91 獣人族と呪いの絵画 ⑤
マリーウェザーの残した日記から、肖像画にマリーウェザーの思念が宿っている可能性に気づいたルーファスは、それが呪いと化していると読んで、解呪の魔法を試してみることを思い付きます。万が一にもシルヴァンの身体が乗っ取られないように絵から引き離すと、アテナとウェンリー、イゼスに自分の考えを伝えますが…?
【 第九十一話 獣人族と呪いの絵画 ⑤ 】
――シルヴァンの心を〝ちょうだい〟だって…?いや、いくらなんでも普通の人間だったマリーウェザーに、そんなことが出来るはずは…
『ふふ…』
クスクスと笑う女の声が、俺の耳にまた聞こえた。動かないシルヴァンに声を掛け続けるウェンリーとアテナ、横にいるイゼスに反応はない。どうやらこの声は俺にだけ聞こえているらしかった。
――どうする…本当にこの二人の肖像画にマリーウェザーの思いが宿っていて、シルヴァンはその呪いのような思念に取り込まれている状態にあるのだとしたら…
あり得ない話じゃない。この世の中に死者の思いが引き起こす『呪い』は実際にあるからだ。それは人間だけに限らず、様々な生物が抱く強い思念が、無であるはずのそれに意思を与え、特定の場所や物に宿ってしまうことを言う。
その大半は時間が経つにつれ薄れて消えて行き、周囲に影響を及ぼすことは殆どない。あっても思念体を他者に見せるとか、運気を少し変えるとか、無防備な睡眠状態時に夢を見せるとかいった些細なものぐらいだ。
だが稀に、強力なものが生まれることはある。
俺はもう一度その可能性を考えて絵画をじっと見つめる。『真眼』を使って具に肖像画を見ても、やはりただの絵にしか見えない。肖像画自体が姿を偽っているわけではないから、呪いがかけられていても変化しないようだ。
――確か俺の魔法の中に、天属性の強力な上位解呪魔法があったはずだな。呪いの存在を確かめるにはこの絵にそれを使ってみて、なにか反応があるか様子を見てみるしかないか。
…よし、試してみよう。
「ウェンリー、イゼス、手伝ってくれ。シルヴァンの身体をその肖像画から引き離す。」
「ルーファス様?」
「なにかわかったのですか?」
俺はウェンリーとイゼスに手伝って貰い、三人がかりでシルヴァンの身体を背後の隣室に運ぶと、そこでアテナを含めた全員に、シルヴァンが呪いにかかっている可能性を話した。
「呪い!?」
「しーっ、声が大きい、ウェンリー!多分だが、あの絵画にはマリーウェザーの思念が宿っている。俺にはさっきから時々、あの辺りから女性の笑い声が聞こえているんだ。」
「えっ…」
サアァーッとウェンリーの顔から見る間に血の気が引いた。ウェンリーはこのテの心霊現象系話が大の苦手である。
俺はマリーウェザーに気付かれないよう、ヒソヒソと小声でさらに続けた。
「シルヴァンの精神状態が不安定だったせいもあるんだろうが、人の意識を取り込めるほどの強力な呪いだと、一般的な解呪では効果がない。幸いにして俺は、さらに上位の解呪魔法を持っているから、これからあの絵に試してみるつもりだ。だけど――」
――だけどそれには、シルヴァンの他にも懸念があった。マリーウェザーの思念が俺の想定を上回る場合、解呪に抵抗していきなり襲ってくる可能性があるのだ。
そうなればほぼ確実に、彼女は死霊化して戦闘になるし、シルヴァンが取り込まれたように、俺達までマリーウェザーの力でどこかへ引き摺り込まれるかもしれなかった。
「もしそうなった場合、対処は俺が一人で行う。アテナはウェンリーと無防備な状態のシルヴァンの身体を守って欲しいんだ。万が一心だけでなく身体まで奪われることになれば、俺の力を宿した守護七聖のシルヴァンは強すぎて元に戻すのが難しくなる。」
「わ…わかりました。ですがルーファス様は大丈夫なのですか?」
「問題ない。もしシルヴァンと同じような状態になったとしても、俺は自力で戻って来られるからな。呪いと化すほどの思念であっても、元のマリーウェザーは所詮普通の人間に過ぎず、どこかに閉じ込める事が可能なほど、魔力と精神力が俺を上回ることはないからだ。」
そしてイゼスには宝物庫から出て貰い、大長老に連絡を頼み、異変が収まるまでこの建物周辺に誰も近付けないよう監視を頼んだ。
「それじゃあ、始めるから…シルヴァンを頼んだぞ、アテナ、ウェンリー。」
「お任せ下さい。」
「り、了解…お、おまえも気をつけろよ、ルーファス。」
十中八九そうなるだろうが、まだなにも出て来ていないのに、ウェンリーは苦手意識が先立って戦々恐々としていた。
幽霊亡霊の類いより、生きた人間の方が余程怖い場合もあるんだけどな。そう思いながら俺は微苦笑する。
――アテナがディフェンド・ウォールを発動したのを確認すると、俺は肖像画の前に進み出て、絵画に向かって天属性解呪魔法『アナフェマ・サルース』を唱えた。
俺の右手に青銀の魔法陣が光り、発動した魔法が絵画全体を包み込んだその直後に、肖像画のマリーウェザーから予想通りその人が、スウッと身体の透けた状態で抜け出てきた。
「ぎゃあああっ!!やっぱ出た出た出たああっ!!!」
「ウェンリーさん、静かにして下さい!」
それを見るなりウェンリーは、ガバっと頭を抱えて蹲ると、その場でガタガタ震え出した。
お化けの類いがだめだったのはわかっていたけど…そこまでだったのか。イゼスと一緒に外に出て貰った方が良かったかな。
俺は一旦魔法を待機状態にして顔を上げる。
『いきなり何をする気?誰だか知らないけれど、そんなことをするとシルヴァンが死ぬわよ。』
目の前で宙に浮いた状態のマリーウェザーが、冷ややかに上から水色の瞳で俺を見下ろしていた。
全体の輪郭だけが薄らと光り、肖像画と同じドレスを着て少し透けた桜色の長い髪を靡かせているが、足元が完全に消え失せていて見えない。俗に言う典型的な幽霊の姿そのものだ。
――俺を知らない?会ったことはあるはずだけど…生前の記憶が曖昧なのかな。まあ俺も彼女のことを覚えていないから人のことは言えないか。
「ルーファスだ、マリーウェザー。だったらシルヴァンの心を返してくれないか?どうやって奪ったのかはわからないけど、あのままだといずれは衰弱して死んでしまう。頼む、彼を返してくれ。」
会話が可能なら、説得することが出来るかもしれない。そう思い、待機状態だった魔法を完全に取りやめ、俺はマリーウェザーと話をしてみることにした。
彼女の壮絶な過去を思えば、その悲懐も理解できる。あれはマリーウェザー本人ではなくその思念体に過ぎないが、出来るだけ傷付けたくなかった。
『いやよ。あなた私を知っているのね。なら私とシルヴァンがどれほど愛し合っていたかわかるでしょう?彼は私のものなの。もう絶対に放さないわ。』
「君はシルヴァンが死んでも構わないのか?」
『死ぬのはそこの抜け殻だけよ。心はここにあるもの。これからはもうずっと一緒にいられるの。シルヴァンだってそう望んでいるわ。』
〝死ぬのは抜け殻だけ〟…そう言う割には、俺の行動がシルヴァンの命を奪うと言って止めたのか。…矛盾しているな。だがマリーウェザー自身がそのことに気づいてもいない。
「シルヴァンが?…信じられないな。彼は俺との約束を破るような人間じゃない。君への思いに苦しむことがあっても、やらなければならないことがまだ残っているのに、それを放棄して現実から逃げ出すほど弱くないんだ。それが出来るくらいなら、千年前、一族を捨てて君の手を取り、二人だけで遠くへ行っていただろうからな。そんなシルヴァンだからこそ、君も愛しているんじゃないのか?」
『知った風なことを言わないで!!』
マリーウェザーが怒った。俺は本当のことを言ったに過ぎず、生きた人間であれば動揺して自らの行いに迷いを生じさせるところだが、これも彼女が死した後に残る思念体である証拠だった。
生前と違い、一つの感情に囚われている残留思念は、その存在意義を否定するような言葉に過剰な反応を示すことがある。それを認めてしまえば自分がそこにいる意味がなくなり、後は消えるしかなくなってしまうからだ。
マリーウェザーは怒りの感情を顕わにしてはいるものの、その心根が優しい本質からか、まだ最悪の事態である死霊化には至らず、これならなんとか説得できるかもしれなかった。
『私が愛しているのは、私だけを見てくれるシルヴァンなの!!シルヴァンはここで私を捨てたことを悔いて謝り、泣きながら手を伸ばして、出来るならもう一度私に会ってやり直したいと言ってくれたわ!!』
――シルヴァン…
その姿を想像し、その心を思うと胸が痛む。彼女との別れを思い出し、自分が彼女に対して下した判断を思えば、悔やむのは当然だ。
そして多分、マリーウェザーの言う通り、シルヴァンはこの絵の前で彼女と共にあることを望んだのも確かなんだろう。だがそれでも、このまま黙って死出の旅路に連れて行かせるわけにはいかない。
このマリーウェザーはシルヴァンが愛した生前の彼女ではなく、シルヴァンはまだ現実の世界で生きているからだ。
「――だからシルヴァンを取り込んだのか。シルヴァンのその言葉は、どんなに望んでも、もう二度と本当の君には会えないから出た言葉だろう。」
『な…なにを言っているの?私はここにいるわ!!』
「違う、本当のマリーウェザーはここにはいない。わかっているはずだ、君はただの思念体だ。」
『思念体…?…嘘!!私は私よ、いい加減なことを言わないで!!』
マリーウェザーが激しく動揺し始めた。彼女が自分の存在に疑問を抱き、自分が死んだ時のことを思い出せば、諦めて浄化の道を辿るしかなくなる。
彼女は何者かに攫われて、そのままここには戻って来なかったと言う話だが、亡くなった時の状況を俺が知っていれば、それを話して聞かせることで導くことが可能だった。それが出来ないのは少し不安だが、彼女自身に思い出して貰えばなんとかなる。…もう少しだ。
「思い出せ、マリーウェザー。君はなぜシルヴァンに、身ごもっていることを伝えなかったんだ?子がいることを告げれば、シルヴァンは君と別れようとはしなかっただろう。でもそうしなかったのは、シルヴァンに茨の道を歩ませたくなかったからじゃないのか?シルヴァンを苦しめたくなかったんだろう?」
『う…うう…いや…聞きたくない、やめて!!』
生前の自分との矛盾に気づき始め、両手で頭を抱えたマリーウェザーにさらに続ける。
俺のこの言葉に苦しむと言うことは、彼女がシルヴァンを心から愛し、真実シルヴァンを思っていた証だ。どうかそのことを思い出して欲しい。
「シルヴァンはどこだ?シルヴァンの心をどこに連れて行った、マリーウェザー。いや、聞くまでもないか…その肖像画の中だな。あのままだと本当にシルヴァンが死んでしまう。頼む、俺にシルヴァンと直接話をさせてくれ。」
『いや…絶対にいや!!私からもうシルヴァンを奪わないでーっ!!!』
ゴッ…
「!!」
その叫び声と共に、マリーウェザーの透けた身体から真っ黒い闇が吹き出し、俺の視界が一瞬真っ暗になった。
瞬きをする間に周囲の景色が一変していて、振り返ると後方にいたはずのアテナとウェンリーの姿がない。
「ここは…」
――そうして気が付けば俺は、どこかの森の中に立っていた。
現実世界の俺はルフィルディルの宝物庫にいるはずだから、ここは恐らくあの絵画の中なのだろう。
「俺もマリーウェザーが作り出した異空間に取り込まれたか。どうやら彼女には逃げられたみたいだな。」
もう少しで説得出来そうだったのに、情報がなくて彼女の死の状況を俺が知らないのと、マリーウェザーのシルヴァンへの思いが強すぎたせいで失敗したのだ。
始まりの感情がただもう一度愛する者に会いたい、と言う純粋な思いだけだったとしても、叶えられない悲しみが負の力を生んで凝り、残留思念となって物に宿った時点で、周囲に影響を及ぼし始める。
これまであの絵に呪いが宿っていると気づかれなかったのは、宝物庫に出入りするのが大長老に限られていたことと、その対象がシルヴァンだけに指定されていたからだろう。それだけに呪いは殊更強力になった。
凝りとなって留まった時間が長ければ長いほど力は増して行き、元は小さく微かな塊だったものが、強く大きく育って姿形を取れるまでになってしまったのだ。
――あの一瞬で苦もなく俺を取り込めるほどだから、生前のマリーウェザーはかなり高い魔力の持ち主だったんだろうな。それを反映しているからあの思念体も相当強い。
ただそれでも、シルヴァンが未だ一途に愛しているだけのことはある。呪い化するほどの残留思念なのに、高潔で生前の美しい姿と心を保ち、死霊になることもなく俺に危害を加えて来なかった。
なにより俺をここに取り込んだと言うことは、俺がシルヴァンを連れ帰るとわかっていて、話をする機会を与えたも同然だ。
彼女はシルヴァンを自分から奪うなと言いながら、一方で本当はシルヴァンを死なせたくないと思っているんだろう。
それだけで彼女の為人が、どれほど優しく芯の強い女性だったかが窺えると言うものだ。
「…とにかく、先ずはシルヴァンを捜そう。きっと近くにいるはずだ。」
俺はそう決めると、鬱蒼とした森の獣道を歩き出した。
ここが特殊な場所のせいか、いつもならすぐに表示される頭の中の簡易地図が出て来ない。だが自分の存在と向いている方向を示す三角形の信号と、俺が行くべき目的地を指す黄色い点滅信号だけは遠くに光っていた。
とりあえずそれを頼りに暫く進むと、ただ歩いていただけなのに、いきなり森の中から全く違う場所に転移した。
「うわっ、な、なんだ…!?」
予期せず飛んだその先は、見知らぬ建物内部の、赤い絨毯が敷き詰められた長い廊下だった。
一定の間隔で装飾の施された柱が並び、光が差し込む硝子張りの窓には、見るからに高価な花瓶と花が飾られている。
窓の外に見える景色は、良く手入れの行き届いた広い庭で、青々とした芝生に飛び石の小径と、色とりどりの花が咲き乱れる花壇があって、その奧に小さめの噴水が中央の彫像から澄んだ水を噴き上げていた。
周囲に人の気配はなかったが、俺は急いで『ステルスハイド』の魔法を使用した。以前光神の神殿で探索のために姿と気配を消したあの魔法だ。
その後で天井を見上げると、金細工に取り付けられた明光石が目に入る。建物自体の建材は、現実世界でも豪奢な建物に良く使われる変成岩や花崗岩の石材だ。
そのことから、ここはもしかしたら城のような大きな館なのではないかと思う。
――またいきなりなんの前触れもなく飛んだな…さすが異空間だ。これはどこからどこへ飛ばされるかわからないぞ。なにに出会すか予想できないから、ステルスハイドは切らさないように気をつけておこう。
再び黄色い点滅信号を目指して歩き出すと、その信号はこの廊下の途中にあるすぐ傍の部屋の中で光っていた。
その部屋の前で立ち止まると、中に人の気配がないことを確かめてから、静かに扉を開けて室内に入る。
何の変哲もない、少しばかり高級な調度品が設えられた部屋だ。
机に椅子、花瓶の置かれた小型のキャビネットに、毛足の長い緑色の絨毯。壁に並んだ本棚が二つと、一人用のソファにサイドテーブルがあって、その上に一冊の本が置いてあった。
俺はなぜこの部屋に、目的地を示す黄色の信号が光っていたのかわからず、首を傾げる。
ここには誰もおらず、なにもない。なのに未だに俺の頭の中でその光は点滅していた。
「…ここになにかあるのかな。」
そう思い、とりあえず入口から最も近くにあった一人用のソファと、サイドテーブルに置いてあったその本に近付いた時だ。
突然テーブルの上のその本がポウッとぼんやりとした光を放った。俺はその白銀と黄金色の輝きを放つ光には見覚えがあった。忘れもしない――
「まさか…滅亡の書か!?」
前回初めてこの本に出会した時、リカルドがカラミティとの戦闘で命を落とすことが記されていたと思い出し、俺は慌ててそれを手に取った。
濃紺の表紙に記されていたのは、『滅亡の書』の題名で間違いない。
呆然とした俺は声を失う。
――どうしてこんなところに、この本があるんだ…いくらなんでもおかしいだろう!?ここは現実世界じゃない、マリーウェザーが作り出した異空間だぞ?…どうなっているんだ。
この本は一体なんなのか。いくら勝手に移動すると言っても…こんなことはあり得ない。
俺は困惑しながらも息を整え、一度ゴクリと固唾を飲み込んでからゆっくりと表紙を開いた。
〖この文字を解する者に告ぐ。この書は汝に宛てたものであり、全世界の滅亡を回避するために記した真実だ。必要な時、必要な場所、必要な時代にて、汝の選択に重要な指針を示すだろう。その都度汝の手に触れた書は消滅し、また別の時へと移動する。願わくば三度繰り返さんことを心から祈る。〗
冒頭の頁にはあの不可解な同じ文章が、あの時と同じように浮き上がって来た。…やはりこれは俺に宛てたものなのだろうか。
今度はなにが書かれている?またリカルドのことか?それとも他の誰かの…?
データベースに記録されることはないこの本の、他の頁を見ることは今度も出来ないのだろうか。消える前に少しでも見ることが出来れば…
意を決して次の頁を捲ろうと指先を動かした瞬間、以前と同じようにまた、パラパラと勝手にそれが捲れ始めた。
パラララ…
「く…やっぱり他の情報は得られないのか…!!」
イライラするが、こればかりはどうしようもない。捲られる頁の間に指を差し入れても、なぜかその紙に触れることが出来ず、どうやっても途中で止めることが出来なかった。
そうして暫くすると、ピタリとそこで勝手に止まる。俺は一言一句逃さないように、その開いた頁に目を通した。
〖――年月日不明。事象場所不明。対象者名不明。襲撃者不明。汝自身の身を守るか、守護七聖が白、『シルヴァンティス・レックランド』の身を守るか、その場にて瞬時に選択せよ。〗
「――は…?なんだこれは…これじゃ全く意味がわからないじゃないか…!」
日付も場所も対象者も不明?対象者ってなんの?襲撃者って…なんだ!?しかもシルヴァンの身を守るかって…シルヴァンの名前だけは記されているって…どういうことだ…!?
「あっ!!」
ザアッ…
混乱して必死にその内容を考えている内に、答えが出てもいないのにまた、俺の手の中で滅亡の書は消えて行った。
俺は傍のソファに腰を下ろしてから組んだ両手の肘を膝につくと、前屈みになって顔を伏せ、暫くの間、読んだ本の内容を反芻しながら考えた。
――汝自身の身を守るか、シルヴァンの身を守るか瞬時に選択しろ…そう書いてあったな。…つまり、どこかで誰かに俺とシルヴァンは襲われ、同時に身が危険に晒されるようなことが起きるのか。
だけど対象者が不明…そう記されてあったと言うことは、俺とシルヴァン、襲撃者の他に、もう一人誰かその場にいるんだな。
その対象者と、俺が自分かシルヴァンのどちらを守るかと言う選択が、どう関係している?…そこがわからなければ、どうしたらいいのかわからないじゃないか…!!
あまりにも曖昧な内容だったことに、俺は焦りを感じた。リカルドの時のように誰かの命に関わるようなことなら、選択を間違えればその誰かを失うことになるからだ。
…落ち着いて考えろ。普段の俺なら、どうする?自分の身に危険が及びそうになったら、咄嗟に多分自分に『防護魔法』を使うよな。
すぐ傍にシルヴァンがいれば、一緒に障壁に包んで守ってやれるはずだ。だけど選択しなければならないと言うことは、少なくとも障壁が届かない距離に引き離されているような状況になると言うことか。
この情報は、相当差し迫った状況での選択になることを表しているに違いない。それはきっとリカルドの時と同じだ。だったら――
「…考えるまでもない、俺の答えは初めから決まっているじゃないか。」
それがいつ、どこで起こることなのかはわからないが、俺はもしそんな状況に出会したら、どう行動するのかその答えを出すと、心に固く決めて立ち上がった。
――シルヴァンを捜そう。この時点で滅亡の書が俺の前に現れたと言うことは、もうそんなに先に起こる出来事じゃないはずだ。
部屋の外に出ると、今度は別の場所に黄色の点滅信号が出現した。つまりあの信号は以前と同じく、滅亡の書の存在を指し示していたことになる。本当に俺の自己管理システムはどうなっているのやら、だ。
考えたところでいつものように、その答えが出ることはなかった。
再び廊下に出て右と左のどちらへ進むかほんの一瞬悩んでいると、どこからか若い男女の楽しそうな笑い声が聞こえて来た。
「この声…シルヴァン!?」
俺は一旦目的地の信号を無視して、その笑い声が聞こえてくる方へと走った。するとなぜか廊下の途中で見えない壁に突き当たり、それ以上先に進むことが出来ずにいると、周囲の景色が透け始め、建物の外だと思われる光景が目の前に映し出された。
――そこにはかなり若い頃の姿をしたシルヴァンとマリーウェザーがいた。見た感じでは二人とも、肖像画の年令よりもさらに前の、十代半ばくらいだろうと思う。
庭先で無邪気にじゃれ合い、木に登ったり、芝生に寝転んで本を読んだり、花輪の冠を作ったりしながら、二人は幸せそうにただただ笑っている。
記憶にある限り、シルヴァンのあんな笑顔を俺は初めて見た。
シルヴァンの目には明らかに彼女以外なにも入っておらず、端から見てもその心には彼女しかいないのは一目瞭然だった。
マリーウェザーに膝枕をせがんでごろりと横になり、彼女の長い髪を指先で弄びながら、その頬に触れ、抱き寄せると口づける。まだ若いくせに、見ているこっちが思わず赤面するほどの熱々ぶりだ。
そこは他に誰もいない二人だけの世界だった。多分シルヴァンとマリーウェザーが最も幸せだった頃の記憶から作り出された世界なんだろう。心だけが取り込まれているから、シルヴァン自身も思う通り望む姿に変わることが可能なのだ。
――すぐ目の前にいるように見えるけど…なにかに遮られていて、一旦外に出て庭に回り込まないとここから近付くのは無理そうだな。…大人しく目的地の信号を目指すか。
俺はその場から離れて来た道を戻ることにした。
踵を返して再び廊下を歩きながら、たった今見せられたシルヴァンの様子に不安を感じる。あれが取り込まれた状態の現時点でのシルヴァンだとすると、俺が話しかけてもすぐに正気には戻らないかもしれないと思ったからだ。
俺にそう思わせるのもマリーウェザーの目的だろうが、シルヴァン自身が完全に夢を見ているような状態にあると、その思考が現実世界の身体に制御されてしまって、俺を敵だと思い込まれる可能性があった。
それは普段、身体を休ませるために取る睡眠時と同じく、脳の働きから来る防御行動の一つだ。
眠っている時に見る夢の中で、〝これは夢なんだ〟と自覚しながら夢を見ている人間がどのくらいいるだろう?
目を覚ます直前の浅い睡眠時間帯ならともかく、その大半に自覚はないはずだ。そうでなければ身体がきちんと休息を取れず、実際には動かないのに、夢の中と同じように肉体が覚醒しているような状態になってしまうからだ。
そして脳はその間肉体を休ませるために、夢を見せておきながら一定の時間眠りから覚めないように、様々な防御行動を取る。
その内容はその時の精神状態によって変わるようだが、良い夢を見ている時ほどそれが壊れないように、覚醒要因となるものを排除する方向に動きやすくなるのだ。
――マリーウェザーとの幸せな夢を壊そうとする俺は、シルヴァンにとって敵に見えるかもしれないな。
その場合は逆に強く心を刺激して、シルヴァンにこの夢の世界を否定させれば目覚めさせられるだろう。
その後も行く先々で、シルヴァンとマリーウェザーの幸せな姿を何度も見ることになった。
ディル湖で目を細めたシルヴァンが思い出していたであろう夏の景色や、仲睦まじく過ごす冬景色の中の穏やかで暖かなひととき、時が進んで花嫁衣装が出来上がったと、純白のウエディングドレスとヴェールにはしゃぐ少し成長した二人の姿などをだ。
その度にシルヴァンに近付こうと試みるが、悉く見えない壁に阻まれてしまう。
さすがの俺も痺れを切らして、いっそのこともう強硬手段に出ようかと苛立ってきた頃、ようやく二人だけの世界から抜け出せた。
だがここから状況が一変する。
これまでと同じように、突然景色が変わって別の場所に移動したと思ったら、そこには歴史を感じる古い街並みが広がっており、いつの間にか夜になっていた。
見上げた星空から時間的には深夜に近い印象を受ける。…それなのに、この街の住人達が家から飛び出してきて、なにかに興奮したように同じ方向へと走って行くのだ。
彼らが足早に駆けて行く方の、街の空がやけに明るい。家々の屋根の隙間に見える夜空に、灰色の煙を伴って舞い上がっていく赤い火の粉がちらちらと見えた。
ざわりとした胸騒ぎに、嫌な予感がして俺も彼らの後について行く。その先を示す街の標識には "テレティフェット広場" と書いてあった。
そうしてそこに辿り着いた時、俺はそこで人間の持つ残虐性と狂気を目の当たりにする羽目になった。
この街の住人殆どが集まれるほどの広大な円形広場に、天へと伸びる十数本の火柱が上がっていた。
木造建ての家柱に使われるような極太い丸太に、断末魔の絶叫を上げる獣人達が鎖で括り付けられ、足元に積まれた薪からごうごうと燃え上がる炎に、その命の灯が次々と失われて行く。
燃えているのは罪人じゃない、なんの罪もない獣人族の人々だ。中にはまだ幼い子供の獣人の姿まであった。
まるで見世物でも見物する客のように、歓声を上げて笑顔を浮かべながら、それを取り囲んでいる人間達を見て吐き気を催した俺は、急いで人垣を押し退けその場から遠く離れる。
建物の裏手に入って前屈みになると、余りの残酷さに耐えられず、傍に見えた排水用の溝に吐き戻した。
無限収納から予備の水を取り出すと、それを口に含んで濯ぎ、吐き出して濡れた口元を服の袖で拭う。
俺は俯いたまま暫くの間、精神的に受けた苦痛から、壁に手を着いて動けなくなった。
――やるじゃないか、マリーウェザー。もしかして俺が、人間の持つああ言った負の感情に弱いと知っているのか?
あの場にいた狂気に歪む人間の笑い声が、耳について暫く離れない。チリチリと肌を刺す、負の感情が生み出した悪意と邪念の塊が、着ていた衣服の中にまで入り込んで、俺の身体を表面から蝕んでいくような気さえする。
人の醜悪さに虫唾が走り、全身を悪寒が駆け抜けて行った。
これは曾てシルヴァンとマリーウェザーが、実際に目にした光景だ。だけどなぜ…?ここはマリーウェザーが作り出した、二人にとって永遠に幸せに暮らして行けるはずの世界なんじゃなかったのか?
てっきりあの甘々な世界が延々続くものと思っていた俺は、そう疑問に思いながら通りに戻ると、十数メートル離れた十字路の角に、頭からすっぽり覆い隠すようにフードを被った、マント姿のマリーウェザーを見つけた。
「マリーウェザー!!」
彼女は俺と目が合うと、すぐに踵を返して走り出し、角を曲がって姿を消してしまう。俺はその後を追って、目的地への信号を頼りに進んで行くと、そのまま門から街の外へ出た。
傾斜のある草地の丘を駆け上がり、街道を外れて雑木林の中へ入った瞬間、またそこで深い森の奧へと強制的に転移させられた。
――また転移か。この状態はいつまで続くんだ?
大きな岩と近くに小川が流れるぽっかりと空いたその草地に、朽ちて崩れかけた小屋があり、途切れた雲の隙間から覗く月が、白銀の光で辺りを照らしていた。
「シルヴァン…シルヴァン、どこ?私よ。」
すぐ傍に聞こえて来たのはマリーウェザーの声だった。どういうわけか転移したことによって俺の方が先回りしたような形になり、たった今俺がここへ来た方向の獣道から、すぐにさっき見かけたのと同じ服装をした彼女の姿が見えた。
俺は急いで真横にあった大岩の影に身を隠す。
もしシルヴァンがすぐ傍にいるのなら、今度こそ近付くことが出来るかもしれないと思ったからだ。そのまま俺はじっと息を殺して、シルヴァンが目の前に姿を現すのを待つことにした。
「――マリーウェザー。」
ガサッ
足元の草をかき分け、小屋の影から出て来たシルヴァンは、現在のシルヴァンとほぼ同じ姿をしていた。
いつもと同じ獣人族の碧を基調とした民族衣装を着て、耳には木彫りの耳飾りをしており、両腕には左右対称の入れ墨がある。
今気づいたのだが、シルヴァンの腕の入れ墨は、迫害戦争が始まる前とは少し図柄が異なっていた。
あの入れ墨…シルヴァンの故郷では、なにか重要な意味があるんだと聞いたことがあったような気がする。…なんだったろう?
薄らとその時の記憶の片鱗が甦ってくる。
シルヴァンが俺に笑いかけ、腕に彫った入れ墨を見せてなにか言っていた。
『…獣人族の入れ墨には、生まれた時の獣種と洗礼名、獣神の加護を表す紋章と両親からの守護の印が彫り込まれる。これには成人するまで手を加えることは認められないが、その後は一族の彫り師に頼んで、様々な呪文字や呪印を刻むことが出来るようになる。』
それらは獣人の身体能力を左右するほどの絶大な効果を持ち、自らに課す生涯の誓いと獣神からの訓戒とすることで、更なる高みへと誘うという。
『――主よ、この入れ墨には我の誓いと、あなたとの〝絆の証〟を刻み込んだ。これがある限り、我はあなたの友であり、なにがあってもあなたを決して裏切らぬと約束しよう。』
…そうだ、思い出した。あの入れ墨はシルヴァンが守護七聖となった時に、獣神像の前で俺への誓いを立てて、その一部に呪印を施したものだ。
敵の催眠や正気を失うなどの理由で、シルヴァンが俺に本気で危害を加えようとした時に、他の守護七聖や俺の意思で発動する――
「いやよ!!」
記憶を辿ることに気を取られていた俺は、マリーウェザーのその声でハッと我に返った。
朽ちた小屋の前でなにか話をしている、シルヴァンとマリーウェザーの様子がおかしい。
「どうして…?」
「ヘテムの森の高台から、毎日天を焦がす火柱が見える。…生きたまま焼かれているのは我が一族の同胞であろう?だが会議で捕らわれている彼らの身柄は諦めることに決まった。もうこれ以上の犠牲を出さぬ為だ。」
「仲間を見捨てると言うの!?」
――聞こえて来たその会話から察するに、どうやらシルヴァンがイシリ・レコアに獣人達を連れて行くために、マリーウェザーに別れを告げようとしているところらしかった。
…おかしい、シルヴァンはマリーウェザーに、完全に心を取り込まれているわけじゃないのか?
マリーウェザーが〝シルヴァンも望んでいる〟と言っていたから、シルヴァン自身がこの世界に残り、彼女と共にあることを望んでいて、その所為で心が戻って来ないのかと思ったのに…雲行きが怪しくなって来たな。…どういうことだ?
「マリーウェザー、今日はそなたに別れを言いに来た。」
「シルヴァン、やめて!!」
――声を震わせるマリーウェザーに、シルヴァンははっきりと、彼女に自分との結婚の約束は忘れてくれと言って別れを告げた。
マリーウェザーの痛哭が辺りに響き渡る。
「どうして…どうしてなの、シルヴァン!!何度同じ幸せだった時を繰り返しても、どうしてあなたは私を選んでくれないの…!?もう一度会ってやり直したいと言ったじゃない!!愛しているのに…行かないでと言っているのに!!」
マリーウェザーのその言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
ああ、そうか…そう言うことか。
――シルヴァンは千年前、自分が悩んで出した答えを悔やんでおらず、マリーウェザーに対して呟いた〝やり直したい〟と言った言葉は、マリーウェザーが思っているのと異なる意味を持っているのだ。
シルヴァンは…強い。自分が選んだ答えに責任を持ち、マリーウェザーへの思いに嘆き苦しんでも過去を振り返らず、あの言葉の通り、決して俺を裏切らないのだ。
だとしたら、俺をここへ呼んだのは――
「…いやよシルヴァン…あなたは私だけのもの…絶対に放さないわ。…行かせない…あなたが私を選んでくれるまで、何度でも幸せだったあの頃に戻ってやり直すわ…!!」
マリーウェザーがシルヴァンの背中をキッと睨みつけ、その両手に闇色の魔法陣を描いて行く。
「やめろ、マリーウェザー!!」
ザッ
俺はマリーウェザーを置いて立ち去ろうとしたシルヴァンと、そのシルヴァンになにか特殊な魔法を使おうとしていたマリーウェザーの前に飛び出した。
「…ルーファス!?」
「な…どうしてあなたがここにいるのよ!!」
――思った通り、俺の前にいるマリーウェザーは、俺がここにいることを知らなかった。
吃驚しているシルヴァンに、俺は笑いかける。
「迎えに来たぞ、シルヴァン。本当のマリーウェザーが心配している。」
一緒に帰ろう。
そう言って手を差し出した俺を、シルヴァンは困惑顔で見ていたのだった。
次回、仕上がり次第アップします。




