第二話 王太子の場合
初めてシルフィを見た時、なんて綺麗な少女なのだと思った。
優しく聡明で素晴らしい少女だった。
彼女が私の婚約者に据えられた時、私はとても嬉しく思い、二人で将来、この国を発展させていこうと誓った。
彼女と一緒なら、それができると考えていた。
そんな私の手をとり、アリエル侯爵令嬢はその豊かな胸を押し付けるようにして誘惑してきた。
最初のうちこそ、その誘惑をはね除けていた私であったが、ある日を境に彼女を自分のそばに置くようになる。
金を握らされた侍従長が、アリエルを私の寝所に招き入れ、そして媚薬を盛られた私は彼女を抱いてしまったのだ。
それからズルズルと、私は彼女の肉体に溺れていった。
けれど心はずっとシルフィの許にある。
こんな状態になってなお、私はシルフィと結婚し、シルフィを妃にすることを望んでいた。
その心に毒を注ぎ込んだのもやはり、アリエルだった。
「シルフィには男がいるのですよ。殿下に私がいるように、彼女にも男がいるのです」
「馬鹿な。彼女は聖女だ。その身は清らかだ」
お前とは違うと言う視線で、アリエルを見つめる。
寝所で横になる、一糸も纏わぬアリエルの豊満な肢体に目を奪われつつもそう言うと、アリエルは嗤った。
「どんなに綺麗なシルフィでも、彼女だって女ですもの」
「……なら、その相手の男は誰だというのだ」
「二人います」
「!!」
「彼女の護衛騎士を務めるマルクスと、彼女の義理の兄セレウコスですわ」
その噂は確かに耳にしたことがあった。常にその二人の男はシルフィの側にいる。二人の男の聖女との近すぎる距離を怪しむ者達がいたのだ。
「そんなはずがない」
「信じられないと言うのですか? 殿下?」
「ああ、私はシルフィを信じている」
アリエルはクスクスと声を上げて笑っていた。
「あんなお綺麗な聖女様でも、女なのですよ、殿下。殿下だって、考えたことがあるのでしょう? 聖女様を抱こうと。抱きたいと」
「……アリエル」
「殿下だって男です。そしてシルフィだって女なのですよ」
あの時が分岐点だったと思う。
何度も何度も、アリエルはシルフィが怪しい、彼女には男がいると私の耳元に囁き続けた。
私は、シルフィという素晴らしい婚約者がおりながらも、アリエルを抱いているという弱みを持っていた。そして同時に、歪んでいるとは思うが、シルフィも自分と同じように堕ちてくれればいいのにと思っていた。
あんな優しく美しく、聡明な素晴らしい少女が、私と同じように堕ちていてくれさえいれば、どんなに良かっただろう。
実際、シルフィが護衛騎士と義理の兄と関係があったのかはわからない。
だが、呪詛をしていたと告発されたシルフィが、私の婚約者を外される時、その噂も後押しすることになった。
聖女にあるまじきふしだらな女だと、皆、呪詛をする恐ろしい女だという言葉の後に付け加えて言うようになる。
シルフィが断罪されその細首を刎ね落とされた後、呪詛をしたと告発した者は真実を公表し、彼女の名誉が回復された。
彼女の死んだ後に、真実を公表して何になる。彼女の名誉を回復して何になる。
もう彼女は殺されているのに。
彼女を殺したのは、間違いなく私とアリエルだった。
この手で、彼女を殺したも同然だったのだ。
その後、私は若くして亡くなったらしいが、その亡くなった時の記憶はない。
亡くなった後、私は再びこの世界に転生した。
私はこの王都の学園で働く平民の男の子供として生まれ変わった。
生まれつき目が見えない私は、幼い頃から父親のそばにいて、学園の教師達に可愛がられて育ってきた。
目の見えない私を、時に、邪険にする者もいたけれど、幸いなことに周りに恵まれ、とりたて不幸な目に遭ったことはない。
今世で、目が見えないことは、神の罰だと思っている。
前世で私はシルフィを断罪し、彼女が呪詛をしたという言葉を信じた。目の曇りきっていた私を罰するための神の与えたもうた罰。
シルフィへの贖罪のため、それは甘んじて受け入れなければならない。
父親の帰りを、学園内に設けられているベンチに座って待つ私。
寒さに凍え、手を擦り合わせる。
そんな私に、声をかける者がいた。
冷え切った手に触れる温かな手。
「寒いですね」
優しい声。私のひび割れた手に、何か温かなものがはめられる。
それが毛糸で編みこまれた手袋だと分かった。
だが、私が愕然としたのは、耳にした優しい声だった。
ああ、どうして忘れられようか。
この澄んだ、少女の声はシルフィのものだった。
私がはくはくと口を開けたり、閉じたりしているのを、目の前にいる少女は、黙って眺めているようだ。
そして手袋のはめられた手を握り言った。
「この手袋はあなたにちょうど良かったですね。よかったら、差し上げます」
そして目の前の少女は、誰かに名を呼ばれたようで、立ち去っていく。
花の香りがかすめる。
私は父親が来るまで、ずっと手袋の手を合わせて、祈るようにして震えていた。
シルフィが、シルフィが転生している?
私と同じように、この世界に転生している?
あの誰よりも優しい美しい聖女だった娘が、転生している?
その信じられない事実に、私は強い喜びを感じていた。
一方で、心の奥底で囁く声がする。
それを知ってどうする。
お前は、彼女を殺した。あの聖女を殺したのはお前だ。
どうして再び、彼女の前に姿を現し、名を名乗ることが出来ようか。
お前が、転生していることを知れば、彼女はお前を憎悪する。
彼女を聖女の座から引きずり下ろし、底知れぬ絶望を与えたお前を、彼女が許すはずは絶対にない。
私はその事実を知っていた。
だから、光の一切を映し出さない盲の目から、涙を流すことしか出来なかった。
あの美しい少女に、声をかけることも許されない。
こんな、罪深い魂は、彼女に再び近寄ることも許されない。
父親がやって来た時、彼は泣き続ける自分を心配して、その背を撫でてくれた。
そんな父親の優しさすら、受け取る価値のない自分だった。




