69 海神の宮 ①
ルク遺跡で災厄と対峙した後、完全に遺跡内に閉じ込められてしまったライとジャンは、一緒に閉じ込められているマリナ達と地上へ出るために、出口を探そうとさらに地下へ降りてきました。そこには真っ暗な闇へと続く真っ直ぐな細い階段があって…?
【 第六十九話 海神の宮 ① 】
奈落の底から吹き上げてくるひんやりと冷たい風に、俺はぶるる、と一度身体を震わせる。…空気がかなり冷たい。
どこまでも永遠に続くかのように思える、暗闇へと伸びる細い階段を、俺は無限収納の中に入れてあった魔石用ランタンで足元を照らしながら、滑らないように注意して下へ下へと降りて行く。
ルク遺跡の内部とは違い、この場所は自然洞のような固い岩盤の壁に覆われていて、一直線に続くこの階段も、あの真紅の男が入れられていた柩が通れる、ギリギリの幅ほどしかない。
おまけにどこからか床に水が流れていて、気を抜くとすぐに足を滑らせそうになる。そんな俺の後ろには、不安げな顔をしたジャンが、服の背中の辺りを掴みながらぴったりと離れないように続いていた。
乱暴な口を利いて虚勢を張っていても、やはりまだ子供だ。俺を心配してついて来ることに決めたのだろうが、知り合ったばかりの他人とこんな場所にいて、怖くないはずがない。
俺はその緊張を少しでも解そうと、他愛のない質問を投げかけてみた。
「…ジャンは今いくつだ?」
「俺?十五だけど。」
顔を上げる気配がして、すぐに返事が返ってくる。
「十五か…俺がおまえの年の頃には守護者として必死に働いていて…ようやくまともに稼げるようになり、Cランク級に上がったくらいだったな。」
「すげえな、十五でCランク級?ライさんは何歳で守護者になったんだよ。」
「十三だ。」
「十三…!!そんな早くから資格って取れるもんなの!?」
「きちんと試験に合格すればな。」
「益々すげえ…!いいなあ、俺も剣とか扱えれば…守護者になって、あいつらやじいちゃんにたらふく食べさせてやれんのに。」
その言葉を聞いて、俺は一瞬押し黙る。
痩せた十五の少年が、自分よりも幼い子供達と祖父に腹一杯食べさせてやりたいと口にする。…そう聞いただけで俺は胸が痛んだ。
「ジャンは守護者になりたいのか?命がけの危険な仕事だぞ。」
「そんなのわかってら。でも守護者なら孤児だからって報酬を差別されたりしねえだろ?なんてったって完全な実力世界だもんな。もし依頼に失敗しても、最低限決められた分の金は貰えるって聞いたし、自分さえ気をつければ騙されることもねえじゃんか。」
ほんの少し緊張が解けたのか、ジャンの表情に余裕が出てきて饒舌になり、自分から俺に、普段思っていることなどを話し始める。
「前にさ、俺…何度かまともな仕事に就こうとしたことがあんだよ。けどどこも親がいねえってだけで雇ってくれねえ。運良く使って貰えても、約束通りの給料を払って貰えなかったりして、もううんざりなんだ。」
そうか…そんなことが…だから盗みを働くようになったのか。
俺はまた、自分が投げかけた言葉で、ジャン達を傷付けていたと自覚する。
「…それはこの国の体制が悪いせいだな。上の人間がクズだから末端にまで監視が行き届かないんだ。本来ならそんな雇用主は憲兵に突き出され、雇用労働基準法違反で牢にぶち込まれるはずだ。それが何処の街での経験かは知らないが、王都に来ればそんなことのない仕事先をきちんと俺が紹介しよう。…だからジャン、ここを出たらマリナ達とお爺さんと一緒に王都へ来ないか?」
「王都に…?」
俺は王都について話し、下町になら家賃の安い借家や、子供でも働きやすい場所があることなどを詳しく教える。だがジャンは難色を示し、王都には両親の仇である国王が住む城があることと、ヘイデンセン氏がルクサールを離れたがらないんだと言った。
それでも全く興味がないわけではないようで、俺も王都に住んでいるのか、と尋ねて来る。まさか城に住んでいるとは答えられずに、ああ、まあな、と曖昧な返事をするに留めた。するとジャンは意外な人物の名前を口にする。
「そっか…ライさんも王都に住んでるんだ。王都に行けば…ヴァリー姉にも会えるかなあ…。」
「ヴァリー姉?ヴァリー…それはもしかしてヴァレッタ・ハーヴェルのことか?Aランク級守護者の。」
「知ってんの!?」
ジャンはヴァレッタの名前を出した途端に、パッと顔を明るくして嬉しそうにそう聞き返した。
俺は一緒に仕事をしたことがあると告げ、ヘイデンセン氏のこともヴァレッタに教えて貰ったことを話した。するとジャンは、今までまだ少し警戒気味だった俺への態度を一変させて、なんだ〜それを早く言ってくれよ、と破顔した。
どうやらジャンはヴァレッタにかなり懐いていたようで、根無し草のメンバーについても詳しく語る。実は一年ほど前にロックレイクの村近くで、魔物から助けて貰ったことがあったらしい。守護者に憧れるようになったのも、彼らに出会ったことが切っ掛けだったそうだ。
「ヴァリー姉は元気なの?バリバリ仕事してんだろうなあ。」
「ああ、今は中々ギルドが大変でな、毎日忙しくしている。」
「そっかあ…知ってる?ライさん、ヴァリー姉ってさ、最近『赤毛の女獅子』って綽名をつけられてんだってさ。俺、ヴァリー姉の髪は赤毛じゃなくって、夕日みたいなオレンジ色だと思うんだけど。あれ…?そう言えばライさんも、さっきじいちゃんに黒髪のなんとか、って呼ばれてなかった?」
ジャンが思い出したようにそう俺に尋ねた、その時だった。頭上でなにかが一斉に動く気配がして、ズザザザザザ、と天井が俺達の背後に流れ落ちて来た。
「な、なに!?うわあっ!!」
「ジャン!!」
その黒いものに足を掬われた俺達は、一瞬で飲み込まれるように倒され、階段を滑り落ち始める。
ザザザザザザザアアアアァーッ
それはまるで急流の川を流れ下るような物凄い速さで、俺はすぐさまジャンに腕を伸ばし、なんとかしっかりとその身体を抱きかかえた。
「た、助け…ライさ…っ」
「待てジャン、動くな!!」
俺達の下に流れる黒い水のように見えるのは、手の平大の大きさで三葉虫のような甲殻を持つ生物の集団だった。それはまるで俺達をどこかへ運ぼうとしているかのように移動し、藻掻いたりして無理に動かなければ、ただ流されて行くだけで済みそうだった。
さっきも言ったようにこの階段の幅は狭く、下手に身体を動かせばこの速さだ、壁にぶつかるだけでただではすまない。出来るだけジャンの身体を俺の身体で包み込み、万が一のことがあってもジャンが怪我をしないように守らなければ、と俺はただ必死でそれだけを考えた。
「このままじっとしていろジャン!俺がおまえをしっかり抱えているから心配するな…!」
俺はジャンを自分の上に抱きかかえ、流されるままに身を任せる。後の問題はこの先が一体どうなっているのか、と言うことだけだ。
手にした魔石用ランタンの灯りが激しく揺れ、足元を見る俺の目の前をちらつく。だが一寸先は暗闇のままで、万事休すの状態だった。
そうして俺とジャンは一気に流され続け…やがてそれが突然途切れた場所で、ぽーんと宙に放り出された。
「うわ、うわ、うわあああああっ!!!」
「……っ!!!」
最初に目に飛び込んできたのは、地下に青白く輝くなにかの光だった。次に身体が全ての支えを失って、重力に引っ張られるまま、急降下して行く。
その真下が、もし固い地面であれば、俺達は叩き付けられ、二度と目を覚ますことはなかったかもしれない。だが幸いなことに、そこは地底にある深い湖のような湖面だったのだ。
ドッボーーーーーンッ
俺はジャンを抱えたまま、その水の中に爆音を立て、豪快に水しぶきを上げて落下した。
さすがにランタンの灯りは消えてしまったが、なんの光なのか、周囲が青白く輝いて明るく、俺は迷わず泳いで水を蹴り、水面へと顔を出すことが出来た。続いて掴んでいたジャンの腕を引っ張り上げると、水を飲んで咳き込むジャンの身体に腕を巻き付け、そのまま岸まで泳いだ。
水から出て手を伸ばすと、さらさらした砂の感触と、目の前には縦に幾つもの筋が入った、硬そうな岩壁が見える。それにどこからか運ばれたような、大きめの丸い岩もいくつかそこには転がっていた。
「大丈夫か、ジャン…怪我はないか!?」
「げほっげほっ、はあはあ、へ、平気…けどしょっぱ…!!この水、海水だ、ライさん…!!」
「ああ、そうみたいだな。」
ここは…海水で浸食された自然の空洞か…。
俺とジャンは砂浜のようなその岸辺で、暫くの間脱力し、呆然としていた。
正面のかなり奥、垂直に切り立った岸壁を見上げると、二十メートル近い高さの位置に、ぽっかりと空いた四角い穴のようなものが見える。そこから、俺達を運んできたと思われるあの大量の甲殻類が、蟻の行列のように壁を伝って別の穴に入って行くのが見えた。
――あんな所から落ちたのか。…これは…どうやってルク遺跡に戻ればいいんだ…?
だだっ広い空洞の周囲にこれと言って上に向かう道はない。どこか新たな通路を見つけでもしない限り、マリナ達の所には戻れそうになかった。
この湖の水は真水ではない…ということは、ジャンが言っていた通り、海神の宮という場所で合っているのかもしれないな。だがこの湖から飲料水は確保できないし、地上に出て救助隊を呼ぶにしても急がないと時間がない。ジャンの体力も心配だが、少しでも先を急いだ方がいいな。
「ジャン、動けるか?」
俺は立ち上がって衣服の水を固く絞り、その場でジャンに手を伸ばした。するとなぜか一瞬、俯いていたジャンがビクッと身構える。
「…?どうした?」
「あ…ううん、なんでもねえ。…自分で立てるから。」
ジャンは俺の手を取らずに自力で立ち上がり、同じように濡れた服を絞ると、きょろきょろと辺りを見回す。
「ここ…なんでこんなに明るいんだろ?水もなんだか青く光ってるし…」
「水の方は多分、発光する微生物が刺激を受けて光を放っているのだと思う。海水にはそういう海の魚の餌となる、小さな生き物がいるらしい。だが壁の方は…おそらく、光苔と青光虫という細長い線虫の類いだろうな。」
「む…虫!?だって壁一面だぜ!?」
「ああ。だから下手に触るなよ、服の中とかに入り込まれたら大変だぞ。」
「き、気色悪いこと言うなよ!!」
俺は冗談だ、と言って笑いながら、とりあえず水辺に沿って歩き出した。
「寒くないか?」
「うん、ちょっと…空気が冷たいもんな。」
「どこかで服を乾かせるといいんだが…」
「だめだよ、マリナ達が心配だし、そんな時間ねえって。それにまた水ん中に入らなきゃならなくなるかもしんねえだろ。」
「…そうか。」
ジャンが風邪を引かなければいいが、と心配しつつも、あまり世話を焼くのはやめておいた。この年頃の男は意地を張りたがるものだし、ジャンの言うことにも一理ある。
俺は今日の反省を踏まえ、今度からは濡れた時のために、着替えも何枚か無限収納に入れておくことにしようと思った。
地底湖の縁を回るように歩き水辺に沿って進むと、すぐにそこから川になり、岸に沿った道が見つかった。その道を少し行ったところで先は二叉に分かれており、左の道は行き止まりのようで、奥になにか祭壇のようなものがチラリと見え、右の道はさらに先へと続いているようだった。
俺はジャンと一緒に先ずは左の道に入り、そこになにがあるのか確かめることにした。
その場所は人工的に削られたような四角い部屋になっており、四隅に木組みの三脚に乗せられた炬火種が設置されていた。俺は持っていた着火剤を使って火を付けると、そこがなんの部屋なのか周囲を見回そうとした。すると――
「ああっすげえ!!この部屋、壁画の部屋だ…っ!!」…と、いきなり興奮したジャンの声が響く。
部屋の中央には四角く石柱が配置されて並んでおり、入口手前の道から見えていた祭壇には、古代文字が書かれた石盤が三つ、立て掛けるような形で置かれていた。
そしてなにより目を見張ったのは、四方向全ての壁に描かれた、巨大な壁画だ。それには保存魔法がかけられているのか、かなり古いもののように見えるのに、とても発色が鮮やかだった。
驚いて入口から順に見て行くと、それらはなにかの物語を表しているような図柄で、縁取られた下部にその画の題名が古代文字で記されているようだった。
「早速ジャンの出番だな。ここの文字は読めそうか?」
「ん、ちょっと待って…」
――程なくしてジャンはまず、四方の壁に描かれた壁画の題名を読み上げた。
左から順に『テオス・ラ・メール・リヴグスト』『クヴィスリング』『ティティム・ゼィンクン・オセアノ』『ソル・エルピス』の四題名だそうだ。
俺はその中の『ソル・エルピス』という言葉には聞き覚えがあった。それを思い出す間にジャンから四題名の意味を聞く。それぞれ、『海の神リヴグスト』『裏切り者』『オセアノが滅び沈んだ』そして…
「ソル・エルピスは太陽の希望、って意味だよ。俺もその名前は知ってる。じいちゃんから聞いたんだけど、大昔の文献に偶に出てくる救世主の呼び名なんだってさ。」
「…そうか。」
救世主の呼び名か…。聞いたのは随分昔…多分ラ・カーナにいた頃だ。レインの口から聞いたことがあるような…いや、はっきりしないからなんとも言えないな。
俺はそれ以上考えるのを止めた。
そうして壁画をよく見ると、一枚目は二本足で直立の、小さな人間のような影が沢山描かれ、背景には海の波を示す線が数本と、手には武器を持って巨大な蛇のようななにかと戦っている画だった。
二枚目は魚の身体に人の手足がある奇妙な影が複数描かれ、それらも手に三つ叉の槍のようなものを持ち、大きな城のある街を取り囲んでいるような図柄だ。
続く三枚目は、左右から海の波を示す形の線が街を飲み込み、人が波に攫われていくような様子が書かれている。そして四枚目は、一枚目に描かれた巨大な蛇が、同じく大きく描かれた人間と手を取り合い、穏やかな波を背景にして並び立つ構図の画だった。
「なんだろうこの絵…この大きな蛇みたいのが海神なのかな?リヴグスト…は名前?」
「わからない。…海にはサーペントと言う巨大な蛇がいるとも言うしな、人間が武器を持って戦っているところをみると、海神と呼ばれる化け物なのかもしれない。」
「なるほどね。あー、けど、こっちはもっとわかんねえ…魚に手や足が生えてるぜ。槍を持ってるし、魔物…かなあ。…そんなのいる?」
俺は首を大きく振って手の平を上に向け、両手を広げた。
「少なくとも俺はそんな魔物に出会ったことはないな。」
だよね、とジャンは作り笑いを浮かべる。
「三枚目は一目瞭然だ。大昔に沈んだと言うエヴァンニュ西の海上にあった伝説の街を示しているのだろう。…最後のソル・エルピスという画が今ひとつ良くわからないが…海が穏やかになり、人間の手で平和になった、とでも言いたいのかもしれないな。」
大きく描かれた人間と言うのは巨人のような人間がいるという意味ではなく、おそらく同等の力を持っている、ということを示しているのだろう。
「――これを見る感じ、やっぱりここは海神の宮だと思うな、俺。もしかしたら、この部屋みたいにどこかにここの地図があるかもしれないよ。」
「だと助かるな。そこの石版も調べてみよう。」
ジャンはうん、任せろ!と大きく頷くと、すぐに石版を詳しく調べ始めた。
俺はこの年で辞書や手引き書も用いずに、宙で古代文字を読み解くジャンの才能に驚嘆する。なにが〝ある程度〟だ、言語学者も顔負けの才能ではないか。
学校に通いさえすれば、それこそ守護者になりたいなどと言わなくても、普通に暮らせるだけのまともな仕事に就けるはずだ。
この国ではあの男がいる限り、考古学的な才能を発揮してもその道が閉ざされる可能性があるが、他国なら…シェナハーンやファーディアなら、きっと重宝され、好待遇を受けられる。ジャンをなんとかして学校に通わせてやりたいな。
できれば、その手助けを…俺がしてやりたい。あの男が犯した罪の償いに――
「うーん…これはなにかの警告みたいだ。『海神の供物に手を出すな、その先には死が待っている』とか、『小さき者の声を聞け、さすれば道は示される』とか書いてある。」
「ここを進む上での注意書きかもしれないな、一応頭には入れておこう。後は?」
「『海神の寝所へ赴くには最大の試練あり』だってさ。なんかこれはヤバそうだよな。」
「ああ。海神の寝所か…出来れば近付かずに出口を見つけたいところだ。」
壁画の通りなら寝所とはそれの巣かなにかで、その正体はおそらく、海の神ならぬ海の蛇…なのだろう。
一通り部屋を調べ終わり、大体こんなものか、と一息を吐いた時、俺は自分のすぐ近く…それもこの部屋の中に、なにかの気配を感じて耳を澄ませる。直後――
ヒソヒソ…ボソボソ…ひそひそ…と、微かな話し声のようなものが聞こえた。
俺は後ろを確かめるもなにも見えない。
…?
気のせいか、とまた前を向くと、今度ははっきりと言葉としてその声が聞こえた。
『人間?人間か?人間よ、人間だ、人間だわ、人間なの?』
「誰だ!!」
「うひゃあっ!?」
その声と気配に、俺は再び後ろを振り返り、身構えてそれらの声の主相手に大声を出した。ところがそんな俺の行動はジャンを酷く驚かせただけで、それはすぐにピタリと止まる。
「なな、なんだよ!!びっくりするじゃんか!!」
「――すまん、今なにか…誰かが話す小さな声が聞こえたんだ。それも複数の…」
「え?え?じょ、冗談…なんもいねえし!!」
「ジャンには聞こえなかったのか?」
聞こえねえって!!と青ざめた顔をすると、ジャンはささっと俺の後ろに回った。大抵の人間はそうだが、やはり見えない類いのものが怖いらしい。
そうしてまた少しすると――
『驚いたな、驚いた、驚きよ。』
『どうやらあの大きいの、僕らの声が聞こえるみたいだよ。』
『へえ、珍しい。』
『識者か、識者ね、識者よ。』
『面白そう、ヌシ様に報告だ。報告よ、報告、報告!』
ぱたたたたたた――…
と、風がさざめくような声を俺の耳に残して、その気配は一斉にどこかへと消えて行った。
――なんだ今のは…?
「ねえ、ちょっとライさん…!」
なんかいたの?と怯えた顔をしてジャンが俺の服を引っ張った。
「…わからないが…先へ進もう。ジャン、俺から離れるなよ。」
「う、うん…。」
…しまった、ジャンを怯えさせたか…。
また不安げな表情に戻ってしまったジャンを連れ、俺は足早に壁画の部屋を後にする。今度は川に沿って二叉の右の道を進んで行くと、少しずつ天井が低くなり、ちらほらと鍾乳石のような白い岩が見えるようになって来た。と同時に空気がさらに冷たくなって、道の様子も地底の洞窟らしい様相を深めて行く。
それから暫く道なりに進み、20分ほど歩いたところで、再び二叉に道が分かれていたが、今度も左の道はすぐに行き止まりになっており、また右の道に進むしかなかった。
さらに20分ほど歩くと、喉が渇いたと言い出したジャンは、天井から伸びる鍾乳石を伝って滴る水滴を手に取り、ペロリと嘗めた。
「しょっぱ!!」
途端にそう言うなりぺっぺっと吐き出す。
「だめだ、天井から垂れてくる水滴まで海水だよ。ボトルの水、節約しようと思ったのに…。」
「海水でも蒸留して塩分を分離させれば飲料水を作れるが…時間がかかるな。出来るだけ少しずつ飲むようにしよう。どこかに真水があればいいんだが…探している時間もあまりない。」
「ん…そうだね…。」
「――…!」
その時俺は、ハッとあることに気付き、そこでピタリと足を止めると、無言で周囲を具に見回し、いま目に付く範囲の風景を端から細かく頭の中で区切りながら、記憶を確かめて行く。
「………。」
その俺の様子を見ていたジャンは、なにしてんの?と訝しんだ。
「――多分トラップだ。道がループしていて、さっき来た時に通ったのと同じ場所を二度歩いている。」
「ええ…!?」
嘘だろ、とジャンは目を丸くした。
「俺には最初からどこも似たように見えるけど…なんでわかんの?」
「子供の頃からこういった場所には慣れていたからな…そのせいだろう。」
「はあ!?いったいどんな子供時代だよ…。」
俺は無限収納の中からマーキングツールを取り出し、黄色の布地にペンで数字を書き込んで目立つ場所に槌で打ち付けた。これは遠くからでも見えるように、目立つ色に染めた防水布に、釘のようなアンカーを取り付けたもので、ダンジョンや迷路のような場所を探索するのに目印として役立つ道具の一つだ。
「これでいい、もう一度この道を真っ直ぐに進んでもここへ戻って来るようなら、他に道がないか探さなければならない。行くぞ、ジャン。」
「あ…う、うん。」
――この時、ライは気付かなかったが、後ろを歩くジャンはライが取り付けたマーキングツールを振り返ると、不審に思い、怪訝な顔をしていた。
≪…あのマーキングツールって、軍専の探索用支給品じゃなかったっけ…?前に盗もうとしたけど、すぐに足が付くからって諦めたことのある非売品…なんでライさんがあんなものを…?≫
ジャンは前を歩くライの背中を見ながら、ふとヘイデンセンとライの会話を思い出していた。
『…俺を御存知か。』
『名前を聞いて思い出した。おまけにその漆黒の黒髪…あんたの噂は色々と聞いている。無論、この国の出身でないこともな。』
≪――じいちゃん…ライさんのことを確か、黒髪の鬼神、って呼んでたよな…。黒髪の鬼神…ライ・ラムサス…≫
なんとなく、どこかで聞いたことがあるような気がして、ジャンは記憶を辿る。
「…あ…」
結果、唐突にジャンは思い出す。近頃行く先々で噂になっている、戦地から戻った戦闘輸送艦、アンドゥヴァリの元指揮官の話を。
民間人寄りの柔軟な思考の持ち主で、貴族階級や身分などで人を区別したりしない、遠国ファーディア出身の、黒髪を持つ高位軍人。
『鬼神の双壁』と呼ばれる優秀な二人の部下を従え、ここ最近は異常に増えているという魔物の被害に対応するために、王国軍兵士に強制的な魔物の戦闘訓練をさせているらしい、そんな話を聞いていた。
今の今までジャンは、自分には全く関係のない話だと思っており、民間人寄りだと言ってもどうせ噂に過ぎないし、他国出身だろうが王国軍人には変わりない、とさして気にも止めていなかった人物の名前だった。
≪…え…ってことは、ライさんはまさか…≫
ジャンはその瞬間、ライがエヴァンニュの軍人であることに気が付いた。
この機運でジャンの中にライに対する大きな疑念が生まれ、尊敬するヴァレッタを知っている、と言うことで心を許しかけていた分、裏切られたような怨情を抱いてしまう。その反面、ここまでライが自分を守ってくれたのも確かであり、ジャンは自分がライに対してどうしたらいいのかわからなくなった。
「どうした?大丈夫か?」
自分を心配するライの声は優しい。もしかしたら人違いなのかも…そう思い、ジャンはライに尋ねる。
「ライさん…ライさんって、守護者…なんだよな?」
「――いや…今は違う。守護者として動くこともあるが、本職は別だ。」
≪…ああ、やっぱり…≫
人違いじゃないのか。そう思いながらも、嘘は吐かないんだな、と複雑になる。
それがどうかしたか?と振り返り尋ねたライに、なんでもない、とだけ答えを返した。
ジャンは十五の子供でも、今自分達が置かれている状況がどうであり、ライと自分にはマリナ達と祖父の命が懸かっているのだ、ということは良くわかっていた。
ただそれでも、心に抱いた怨情はすぐには消えず、一度生まれた疑念はこの後、ライとジャンに大きな命の危険を齎すことになる。
「――やっぱりここに戻って来たか。」
さっき異変に気付いた道を、ただ真っ直ぐに歩いて進んだはずなのに、マーキングツールの黄色い旗がすぐに俺の目に飛び込んで来た。
「ライさんが付けた目印のフラッグ…本当にここ、ループしてんだ。」
どうすんの?と言って、俺が付けた目印に触れたジャンの目に、懸念と動揺が現れていた。
――緩やかにぐるりと円を描いているのか?いや、そんなはずはない、道はほぼ直線だ。だとしたら、どこでどうここに戻される?
…少し慎重に周囲を調べてみるか。
「ジャン、そこの行き止まりだった場所を含め、少し周囲を調べる。俺が戻るまでおまえはここで待っていろ、絶対に一人で動くなよ。」
「え…ちょ、ライさん…!」
俺はジャンをその場に置いて少し戻り、分かれ道を左に急ぎ足で進む。すぐに道は突き当たり、手で触れてみても周囲の壁とその感触に差違はなく、辺りを隈なく調べてみたが、なにかの仕掛けのような物は一切見当たらなかった。
ここに仕掛けはない、か。ならば分岐点を調べてみよう。
再び来た道を戻り、ジャンが見守る中、ループしていた道を今度は逆に辿り、ゆっくり注意深く周りを見ながら、なにか目に付くものがないか、慎重に探した。
すると――10メートルほど戻った辺りの岩の、かなり注意深く探さないと発見できないような低い位置に、小さく光る文字のような印を見つけた。
一つ見つけると、同じような場所にいくつかの異なる印を次々と発見でき、それが規則正しく線上に並んでいることに気付く。
なにかの文字…随分と小さいな、だけどこれが怪しい…――
俺はその文字のような印にそっと指先で触れてみた。…と、次の瞬間、ポウッと僅かに輝いて、かき消すようにそれは消え失せた。
そうして全ての印に手を触れると、どこからともなく、ガラスを指で弾いた時のような、キィン、と言う甲高い音が聞こえ、急に風の流れを感じるようになった。
「見つけた、ジャン、こっちだ。」
俺はジャンを呼んで一緒に、行き止まりになっていた左の道へと急ぐ。
――思った通りだった。おそらくあれは目眩まし…もしくは魔法かなにかで作られた壁で、仕掛けを解いたおかげで、突き当たりにあったそれが消え、先へと続く道が現れたのだ。
「壁が消えてる…!?すげえ、ライさんどうやったの…!?」
「光る文字を見つけた。多分二重の仕掛けだったんだ。右の道を進むと同じルートを辿るループ式のトラップで、左の道は魔法の壁で塞がれている…厄介だな、ここは。」
一筋縄ではいかない、こんな仕掛けが幾つもあるなら、出口を探すのはかなり大変だ。一体どのぐらい時間がかかるかわからないぞ。
そう思った俺は、感心してはしゃぐジャンに対し、新たに進める道を発見できたことを喜ぶよりも、ここがかなり難解なダンジョンであることに気付き、先が見通せなくなった。
――食料も少ない上に、飲料水も確保できない…ジャンを連れて奥に進むのはかなり危険かもしれない。俺一人ならまだしも、ジャンに万一のことがあったら…どう責任を取るつもりだ…?
上階の遺跡があの仕様だったのに、その地下がそう簡単に攻略できるような場所ではない可能性に考えが及ばず、安易にジャンを連れてきてしまったと、俺は後悔した。
…そんな俺にどこからか突然、呼びかけるような、奇妙な声が聞こえる。
『おい、そこの人間!!』
「…!?」
俺はすぐに辺りを見回した。…が、誰もいない。
「今…聞こえたか?ジャン。」
「え?なにが?」
ジャンにはまた聞こえない声だったらしく、俺の問いかけに対してジャンは、キョトンと首を傾げている。
『ちっ、子供の方は違うのか、仕方ねえな、うりゃ!!…こいつでどうだ、おい、そこの人間!!』
「――え!?なに、今の声…!!」
びくっとジャンが反応し、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
「今度は聞こえたのか?」
「う、うん、どこからするんだ、この声…!」
『どこ見てやがんだ、そっちじゃねえ、ここだ、ここ!!足元だってんだ、人間!!』
――足元…??
俺とジャンは二人でその声に言われるまま、足元を見下ろして視線を向けた。すると――
――そこには、身長が僅か7、8センチほどしかない、小さな小さな男がいた。
「うわあっっ!!な…なんだよコレ…っっ!?」
驚いて叫び声を上げたジャンは大きくその場から飛び退いた。
「人形…いや、小人…か…!?」
俺は実際に見たことはなかったが、フェリューテラには遙か昔、『小人族』と言う種族がいたという話をなにかで聞いたことがあった。だからてっきりコレがそうなのかと思ったのだが――
『違う!!小人じゃねえ、おいらは〝クレイリアン〟のパキュタだ!!』
そう言って小さな男は酷く憤慨し、二度、三度、その場で地団駄を踏んだ。
「ク、クレイリアン…?小人じゃないのか…。」
どう意味が違うのか俺にはわからず、相手が怒っている理由も、もちろんわからなかった。
「クレイリアン…超古代言語で『地に住まう者』って意味だ…え、俺、目がおかしくなったわけじゃないよね…?」
「いや、俺にも見えているから大丈夫だ。『地に住まう者』…もしや精霊か?」
「せ、精霊…!?」
彼が小人族ではないのなら、あとは人によって見える者と見えない者に分かれるという、精霊だとしか考えられなかった。そうであれば最初はジャンに声が聞こえなかったことにも、説明が付くと思ったからだ。
俺達はとにかく一旦その場にそっとしゃがみ込み、怒鳴りながらクレイリアンのパキュタ、と名乗った小さな男をまじまじと覗き込んだ。
身長は…さっきも言ったが、精々7、8センチほどしかなく、緑色の三角帽を被り、小さすぎてよく見えないが、タンポポのような黄色い髪に顎髭と多分緑色の瞳…?それから生成りの長袖シャツと薄い茶色の吊りズボンに、布製の靴を履いている。…それにしても小さい。なのに生きて、動いている。ジャンの言葉ではないが、俺も自分の目がおかしくなったのではと、一瞬疑いたくなった。
『ハン、おめえやっぱり〝視える〟人間か。さっきも壁画の部屋でおいら達に気付いてきょろきょろしてたろ。』
クレイリアンのパキュタは俺を指差し、さっさと手を出せ、と続けて俺に命令した。
俺が呆気に取られながら右手を差し出すと、その上にぴょん、と飛び乗り、そんな格好で覗き込むんじゃねえ、と偉そうに言って、俺達が普通に話せるように体勢を戻させた。なんというか…小さいくせにやけに態度の大きい小人様だ。
俺がパキュタを乗せた手を目線の高さまで上げると、パキュタはようやく話に入る。
『おめえなあ、せっかくおいら達が苦労して作った、魔法障壁の仕掛けを消しちまいやがって!!長老デズンの命令だから、仕方なく奴らから守ってやろうと思ったのに、自分から好んで危険に飛び込もうとするんじゃねえ!!』
「…守る?俺達のことをか?」
俺とジャンはパキュタの言葉に面食らって目を丸くした。なのにパキュタは、猶もかなり偉そうな態度で、俺達に言い聞かせるように続けた。
『おうよ!!いいか、悪いこたあ言わねえ、特に黒髪のおめえだ、おめえ!!命が惜しきゃこっから先、"海神の宮" には入るんじゃねえ。性質の悪い水棲の魔物や凶暴な魚人族どもがウジャウジャ出やがるんだ、そんな足手纏いの子供を連れて容易に抜けられる場所じゃねえんだよ!!』
――そう言って『クレイリアンのパキュタ』は、俺の手の平の上で、腰に両手を当て、鼻息を荒くしたのだった。
災厄登場直後のライ編です。次回、仕上がり次第アップします。いつも読んでいただき、ありがとうございます!




