70 海神の宮 ②
突然目の前に現れたクレイリアンのパキュタと名乗る小さな人に、ライは出口を知らないか、と尋ねます。パキュタは不思議そうに首を傾げると、知らない、と答えました。溜息を吐いてライは危険だと忠告された先の道を調べますが…?
【 第七十話 海神の宮 ② 】
唖然として戸惑う俺の横で腹を立てたジャンが、クレイリアンのパキュタに〝ちょっと待て、チビって俺のことかよ!!〟と詰め寄る。
直後に、俺の手より小せえ奴に言われたくないね!!と、怒鳴ると、不機嫌な顔をしてぷうっと頬を膨らませた。
まあ確かに、身長が8センチほどの小人にチビ、と言われたら俺でもムッとするかもしれない。
俺はそんなジャンの頭を、左手で宥めるようにくしゃりと撫でて微苦笑すると、真顔でパキュタに向き直る。
「苦労して作った魔法障壁と言ったな、あの仕掛けはおまえ達の仕業か。俺達を守ると言うが、こんな所で迷わされても困るんだ。俺達は地上へ戻る出口を探している。パキュタと言ったな、地上へ出られる道がどこにあるか、おまえは知らないか?」
俺の質問にきょとん、とした顔をしてパキュタは不思議そうに首を傾げた。
『??出口を探してるって??入って来たのに、出られねえのか?』
「そうだよ!ルク遺跡の仕掛けが動いて、閉じ込められちまったんだから、仕方ねえだろ!!」
『ふ〜ん…なんだか良くわからねえが、そりゃ災難だったな。残念だけどおいらは知らねえや。なんせ生まれてこの方一度もこっから外へ出たこたあねえからな。』
「…そうか。」
俺は短く溜息を吐くと、右手に乗せていたパキュタをすぐ脇の岩の上にそっと下ろした。
そうして立ち上がると、元は壁に塞がれていたその先へと歩き出す。
『おいこら人間!!おいらの話を聞いてなかったのか!?そっちへ行くんじゃねえっつってんだ!!』
途端に喚くように騒ぎ立てるパキュタに構わず、数メートル進んだ所で、足を止めると、周囲を注意深く索敵して、辺りの様子を窺った。
――魔物の気配は今のところないが…
ピト、ピトン…ポタン…サアァ…ピシャン…と、耳に聞こえてくるのはその殆どが水音ばかりだ。だが、一見なんの変化もない自然洞のように思えても、チリチリと毛が逆立つようななにかを感じる。
それは過去の経験から言わせて貰うと、明らかに強力な魔物が索敵範囲外に潜んでいるという、一種の予感のようなものだ。
――性質の悪い水棲の魔物、か。凶暴な魚人族というのが良くわからないが…
俺は後ろを振り返り、ジャンが立っている元壁の内側まで戻った。
「ライさん…?」
「確かにこの先はパキュタが言う通り、これまでの道とは違うようだ。」
「どう…すんの?」
不安げな顔をしてジャンが俺に尋ねる。
「パキュタの忠告は有り難く受け取っておくとして、マリナ達が待っているんだ、危険を承知で先に進むしかない。ここからは慎重に進むことにしよう。」
「う、うん…そうだよな、わかった。」
意を決したように口をきゅっと結び、頷いたジャンの顔を確認すると、俺はよし行こう、と声を掛けて歩き出した。ところが――
『待て待て待てえ〜い!!おいらを無視すんじゃねえっ!!』
身体は小さいくせに、俺達の耳に良く響く声でパキュタは叫ぶ。しかも…
「うわっこいつ、空飛んで来た!!」…とジャンが言う通り、パキュタはある生物の背中に乗ってまで俺達の後を追いかけて来たのだ。
ぱたぱたぱた…
「…蝙蝠…。」
俺の顔の前、目の高さを、蝙蝠の背に乗ったパキュタが飛んでいた。
『こいつはおいらの相棒で洞窟蝙蝠の "アギ" ってんだ。それよりおめえ、命が惜しきゃ行くなっつってんだろ!?本っ当に危ねえんだって!!!』
「…ああ、それはもうわかった。だがおまえはどうしてそこまで俺達を引き止めようとするんだ?」
あまりにもしつこいパキュタに、俺はその理由を聞いてみる。
『そりゃおめえが "識者" だからだ。』
「…識者?」
聞き慣れない言葉に問い返すとパキュタは、俺のように精霊に属する者達の声を聞き、姿を見ることが出来る人間のことをそう言うんだ、と教えてくれた。
『識者はおいら達のような精霊にとって、数少ない貴重な存在なんだよ。昔っからなにか一族が全滅しかけるような手に負えねえことが起きた時は、おめえのような視える人間の助けを借りて、おいら達は生き残ってきたんだ。』
今では人間ばかりが跋扈するフェリューテラから、精霊達の方が自分達の世界へと逃げ出し、町や村などを彷徨くこともなくなったために、俺のように自分が識者であることを自覚する人間は殆どいなくなったという。
だからこそ、こうして偶々縁が出来た場合は、なにをおいてもその識者を守らなければならないのだそうだ。
「…なるほど。だがそれはおまえ達の都合だ。悪いがそれに付き合ってやることは出来ないな。上の遺跡ではジャンのお爺さんと、年端のいかない子供達が助けを待っているんだ。危なかろうがなんだろうが、俺は出口を探す。」
〝心配してくれるのは有り難いが、特にそれ以外に用がないのなら、もう放っておいてくれ。〟
そう言って俺はパキュタを追い払おうとした。だがその直後…――
ぼよん…ドサドサドササッ
ジャンと二人、迷路のような洞窟内を歩き出して五分も経たないうちに、天井から落ちて来た魔物の集団に襲われた。六体もの『アクアスライム』だった。
「ジャン下がれ!!」
俺はジャンを安全な場所に下がらせ、すぐさまライトニング・ソードを引き抜くと戦闘に入った。
『アクアスライム』は、軟体系でゼリー状のぷよぷよした魔物で、その殆どが水で出来ていると言われている。
同じような自然洞窟内で見られる、最弱系Fランク魔物のスライムとは属性の違う同種だが、こちらはDランクに分類される強さを持っており、一応武器による物理攻撃は通用するものの、打撃には強く、斬撃系の技しか効果がなかった。
通常こいつらの攻撃は、ぷよんぷよん跳ねて飛びかかってくる体当たりが主で、気をつけてさえいれば交わすのもそう難しくはない。
だが恐ろしいのは水を体内に取り込み、それを細く絞って噴射する攻撃で、非常に威力が高く、近くの鍾乳石を簡単に粉砕するほどの力を持つ。
それ故にアクアスライムは水が豊富にある、洞窟のような日の差さない場所を好んで生息しているのだ。
あれに貫かれたら、場所によっては即死もあり得るな。
俺はその噴射攻撃に集中して注意し、ライトニング・ソードを最大限に利用して魔物を倒して行く。
俺が愛用しているミスリル製の中剣ライトニング・ソードは、刀身に光属性の『雷』を帯びている。俺がこの剣を気に入っている理由は、敵を攻撃していくと柄に嵌め込まれている魔石に力が蓄えられて行き、好きなタイミングで広範囲の強力な電撃を放てるところにある。
どういう原理になっているのかは良く知らないのだが、この武器は戦地ミレトスラハでも幾度となく魔法が使えない俺の命を救ってくれた。
そして幸いなことに、どうやら俺のこの愛剣は、こんな難解なダンジョンでも俺を裏切らないようだ。
――やはりここの水棲魔物の弱点は『雷』や『電撃』か。
魔物への攻撃によって魔石に力が溜まってくると、刀身に帯びている雷も徐々にその強さを増してくる。
その電撃に触れる度に、アクアスライムがたじろいで後退し始めた。これなら魔石の力を温存しながら魔物を倒せそうだ。
俺は刀身の電撃が最大威力にまで高まった瞬間に、横への薙ぎ払いで、全てのアクアスライムを倒すことに成功した。
これならなんとかなりそうだ。
俺は魔石に力が溜まり、薄い紫色の光を放ち始めたライトニング・ソードを鞘に収めると、駆け寄ってきたジャンに怪我はないかと尋ねる。
「俺は大丈夫、ライさんこそ…!」
「俺も平気だ、問題ない。」
『ふうん…なんだおめえ、素人じゃなかったのか。おまけにその剣があるから、なんとかなると思ってんだな。』
「あっこいつまだ付いて来てんのか!」
ジャンはパキュタに気付くと、手で追い払おうとしてぴょんぴょん跳びはねた。それをパキュタは上手く『アギ』という名の蝙蝠を操って、ひょいひょい躱している。
「――水棲の生物や魔物はその殆どが雷や電撃に弱い。俺はこの剣を長年愛用していて使い慣れていてな、魔石の力を解放した攻撃も、変異体のような魔物には威力が低くてあまり意味はないが、通常の魔物などが相手なら十分使えるだろう。…まあその判断を下せたのも、おまえがくれた情報のおかげだが。」
『……』
俺はパキュタから最初に水棲魔物が多くいると聞いた時から、自分の武器がこの場所には有利であることに薄々気が付いていた。
でなければジャンを先に連れて行くかどうかでかなり悩んだだろう。
ついさっきまで危ない危ないと喚いていたパキュタが、顎髭を撫でながらなにか考え込むように黙り込んだ。
「まあそういうわけだから、心配は要らない。行くぞ、ジャン。」
「あ、うん。」
俺達はパキュタをその場に置いて先へと歩き出した。
魔法による障壁で隠されていた道を見つける前は、ずっと川沿いの道を歩いていたのだが、パキュタの言う『海神の宮』に入ってから暫くの間は、自然洞窟のような道が続いていた。
だが常にどこからか水音が聞こえていて、すぐ近くには川なのか水路なのかわからないが、なにかしらの水が流れているのだろうと思われた。
そして出現する魔物もやはりその多くが水棲魔物で、貝型の『シュリーガン』や、飛翔系魚型魔物『フライフィッシュ』、アクアスライムに珍しいところでは水属性を持つ蝙蝠型魔物の『アクアバット』などが生息していた。
それらが襲ってくる度に、俺はジャンを守りながらライトニング・ソードで撃退して行く。
確かに出現する魔物の数は多いが、ここまでは特に問題もなく進んで来られて、後は出口、若しくは出口に繋がるような道を見つけるだけで良かった。
「すげえな…ライさんって今は本職じゃねえ、って言ってたけど、やっぱ強えんだな。初めて来る場所なのに、どんな魔物も簡単に倒してるし…」
「簡単?…ジャンにはそう見えるのか。」
「…違うの?」
俺は横を歩くジャンに苦笑いを浮かべて〝違うな〟と返した。
「俺がここで有利に戦えているのは、偶々使用しているこの剣が敵の弱点を突ける特殊な武器だったからだ。それでも多少なりとも剣が使えなければ戦えないのは確かだが、決して簡単だとは言えない。これでも俺は必死なんだぞ。」
「え…」
ジャンは少し驚いたような顔をして俺を見上げる。
俺はつい最近、魔物駆除協会で定められた魔物のランクが、悪化修正されたことをジャンに話す。そうして軒並み今は魔物が非常に強くなっており、全ての守護者達が苦戦を強いられていることも話した。
「多分ここの魔物も例外なく強くなっているんだろう。実際、少しでも油断したら命取りになりそうだと危機感は持っている。俺はもう守護者じゃないからな、昔のようには動けないんだ。」
「――守護者ってさ、魔物と戦えない人達を魔物から守るのが仕事なんだよな。」
「…ああ、そうだな。」
「だったら、ライさんは今も守護者なんじゃねえの?…俺を魔物から守ってくれてるんだしさ。」
俺はジャンに言われたその言葉に、一瞬目を見開いた。ジャンが俺のことをそんな風に思ってくれているとは思わなかったからだ。
「…俺、やっぱ守護者になりてえな。金が稼げるって言ったけど、それだけじゃなくて、マリナ達を自分の力で守ってやりてえんだ。だからさ、ライさん…俺が王都に行ったら、俺に剣の扱い方を教えてくれよ。」
だめかな?と真剣な表情でジャンが俺を見た。
――だめではない。だめではないが…俺はエヴァンニュの軍人だ。ジャンはそのことを知らない。おまけに俺はどんなに自分が認めたくなくても、ジャンの両親を死に追いやったあの男の息子なのだ。
そんな俺が、ジャンに剣を教える…?…いいんだろうか…。あの男のことはともかく、俺が軍人だと知れば、ジャンは傷付くのではないのか…?
俺はどう答えるべきなのか迷った。だが…
「――ああ、わかった。ジャンが王都に来て、守護者以外の仕事があることも知った上で、それでも俺に剣を教わりたいと思うなら…その時は責任を持って魔物と戦えるように俺が剣の扱い方を教えよう。」
「本当か…!?」
「ああ、約束する。」
ジャンが王都に出て来て俺の正体を知れば気が変わるかもしれない。だがもしそれでも気が変わらず、俺に剣の扱い方を教わりたいというのなら、その時は約束を守ればいい。…そう思うことにした。
「だからそのためにも、なんとか出口を見つけなければな。」
俺はジャンにそう言って笑いかけると、またジャンの頭をくしゃりと撫でた。
それからも俺とジャンは、どこかに真水がないか探しながら、出口を求めて注意深く先へ先へと歩いて行く。
二叉に分かれた道ではマーキングツールで印を付け、手探りで少しずつ攻略しながら、隠し階段のようなものがないか、上へ向かう通路がないか、慎重に調べて。
だが一向にそれらしい道は見つからず、ボトルに多めに用意してきた水もかなり少なくなってきた。
――やはりこの中に真水はないか…最悪の場合はアクアスライムを解体して得るしかなさそうだな。
冒険者のダンジョン探索や守護者の野外活動の一つとして、魔物から水や食料を得る方法がある。
エヴァンニュ王国は平穏で食料が豊富にあり、民間人も食べる物に困ることがないためあまり知られていないようだが、外国では魔物から食材を確保するのは特に珍しいことでもなかった。
市場に最も多く出回っているボア肉などがいい例で、きちんと熱処理をして殺菌すれば、鳥系魔物や哺乳動物系の魔物の肉などはとても美味しく食べられる。
ただ俺は、アクアスライムの水を飲用に用いたことはなかったし、なによりジャンがそれを受け入れるかどうかが心配だった。
アクアスライムを含め、スライム系魔物からは上手く解体することで、純水に近い真水が獲れる。不思議なことにスライム系の魔物は、たとえ取り込んだ水が腐った水でも、汚れた水でも、それを体内で濾過して清浄な真水に変えるという性質を持っていた。
だがその身体の殆どが水で出来ているせいで、解体する時はゼリー状の部位と破れやすい透明な外皮、魔石と水に分離しなければならず、非常に時間がかかって面倒臭いのだ。
仕方がない、もう少し進んでもなにも見つからないようなら、ボトルの水が尽きる前に確保しよう。
そんなことを考えていた俺は、ぱたぱたぱた…と微かに聞こえる羽音に、アギとパキュタがまだ後を付いて来ていることに気付く。
蝙蝠の羽音…まだ俺達の後を追って来ているのか。長老の命令がどうとか口走っていたが、精霊にとって『識者』というのは余程重要な存在らしいな。
思えば闇の大精霊『ネビュラ・ルターシュ』にトゥレンを助けてもらったことと言い、俺はどうも精霊という存在とは少なからず縁があるようだ。
だからこその識者なのかもしれないが…――
湿った岩と砂や小石が混じった地面を歩きながら、洞窟内を照らす道の脇に生えている巨大な光茸を見て、これは食べられないのかな、と足を止めた時だ。
「ライさん見てくれよ!また川沿いの道に出るみてえだ、あっちはかなり明るいぜ、もしかしたら外かも…!」
洞窟内の移動に慣れてきたジャンが、かなり明るく見える道の先に、気が急いたのか突然走り出した。
「待てジャン、俺より先に行くな!」
慌ててジャンの後を追う俺の脇を、ぴゅううーっ、と物凄い速さでなにかが飛んで行った。
――アギに乗ったパキュタだ。
『言わんこっちゃねえ、早くあのチビを止めろ人間!!水辺はやべえんだっっ!!!』
「…!?」
パキュタの警告に俺は全速力でジャンを追いかけると、川岸で立ち止まり水の中を覗き込もうとしている、五メートルほど先のジャンに手を伸ばした。
「よせジャン!!水はだめだ、戻って来い!!」
ズ…ザバアアッ
「――えっ…」
次の瞬間、水中から水しぶきを上げて巨大な影がジャンに飛びかかる。
その場所はまだ洞窟の内部で、壁一面に光苔が群生していたために他より明るかっただけだった。
おまけにさっきまでの小さな川とは違い、ここは湖ほども幅のある地下大河の川岸だったのだ。
その水の中から、鯰のような顔をした、全身が青灰色の鱗に覆われている不気味ななにかが現れた。
太く筋肉質の蹼が付いた腕と背中に棘の生えた鰭を持ち、下半身が完全な魚の姿をしたそれが、ジャンをがっしと両腕で抱え込み、一瞬で水の中へと引き摺り込んだ。
「ジャンっっ!!!」
ザバアンッッ
俺の目の前で水中に消えたジャンと入れ替わるように、さらに水面を突き破って俺を目掛け、大きな影が襲いかかる。
ザバアッ…ダアンッ
体当たりをまともに食らった俺は、それに押し倒され、地面に身体の左側面を強打した。
「ぐあっ!!」
ゲチチチチ…
直後聞いたことのない不気味な声を上げ俺を押さえつける、それの目を見た瞬間、ゾオッと全身が総毛立つ。
魚だ。人間のものより少し短い、三本指の手足が生えた、青灰色の大きな魚。しかもあの壁画のような三つ叉の槍を持っている。
その縦に楕円形の薄い顔両側面に付いた、黒くて丸い飛び出た魚眼が、死んだ動物のそれに似ていて、俺の背中を寒気が襲った。
『そいつはウォントだ!!水に引き摺り込まれるぞ人間!!』
パキュタのその声が届いた時にはもう、為す術もなく俺の身体は物凄い力で水の中へと引き摺り込まれていた。
ドボオンッ
鼓膜に伝わる空気の振動が消え、時が遅くなったかのような、ゆっくりとしたゴボゴボゴボと言うくぐもった音に切り替わると、瞬く間に俺の身体は下へ下へと引き摺られて行く。
足下には、どこまで深いのか全くわからない、深淵の闇が拡がっていた。
――ジャン!!ジャン…ジャンはどこだっ!?
水中で目を見開いた俺は、先に引き摺り込まれたはずのジャンの姿を探す。だがジャンはおろか、ジャンを連れ去った最初の化け物の姿すら見当たらなかった。
それでも必死に踠きながら辺りを見回す俺の目に、ほんの一瞬巨岩と巨岩の隙間を凄い速さで通り過ぎて行く、巨大な生物らしき影が見えた。
それの表面は紺碧の鱗に覆われていて、蛇行するように動いた瞬間に光が反射すると瑠璃色の輝きを放った。
巨大な蛇…?まさか、海神か…!?
驚いた直後に息が苦しくなってきた俺は、すぐに剣を引き抜き、身体にしがみ付いていた、パキュタが『ウォント』と呼んだそれに突き刺すと、手が離れた瞬間に水を蹴って水面に逃れる。
「ぶはっ」
グイッ…ガボガボガボ…ッ
だがまたすぐに足を掴まれ、水の中に引き摺り戻されてしまった。
再び水中で目を凝らすと、周囲には五体もの同じようなウォントが俺を狙っていた。俺は息が出来ずにしこたま水を飲む。
苦しい、このままだと溺れる…!!
俺はその場でライトニング・ソードを目の前に掲げると、魔石に溜まっていた力を周囲のウォント目掛けて一気に放った。
次の瞬間、目が眩むような閃光が輝き、水面を突き破って半径十メートルほどの範囲一帯に雷が迸る。水中で魔石の力を解放したために、水が増幅媒体となって威力を跳ね上げたのだ。
生き物のようにうねるその雷は、五体いたウォント達の間をバリバリバリッと何度も何度も行き交う電撃となって、水中でさらに威力を増しながらそれらの身体を穿つと、あっという間に感電死へと誘った。
俺は急いで水から出て岸へと這い上がる。
「ハア、ハア、ゲホッゲホッ…」
『おい、大丈夫か!?チビは…!?』
――アギに乗って飛んできたパキュタの声が遠くに聞こえる。
あれは…なんだ?俺はなにを見たんだ…?
薄暗い水の中、かなり深いところを物凄い速さでなにか…巨大な、長い身体を持つものが泳いで行った。
岩壁の巨岩の隙間からほんの一瞬しか見えなかったが…――
『おいってばよ!!人間!!』
俺は震えながらやっとの思いでパキュタに返事を返す。
「わ、わからない…水の中でジャンの姿を探したが、もうどこにも見えなかった…!」
守れなかった…俺はジャンを守れなかった…?どうして手を掴んでいなかった?なぜ目を離した…なぜそばを離れるなと、もっと強く言い聞かせておかなかったんだ…!いや、それ以前に、どうしてこんな危険な場所に、あんな子供を連れて来たんだ…!!
俺のせいだ…ジャン…俺のせいでジャンが…――
鉛のように重くなった身体を引き摺り、俺は一旦川岸から離れると、岩陰に寄りかかったまま…ジャンが消えて行った川面を見つめ、そこから動けなくなってしまった。
♢
ライが海神の宮で、水に引き摺り込まれたジャンを見失う少し前――
『リヴ様〜!リヴ様〜!!リヴグスト様〜っ!!』
ぱたたたたたた――
円形の白く輝くつるつるした大理石の床を、パキュタと同じような緑の三角帽を被り、ズレッとした魔法使いの衣装のような同色のローブを着た、身長が10センチほどの男性が走って行く。
慌てた様子で両手をパタパタとバタつかせ、はっきりと目の前に見えているその姿に向かっているのに、走っても走ってもそこへは中々辿り着かない。
『リヴ様っ!リヴ、様っ!!はあはあ、くっ…リヴ様が…ッ遠いですう〜!!』
ガッ…ズベッ
やがて彼は、突然なにもない場所で顔からもろに素っ転ぶと、その勢いで、障害物のなにもないその場所を、ツィイーっと回転しながら滑って行った。
――その場所は、深く揺蕩う水底にあった。
エヴァンニュ王国の西方、ルクサールよりもさらに西の海、かつて『オセアノ海王国』と呼ばれた国が存在していた辺りの深海である。
その深き海底の岩壁を大きく抉ったような自然洞の中に、珊瑚礁の美しい入り江があった。
そこは深海にも関わらず、魔法の力で海水が内部に入らないよう障壁が張ってあり、その障壁に沿ってまるで滝のように水が流れ伝い落ちて行く。
おまけに真っ暗なはずのこの場所は、遙か海上で射す届かない太陽の光に変わり、天然の極大明光石の明かりを用いて、水を通すことで増幅させ照らした幻想的な採光技術を使い、周囲を昼のように明るく保っていた。
大理石の床の端には、白く美麗な変成岩のガゼボが建てられていて、そこから下る五段ほどの階段の途中から、雪白の細かい砂浜と藍色の澄んだ海水が満たされた海中へと入って行けるようになっている。
その砂浜の入り江に、光の角度によっては瑠璃色に輝く紺碧の鱗を持つ、超巨大な海竜がとぐろを巻いて寝そべっていた。
その海竜は細く長いダツのような形の顔をしており、頭から背中にかけて続く鋭く尖った背びれと、蛇のように長い身体を持っている。
頭を擡げた首から下の辺りに、鉤爪の付いた四本指(三本の長い指と一本の親指)の腕があり、海中で見えない腹側の、尾に近い後方には蹼の付いた下肢もある。
クハア、と退屈そうな大欠伸をして、自分の方にツツツーッと滑って来た砂粒のようなそれを、床から十メートルほどの高さから、小さすぎて見えん、と思いつつ海竜は見下ろした。
『――喧しいぞデズン。予の名をそのように連呼するでない。折角懐かしき良い夢を見ておったのに、目が覚めてしまったではないか。』
大理石の床が砂に変わる辺りで、ようやく止まったデズンと呼ばれた彼は、むくりと起き上がって海竜を見上げた。
『リヴグスト様、識者です!識者がリヴグスト様の宮に来訪しました!!もしや永い間待ち侘びておられる、彼の御方ではございませんか…!?』
『なに…?』
≪ 識者だと…?≫
デズンにリヴグストと呼ばれた海竜は、話を聞いてすぐ、さざ波のような魔力を放ち、その宮の様子を探った。
すると『遠視』による頭の中の映像で黒髪の人間…つまりはライとジャン、そしてライに寄り添って飛ぶアギとパキュタの姿を見た。
『――ほほう…アギに乗ったパキュタと会話を交わしておるな。…確かに識者のようだ。』
『で、ではやはり…!?』
『…残念だが違う。予の君は輝くような白銀と黄金の光を内から放っており、もっと美しい。』
『さ、左様ですか…』
デズンはガックリと肩を落とした。
≪ふむ、漆黒の黒髪を持つ識者か…遠視では良くわからぬが、なにやら変わった人間のようだな。≫
おまけに危険度の高い予の宮で、戦えもせぬ子供連れとは…と、リヴグストはライを訝る。
『なにか事情がありそうだ。…ちょうど良い、予も今後に向け陸の上で少し、身体を動かしておきたかったのだ。場合によっては話しかけてみるのも面白かろう。』
『ええっ!?リヴ様自らですか…!?』
しゅるるるるる…、とリヴグストは海竜の姿から人の姿へと外見を変化させた。だがその姿は完全には変化しきれず、左右の耳には小型化した鰭のようなものがつき、瞳は蛇のそれに近く、腕の皮膚には瑠璃色の鱗が僅かにうっすらと残っていた。
「――むう…今はまだこれが精一杯か、完全な人の姿にはほど遠いな。まあ良い、異な者として斬りかかられたら、かかられたで、相手をしてみるのも一興だ。」
紺碧の王子系セミロングのさらさら髪を、前から掻き上げたリヴグストは、胸の辺りまで開いたV襟の、グレーに濃紺の刺繍と縁取りがされた紐で縛る腿丈衣装に、動きやすそうなストレートレギンスと、脹脛ぐらいまでのロングブーツをしっかと履いて微笑んだ。
≪ うむ、こんなところか。≫
『数十年ぶりの来訪者ですが、クヴィスリング・ルイーバ<裏切り者ルイーバ>とセイレーンには呉々もお気を付け下さいませ、リヴ様。』
そう言うとデズンは跪き、リヴグストに深く頭を下げた。
「案ずるな。予は守護七聖<セプテム・ガーディアン>が青、海竜リヴグストであるぞ。」
リヴグストは暗褐色のフード付きマントをバサッと飜して羽織り、そのまま床に輝く転送陣で海神の宮内部へと転移して行った。
シュウンッ…ストッ
――相変わらず辛気臭い…このような自然洞窟が、予の宮などと呼ばれるのは些か不本意だ。美しいのは光苔と光茸による青白い光の輝きだけではないか。
リヴグストは不満げに顔を顰めると、その場で自身の持つ魔力を放ち、それが反響して描く波紋から、先程『遠視』で見た黒髪の人物がいる場所を探すと、思ったよりもまだ距離があることに気付き、のんびりと散策を楽しむぐらいのつもりで自然洞の中を歩き出した。
つい先日、『魂の絆』を通じて強大な力が流れ込んできた時に、光の神魂の宝珠が解放されたことを知ったリヴグストは、待ち侘びた『君』にもうすぐ会えるのだと思うと、嬉しくてうずうずしていた。
ただ揺蕩う水底で微睡む日々がもうすぐ終わる。それは同時に恐るべき暗黒神の復活が近いことを示しているのだが、それでも心から敬愛する御方に会えるのだ。
十年ほど前に完全に覚醒してからは、自身の力だけで陸に上がる訓練を積み、千年前とは違って、常に水から離れても行動することが可能になった。
これでもう彼の御方から離れることもない。今の自分には千年前とは比べものにならないほどの強大な力が漲っている。永き眠りはこのためにあったのだ。
…そんなことに思いを巡らせていると、早速複数の魔物が目の前に現れた。
「――どれ、陸上での予の力が如何程か、加減をしながら確かめてみるとするかな。」
ブウンッ
不敵な笑みを浮かべ、リヴグストはシルヴァンと同じように、なにもない空間から手元に自身の武器を取り出した。
長さが二メートル弱の三節棍である。
この武器は接続部位を自由自在に連結することで、リーチの長い棍の状態に、分離させて内部に収納された鎖で繋いだ状態にすると多節棍に、さらに先端には隠し刃が仕込んであって、それもボタン一つで出し入れ可能になっていた。
出現した魔物は、アクアバットが三体とシュリーガンが二体だ。
リヴグストの戦闘スタイルは、棍の長いリーチを活かした中から遠距離タイプで、集団戦では多節棍の回転攻撃や連続した打撃技で蹴散らす戦法を得意としている。
また飛び道具にも強く、シュリーガンが放つ毒針も多節棍を回転させて弾き返すカウンター技となって、すぐ傍を飛んでいたアクアバットへ命中し、労せずして叩き落とした。
リヴグストは素早く多節棍の状態から棍の状態に連結すると、その先端をシュリーガンの殻の中へ突っ込み、それと同時に隠し刃を出現させて内部から躯体を破壊する。
まるで舞い踊るように流れる一連の動作は、あっという間に出現した魔物を動かぬ骸へと変化させた。
「…ふむ、少々手応えが無さ過ぎるな。準備運動にもならぬわ。」
暗褐色の目深に被ったフードから、満足げに上がる口元が覗き見えた。
まずまずの滑り出し、と手元で瞬時に武器を消すと、次は魔法で戦ってみるか、そう思った時だ。
リヴグストが最も嫌う、下品で狡猾で下等で醜悪な輩の匂いが、風に乗って鼻をついた。
はっと顔を上げた彼はすぐさま魔力による遠視を使うと、黒髪の識者と一緒にいた人間の少年が、なにかに襲われ水の中に引き摺り込まれるのが見える。
――クヴィスリング・ルイーバ!!
瞬時に走り出したリヴグストは、人の姿では間に合わないと判断し、走りながら海竜の姿に変化すると、洞窟内部の岩や鍾乳石を薙ぎ倒し粉砕しながら正面に見えて来た水の中へと飛び込んだ。
『おのれ…ルイーバめ…!!人の子を攫いなにをするつもりだ…!!』
高速で水中をその場所へと駆け付けたリヴグストの目の前で、『ルイーバ』と呼んだ化け物が、こちらに気付くなり、少年をガッチリと抱えたまま、にたりと笑って魚人族の秘術『水流移動』でその場から瞬時に消え去った。
『待て!!』
リヴグストはすぐにその後を追うも、あっという間に見失ってしまう。
――逃げられたか…
醜怪な化け物の手に捕らわれていた少年は、既に気を失っていた。だがリヴグストは、陸上の人間が水の中で息が可能になる、『呼吸貝』という貝をルイーバが口に銜えさせていたのを目撃していた。
そのことから、少年はなにかの目的で連れ去られたのは間違いないと確信し、すぐには殺されないだろうと判断した。
あの少年を奴から助け出すには、黒髪の識者と協力する必要がある。そう判断したリヴグストは、一旦諦めて踵を返すと、近くの岸から陸へと上がり、また人の姿に早変わりする。
そうして一瞬で人の姿に戻ったリヴグストは、千年振りの『人間』との接触に、ほんの少しの期待と歓心を抱いて、足早にその場所を目指すのだった。
今回、三度全文の書き直しを行ったために、遅くなりましてすみません。新キャラ七聖の青、リヴグスト登場です。次回、また仕上がり次第アップします。いつも読んでいただきありがとうございます!




