88 獣人族と呪いの絵画 ②
大長老の屋敷で、食事に毒を盛られたことに気づいたルーファスは激怒し、それでも自分を抑えながら、シルヴァンとアティカ・ヌバラの会話を聞いていました。ところが大長老の口から、人族との戦いを示唆するような話を聞き、惨状を知らない者になにを言っても無駄だと、ある魔法を使用しました。やがてその魔法から目を覚ました大長老でしたが…?
【 第八十八話 獣人族と呪いの絵画 ② 】
――その魔法は、被術者に様々な現象を現実のように体験させることが可能な、精神系冥属性魔法だ。
時間にすれば僅か五分ほどの眠りにつき、夢の中で長時間の体験をする。場合によっては誰かの一生分の時間を味わわせることも出来るのだ。
通常の夢とは違って、痛覚や手に触れた感触などの五感を再現することも可能だが、その場合、現実的すぎて死に至ることもある。もちろん今回は、知って貰うことが目的であるため、痛覚は死なないように最小限に抑えておいた。
俺は戦いを安易に引き起こそうとする者の中に、自分は安全な場所にいて他者に命令だけする愚者がいることを知っている。
そういう輩は傷付き、血を流し、命を落とす者の心と体の痛みを知らず、また知る機会もないからこそ、そんなことが出来るのだ。
だったら、そんな愚者には、同じ痛みを思い知らせればいいと思わないか?
逃げ惑い殺される恐怖と、戦っても抗っても終わることのない、血塗られた苦しみを知ればいい。
普通はそう思っても、その手段がないためにどうすることも出来ないが、俺にはそれが可能だ。
ようやく得た平穏を、僅か千年で壊そうとするような身の程知らずには、丁度いいお仕置きになることだろう。
「アティカ・ヌバラ大長老…?」
小さな呻き声を上げて、時折痙攣している様子の大長老に、室内に入って来るなり異変を察したイゼスが青ざめる。
「ル、ルーファス…」
カタカタとなぜか震えているシルヴァンは、恐ろしいものでも見るような視線を向けて俺の名を呼んだ。
「大丈夫だ、いくら俺が本気で怒っていても、さすがに大長老を殺しはしないよ。たとえ相手が、シルヴァン以外の俺達を殺すつもりでいたとしてもな。」
――腸は煮えくり返っているが、まだテーブルに顔を埋めて眠っているこの大長老が、主犯だと決まったわけじゃない。
「ルーファス様、それはどういう意味ですか!?」
ムッとした顔をしてイゼスが聞き返す。彼にしてみれば、同族が疑われること自体、不名誉なのだろう。
元々獣人族とは気性が真っ直ぐで、卑怯なことを嫌う正義感の強い一族だ。戦いを仕掛けるにしても、正面から正々堂々と挑むことを好むような性質で、客人としてもてなしておきながら、食事に毒を盛るようなことは普通ならしないだろう。
各々がそういった誇りを持ち、志操堅固な種族だからこそ俺は、大長老がこちらを良く思っていなかったとしても、蟠りを解いて信頼を得ようと思ったのだ。
「――俺とウェンリー、アテナの食事にだけ猛毒を持つ『ファソラポカ』の幼虫が入っている。それとも、ここの獣人族の民族料理には毒抜きの処理もせず、これを食材に使う習慣でもあるのかな?」
「ファソラポカだと!?」
シルヴァンは慌てて自分の料理をフォークで掻き回した。
『ファソラポカ』とは、地中に暮らす非常に小さな虫系魔物だ。成虫は螻蛄に似た姿で、モールクリケットよりも遙かに小さく、食用として用いられることもある。
だが幼虫は捕食されないように体内に猛毒を持っており、高位系浄化魔法を使用しなければ完全に毒を消し去れず、まず食べるのには向かない。毒さえ無ければ成虫同様に結構美味しいんだけどな。
――まだ怒りが治まらない俺は、多分無関係なはずのイゼスにでさえ、それをぶつけてしまう。このぐらいの嫌味は言わせて貰いたい。守護神シルヴァンティスを迎えた、大長老の屋敷で命を狙われたんだからな。
「猛毒!?」
案の定イゼスは、慌てた様子で残っていた俺の料理を確かめた。その行動は彼がこのことを全く知らなかった証拠だろう。
「う、嘘だろ!?俺食べちゃったぜ!?」
美味い美味いとその料理を、綺麗さっぱり平らげたウェンリーが、気絶寸前になる。
「心配は要らない、ウェンリー。おまえが食べる前に、気づいた時点で浄化と解毒の魔法を使ったからな。俺がそれを見逃すはずはないだろう?」
ウェンリーの不安を払拭するために無理に笑ってみせはしたが、激しい怒りを抑える方が大変だった。
落ち着こうと思えば思うほど、腹の底から沸々と怒りがわき上がってくる。…だが感情のままに理性を失っては、真実を見誤るだろう。
もう一度深く息を吐き、気を落ち着かせてこれまでのことを思い出してみる。
大長老の態度に特におかしな点は見られなかった。運ばれてきた料理に目を向けた様子もなかったし、どちらかと言えば俺達のことなど眼中にない感じだった。
シルヴァンに対するものとはあからさまに違ってはいても、一瞬でも殺意を向けられた覚えはない。あればさすがに気づくからな。
だとすると、大長老は全く関係が無い可能性がある。そのことは目を覚ましたらすぐに確かめればいいが、大長老がこのことをなにも知らなければ、毒を入れた犯人がなんの目的で俺達を狙ったのかがわからなくなる。
ここで俺達を殺して得をする者がいるとは思えないし、今のように無傷であっても、俺達が怒って獣人族に敵意を向ければ、大きな揉め事に発展するだけだ。
単に人族だから命を狙っただけなのかもしれないが、もしそうでなければ、ここには俺の予想外の目的を持った敵が、人知れず潜んでいる可能性があった。
そう言えばさっき、最近になって他所から来た獣人がいると話していたな。きな臭い話を持ちかけたり、戦いを煽るようなことも言っていたようだし…なにか関係があるのか?
「も…申し訳ありません!!まさかこのようなことが…シルヴァンティス様のお仲間に危害を加えようとする者がいるなど、お詫びのしようもありません…!!」
イゼスは俺の食べ物の中にそれを見つけると、血の気の引いた顔をして俺達の前に跪いた。
「いや、いい。幸いにして俺達は無事だからな。ただこのことが、アティカ・ヌバラ大長老の指示によるものだったのかを知りたい。多分そろそろ目が覚めるはずだから、君も協力してくれないか?」
「わ、わかりました…。」
自分達を纏めてきた大長老が、そんなことをするなど信じたくない。そんな胸の内を顔に表しながらも、イゼスはこくりと頷いた。
「う、うう…」
そうして俺が毒入りだった料理を含め、全て綺麗さっぱり食べ終えた頃、呻き声を上げながらアティカ・ヌバラ大長老は俺の魔法から目を覚ました。
「――お帰り、大長老。目が覚めたかな?」
この大長老、顔が髪と髭で覆われていて、表情が見えないんだよな。
「ひ…ひいいいいっっ!!!!」
大長老は、俺の顔を見るなり椅子から転げ落ちるようにして後退ると、俺に向かって床に額を擦りつけるように平伏した。
「お、お許し下さいいいい!!わしが…わしが間違っておりましたじゃ…!!!何卒、何卒お許しをぉぉっっ!!!」
ガタガタと全身を震わせて、大長老は俺に怯えていた。
「ルーファス、アティカ・ヌバラになにを見せたのだ?」
「…さっき言った通りだよ。おまえが迫害戦争の最中、体験して見た獣人達の生き様と死に様だ。俺の記憶は完全じゃないからな、中には相当酷い殺され方をした獣人を見て来たんだろう?おまえの記憶を見せた方が確実だと思った。」
「そ…」
そんなことをどうやって?と聞かれたが、そういう魔法だ、と答えるに留める。
この冥属性魔法には対象者の心の暗部に入り込み、本人が二度と同じ思いをしたくない、と感じる部位に好んで触れて、それを引き出す力がある。
アティカ・ヌバラ大長老がこれほどまでに怯えるような悲惨な思いを、反映先に選んだシルヴァンは、過去に体験して来たと言うことなのだ。それこそ、目を覆うほどの俺が知らないようなことも中にはあったんだろう。
己には制御不可能な他者の味わった苦痛ほど、理不尽で恐ろしいものはない。
そのシルヴァンの記憶を見てもまだ、人間に戦いを仕掛けるというのならもう救いようはないが、間違っていたと言いながら、これほどまでに怯えているのなら多分大丈夫だろう。
「我の記憶を見たのなら、戦時中の主の力も垣間見たはずだな。どうだ、凄まじかったであろう?あれが本来のルーファスの姿だ。」
今度はなぜか嬉しそうに、シルヴァンは大長老にそう言った。…いったい、なんのことを言っているんだろう?
「はい…マ、守護七聖主様のお力を持ってすれば、この里など粉微塵にされ、跡形もなく消え去ることでしょう。そうならぬのは、ルーファス様が真実、我らのお味方であるからに他なりません。…心より無礼をお詫び致しまする。」
「…だそうだ、ルーファス。」
ついさっきまでシルヴァンも震えていたような気がしたんだが、なんで今度は誇らしげに笑っているんだ。
「別に俺のことはいい。それより、わかってくれたのなら、もう人間に戦いを挑むなんて馬鹿な考えは捨ててくれたんだな?あんな悲惨な光景を俺とシルヴァンに、もう二度と見せてくれるな。」
「承知致しましたじゃ。守護神シルヴァンティス様に誓って、二度と愚かな考えは持ちませぬ。」
再び平伏して、アティカ・ヌバラ大長老はそう誓ってくれた。
かなり私情が入った荒療治だったが、効果覿面だったらしい。それなら後はもう一つの問題だ、こっちはイゼスに頼もう。
俺が顔を上げてイゼスに視線を送ると、イゼスは頷き、大長老に近付く。
「…大長老、伺いたいことがございます。」
「なんじゃ?イゼス。」
「大長老は…まさか、ルーファス様とウェンリーさん達を、亡き者にしようとお考えだったのですか?」
「なに?」
――意外なことに大長老は、イゼスから毒入り料理の話を聞くと、即立腹して馬鹿を申すな、とイゼスに怒鳴った。
真っ赤な顔…をしていたかどうかは見えなかったが、そうなんだろうなと思うくらいに腹を立て、シルヴァンの客にそんなことは絶対にしないと、頭から湯気を立てた。
やっぱりそうか。俺達の皿に毒が盛られていると知っていたのなら、ほんの僅かでも、それが態度のどこかに現れていてもおかしくなかった。
だが大長老は俺達を見て気に入らない、と言う感情を言葉に表してはいても、動揺することは全くなかったのだ。
これで大長老の意思に関わりの無い、俺達を狙う何者かがいることははっきりした。
まず疑うべきは料理を作った者だが、その後の調べでおかしなことに、その獣人の料理人は食材の中に『ファソラポカ』の幼虫を見た覚えがないと言う。
あくまでも自分が料理したのは、『ナヂ・ゾーヤボーネ』と言う豆科植物の実で、料理人の誇りにかけて、人の命を奪うような料理を作ったりしないと叫んだ。
当然だが、その取り調べには偽証石が用いられており、嘘を吐いていないことは明らかで、そうなるともう、どこでどう毒が入ったのかは、調べようがなかった。
結局料理人を罪に問おうとした大長老には、その必要は無いと告げ、俺達は話し合って、この件は屋敷の獣人に箝口令を敷き、暫くの間隠すことにした。
「――良かったのか?ルーファス。ウェンリーの命が危険に晒されたことで、激怒していただろう。」
その後大長老からは、まだ碌に知りたいことを聞き出せないまま、今日はもう解散することにして食堂を後にする。
念のため屋敷内をもう一度アテナに精査して貰ったが、俺の詳細地図に赤い信号が現れることはなく、敵対存在は確認できなかった。
そのことからしても、犯人は内部の者ではないのかもしれない。
「良くはないが、この鬱憤は真犯人に後で思う存分ぶつけるから構わない。それよりシルヴァン、おまえの方こそまだ里の名の由来を聞けていないだろう。」
「…うむ。だがそれは明日、ここの問題を含め改めて話し合えば良い。ルーファスのおかげで今度はあなたを交え、アティカ・ヌバラともまともな話が出来そうであるからな。」
「…そうか。」
来た時に通った螺旋階段の前で、俺達はシルヴァンと別れる。
「シルヴァン、きちんと眠るんだぞ。」
「心配は要らぬ。ではまた明日な。」
「ああ、お休み。」
――こうして俺達は波瀾含みの一日を終えた。
翌朝――
「おはようございます、ルーファス様。」
「おはようアテナ。…あれ、ウェンリーは?」
朝風呂に入り、浴室から出てくると、既に起きていたアテナが俺にコーヒーを淹れてくれていた。
「中庭です。なんだか今朝は少し元気がない様子で…」
硝子張りの中庭に面した窓から外を見ると、地面にしゃがんでボーッと池を泳ぐ小さな魚を見ているウェンリーがいた。
「ウェンリーさん、どうしたんでしょうか?」
「…アテナにはまだわからないか。」
人の感情が大分わかるようになったアテナだが、俺のように心の声が聞こえないウェンリーが相手だと、その小さな機微は少し読み取り難いようだった。
――昨夜の一件が原因だろうな。ウェンリーにしてみれば、食事に毒を盛られたことは精神的にかなり衝撃だったんだろう。もちろんそれは、死んでいたかもしれないという意味じゃない。
「心配は要らない、自分の中である程度整理が付いたら、ウェンリーの方から多分俺になにか言ってくるから。」
「そう、ですか…。」
俺は心配そうにウェンリーを見るアテナの頭に、ポン、と軽く手を乗せてそう言った。
朝食を済ませた後、俺達はそのまま食堂で、アティカ・ヌバラ大長老とイゼス、レイーノ、ランカの三人を交え、昨夜出来なかった話の続きをすることになった。
ウースバインの三人は、今後も俺達と里外でも関わりを持つことを前提として、詳しい事情を知って貰うために、俺の方から同席を頼んだ。
まず最初のその内容は、なによりも優先しなければならない、獣人女性の短命問題だ。
かつてシルヴァンが、先代の長からなにも知らされていなかったように、ここの里の獣人達は、なぜ女性獣人だけが若くして亡くなって行くのか、千年経った今でもその理由を知らなかった。
この問題は一族の大きな弱点ともなりかねず、おそらくは獣人族を守る観点から、やはり代々の長以外に知る者がいなかったのだろう。
そうして彼らは、自分達の種族はそういうものなのだと諦めて受け入れ、獣人女性は遅くとも十七才になるまでには伴侶を決め結婚し、一人でも多くの子供を産むことを義務とされて、俺の想像通りに一族を維持していたことがわかった。
シルヴァンからその話を聞き、真実を知った大長老とイゼス達は、暫くの間絶句していた。
その上で今となっては誰がそれを言い出したのかは不明だが、多くの獣人女性が若くして亡くなって行くその理由を知らなくても、長としての白銀狼の子が生まれるか、シルヴァンが里を訪れるかすれば、その問題は解決されるはずだと言うことだけは、希望として言い伝わっていたことを教えてくれた。
「――ルフィルディルに伝わっていた、白銀狼の守護神が来訪されれば、一族は必ず救われるというシルヴァンティス様のお話は、やはり真実だったのですね。」
感慨深げにイゼス達が視線を落とし、目に涙を滲ませる。
「俺達の母は、俺達が幼い頃に皆亡くなっています。この里では、子が育つ前に母親がいなくなるのは当たり前のことだったので、それが種族の特徴なのだと、黙って受け入れてきました。でも、これからは違う。今いる女達は、もう若くして死なずに済むのですね?シルヴァンティス様が助けて下さる…!」
シルヴァンは涙ぐむイゼス達を見て、その顔に自らへの呵責を浮かべながら、静かに答えた。
「…そのつもりだ。だが我は一族の長であり守護神であると同時に、守護七聖<セプテム・ガーディアン>でもあるのだ。故に――」
「待てシルヴァン、その話は今はするな。言っただろう?獣人族の問題を放置して俺と一緒に来ることは出来ないと。先の話はこの問題に目途が付いてからだ。」
「…その守護七聖<セプテム・ガーディアン>というのは…?」
気になったのか、イゼスが不安気に尋ねて来る。俺達ことや、その目的である暗黒神やカオスについて、いずれは話さなければならないことかもしれないが、少なくとも今はその時じゃない。
イゼスのその問いには、知らせる必要があると判断した時に教えるから、今は頭から消しておいてくれと返事をして頼んだ。
この件に関しての当面の対応として、獣人女性が倒れるようなことや、急に具合が悪くなった場合は、直ちに俺達に知らせることを住人に徹底すると取り決める。
シルヴァンがここにいる限り、もう誰もこのことが原因で死ぬようなことがあってはならないと俺は思う。
そうして次は、シルヴァンがずっと気にかけながらも、知るのを怖がっている様子だった、この里の名の由来について話を聞こうとした時だ。
ここで大長老が待ったをかけた。その話をする前に、シルヴァンにどうしても先に見せたい物があると言って来たのだ。
「代々の大長老以外、入ることの禁じられた場所にそれはある故、大変申し訳ないのですがルーファス様は…」
「ああ、わかった。急ぐわけでもないし、この話はそれが終わってからにしよう。ギルドにも依頼の報告に行きたいし、俺達はその間に少し外へ出かけてくるから、シルヴァンは気にせず大長老とゆっくりしてくるといい。」
「…すまぬな、ルーファス。」
一旦ここで話を切り上げて解散し、大長老から里内を自由に歩く許可を貰うと、俺達はシルヴァンと別れて外へ出て、里を見て回りながらギルドに向かうことにした。
「ルーファス様、せめて俺かレイーノをお連れ下さい。」
屋敷の前で、昨日のこともあり俺達の身を心配したイゼスは、レイーノと一緒に護衛に付きたいと申し出てくれたのだが、ギルドで依頼を受ける可能性もあったし、俺達だけで出歩く方がなにかと都合がいいのでそれは丁重に断った。
大長老の家を出て昨日通った道を逆に辿って行くと、すぐに大勢の獣人達が忙しなく働いている姿を見られた。
家を建てる作業中の者、道を整備している者、巨木や大木の世話をしている者、荷運びをしている者など、その仕事は様々だ。だがやはり圧倒的に女性の数が少ない。
擦れ違う獣人達の様々な色を持つ、その視線を浴びながら、里の喧噪と時折それに混じって聞こえてくる巨木のざわめきに耳を澄ませた。
――推定規模で大体二万人ぐらいの獣人がいるという話だったか。…シェナハーンにまで跨がる広大な樹海だからこそ、少しずつ人が増えるにつれて集落の規模を広げることも可能だったんだろうな。
イシリ・レコアも本当なら、このぐらいの規模の街を作ることが可能な場所だったのだが皮肉なものだ。
午前中と言えど、天井のように巨木の枝葉で空が覆われているこの里は、木漏れ日が僅かに差し込む程度で、明光石の灯りがなければ昼間でもかなり暗い。
その明光石は通り沿いの一定間隔に支柱を立てて掲げられており、よく見ると家の壁の一部や、屋根の上にも煌々と照らすそれが埋め込まれていて、この灯りが巨木の中程までの高さを明るく照らしていたのだとわかった。
「――どうした?ウェンリー。今日はやけに静かだな。」
「え?ああ…まあ、うん…。」
俯き加減で隣を歩く、朝から口数の少なかったウェンリーに、俺はわざとそんな風に話しかける。
なにを考えて元気がないのか、俺には大体わかっていたが、そんなウェンリーを見てアテナがずっと心配しているからだ。
…気にするなと言っても無理なんだろうな。
アテナにしてみればこんなウェンリーの姿を見るのは初めてで、どう接したらいいのかわからないのだろう。
「なあルーファス…俺さ、シルヴァンが大好きなんだ。」
「ん?ああ…うん。」
唐突にそう言ってきたウェンリーに、俺は一瞬戸惑う。
大好き?…もちろん俺もシルヴァンは好きだけど…ウェンリーがそこまで慕っていたとは、知らなかったな。…なんだか、少し複雑な気分だ。
「シルヴァンはルーファスがヴァハを出て行くって決めた時も、俺が守護者の資格試験を受けた時も、ルーファスには黙って、ずっと俺の手助けをしてくれてたんだ。」
「ん?え?…ああ…。」
――なんだって?…いや、そんな気はしていたけど…やっぱりか。
シルヴァンの奴、俺に内緒でなにをしてくれているんだ。…そう思いながら、ウェンリーの話の腰を折らないように、一旦飲み込む。
「俺にとってシルヴァンは、種族とか関係なくって、友達だと思ってる。イゼスとレイーノ、ランカだって同じだ。獣人族とか、人間だとかそんなん考えたこともなかった。…なのに、俺ショックだ。まさか、あんな…」
ウェンリーはそこで言葉に詰まり、表情を曇らせた。ここに着いた時は、あんなに楽しそうに周囲の景色と獣人達を見ていたのに…ウェンリーにこんな顔をさせることになった原因を作った奴は、やっぱり許せないな。だけど…
「俺達が人間だから起きたことなのかはまだわからないが、あんなことがあったから、ウェンリーは獣人族が嫌いになったか?」
俺は、俺自身の願いから、ウェンリーに話し続ける。
「んにゃ…そんなことはねえよ。ちょっとショックだっただけで…」
「俺もそうだ。昨日のことは、獣人が悪いわけじゃない。あんなことをしたそいつだけが悪いんだ。それに、ウェンリーは必要以上に怖がることも気にすることもない。相手はウェンリーに個人的な恨みがあって、あんなことをしたわけじゃないからだ。」
ウェンリーは多分、自分に敵意を向けられていると思い、そのことが気懸かりだったんだろう。
自分はシルヴァンやイゼス達を親しく思っているのに、そのイゼス達の同族から殺したいほど憎まれているんじゃないかと思えば、気分も沈む。
「ああ…そっか、そうだよな。別に俺が嫌われてるから殺されそうになったわけじゃねえんだ。」
「そう言うことだ。」
「なんだ…そっか。」
ホッとしたように安堵の溜息を吐き、ウェンリーは笑った。
いつだって真っ直ぐで偏見のないウェンリーには、こんなくだらないことで悪感情を抱くようになって欲しくない。
俺にとってウェンリーは、人の心の奥底はこうであって欲しいと願う、汚れのない部分を持っている稀有な存在だ。
ウェンリーがいる限り、俺は人を好きでいられる。どんなに醜い面を見て嫌気が差しそうになっても、ウェンリーの笑顔を見れば、人はそれだけじゃないと思えるんだ。だからこそウェンリーには、ずっとそのまま変わらずにいて欲しい。
俺の言った言葉で吹っ切れたのか、元気を取り戻したウェンリーは、擦れ違う獣人達の複雑な感情が入り交じった視線ももう気にせず、アテナの手を取ってすぐ近くにあった露店へと走って行った。
人間の客が来たことに少し身構えていた店主は、ウェンリーが笑顔で話しかけていると、徐々にその表情を和らげて行く。…さすがはウェンリーだ。
そんなウェンリーの姿を立ち止まって眺めていると、ふと不気味な視線を感じて静かに辺りを窺った。
――誰か俺を見ている。…なんの感情もない、気色の悪い視線だ。獣人のそれなら、人間に対する憎しみや蔑みと言った感情の一つも、籠もっていそうなものだけど…この視線にはそれがないな。……なんだ?
ゆっくりと振り返り、周囲を見回す。すると赤目の黒い犬耳を持った獣人の若者が、俺と目があった瞬間にそれを逸らし、スイッと建物の影に姿を消して行った。
いつもの詳細地図に、敵対存在を示す赤い信号は現れていない。敵じゃないと言うことか?
『ルーファス様?どうされましたか?』
アテナ…いや、なんでもない。
…一応気に止めておくか。
俺は露店で気に入った服を買っていたウェンリーに声を掛けると、ギルドへ向かって三人でまた歩き出した。
――同じ頃、シルヴァンは…
アティカ・ヌバラの後に続いて、ルーファス達の離れとは本館を挟んで反対側に位置する、大木と柊、柵と大岩の壁に隔てられた、表からでは見えない場所に建てられている宝物庫に来ていた。
本館から一度地下へ入り、地下通路の途中、三度鍵のかけられた鉄製扉を開けて地上への階段を上るとこの場所に出る。鍵は常に大長老が所持しており、かなり厳重に守られ隔離された場所だ。
その宝物庫全体には堅固な障壁魔法と保存魔法がかけられており、三本の巨木に跨がって、平屋建ての倉のような建物が、幹に埋め込まれるようにして鎮座している。
「――随分と厳重なのだな。」
場所もそうだが、建物自体も同じだ。一目見ただけでもわかる、爆発系の魔法を使用しても、本館が吹っ飛ぶほどの火薬を使用して火を放っても、おそらくは無傷だろう、と思うほどの頑強さをこの建物は持っている。
シルヴァンはその宝物庫を見上げてそう思った。
一メートルほどの高さに上げられた床の、土台部分には、幾つもの魔法石が埋め込まれた駆動機器が設置されており、それらが低く小さな音を立てて稼働しているようだった。
手にした金属製の輪の付いた鍵束を手に、石道から続く五段ほどの木の階段を上ったアティカ・ヌバラは、生活魔法で器用にあの長い髪を持ち上げて、鉄製扉の前に立った。
「この宝物庫の中には、失えば我らが滅びかねないほどに、重要な宝を保管しておりまする。」
チャリリと音を立て、鍵束の中から特徴的な一本の鍵を選ぶと、それを鍵穴に突き差し、アティカ・ヌバラは解錠の呪を唱えた。
「我は一族を纏めし者、大長老アティカ・ヌバラなり。誓約に基づき、この鍵を以て扉よ開け。」
その表面に無色透明の魔法陣が浮かび上がり、直後にガチャリと音がして、金属が軋む鈍音を立てながら扉がゆっくりと開いて行く。
ギ、ギギ…ギィ…
「さあ、どうぞ先にお入り下され、シルヴァンティス様。」
アティカ・ヌバラは一旦階段から降りてシルヴァンを促すと、自分より先に中に入るよう頭を垂れて勧めた。
――我に見せたい物とは一体、なんであろう。シルヴァンはそう一抹の不安を感じながら、胸にもやる予感に、気づかれないようゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
タンタン、と靴音を立てて階段を上り、内部へと足を踏み入れる。
「これは…!」
先ず初めにシルヴァンは、真正面の棚に置かれた、薄い水色と白い光を交互に放つ、三十センチほどの高さの獣神を象ったクリスタル像を見て声を上げる。
それに近付くと、そのまま手を伸ばし、像には触れずにその暖かな光だけを掌に感じて、懐かしげに目を細めた。
「間違いない、神護の水晶…!ここに保管されているというのは誠であったのだな…!!」
「はい。それがこの里へ辿り着いた詳しい経緯は、後ほど里の歴史を記した書物をお読み下され。」
一歩下がって後ろに控えたアティカ・ヌバラは、頷きながらそう返す。
「口惜しいな…これとキー・メダリオンが失われたために、イシリ・レコアは夢現だった我の目の前で滅んだのだ。」
ルーファスが施してくれた結界障壁が消滅し、里を襲った大地震でイシリ・レコアは滅んだ。その当時の光景が頭に過ると、シルヴァンはそれから目を逸らした。
「見せたい物とは、これのことではないな?」
「はい、奧の空調室へどうぞですじゃ。」
「空調室…」
シルヴァンは様々な宝物が置かれた一つ目の部屋を通り抜け、そのさらに奥にある広めの室内へと言われるがままに進んだ。
ぴっちりと閉じられた気密性の高いその扉を開け、次の部屋に入ると、左右の棚は本棚になっており、巻物や古文書などの紙製の物が多く保存されているようだった。
アティカ・ヌバラが口にしていたように、空調室と名付けられている通り、この部屋には窓がなく、床下の駆動機器によって常に一定の温度と湿度に保たれていた。
それも全ては、最奥の壁に三つ並んで掲げられ、厳重に保管されているある物を、当時のままの姿で残しておくためのものだ。
シルヴァンはそれを目にした途端、大きく目を見開いて、よろよろと力無く部屋の中央まで数歩進むと、そこにガクンと膝を着いて崩れ落ちた。
「――そ…んな…なぜだ…、どうして…これが、ここにあるのだ…」
壁の中央に、縦が二メートル、横が一メートル半ほどの、大きな額縁に入れられた美しい絵画が掛けられていた。
その絵の中で、獣人族の碧き民族衣装を着たかつての自分と、桜色の長い髪を左肩から垂らし、良く晴れた夏空のような薄い水色の瞳で微笑む、記憶の中のマリーウェザーがこちらを見ていた。
――この肖像画は、ユバーファル王の計らいで、マリーウェザーの成人祝いになにか記念に残る物をと、著名な絵師に描かせたものだった。
彼女は嬉しさから中々じっとしていてくれず、我は緊張して逆に顔が強張り、動けなかった。
この絵が完成すると、マリーウェザーは殊の外喜んで、生涯大切にすると言って自室に飾り、毎日のようにそれを眺めていたと言う。
千年も前の、今は影も形もないアガメム王国の城にあった、彼女の自室に最後まで飾られていたはずの物だ。
戦時中に失われているとばかり思っていたのに…なぜ…?
茫然自失となったシルヴァンに、アティカ・ヌバラが背後から静かに語る。
「わしがシルヴァンティス様のお姿を存じておりましたのは、代々の大長老だけが見ることを許されていたこの肖像画のおかげですじゃ。」
シルヴァンの耳に、その声は遠く聞こえてくる。
「――この絵はルフィルディルの最初で最後の里長であった、マリーウェザー様が、処刑寸前で牢に囚われていた獣人達を解放し、共に落ち延びた際に持ち出したものだったと記録には残っておりまする。」
「里、長…――」
シルヴァンはその言葉を聞いただけで、既になにがあったのかを悟り、両手の拳を強く握ると、そのまま顔を覆って膝をついたまま俯いた。
――マリーウェザーは、イシリ・レコアに一族を連れて我が去った後も、城に囚われて残されていた同胞を救い出し、我の代わりに守り導いてこの地に里を作ったのだ。
アティカ・ヌバラの話を聞かずともわかる。我が愛した彼女なら、そうして最後まで同胞を見捨てずに戦い続けていても、おかしくはなかった…。
シルヴァンの瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
堪えきれずに嗚咽を漏らし、突き刺すような激しい胸の痛みに耐え、自分には彼女に詫びる資格さえないのだと、涙で滲んだ目を向け、もう一度その姿を見ようと顔を上げた…その時だ。
壁に飾られた絵画は、全部で三枚あった。その内の一枚は、当時のルフィルディルの風景を写した写生画で、この里がたった数件の建物から始まったことを表していた。
だがシルヴァンの目に止まったのはそちらの絵ではない。もう一枚飾られてあった、正面の肖像画の半分ほどの大きさの絵画だ。
その絵の中で、桜色の髪を肩ほどの長さに切り、粗末な衣服に身を包んで、それでも幸せそうに微笑んだマリーウェザーが、生まれてほどない桜銀の髪色をした赤子を抱いていた。
見覚えのある良く似た顔立ちを知っている。鏡の中でいつも自分が見る顔だ。ぱっちりと開いたその瞳の色は、それと同じエメラルドグリーンだった。
――次の瞬間、シルヴァンの、慟哭の絶叫がその周囲にだけ悲しく響き渡ったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。いつも読んでいただき、ありがとうございます!




