限界の中で
流石に限界が訪れようとしていた。
景色が幾分変わった通りをハウヴィは歩き続けているが、小石程度の段差に何度も転びそうになる。
夕日は既に沈み、重い影が建物を覆いつくしていた。シースは夜目が効くわけではないため、陽が沈んだら偵察のしようがない。しかし、幸い月明かりが淡く通りを照らしていて、足元だけはどうにか視認できる。
「……ヴィ…」
「……」ハウヴィは自分が何故まだ動けるのかを不思議に思いながら、足元だけを見つめている。
「ハウヴィ」
名前を呼ぶ声で意識がわずかに鮮明になる。
シースがこちらの耳元に口元を寄せていた。どうやら何度も名前を呼んでいたらしい。
「どうした? ヒト型がいたのか」
なるべく声を掠れさせないよう意識して、声を出す。
「変な音が聞こえる」シースは先を見据えたまま言う。
「誰かが戦ってる、みたいな」
「誰かって、ここに人なんて」
言いかけ、ハウヴィは口を閉じた。
確かに、何か妙な音が響いてくる。何かをねじ切り、断ち切るような音。銃声はしないが、確かに争うような音。
ヒト型は人間以外を攻撃しない。
「……人間がいる?」
ハウヴィはあり得ないと、自分に言い聞かせる。
廃墟都市で生きた人間に出会ったことなど一度もない。人骨が民家の中でたまに見つかる程度だ。
それでも、万が一どこかから落ち延び、この場所へたどり着いた人々がいるとするなら。
廃墟でも都市だ。数年はばったり出くわさずともおかしくはない。
あり得ない、と痛いほどに目を閉じる。湧き上がってきた愚かな期待を封じ込めようとする。
もしかすると、追放された人々が生き残っている。
そう思ってしまった。
乗り物もなしに故郷からここまで辿りつけるはずがない。しかし、確かめたい。
「確認しに行くぞ」
ハウヴィは閉じ掛かる瞼を必死に持ち上げながら言う。
「行ってどうすんだ?」
「……人がいるなら、助けたら治療してもらえるかもしれない。どんな相手か、分からないけど、善人であることにかける」
「助けるどころか一網打尽になりそうだが、いまさらだな」
シースはもうハウヴィの好きにさせてくれるようだ。
それなりの時間を掛けて、音の発生源にたどり着く。その間にも剣戟にも似た音が止むことは無かった。
たどり着いた場所は、一つのビルだった。横に長い建物で、一面がガラス張り仕様になっているが、もちろん全て割れている。中に侵入するとハウヴィは眼を見開く。
「……死体?」
呟きは打撃音にかき消される。
建物内はひどいありさまだった。かつてはいろいろな調度品が飾られていたはずの室内は、更地になっていた。そんな空間のそこここに身体が転がっている。よく目を凝らせば、それはヒト型であることが分かった。どれも損傷が激しく、胴体が上下に別れている奴、四肢が千切れている奴、まだ動こうともがいている奴もいる。
「何体いんだよこれ。五十体じゃ利かねえぞ……それに、あいつらなんだ?」
シースは眼を眇めた。
ハウヴィも既に足元に転がるそれらではなく、中央で火花を散らしている存在を確認していた。
「……あれは、両方ともヒト型か?」
シースは喉を鳴らした。「……俺に聞くなよ」
天井の割れ目から差し込む月光が、中央の二体のヒト型を照らしている。片方はよくいるタイプの二メートルに届くかどうかの機体。異質なのは、こちらに背を向けているもう片方だった。
そのヒト型は体躯が短い。ヒト型はみな線が細いが、その機体はより華奢だった。全身が爛れたようになっていて、所々噛みつかれたように肉体が欠けている。
そんな二体が必死な攻防を繰り広げていた。武器も何も携帯せず、全身を使って相手を排除しようともがいている。
「仲間割れ? ……そんなことがあるのか?」
ハウヴィは初めて見る光景に困惑する。故郷でヒト型の生体について学んだ時も、ここで暮らしてからも、そんな習性は聞いたがなく見たこともなかった。
「片方だけ目が赤くねえな」
シースがぽろっと呟く。
「俺には見えない」
霞んだ視界を疎ましく思いながら目を凝らす。
「ちっこいほうは眼が赤いけど、でかい奴は青いままだ。戦闘状態じゃねぇってことかな」
シース自身も疑わしそうに答えた。
「この極限状態に、更に何か異常な事態が起こってることだけは確かだ」
「……」ハウヴィは炎に引き寄せられる羽虫のように戦火へ向かう。シースが「おい」と呼び止めるが、こちらが足を止める気が無いことを察すると、諦めたように付いてきた。
近づいていくとわかることがあった。戦っている奴らが邪魔になっていて入り口からでは見えなかったが、奴らの後ろ、正確に言えば大型の背に隠れるようにして、何かがあった。
「……女の子?」
ハウヴィは眼を見開く。
視線の先には月明かりに照らされた女の子が横たえてあった。
月光を浴びて白銀に輝く黒髪を、地面に垂らしている。濡れたように艶やかなまつげの下にあるまぶたは、緩く閉じている。なんの衣服も纏っておらず、傷一つない肢体がゆったりと投げ出されていた。
そんな存在があった。
死んでいる、とは思えなかった。
そう思うにはあまりにも綺麗で、頬に赤みが差していた。
「あれが何だか、分かるか?」
ハウヴィは呆けたまま訊く。
「知るわけねえだろ。こちとら生後二年足らずだぞ」
シースも信じられないものを前にした表情で答えた。
「ヒト型の方は決まったみたいだぞ」
その言葉に視線をヒト型へ戻すと、ちょうど大型の胴体を小型の腕が貫くところだった。
白色の液体を滴らせながら、大型は瞳の光を失っていく。
小型が腕を引き抜くと、大型は支えを失ったように倒れ伏し、動かなくなった。
「……」
小型は眼孔を赤に染めたまま、ゆっくりと大型の向こう、倒れている少女の元へ歩き出す。ハウヴィ達に気付く様子はない。
大型が少女をかばっていた?
ヒト型が人間を? それより、小型は何をしようとして?
ハウヴィに分かっていることは、ヒト型の赤い瞳を前にした時の恐怖だけだった。
こちらを殺そうとする無機質な殺意。それがあの少女に向けられている。これから何が起こるのか、それをハウヴィは予期してしまう。
ハウヴィはカービン銃を握ったままの右手を持ち上げ、ガタガタと震える様を確認した。これでは狙うことはできない。左手は言わずもがな。支える役割は果たせないだろう。
「……シース、あとちょっとだけ。俺の勝手に付き合ってくれないか?」
震える声で、ハウヴィは訊いた。
シースは小言の一つでも言おうと思ったのか口を開きかけたが、閉じる。
「どうせ俺が言ってたって聞かねぇだろ。勝手にしろ」
ぶっきらぼうに幻覚は答えた。
「悪いな」とハウヴィは微笑む。「お前の謝罪ほど軽いものはクモくらいだな」とシースはつばを吐いた。
ふらついた足取りのまま、ハウヴィは小型目掛けて突進する。気づかれていない今の内に距離を縮めることだけを考えた行動だった。
「!」小型がこちらに気付いた。
ハウヴィは既に数メートルまで接近している。小型は目の前の少女に意識を持っていかれたせいで気づくのが遅れたのだろう。
半ば転ぶように肉薄し、銃口を小型の腹部に突きつけた。もちろん、その程度ではびくともしない。
引き金を引くと、小型の腹部を何発もの弾丸が叩き、鼓膜を痛めるほどの快音が室内に響き渡る。
この距離なら外さない。照準がずれないように右腕で必死にグリップを握り、腹部で銃床を押し込み続ける。休憩をしたときに弾倉を変えておいてよかったと思った。
銃撃の衝撃でわずかに浮く小型を、銃口で突き込み押し出していく。
「!……‼」
小型は押し込まれながらも、ハウヴィの左肩を掴んだ。外れた肩を無遠慮に、その膂力を遠慮なく発揮する。
鈍りかけて久しい痛覚が肩部から全身に流れ、呻き声も出ないほどに味わう。
「ァア──」ハウヴィは痛みで無理やり閉じてしまった歯で、舌をかみちぎった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ‼」
全身の危険信号を全て無視するために、咆哮した。
小型が後ろに倒れ込み、それに覆いかぶさる形でハウヴィは倒れる。
そこで弾倉の中身がゼロになった。残段数など、はなから数えていない。
カービン銃を手放し、腰に差したピストルを取り出す。
「……ッ!」
小型が指先をそろえ、腕を突き出した。
ハウヴィの脇腹に風穴が空く。
「ハウヴィ!」シースの叫びがどこかから届いた。
ピストルを取り落とし、身動き一つとれなくなる。腹から流れ出す血液と臓腑が小型の白濁色の体液が噴き出す腹にこぼれ、混ざり合う。
小型はハウヴィの腹を貫いたまま、動かなくなっていた。
勝った、と、そう思いかけたが、すぐに自分の現状を思いだし、口端がわずかに上がった。
指一本動かせないハウヴィは、そのまま小型の身体に倒れ伏し、重なった。
「ハウヴィ‼ おい! 目ぇ開けろ!」
何も見えない。わずかに聞こえる耳はシースの呼びかけを拾う。大丈夫だ、とハウヴィは答えようとした。しかし、声になったかどうかすら分からなかった。
なぜこんな無茶をしたのか、それをぼんやりと考えた。
どうせ死ぬのなら、何かを為してから死にたかったのか。
結局のところ、少女を助けたいという善意はほとんど無かっただろうと思う。
勝手なものだと、自嘲してしまう。
ただ、悪い気分では無かった。
背を向け歩く夫婦、ふらついた足取りの老人。
いつもハウヴィを暗闇に引きずり込もうとするそれらの影は、今は見えなかった。
今だけは、自由の身になれた気がした。
「……あんた、死んでなかったのか」誰かが何かを言っている。
「オイ何してんだ! ハウヴィに触んじゃねぇ!」
誰かが何かを叫んでいる。
全身に浮遊感を覚える。自分がどんな状況になっているのか、ハウヴィには分からなかった。ただ妙な感覚が全身を包み込んでくる。ベットの上で毛布にくるまった時のような安心感と満足感を思いだす。父と母の顔が頭を過ぎるが、その人相は既にぼやけていた。
誰かの肌の感触が、最後にした。