて、生半可なことじゃないわ。少なくとも男より、下手をすれば奴隷より、ずっと厳しい未来が待っている。ただの町の娘には、そんな覚悟も力もなかったのよ」

「……その、魔女の師匠は?」

「師匠ではないわ。私は、私に呪いをかけて死んでいったあの男を、そう呼びたくはないの」


 呪い――じくりと、胸が痛んだ。

 この赤黒い目。呪われた子と呼ばれて、本当に呪われたような人生を生きてきた俺は、その言葉に反応せざるを得なかった。

 呪い。それは、人を貶める言葉だ。人を、魔女と同じところまで落とす言葉だ。異物を排除するための、都合のいいレッテル。それは、魔女という存在と同じ。


「彼は老衰で死ぬ間際に言ったわ。『自分も、魔女なんて嫌いだよ』……って。だったら、私に、魔女以外の生き方を教えてくれればよかった。魔女であることを隠して、平凡に生きればよかった。なのに彼は、最後の命を使って、私に魔法を発動した。『お前も、魔女として苦しめばいい』って、そう、して……私は、あの庵の主人になったの」


 頬はもう、真っ白なばかりではなくなっていた。

 紅潮した頬を伝う透明な涙を、俺は黙ってみていることしかできなかった。


 一度うつむき、口を閉ざしていたルクセナは、深いため息とともに顔を上げる。


「……貴方を拾ったとき、ようやく終われると思ったわ。貴方に魔女の立場を……庵の主人の座を押し付けて、終わるの。ようやく、魔女としての人生から解放されるって、そう思って……なのに、どうして」

「俺も、魔女に育てられたからだよ」


 息をのむ彼女の顔を見上げながら、すべて、語った。

 熱に突き動かされるように、その涙に心を囚われながら。


 その一言を、彼女に言わせたくはなかった。

 その一言を、聞きたくはなかった。

 どうして死なせてくれなかったの、なんて、絶対に言わせない。


「俺は、呪われた子どもなんだ。……ずっと、そう思っていた」


 でも、違うかもしれないと。

 そう、思うようになった。

 思えるようになった。

 これは、祝福だったんじゃないかって。


「でも、違うんだ。俺は、この赤い目のおかげで、魔女と呼ばれた。魔女と呼ばれる女の人に育ててもらって、魔女と呼ばれることの苦しみを知れた。痛みに、共感できるようになった。魔女と呼ばれるルクセナのことが、わかる人間になれた」


 一歩、踏み出す。

 俺よりも頭二つ分近く大きなルクセナ。いつか、その背を追い越したいと思いながら。


 そっと、彼女を抱きしめる。

 むわりと香ったのは、いつもの煙草の匂い。君の香り。


「何をするのよ」

「……ルクセナだけだったんだ。俺の目を見て、嫌悪も恐怖も見せなかったのが。だから、かな。ルクセナのことが気になりだしたのは」

「何を、言っているのよ」

「まだわからない?……俺は、ルクセナが好きなんだよ。魔女が開発したこの焼き印のせいで、命じられたら本当に下僕になり下がる俺を、呪われた俺を、ただの一人の人間として受け入れてくれた。どこにも行き場がない僕を、家においてくれた。たとえ床の上で寝ることになっても、雨風をしのぐ屋根があって、自分を嫌わない人がいて……この時間は、俺の人生の中で、特別だった」


 ああ、そうだ。

 魔女だからとか、呪われているとか。魔法にかかっているとか。

 全部、全部、どうでもいい。


「ルクセナ、君が好きだ。俺は、君のためになら、きっと何でもできる」

「…………ませたガキね」

「逃げるんだ?」

「……まさか。逃げも隠れもしないわよ。ただ、私の胸に頭を突っ込んでもごもご言っているような子どもの告白なんて、そもそもお遊びのようにしか終えないわ」

「遊びなんかじゃ――むぐ!?」


 固く、ルクセナに抱きしめられた。顔が、本当にルクセナの胸に埋まる。

 仕方ないだ。僕の背が低いから。それに、これはルクセナからやってきたことで――


 逃げも、隠れもしない?

 それってつまり。


「けほ、えほ……くる、しっ」

「…………顔が真っ赤ね?」

「うるさいよ。むしろルクセナは何でそんな清々しい顔をしてるんだよ。俺の一世一代の大告白だったんだぞ!?」

「あら、お可愛い告白ね」

「……ッ、ああもう。聞いたからな!逃げも隠れもしないって。だから、これから、時間をかけてルクセナに俺のことを、必ず好きになってもらう!」


 頑張って、とルクセナが笑う。

 そのふわりとした笑みに、思考のすべてが吹き飛ぶ。

 ああ、ルクセナもこんな顔ができるんだと思って。ルクセナにこんな顔をさせることができた自分が誇らしかった。







 私は、魔女以外の生き方を知らない。

 魔女と呼ばれて故郷を追われた際、両親とは縁が切れた。何しろ、あの腐った醜男に私を差し出したのが、実の両親だったのだから。

 何とか森に逃げ込んで。もう駄目だと思った。

 それなのに、私は歩いていた。どれだけ疲れても、歩いていた。

 うす暗い、夜が近づく森の中。ひどい心細さを感じながら歩き通して、そして。

 木の根に蹴躓いたところで、体力が尽きて起き上がれなくなった。

 それでも、意識はなかなか消えなかった。

 かすれた目で、闇に沈んでいこうとする森を見ていた。じっと、揺れる枝葉を見て、鳥の鳴き声を聞いていた。

 だから、だろう。

 私が、その音を聞き取ったのは。

 足音がした。獣か、魔獣か――恐怖し、土をつかんで立ち上がろうとして。

 顔を見せたその人を前にして、私は力尽きたように再び地面に転がった。


『子どもか。衰弱は著しいな』


 真っ白な髪をした年を取った男の人。彼は暗がりの中でもやけに存在感を持っていた。

 その、足に。

 私は、必死でしがみついた。

 生きたかった。まだ、生きていたかった。

 何より、皆を見返したかった。

 私を襲ったあの男を。

 私を売った両親を。

 私に攻撃してきた街の人を。

 皆を見返したかった。


『俺は魔女だ。それでも、俺に救われたいと願うか?』


 逡巡は一瞬だった。

 だって、魔法なんて使えないのに私は魔女と呼ばれる。

 なら、目の前の男の人だって、魔女だと言いながらも魔女じゃないはず――


 そうして、私は本物の魔女に拾われた。

 息を吸うように魔法を使う、老いた魔女に育てられ、彼は私を呪って死んだ。


 きっと私は、幼い私を、彼に重ねていた。

 当時の私と同じくらいの歳で、けれど私よりもやせ細って、体中傷だらけだった少年。

 アイセティオを助ける決断をしたのは、彼を助けることで、幼い私を助けるためだった。


 その目論見は、たぶん八割くらい成功した。

 過去の私を、私を追ってくる悪鬼のような形相をした街の人を、夢に見ることはなくなった。ずっと息苦しかった魔女の庵での生活が、それほど苦痛ではなくなった。

 それは、毎日必死に食料をかき集めて、私の気を引こうと話を続けるアイセティオの存在が、孤独を拭い去ったからかもしれない。


 悪夢を見なくなった代わりに、私はアイセティオの夢を見るようになった。

 当時、まだ私が出会ったころの、今にも力尽きて死んでしまいそうなひょろひょろとした彼を。

 そうして、目を覚まして。

 床の上、自分で狩った狼の毛皮の上で体を丸めて眠る大きな彼を見て、その差に愕然とするのだ。

 一体いつの間に、彼はこんなにも大きくなったのだろうと。

 いつの間に、こんなにも頼りたくなる人に成長したのだろうと。


 起き上がって、窓を開く。

 遠くに見えた朝日を前に、体を伸ばす。

 最近では私のほうがすっかり朝が早くなってしまった。何しろ、夜更かしは体に良くないと、早くにアイセティオにベッドへと押しやられるから、そのくせ彼は眠れないのか、何度も夜に起きだしては家の外に出て木剣の素振りを始めるのだ。

 その音を聞いていると、鼓動は落ち着いて、私はいつも笑みをこぼしながら眠りに落ちる。


 起き上がり、彼の穏やかな寝顔を見つめながら、そっと胸に手をあてる。

 高鳴る初恋の鼓動に、目が回る。


 私と同じように生きてきた人。

 私以上の苦しみを抱えながら、それを軽く吹き飛ばす人。


 ここ以外のどこにも居場所の無い私たちは、きっと運命のように引き合わされた。

 互いに肩を貸しながら、歩いていくために。


「ねぇ、アイセティオ、私――」


 思いは、自然と口からあふれて。


「ふふ」


 ぱちりと目を開けたアイセティオが笑う。

 うれしくて仕方がないと。


 顔がひどく赤い。寝たふりなんてひどい。

 言葉は、のどに引っかかって出てこなかった。

 だって、彼がひどく真剣な顔で、そっと私の両手を握るから。

 男の人のごつごつとした手が、私の手を包み込む。理知的でまっすぐな赤い瞳が熱に浮かされたように私を見る。


「俺も君が好きだよ、ルクセナ」


 その言葉は。

 魔法のような響きを持って、私の心からあらゆる苦しみを押し流すのだ。


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