06 リカルド・トライツィ
メクレンのギルドで偶然リカルドに再会したルーファスでしたが、そのリカルドの様子が突然おかしくなります。驚いたルーファスはリカルドの腕を掴んでどうしたのかと、呼びかけますが…?
俺の呼び声に気付き、広げた雑誌を手に持ったままウェンリーが走ってくる。
「おいルーファス、このハンターランキング、とかってのの一番上!!第一位が〝リカルド・トライツィ〟って…どういうことだよ!?」
広げた頁を指差して不満げな顔で俺に詰め寄るウェンリーに、俺はまた呆れてしまった。
「いつまで経っても戻って来ないと思ったら…手にしてすぐ立ち読みしてたのか?俺を待たせて…!」
あまりの自己進度ぶりにさすがの俺も、もう開いた口が塞がらない。
なのにウェンリーは尚も自分の疑問を優先しようとする。…が、顔を上げた瞬間、俺の横に立つリカルドにようやく気付いたようで、〝誰?〟という表情をして目を丸くした。
「おまえはまったく…まあいい、リカルド、紹介しておくよ、俺の親友のウェンリーだ。今日はおまえに会わせるつもりで連れて来――」
バサッ
俺がウェンリーを紹介しようとしたその時、リカルドが手に持っていた本を床に落とした。
ふと気付くとその顔は、なにか途轍もなく恐ろしいものでも見たように凍り付いて蒼白で、誰が見ても一目で様子がおかしいと思うのは明らかだった。
床に落ちた本を拾い、本が落ちたぞ、と話しかけても反応がなく、今まで見たことのないリカルドのその姿に、俺は尋常でないものを感じ取ると、拾った本をウェンリーに預けてその腕を掴んだ。
「リカルド…おい、どうしたんだ!?」
普通じゃないと思った俺は、何度かその身体を揺する。ウェンリーは首を傾げて怪訝な表情でリカルドを見ていた。
「リカルド!!」
かなり大きな声で呼びかけて、ようやく我に返ったらしいリカルドがその目だけを俺に向けた。
「大丈夫か?顔色が真っ青だ。」
俺がリカルドの血の気が引いた顔を見たのは、これが初めてだった。リカルドはいつ、どんな時でも冷静で自信に満ち溢れており、完璧で完全主義者で、およそ動揺と言う言葉とは無縁なのだろうとも思っていたくらいだ。
そのリカルドが、なにかに酷く狼狽えている。
「す…すみませんルーファス。…急用を思い出したので、一旦ここで別れてもよろしいですか?」
必死に冷静を装い、なんとか言葉を絞り出している様子だが、微かにその声が震えていた。
「…ああ、それは構わないけど…」
…大丈夫、なんだろうか?どこか具合が悪いんじゃ…――
俺の心配を前にしながら必死で取り繕うリカルドに、それ以上無理に聞くのも気が引けた俺はそこで言葉を切る。
「今日はメクレンに泊まる予定で来たのでしょう?いつもの宿で良ければ、部屋を頼んでおきます。夕方酒場で一緒に食事をしましょう。」
「…わかった、酒場だな。」
「――では『REPOS』で。」
それだけ言って早々に立ち去ろうとしたリカルドに、ウェンリーが預けた本を返そうと手を伸ばした時だ。
「あ、待った!!本を忘れて――」
「!!」
バシッ
リカルドが物凄い形相でウェンリーの手を払い除けた。
再び床に落ちた本をリカルドは慌てて拾うと、まるで逃げるようにギルドを飛び出して行ってしまった。
あまりの態度に憤慨したウェンリーは、当然のごとくその場で怒り出した。
「なんだあ!?あいつ――今の見たかよルーファス!!本手渡そうとしただけなのに、思いっきり撥ね除けやがって…態度悪くねえか!?」
「――…様子がおかしかった。」
「はあ?」
「様子がおかしかった、と言ったんだ。…いったいどうしたんだろう。」
俺はリカルドが去って行った方を見ながら考える。
――急用を思い出したと言った声が震えていた。さっきまで普段と変わりなく俺と楽しげに話していたのに…どうして突然?なににあんなに動揺したんだろう…
そこで俺はふと思った。
…ウェンリー?…まさか、ウェンリーを紹介したから、か?
俺は口を尖らせたままのウェンリーを見る。
――いや…まさかな。二人が会うのは今日が初めてなんだ、なにかあるはずがない。
一抹の不安を抱きながら俺は、機嫌を損ねたウェンリーを促してギルドの外へと出て行く。
「悪かったな、ウェンリー。普段はあんな奴じゃないんだけど…」
「なんでおまえが謝るんだよ?いくら相棒だって言ったって、おまえのせいじゃねえだろうが。」
俺がそう謝ると、ウェンリーが余計不機嫌になりそうな顔をした。だがすぐに頭を掻いて他所に目線を向けると、気を取り直して続ける。
「…まあいいさ、虫の居所が悪かったとか、じゃなきゃ腹でも減ってたんだろ。あ!腹が減ったと言やあ、俺達もいい加減に飯食おうぜ。さすがにもう倒れそうだわ。」
ウェンリーなりに気を使ってくれたのだろうが、唐突に変わったその話題に俺は思わず苦笑した。
「それは誰のせいなんだ?」
「――え?俺?」
ギルド前の通りにも食事を取れるレストランや飲み屋は数軒あるのだが、今日は疲れたし、どうせならゆっくりできる場所がいいと、俺達は宿屋が多くある繁華街へ向かう。
数ある店の前を歩きながら、ウェンリーはまだ不満が残っているのか、リカルドについてぼやいていた。
「しっかしあんな女みたいな顔した奴が現在のトップハンターとはねえ…なんかの間違いかと思ったぜ。まさか人気投票とかで決まってるわけじゃねえよな?」
「そんなわけないだろう。ああ見えてもリカルドは恐ろしく腕が立つんだ。そのことは同業者にも良く知られていて、一目置かれている。人を外見で判断すると、痛い目を見るぞ。」
案外しつこいな、と思いながら、本気で言っているわけじゃないだろうが、念のために窘めておく。
リカルドは単なる首位守護者なわけじゃない。ギルドで他のハンター達があれほど畏れるのには、それ相応の理由がある。
俺の相棒である『リカルド・トライツィ』は、長年その地位を維持し続けている、全世界の現役首位守護者なのだ。
「ふ〜ん?それであのハンター連中の態度か…なんか相棒のせいでおまえが軽く見られてる気がして面白くねえな、俺。」
「え?」
「あっ!!ルーファス、俺ここがいい!!腹一杯食えそうじゃねえ?」
一軒のレストランの前で唐突に立ち止まり、食品見本の絵と料理一覧表を覗き込み、ウェンリーがパッと顔を明るくしてそう言った。
そこは冒険者御用達の大盛り料理を看板に掲げている店で、ウェンリー好みの肉料理が多数ありそうだった。
「軽食もあるんだな…ああ、いいよ。変異体討伐の報酬も入ったし、今日は俺が奢るよ。」
「やった!!」
喜んで破顔したウェンリーに、これで少しは機嫌を直してくれるといいが、と思う。
店の出入り口に向かい三段ほどの石階段を上り、俺が扉を引いて開けた時、ちょうど中から出て来た人と擦れ違い様に肩がぶつかってしまった。
「あ、と…すみません。」
すぐに謝って瞬間的に相手の顔を見る。この辺ではあまり見かけない、濃紺に近い碧髪に金色の瞳の落ち着いた印象を持つ男性だ。その男性も俺を見て軽く頭を下げて来た。
「いえ、こちらこそ。」
何の変哲もない、ただそれだけの短い会話を交わし、擦れ違って俺達は店の中へと入り、男性は階段を降りて行く。
店の中に入るとすぐに店員が俺達に気付き、いらっしゃいませ、と迎えてくれた。そこで後ろにいたウェンリーに目が向くと、入口を振り返ってなぜか外を気にしている。
「ウェンリーどうした?」
「ん?ああ、んにゃ…今の碧髪の人って知り合いか?」
妙なことを聞くな、と思い俺は首を傾げる。
「?…いや?違うけど…なぜだ?」
「そっか…なんか擦れ違った後で、おまえのことじっと見てたからさ…気になったんだよ。」
腑に落ちないと言った顔をしているウェンリーに、俺は入口に戻るとさっきの男性の姿を探した。だが既にどこにも見当たらなかった。
「――いたか?」
「いや…気のせいじゃないのか?」
「うーん…かもな。」
それ以上気にかけることもなく、俺達は案内された席へと向かう。
注文を終えて料理を待つ間、のんびりしようと一息を吐いたところで、俺達は他愛のない話に花を咲かせ始めた。
ウェンリーはギルドのことや守護者の仕事について詳しく聞きたがり、資格試験を受けるにはどうすればいいのか、とかなにが必要かとか質問してきた。
俺はウェンリーが守護者になることに賛成したわけじゃないが、せがまれて一通り知っていることは話して聞かせる。
ウェンリーはかなり真剣に俺の話に耳を傾け、時折飲み物を啜りながら聞き入っていた。
その最中、魔物の強さを示すクラス分けについての話から、変異体について詳しく説明し終えた後で、俺はふと昨日ウェンリーから聞きそびれたことがあったのを思い出した。
「そう言えばウェンリー、おまえ昨日六合目で銀色の狼がどうとか言っていなかったか?邪魔されたとかなんとか…」
「ん?…あっ!!うわ〜、すっかり忘れてた。そうそう、銀色のでけえ狼!!昨日ルーファスは〝良く先に進まなかったな〟って俺のこと褒めてくれたけどさあ…実際はちょっと違うんだよな。」
俺の言葉でウェンリーもたった今そのことを思い出したらしく、俺に話そうとしていたことを最初から順を追って詳しく話し出した。
それによるとどうもウェンリーは、自分の意思で上に行かなかったのではなく、六合目で出会した銀色の狼に武器を押さえ込まれて、単にそこから動けなくなっていただけだったらしい。
「なんつーかホント変な狼でさ、触っても逃げねえし、犬みてえだなと思って可愛いって言ったら、俺のことギロッて睨んだんだぜ?あれ、絶対俺の言葉理解してただろっつーの。後ろから服引っ張って人のこと倒すわ、このエアスピナーの上にどっかり座っちまってどうやっても動かねえし、結局おまえが追いつくまで一時間以上もあそこで足止めされちまったんだよ。」
頭を掻きながら身振り手振りを交え、ウェンリーは具になにがあったのか、銀色の狼に対する文句を言いつつ俺に説明する。
「そんなことがあったのか…まるでおまえを危険な場所に行かせないように引き止めていたみたいだな。結果的にその後で俺が変異体と戦うことになったし、それがなくておまえが先に進んでいたらと思うと…心底ゾッとするよ。」
「あー…まあそうなるか。ん〜…あれって結局、俺はあの狼に助けられたってことになんのかな?」
「どうだろう。…だけど俺としてはその狼に心から感謝したいぐらいだな。」
この言葉は俺の本音だった。
――銀色の大きな狼、か…もしかしてあの時、崖の上から俺を見ていた…あの狼のことか…?
ウェンリーの話を聞いて俺の頭には、一昨日飛ばされた過去のヴァンヌ山で見かけた、あの不思議な雰囲気の狼のことが思い浮かんでいた。
「その狼…ひょっとして薄ら身体が光って見えなかったか?」
「え…ああ、うん、なんで知ってんの?会ったことあんのかよ、ルーファス。」
「いや…少なくともヴァンヌ山で実際に会ったことはないかな。」
「は…?」
俺は目線を落としてウェンリーから逸らすと、首を振り振りそう答える。
俺は普段からウェンリーに、飛ばされた時に行った先のことを殆ど話しておらず、子供のウェンリーともう一人の自分に会ったことは、今も黙ったままだ。
一昨日は少し事情が違ったが、これまでは俺自身も辿り着いた先がどこなのか、はっきりとわかったことはなく、漠然と雰囲気から時代が古そうだ、とか肌に感じる気候から外国みたいだ、と言った程度の情報しか得られなくて、話そうとしても話しようがなかったからだった。
そんな理由をウェンリーに言ったことはなかったが、どう話せばいいのか悩む俺を見る内に、ウェンリーはいつの頃からか飛ばされた時のことは一切聞かなくなった。多分俺から話せば聞きはするのだろうが、少なくともウェンリーから根掘り葉掘り尋ねてくることはない。きっと俺が困ると思って気を使ってくれているのだろう。
まあそんなわけで事情は違えど、飛ばされた先で銀色の狼を見かけたことは話していないし、話すつもりもなかった。
「俺が辿り着いた時にはもうその狼はいなかったよな…逃げたのか?」
「違う、消えちまったんだよ。おまえの方に走って行ったと思ったら、目の前でスウ〜って身体が透けて薄くなって、そのまま…だから俺、もしかしたら幽霊なんじゃねえかと思ってさ、慌てちまって…一体あいつ、なんだったんだろな?」
「…うん…」
――その話を聞く限り、とても普通の狼とは思えなかった。
「お待たせ致しました、スペシャルミートランチです。」
「おお!!待ってましたっっ!!」
ちょうど話が途切れたその時機に、出来上がったばかりの料理が運ばれてきた。木製の平たい大皿に乗せられた肉汁滴るボア肉の厚切りステーキと、こんもりと盛られた色とりどりの野菜サラダ、そして蔓籠に入ったまん丸とした白パンのセットだ。
そのどれもがかなりの特大サイズで、食べきれるのか…?と俺は引く。因みに俺が頼んだのは普通の量の日替わりランチだ。
ウェンリーは満面の笑みを浮かべて手を合わせ、「いっただっきまあ〜す!!」と言うと、猛烈な勢いで食べ始めた。…余程お腹が空いていたらしい。
程なくして運ばれてきた料理を俺もゆっくりと味わう。冒険者御用達の店だけあって中々の美味だ。
その後三十分くらいで見事に大盛り料理を平らげたウェンリーは、膨れ上がったお腹をさすりながら満足げな顔をしていた。
昼食を済ませた俺達は、店を出ると考古学研究所を探すのは明日にすると決め、その足で俺が良く行く武器屋へ向かう。そこには仕事で知り合った腕の良い職人がいて、ウェンリーの武器改良について相談してみたかったからだ。
いくつか遠距離武器を改良する案を出して貰い、折を見てまた来ることにして店を出る。それからはウェンリーが行きたがった場所を中心に回り、夕方近くになってようやくリカルドと約束をした宿へ入った。
入口の趣のある扉を開けると、扉に取り付けられた鐘がカランカランと心地良い音を立てる。
ここ『REPOS』という名の宿は、メクレンにはあまりない木造の建物だが、使われている建材が外国から輸入されたもので落ち着きがあり、どこか家庭的な温かみを感じるリカルドのお気に入りだった。
天井に吊された明光石(主に明かりに用いる魔法石の名前)の照明は、手作り感満載のステンドグラスの笠が被せられたもので、灯された光から映し出された影がエントランスホールに模様を描いている。
入口を入って左側に酒場兼レストランが、右側に一階客室への廊下と吹き抜けになった上階への階段があり、足元には細かい模様が編み込まれた絨毯が敷き詰められていた。
先ずは宿泊の手続きをするために正面の受付台に向かう。
「いらっしゃい、お泊まりですかい?おや…ルーファスさんじゃないか、一月半ぶりだね。」
中に立つこの宿のご主人がすぐに元気のいい笑顔で迎えてくれた。四十代半ばくらいの中肉中背で人当たりの良い健康的な男性だ。
ご主人は俺に気付くといつもと同じく親しげに声を掛けてくれる。俺はメクレンに来ると必ずと言っていいほどこの宿を利用しているため、すっかり顔馴染みになっているのだ。
「こんにちは、部屋空いてますか?」
「毎度!今日は二名様でしたね、別に部屋を押さえておくように頼まれてますわ、二階の二人部屋を用意しておきましたよ。」
そう言うとご主人はすぐに部屋の鍵を取り出して俺に手渡してくれる。ギルドで言っていた通り、既にリカルドが部屋を頼んでくれていたようだ。
「ありがとう。リカルドはもう戻っていますか?」
「いや、一旦戻ってまた出られた後はまだだねえ…酒場の席は18時予約って言われてるけど、その頃には戻られるんじゃないですか。」
「そうですか…」
それだけ聞くと俺はその場を離れてウェンリーの元へと歩いて行く。
「ごゆっくり!」
そのままウェンリーと一緒に吹き抜けの階段を上がり、橙色の灯りが灯された廊下を鍵に記された番号の部屋へ向かうと、扉を開けて中に入った。
こぢんまりとした室内は奥に木製のテーブルと椅子が置かれ、シングルベッドが二つと窓際にソファが一つ、トイレに簡易的な浴室も備えてあり、窓を開けると表の通りが見下ろせる。
「約束の時間には少し早いな。」
俺は窓に近い方のベッド脇に剣を立て掛けると、壁かけ時計を見上げた。まだ約束の時間まで二時間近く余裕がある。
「俺先に汗流して来ちゃっていいか?」
ウェンリーは側の武器専用棚にエアスピナーを置いて、そこら辺に服を脱ぎ散らかすと、俺の答えを聞く前に下着姿になってそう言った。
脱ぐのが早い!
「ああ、着替えここに出しておくぞ。」
俺が無限収納からタオルと着替えを取り出して、ウェンリーが使う予定のベッド上に放り投げると、ウェンリーはそれを手に浴室へと向かう。
俺もウェンリーの後で汗を流さないとな…身体がベトベトで気持ち悪い。
…そう思いながら窓際に置かれたソファに腰を下ろすと、座って気を抜いた途端に急激な眠気が襲ってきた。
「――少し疲れたのかな…」
そう口に出したのを最後に、俺には珍しくそのまま寝入ってしまった。
――俺は、夢を見ていた。
どこか広めの部屋の中…壁が石造りであることからも、今いる宿の部屋でないことは確かだ。
そこの中央に置かれた大きめの円卓に広げられた地図…その上にはあの預かりもののメダルが鎖のついた状態で置いてあった。
俺の意識は辺りを漂うようにふらふらとそちらへ向かう。
周囲には何人かの男女がおり、円卓を囲んでなにか真剣に話しているようだ。その会話は聞こえているのに、不思議なことに俺には話の内容が全く理解できなかった。
俺はそこにいる男女一人一人の顔と姿を確認して行く。
先ず飛び込んで来たのは、目の覚めるような赤とオレンジ色の剛髪に、翡翠のような瞳を持つ背中に大剣を背負った美丈夫。
その隣に薄い若葉色の髪を編み込んで束ね、小花の髪飾りを着けた、可愛らしい印象の小柄な女性。
少し間を空けて腕を組み難しい顔で立つ、栗毛の短髪に右頬に二本の大きな傷痕があるがっしりとした身体付きの長身男性。
そしてさらに横に銀色と茶や黒い毛の混じった斑髪の、こちらも背の高い屈強な身体をした男性。その両腕には変わった入れ墨があった。
最後にラベンダー色の髪をアップにしてきちんと纏めた眼鏡の美女…
その中の誰にも見知った顔はない。――ない、はずだ。
…それなのに、胸に締め付けられるような痛みを感じ、彼らを見て堪らない懐かしさが込み上げてくる。…この感情はどこから来るのだろう。
気づけば涙が溢れていた。
頬を伝う止めどない涙に戸惑いながら、俺はただ彼らをじっと見つめていた――
――そんな夢だった。
「おーいルーファス、起きろ〜。」
ゆさゆさとウェンリーが俺の膝を掴んで身体を揺さぶり起こす。
「シャワー浴びちゃわねえと時間になっちゃうぞ。」
上半身裸のまま俺の前にしゃがんで、肩にかけたタオルで濡れた髪を拭きつつ、ソファで寝入っていた俺の顔を琥珀色の瞳が覗き込むように見上げた。
「ん…ああ。」
俺は濡れていた眠い目を擦りながら身体を前屈みに起こすと、その瞬間に今の今まで見ていた夢の内容が消えて行くのを感じる。
こんな風に直前まで覚えていても、目が覚めた途端に忘れてしまうのは良くあることだ。
だが夢の中で感じた懐かしさと胸の痛みだけは残されていた。
「びっくりしたぜ、うたた寝しながら泣いてるんだもんな。…なんか悲しい夢でも見てたのか?」
ウェンリーがほんの少しの心配が混じった、不思議そうな顔をして聞いて来る。
「いや…どうだったかな、一瞬で忘れたみたいだ。」
「なんだよそれ。」
〝泣くほどの夢だったのに?〟とウェンリーは笑う。…本当にな、夢を見て泣くなんて、そうそうあることじゃない。
俺は照れ臭くなってソファから立ち上がると、ウェンリーに揶揄われる前に出しておいたタオルを掴んで浴室へ急いだ。
――風呂から出て暫くの間部屋で寛いだ後、約束の時間近くになってから俺達は、気楽な服装で階下に降りると酒場へ向かった。
その店内からは賑やかな音楽と人の笑い声、食器同士が当たる時のカチャカチャという音や多くの人のいるざわめきが聞こえて来る。
エントランスホールから酒場に入ると店内は混み合っていたが、すぐに窓側の入口にほど近いテーブル席で、手を上げ俺を呼ぶリカルドの姿を見つけられた。
彼の金髪は店の明かりの中でも光の反射で輝いていて、どこにいても目立つから簡単に目に付く。
「リカルド。悪いな、待たせたか?」
「いいえ、ほんの数分です。」
俺がウェンリーを奥側に座らせ、リカルドの向かい側に腰を下ろすと、普段通りのリカルドがにこにこと微笑んで迎えてくれた。その顔色はさっきと打って変わってすっかり良くなっており、俺はホッとして胸を撫で下ろす。
≪ 良かった、いつも通りのリカルドだ。≫
俺達が席に着くとすぐにウエイトレスではなく、酒場の店主が注文を受けにやって来る。ここの店主さんと宿屋のご主人は兄弟だそうで、家族で宿と酒場を切り盛りしていると聞いたことがあった。
リカルドは多い時で日に三度ここを利用しているため、この店にとって大のお得意様だ。それに守護者としての名声も相俟って、毎回必ず店主が直々にその時々のお勧めをひっさげて注文を受けに来てくれるのだ。
「いらっしゃい。毎度ありがとうございます、リカルドさん、ルーファスさん。そちらは新しい守護者さんですかい?」
「こんばんはマスター。いいえ、違いますよ、ルーファスのご友人だそうです。」
ウェンリーがぺこりと頭を下げて遠慮がちに挨拶をする。
「こりゃあどうも、どうぞご贔屓に。今晩はどうしますか?ロックレイクから仕入れたばかりの魚料理がオススメですが。」
「ではそれをお願いします。ルーファスは?」
「俺も同じで。ウェンリーもそれでいいよな?」
「いいよ。」
「アルコールはいかがします?今日はファーディア産の上等な蒸留酒が入ってますよ。」
「そうですね…」
俺の意思を問うようにリカルドは俺を見る。日によって俺は酒を飲んだり飲まなかったりするからだ。
「少しだけ貰おうかな。」
「ではそれとグラスを三つ。」
瞬間、ハッとして俺はあることを思い出し、そう注文したリカルドをすぐに慌てて止めた。
「あ!いや、ウェンリーの分は――」
要らない、と言おうとしたのだが、そこでリカルドがウェンリーに向け、小馬鹿にしたような少し意地の悪い含み笑いを浮かべた。
「ふ…まさか飲めない、とか?未成年ではないですよねえ?」
「おい、やめてくれよリカルド…!」
そんな挑発をしたら当然ウェンリーは…
「俺も貰うよ!!」
…ほらな。やめておけば良いのに…。俺はこの後のことを考えて、思わずウェンリーに心配の目を向ける。
「ウェンリー…」
「いいんだよ、黙ってろよ!!」
意地っ張りだな、まったく。
注文を受けると店主は軽く会釈をして下がって行く。それを見送るとリカルドは、俺とウェンリーに向かって申し訳なさそうな表情をした。
「ギルドでは失礼をしてしまってすみませんでした。」
「ああ…いや、もう体調は大丈夫みたいだな。随分と顔色が悪かったから心配したよ。」
そう言った俺に対し、リカルドは俯いて目元に手を当て、涙を拭うフリをする。
「――すみません、ショックだったんです…。私というものがありながら、あなたが他人を連れて来て…しかも見せつけるように、あんまりにも仲良さそうにしていたものですから…。」
あ…これはいつもの『おふざけ』に入っているな。くすん、と鼻まで啜って見せて…
普段のリカルドは至って真面目だが、時折聞かれたことを誤魔化すように、わざとふざけてみせることがある。
そんなときは大体があまり突っ込んで事情を聞かれたくない時や、その裏にある感情を隠したりする時に多いのだと俺は気がついていた。
つまりはなぜあんな風に狼狽えることになったのか、俺に深く踏み込まれたくない、ということの現れなんだろう。
それをリカルドが意図してやっているのかはわからないが、そう言う時は敢えて事情を聞かないことにしている。但しそれは、リカルドのそんな面を知っている俺だけに限っての話だ。
「…はあ!?」
俺の横でウェンリーが当然のように素っ頓狂な声を上げた。まあ謝っているのかふざけているのか…ウェンリーにしてみればそのどちらなのかわからず、受け止め方に戸惑う(悪くすれば逆に余計腹を立てるかもしれない)のも仕方がないだろう。
「…リカルド…いつものおふざけはそこまでにしておいてくれ。」
「ルーファスはつれませんねえ…。」
ウェンリーが冗談を真に受けるとは思わないが、変に誤解されても後が怖い。俺が乗って来ないと知っていながら残念そうに首を振るリカルドに、俺は再度改めてウェンリーを紹介することにした。
「リカルド、改めて紹介するよ、親友のウェンリーだ。俺がヴァハで世話になっている村長の甥っ子に当たる。」
「……どうも。」
なんとも不機嫌そうなブスっとした顔で口をとがらせ、腕を組んでそっぽを向きながら挨拶をするウェンリーを、俺は苦笑いを浮かべて肘で小突いた。
気持ちはわからないでもないが、おまえまでそんな態度を取ったら互いの印象が悪くなるだけだろう…!
俺がそう心配したところで時既に遅く、最早手遅れだった。
「はじめまして、リカルド・トライツィと申します。」
どこか作り物のような、俺に向けるのとは全く異なる営業用の微笑で、リカルドはそう自己紹介をする。この瞬間、リカルドの中でウェンリーに対する態度の基準が決定したのだろう。
ここで少しまたリカルドについて話しておく。本人は俺に隠しているつもりのようだが、実はリカルドは、俺以外の人間を見下して毛嫌いしている部分がある。
その理由は恐らく、綺麗すぎる外見と守護者としての知名度から、碌な人間が近寄って来なかったせいだろう。
リカルドは首位守護者として名が売れすぎていて、それを利用しようというランクの低いハンター達が、リカルドの都合もお構いなしにパーティーに入りたがって付き纏ったり、仕事をしている最中に強引に割って入って、一緒に仕事をしたつもりになり箔をつけようと企まれたりして、実力の伴わない人間に絡まれることが後を絶たない。
俺が知っているだけでも相当な回数そんなことがあったのだから、それ以前はどんなものであったのか想像に難くないだろう。
またその見た目のせいで無駄に言い寄る人間も多く、男でも女でも外見だけを見て擦り寄って来るようで、リカルドはいつも気持ちが悪いと酷く嫌悪していた。
最近は俺といるせいか、あまり近付いて来る人間はいなくなってきてはいたが、不躾な視線を向けられるのは変わりがなく、ギルドで殺気を含んだ睨みを利かせていたように、冷たい態度で徹底的に対応することで自衛しているようだ。
そういうわけで元々リカルドは、他者に対する態度が決して良いとは言えない。その上ウェンリーのあからさまな態度は、さらに事態を悪化させてしまいかねなかった。
俺は二人が互いに向けて発する雰囲気に、なんだか凄〜く嫌な予感がして、そこからさらに悪い方へ向かわないことを祈るしかなかった。
だがほんの数秒後、懸念通りに様子がおかしくなってくる。
――その始まりはリカルドがウェンリーに対して、遠回しに年齢の割には子供っぽいことを皮肉り揶揄した言葉を発したことからだった。
ウェンリーはターラ叔母さんに馬鹿息子と怒られていても、実際は馬鹿じゃない。寧ろその逆で、ああ見えてどんなに難しい内容でも人の話は良く聞いており、きちんと説明してやれば覚えるのも理解するのも人より遙かに早い方なのだ。
だからこそ俺や自分が揶揄われたり悪く言われることには敏感で、たとえ遠回しに臭わせたような皮肉や嘲りでも瞬時に理解して人一倍反応を示す。
それはウェンリーの長所であり短所でもあるのだが、今日はそれが特に悪い方に出てしまった。
最初は丁寧な言葉遣いの、感情を抑えた言葉の応酬だったのだが、やがて少しずつ二人とも相手に対する苛立ちが表に現れるようになってくる。
静かな売り言葉に買い言葉が延々と行き交い、とても初対面同士のやり取りとは思えないほど的確に相手の粗を突いて悪口を言うようになった。
気付けば二人の間には俺の存在を無視した険悪な空気が流れていて、殴り合いや掴み合いにこそなってはいないものの、その寸前と言っても過言でないほどに仲が悪くなっていた。
そんな二人の態度に呆然としていた俺は、周囲がこちらを気にし出したことに気付き、慌てて止めに入った。
「ちょっと待った、二人ともいい加減にしてくれ!」
瞬間、リカルドとウェンリーが我に返って同時に俺を見た。
「いったいどうしたんだ、こんな所で喧嘩を始めるつもりなのか?周りを見てみろ、何事かと注目を浴びているじゃないか。」
「す…すみません、どうかしていました。」
リカルドがまた狼狽えたような、視線の定まらない表情になった。
「や…俺も悪い、なんかカッと来ちまって…ごめんな、ルーファス。」
ウェンリーも何時になく、ばつの悪そうな顔をして俺から視線を逸らす。
「……?」
その場はこれで治まったが、二人の間に流れる異様な空気に、どこか普通とは違う異質なものを感じて俺は不安になった。
「お待たせ致しました、店主おすすめディナーをお持ち致しました。」
直後に明るい表情で、可愛らしいツインテールのウェイトレスが両手で料理を運んで来ると、険悪だった場の空気が消し飛び雰囲気が変わった。
ホッとした俺はこれ以上二人が絡まないように、仕事に関係する話題を振ることにした。
「美味しそうな焼き魚だな。せっかくだ、食べながら話そうか。リカルド、ギルドでは途中になってしまったけど、ヴァンヌ山で変異体を狩った話をしただろう?それ以外に実は今日、ここへ来るまでの山道で見たことのない敵に遭遇したんだ。」
リカルドの表情が守護者のそれになり、目つきも変わる。直前がどうであっても一瞬で自分を切り替えられる、リカルドのこういう危機意識の高さと守護者としての姿勢が俺は心から信頼できてとても好きだ。
「それはどんな魔物です?」
真剣な目で身を乗り出して聞いてくるリカルドに、俺はあの得体の知れない不気味な物体のことを頭に思い浮かべながら話を続けた。
「魔物…なのかな、躯体全体が瘴気とは違う黒い靄みたいなものに包まれていて、半透明に透けた表面から紫色に光る球体のようなものが見えるんだ。恐らくあれは核かなんかじゃないかと思ったんだけど…スライムではなく、もっと液体に近い感じで、単細胞生物のアメーバに似ているかな。それから地面を這うように移動して動きが遅く、後にはそいつの体液が染みこんだ毒々しい色の筋が残るんだ。おまえにはそんな奴に心当たりがないか?」
「黒い、靄…まさか――」
どうやらリカルドには心当たりがあるようだが、その表情は一段と険しくなった。
「ルーファス、あなたはそれと戦ったのですか?」
「いや…ウェンリーが一緒だったし、なんだか嫌な感じがして倒せる気がしなかったんだ。だから相手をしないですぐに逃げ出したよ。」
「賢明です、さすがは私のルーファスですね。やはりあなたの瞬間的な判断力は飛び抜けていて尊敬に値します。」
リカルドは安心したように微笑んだ後、嬉しそうにそう言って俺を褒めた。
「褒めたってなにも出ないぞ。」
「おや、残念。」
「…逃げて賢明だと言われるということは、あれがなんだか知っているんだな?」
「はい。今後のためにも正しい情報を知っておいていただきましょう。」
ガタン
リカルドがいきなり席を立つ。
「どこへ行くんだ?」
「私が記録している魔物の図鑑を見て貰いたいのです。部屋から持って来ますね。」
「え?あ…おい!」
止める間もなくリカルドはさっさと店を出て行ってしまう。
「…なにも今わざわざ取りに行かなくたって、食事が済んだら部屋で見せてくれればいいと思うんだけどな。」
「俺を部屋に入れたくねえんじゃねえの?」
ウェンリーは苛ついたように、せっかくの美味しい魚料理も不貞腐れた顔をしながら口に放り込んでそう言った。
「おまえ…どうしたんだ?なにをそんなにイライラしているんだよ。」
「知らねえよ、そもそもあっちが先に突っかかって来たんじゃねえか。」
――確かにそうだが、それにしてもウェンリーの様子も少しおかしい。その上なぜ苛立っているのか、ウェンリー自身その理由がわかっていないように見えた。
初対面にも拘わらずこの日から始まったウェンリーとリカルドの衝突は、今後も俺の頭をずっと悩ませ続けることになるのだった。
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