58 動き出す歯車
いつものようにリーマと過ごすライ。ルクサールに出かけることを伝え、部屋を後にすると、路地から出たところでルーベンス隊士に行く手を塞がれます。驚いたライは、なぜここにいるのか、と尋ねますが…?
【 第五十八話 動き出す歯車 】
「――それじゃ、明日からルクサールへ行くつもりなの?ライ。」
いつものようにリーマの部屋で、椅子に腰掛ける俺の背に、リーマの柔らかな感触と温かい体温が伝わってくる。背後から包み込むように腕を回し、リーマが顔を近付けると、その吐息が耳を擽って少し困る。
こんな風に彼女は最近、俺に遠慮せずに触れ甘えてくるようになった。
「ああ。精々かかっても二日ほどで戻れるだろう。なんならリーマも一緒に行くか?ルクサールは生まれ故郷なのだろう。」
「え…だ、だめよ。一緒に王都を出たりして双壁のお二人に私とのことが知られたら、きっとあなたがいい顔をされないわ。」
そう言ってリーマはパッと俺から離れる。俺はその手を引っ張り、今度は俺の方からリーマを抱きしめると、その額と頬に幾度かそっと口づけた。
「――隠していてもいずれはばれる。だが周囲にどう思われようと俺には関係ない。俺がこの腕に抱き、大切に思うのは…リーマ、おまえだけだ。」
「ライ…嬉しい。私もあなただけ…嬉しいけれど…でも、もし不釣り合いだって周りに別れるように言われたら?双壁のお二人にまで反対されたら、幾らあなたでも無視するわけには行かないでしょう?」
「…無視は出来ないかもしれないが、おまえを手放す気は毛頭無い。寧ろ少しの未練も感じないのは近衛の方だろうな。」
周囲がうるさくなり、俺のことにあれこれ口を出してくるつもりなら、近衛など辞めてしまえばいい。リーマさえ俺の傍にいてくれるのなら、どこでなにをしても生きて行けるだろう。俺にとって最も大切なのはリーマだ。
イーヴとトゥレン、そして新しく側付きになる予定のルーベンス隊士も大切な存在には違いないが、それでもリーマとは比べるまでもない。
俺の代わりに近衛の指揮官になれる者は他にもいるが、俺にとってのリーマの代わりなど何処にもいないからだ。俺はリーマと離れるぐらいなら、今の生活を捨てることになんの躊躇いも感じなかった。
「おまえは俺がもし近衛を辞めたら、俺と別れるか?」
「そんなことない!私はあなたが近衛にいるから好きなわけじゃないもの。あなたがあなただから好きなの…!!」
「ならばなにも心配するな。俺はおまえと別れるくらいなら、この国を捨てる。その時はラ・カーナの近くに移り住んで、俺の故郷…ヘズルの街を再建しながら二人で暮らそう。魔物からも人からも、俺がおまえを守る。だから心配するな、リーマ。」
「ライ…。」
俺は元から孤児であり、贅沢な暮らしには興味が無かった。どんなに豪華な物に囲まれていても、どれほど自由になる金銭があったとしても、家族や友人、愛する者のいない孤独には到底耐えられそうになかった。
以前のようなリーマのいない生活にはもう戻れない。それは俺自身が一番良くわかっている。
ポッポー、とリーマのお気に入りの鳩時計が俺に帰る時間を知らせた。明日は出来るだけ早く王都を発ち、昼までにはルクサールに着きたい。そのためにはそろそろ城に戻らなくてはならなかった。
「そろそろ城に戻る。ルクサールから帰ったら、またすぐ会いに来るから待っていてくれ。」
「ええ…気をつけて行ってらっしゃい。早く戻ってね。」
別れ際にキスをして俺は普段通りにフードを被り、リーマの部屋を後にする。薄暗い階段を降り、路地から出て繁華街の大通りに差し掛かったところで、突然俺は脇から飛び出して来た誰かに進路を塞がれた。
驚いて顔を上げると、目の前に立っていたのはルーベンス隊士だった。
「――やはり…ラムサス閣下、お話があります。俺に付いて来て頂けませんか?」
「…なぜここにいる?まさか俺の後を付けたのか?」
「違います。それよりお願いです、とにかく俺と一緒に来て下さい。双壁のお二人が閣下を探しておられます。」
ルーベンス隊士は真剣な表情で、もう間もなく二人が下町にやって来る、このまま進めば確実に出会すから、と訴えた。
俺はルーベンス隊士がどういうつもりなのかわからず、ほんの一瞬訝しんだが、日頃から彼が俺に対して接して来た態度を考えると、悪いことにはならないだろうと信用することにした。
「こっちです。」
ルーベンス隊士は足早に俺を案内すると、ここから近い大通りからすぐのところにある、アパルトメントの一室の扉を叩いた。
「ここは俺の婚約者の部屋です。エスティ、俺だ。」
婚約者?…下町に住んでいるのか。確かルーベンス隊士の自宅は中級住宅街にあったはずだが――
「ヨシュア?待って、今開けるわ。」
中から若い女性の声がして、ガチャッと間もなく扉が開いた。
「ごめん、緊急なんだ、入らせて。ラムサス閣下、とりあえず中へどうぞ。」
扉が開ききる前に手をかけて強引に開くと、ルーベンス隊士はその女性を脇に押しやる。
「え?ええっ!?ちょ、ちょっとヨシュア!?嘘…っ」
押し退けられたその女性は、〝黒髪の鬼神…!?〟と血の気の引いた顔をして呟くと、明るいオレンジ色の髪と同色の瞳を大きく見開き、おろおろした様子で慌てふためいた。
「すまないが入らせて貰う。…失礼だが名前は?」
「エ、エスティ・ロナンと申します、ライ・ラムサス近衛指揮官様。」
エスティと名乗ったその女性は、貴族の女性がするように、衣服を抓んで淑女の挨拶をした。
「突然来て申し訳ないな、エスティ嬢。なるべく早く出て行くから。」
狼狽えるエスティ嬢の脇を通り、ルーベンス隊士に付いて室内に入ると、俺は二人がけのソファにどうぞ、と促されるまま腰を下ろした。
「――それで、話というのは?ルーベンス隊士。」
俺の前に膝を折り、神妙な顔付きで見ると、彼は静かに口を開く。
「 "ヨシュア" と呼んで下さい、ライ様。」
「…俺をそう呼ぶのは構わないが、俺が貴殿を呼び捨てにするにはまだ早い。側付きの件、返事を貰ったわけでもないしな。」
敢えて少し距離を置き、相手がなにを考えているのか推し量ろうとする。
「俺が閣下からのお誘いをお断りするはずがないではありませんか。説明も聞かずにその場でお返事をするわけには行きませんでしたが、疾うに心は決まっていました。ですから今この時から、誠心誠意、心を込めてお仕えさせて頂くと誓います。」
そう言ったルーベンス隊士は膝を付いたまま頭を下げ、俺に深く礼をした。
「…そうか、引き受けてくれるのならそれは助かるが…まずはどういうつもりで声を掛けたのか、説明してくれ。それに近くで待ち伏せしていたな?俺があの路地から出て来るとなぜわかった?」
そう問いかけた俺にルーベンス隊士は、〝ライ様にはアフローネで踊り子をしている、リーマ・テレノアという名の恋人がいらっしゃいますよね〟と、歯に衣も着せずに言って来た。
なるほど、最初から俺とリーマのことも、リーマの家があそこにあることも知っていたのか。
「ああ。それがどうした?」
既に知られているのなら隠す必要も無い。イーヴやトゥレンではあるまいし、まさかいきなり付き合いをやめろ、とは言わないだろう。
俺は次にルーベンス隊士がなにを言うのか、その言葉を待った。ところが彼はカタカタとその手を震わせ、捲し立てるように話し始める。
「お…俺ならともかく、ライ様はその格好では目立ち過ぎます…っ!!」
「は…」
…なに?
「いくら髪色とお顔を隠されても、衣服は生地が上等ですし、俺のように見る者が見ればすぐに気付かれてしまいます!!ですから、せめてもう少し変装を…俺がいい物を持っています、髪や瞳の色を変化させられる魔法石です!!これを差し上げますので、下町にいらっしゃる時は是非お使い下さい!!そしてなるべくなら衣服も下町で購入なさったものをお召しになって、人目を引かぬようもっとご注意下さい…!!」
――予想だにしなかった言葉に、俺は目を丸くして暫くの間固まっていた。
「…要するに俺を心配して声を掛けたのか?イーヴやトゥレンのことだけではなく、この辺りの周囲にも、俺のことがばれるのではと…?」
「はい、その通りです。俺のような者が気を回して心配するようなことではないのかもしれません。ですがこの下町で王宮近衛指揮官であるライ様のことが周囲に露見すると、お相手の方がどんな目に遭うかわからないのです。俺にもエスティがいますので、差し出がましいとは思いましたが、なにか事が起きる前に、と…!」
「…!?」
今、なんと言った?…俺のことが周囲に露見すると、相手がどんな目に遭うかわからない、と言ったのか?
その周囲とは俺のではなく、リーマの周囲のことを言っている。…なぜ――
俺はルーベンス隊士のその言葉を聞いて考え、ようやく彼がなにを心配して俺に声を掛けたのか、その意味に気付いて愕然とした。
――そうか…俺は俺が今どういう立場にいて、世間からはどう見られ、どう思われているのか、ということを失念していた…!俺は王国軍の中でも最高位にある王宮近衛指揮官だ。その地位も名声も本来は簡単に手に入れられるものではない。
俺が好きで引き受けたわけではない、と反発していたから余計に気付かなかった。
王都の下町の住人は他より多少マシだと言えど、貧しい者が多いことに変わりはない。中にはそこから上に這い上がろうと、高給取りの上級兵士に媚びを売る女性もいると聞く。そんな中で俺とのことがリーマの周囲に知られたら、場合によっては誰かに危害を加えられることもあるのではないか?
リーマはよく "双壁のお二人" とイーヴとトゥレンのことを口にしていたが、俺達のことが知られるのではと恐れていたのは、俺のことだけではなく、自分の周囲のこともだった。…だからあれほど用心深く気にして外へ出かけるのも躊躇っていたのか。
――他人の嫉妬や羨望というものが、どれほど恐ろしい感情なのか、俺は自分がそんな思いを抱くこともなかった所為で想像も出来なかった。
だが、そう言った感情から敵意を向けられたことはある。今も近衛の指揮官になったことで、妬まれ恨まれている可能性があった。ただ俺の場合はなにか事が起きる前に、イーヴとトゥレンが対処し、全て裏で片を付けてくれているのだろう。
でもリーマは違う。リーマは一人だ。肉親の一人もおらず、彼女を守るものはなにもない。それでいてもし身近な人間が敵意を向けるようなことになれば…リーマの居場所はなくなる。恐れるのも当然だ…!
そんなリーマの不安にも気付かず、よくも守るなどと言えたものだ。
俺は激しく動揺し、暫くの間なんの声も出せなかった。
「…?…ライ様?もしや余計なことを、とお怒りでしょうか?もしそうであれば謝罪致します…!」
「あ、ああ…いや、違う。貴殿に言われるまで俺は、リーマの側の周囲にまで気が回っていなかったことに気付かなかった。俺はリーマと付き合いのある周りの人間を良く知らない。それなのに俺とのことで彼女が傷付く可能性があると、なぜ考えられなかったのか…そのことを気付かせてくれて助かった。…ありがとうルーベンス隊士。」
「え…は、はい、お役に立てたようで光栄です…!」
ホッとした様子で笑顔を向けるルーベンス隊士に、俺はさらに好感を抱き、やはり信頼できそうだ、と思い切って頼ってみることにした。
「今後は貴殿の言う通り、もっと気をつけることにしよう。ルーベンス隊士…いや、ヨシュア。すまないが俺に手を貸してくれると助かる。リーマのことは、イーヴとトゥレンにはなるべく知られたくない。協力して貰えるか?」
「もちろんです!俺にはエスティがいるので、なにかと誤魔化すのにもお役に立てると思います。双壁のお二方に秘密を作るのは少し気が引けますが、ライ様がお二人に打ち明けるおつもりがないのでしたら、出来る限りのことはさせて頂きます。俺には俺の、双壁のお二方とは違ったことで、きっとライ様のお役に立てることがあるはずですから。」
そう言ってヨシュアは真っ直ぐに俺を見た。
真摯で思いやりがあり、相手のことを一番に考えられる…周囲にも気を配れ、なにより俺にとってなにが最も大切か、ヨシュアは理解してくれそうだった。
俺は最初に受けた印象の通り、彼を側付きに選んだ自分の目が間違っていなかったと確信する。
その後詳しく話を聞くと、ヨシュア自身も近衛に入った当初、婚約するまでの間エスティ嬢がなにかと身近な人間から、嫌がらせを受けたりしたことがあったと教えてくれる。
今でこそ落ち着いてこうして過ごせているが、女性の嫉妬というものは男には想像も付かないほど陰湿で恐ろしいものらしい。
「特にライ様は王都在住の殆どの女性が憧れているほどの御方ですから、念には念を入れて出来るだけ隠すに越したことはないでしょう。」
「そ、そうか…。」
甘かった…寝耳に水だ。リーマが大切ならば、俺自身がもっと注意しなければ、取り返しの付かないことになる。
それから暫くして俺はヨシュアに協力して貰い、なんとかイーヴとトゥレンが城に戻る前に自室に帰れた。
俺が城に戻って暫くすると、イーヴとトゥレンの二人はまた、せっかく帰したヨシュアを連れて俺の自室を訪れ、なぜなにも言わずに出かけたのか、どこへ行っていたのかとしつこく聞いて来た。
俺は明日の準備のために城下の店を回っていた、と誤魔化して嘘を吐き、その上でなんの用があったのかと尋ねた。すると――
「魔物駆除協会から公式に王国軍への協力要請が来た?」
俺は俺の自室のリビングで、イーヴとトゥレン、そしてヨシュアを加えた三人と向かい合ってソファに腰掛け、イーヴから説明を聞く。
俺が城を抜け出したことがなぜこの二人にばれたのかと思ったら、俺が仕事を終えて帰った後で、あの男から急遽呼び出しがかかったせいだったらしい。
自室にいるはずの俺を呼びに来たイーヴが、俺が部屋にいないことを知り、まだ城に残っていたヨシュアを巻き込んで城下へ出ると、トゥレンと手分けして探し回ったらしいのだ。
ヨシュアは俺のいる場所に見当が付いていたため、イーヴ達よりも逸早く下町に駆け付け、俺がリーマの部屋から出てくるのを待っていた。要はそういうことだったのだ。
「それで内容は?」
因みにヨシュアにはまだ時期尚早と見て、俺とあの男の関係について余計なことを言うなとイーヴとトゥレンの二人に口止めをしてあった。ヨシュアがそれを知り動揺するのは目に見えているし、幾ら俺が彼を気に入っていても、イーヴとトゥレンとの信頼関係を築けるかどうかはまだわからないからだ。
「はい、例の魔物の活性化に伴う依頼件数の増加に対応するため、今後は各市町村に対魔物戦闘の訓練プログラムを終えた王国軍兵士を派遣し、市街地の守備に常駐させる案が出されたようです。国王陛下はそれを承諾し、早急に全軍の対魔物訓練を開始するように勅命を出されました。」
イーヴから詳細が記された書類を渡され、それを見ながら確認する。
「…なるほどな。常駐させた兵士に市街地と周辺の守備を任せれば、それだけで少なくとも街を襲う魔物の襲撃に関連した依頼はなくなる。要はエヴァンニュも他国同様に国に属する兵士が街の守備と警護を担当することになるのか。」
まあ今の状況を改善するには、一番手っ取り早い対策だろう。他国はそうして町や村を魔物から守っている。今までのエヴァンニュの方が特殊だったのだ。ただ…少し引っかかる。
「ええ、ライ様が仰っていた通り、今後は王国軍も魔物と戦えなければ役に立たない、と言われるようになるでしょうね。もしや予想通りでしたか?」
なにか過剰な期待をした目で見て、トゥレンが俺を覗き込む。
「いや、さすがにそこまでは考えていなかったな。そもそもあの男…国王がギルドに協力するとは意外だった。今になってそんなことをするぐらいなら、もっと早くからやっていただろうと俺は思っていたからな。」
――俺はてっきり、あの男にはギルドに協力するつもりが無いのだろうと思っていた。だからなんの手も打たず、こんなことになるまで王国軍には魔物の相手をさせなかったのだろうと…考えてみれば、俺が対魔物戦闘の訓練プログラムのことを言い出した時も、俺の思うように好きにさせろと言っていたらしいし、なにか別の思惑でもあったのか…?
…あの男がなにを考えているのか、俺にわかるはずがないか。尤も、尋ねる気もないが。
「…どちらにせよこの件が片付けば、ギルドの問題は落ち着きそうだな。」
「そうですね。ところでライ様、明日のルクサール訪問には、当然俺を連れて行って貰えるのですよね?」
然も当然のようにトゥレンが言う。
「おまえは…夕方にした俺の話をたった数時間でもう忘れたのか?王立図書館で聞いたヴァレッタの話の通り、先方が大の軍人嫌いだというのなら、俺一人で行った方が都合がいいと言っただろう。」
俺は顳顬に青筋が立つのを感じながら、努めて冷静にそう言った。やはりこいつは少し突き放した方がいいかもしれん。
そう思いながらごねるトゥレンは無視して、イーヴには明日以降、技術研究室にある情報記録装置を閲覧できないかあの男に聞いてみて欲しい、と頼み、合間を見て、側付きになることを引き受けてくれたヨシュアの部屋を用意するように伝えた。
そしてトゥレンにはそのヨシュアと協力して、近衛以外の王国軍全兵士用の対魔物訓練プログラムを組むように命じる。期限は俺がルクサールから帰るまでにだ。これで暢気にしている暇はなくなるだろう。
帰り際トゥレンとヨシュアが先に俺の部屋から出ると、イーヴがその場に立ち止まり、俺を見て、ヨシュアの身辺調査結果に目を通したか、と聞いてきた。
「いや、時間がなかったからまだだ。それがどうかしたか?」
そう言えば書類を受け取る時に俺が早いな、と言ったら、ヨシュアの場合は少し特別だとか言っていたような覚えがある。
「…実は彼は、ご両親が亡くなられる以前はルクサール在住でした。」
「なに?王都の自宅にいるのは実の親ではないのか?」
「違います。」
「…わかった、書類は持ち帰っているからすぐに目を通す。」
俺は机の前に移動し、引き出しを開けその書類を取り出した。
「――ライ様、明日行かれるルクサールですが、あの街を見るとおそらくかなり驚かれると思います。住人になにを聞かされても、あまり動揺されぬようにお心積もりをなさった上で気を付けてお出かけ下さい。」
イーヴがなにか懸念を含んだ表情で、警告でもするかのように言って頭を下げ、静かに扉を閉めると部屋を出て行った。
…なんだ?ルクサールになにかあるのか?
封筒を開き中の書類を取り出すと、何枚かあった調査結果に端から目を通して行く。ヨシュアの経歴に特におかしな点はなく、士官学校時代からの成績も優秀で、相当な努力をして近衛に昇進したのだと言うことはすぐにわかった。
そして家族構成の欄を見ると、イーヴが言った通り、王都の自宅は養子に入った叔父のものであり、ヨシュアには他界した両親が別にいたこともわかった。
「…特に変わったところは見当たらないと思うが…ん?」
それは、家族構成の欄外に備考として小さく書かれてあった。
『緊急時従軍徴兵制度により両親は戦地ミレトスラハにて死亡』
緊急時従軍徴兵制度…?士官学校で習ったな。…確か十数年前に何度か施行されたことのあるあの男が制定した勅令ではなかったか?…まさかこれがイーヴの言っていた『特別』…?
イーヴが俺に動揺しないように心積もりをして行け、と言った。そのことから、俺は胸騒ぎがして嫌な気分になる。
――これは…なにかあると覚悟して行った方が良さそうだ。
俺は書類を封筒に戻してまた元の引き出しにしまうと、リビングの灯りを消して隣室に戻った。
♢ ♢ ♢
荒野を渡る乾いた風が、ひび割れた大地の砂を巻き上げ、黄色く煙り視界を遮っている。所々にぽつん、ぽつん、と数えるほどしか草木はなく、それもよく見ると少しずつ茶色く枯れ始めている。
二十年以上も前から戦地となっているミレトスラハでさえ、戦場を少し離れればそれなりの緑が存在していた。なのにこの国の…それも王都を中心とした『アラガト荒野』と呼ばれるかなりの広大な地域は、なぜこんなにも荒れ地が広がっているのだろう。目に映るのはどこもかしこも剥き出しの茶色い土ばかりの景色だ。
アラガト荒野は砂漠のように水が枯渇しているわけではない。だが南のヴァレーア渓谷に続く細長い川や、途中に池程度の大きさの泉などがあっても、その周囲に植物は殆どなく、とにかく極端に草木が少ない。
見渡す限りの乾いた土と、大きな岩などが時々転がっていたりするだけで、これでは自然に存在する虫や鳥、普通の動物などは、魔物にならなければ生きては行けないだろう。
俺の故郷だったラ・カーナ王国は、自然が豊かでとても美しい国だった。微かに記憶に残るレインと過ごした小さな家も、深い森の中にあったような覚えがある。
その光景と比べると、如何に殺伐としているか、本当になにもない、としか言い表せない。
王都のバスターミナルを出発して6時間…そんな荒野ばかりを眺めてきて、俺は寂しい国だな、と溜息を吐いた。
この俺が乗っているシャトル・バスの乗客は、少し前に停車した『ロックレイク』という名の小さな村でその殆どが降りてしまい、今は俺と七十代半ばくらいの老女に、そこから乗ってきた士官学校に通うくらいの年令(十四、五くらいか?)の少年が一人だけだ。
話し相手もおらず、一度こちらを見ていた少年と目が合ったくらいで、後は退屈な時間が続いている。
王都を出て以降ロックレイクまでの間に、何度か魔物の群れに襲われもしたが、幸いにして変異体のような強力な敵ではなかったため大事には至らず、俺一人の力でもどうにか討伐することが出来た。
あまり目立つような真似はしたくなかったのだが、危険と判断されて途中で引き返されては目的地に辿り着けずに結局俺が困ることになる。
各市町村に兵士を派遣するだけではなく、この国の主要な交通手段であるシャトル・バスにも兵士を乗せて、護衛に当たらせることも視野に入れた方がいいな。
…そんなことを真剣に考えていると、俺の足腰が固まって痛くなる前に、ようやくルクサールらしき街の影が遠くに見えて来た。
雷石によるドルルルル、と言う大きな駆動機の音を立てて、シャトル・バスは崩れかけた外壁の傍にあるバスターミナルに滑り込んだ。
壁に対して後ろ向きに停車すると、すぐに車両の中程にある扉が開き、知り合いでもなさそうだった少年が老女に声を掛け、手を貸して先にバスを降りて行く。
身形は粗末だったが、心根の優しい感心な子供だ、と俺は目を細める。だが年齢の割に少し痩せていたのが気にかかった。
間を開けて席を立ち、俺も乗降口に向かう。バスから降りて数歩歩き、運転席の脇に来たところで、シャトル・バスの運転手に中から声を掛けられた。
「道中助かりました、守護者さん。車両を守って頂いて感謝します。」
俺は顔を上げ、ガラスの窓に反射した太陽の光を避けるために、額に手を翳しながら返事を返す。
「いや、無事に到着して良かった、気をつけて王都に戻ってくれ。」
「ありがとうございます。ああ、それと…御存知ないと困るので念のために言っておきますが、子供のスリにはお気を付け下さい。ルクサールはこの国に見捨てられた街なので、治安もあまり良くありませんから。」
「な…」
「それでは。」
シャトル・バスの運転手は笑顔で敬礼をし、バスの扉を閉める。どうやらここから乗る乗客はいない様子だ。
バウン、バウン、と二度アクセルを空吹かすと、シャトル・バスは無人のまま出発して、砂埃を上げ来た道をまた王都へと戻って行った。
――ルクサールはこの国に見捨てられた街…?どういう意味だろう。
街の方を振り返ると、舞い上がる砂で煙って、高さ二メートルほどの外壁しか見えない。そのことから思うに、あまり背の高い建物は外壁の近くにはないようだ。
だがこのバスターミナルでさえ、待合用の長椅子が壊れかけてぼろぼろで、これを見ただけで俺は嫌な予感しかしなかった。
「………。」
とにかく、街に入ってみるか。
気を取り直してその場を離れ、街の入り口を探しながら外壁伝いに歩き出す。入り口を示す標識は、右の方向を指していた。
歩き出してすぐに、街を魔物から守るはずの外壁が、所々崩れて穴が空いていたり、大きく欠けて途切れていたりして、あまり用を成していないことに気付く。
酷いとただ目隠しのためだけにボロ布が吊されているだけで、修繕されることもなくそのまま長いこと放置されているようだった。
外壁がこれでは簡単に魔物の侵入を許してしまうだろうに…住人達は平気なのか?
中はどうなっているんだ、と不審に思いながら進むと、門扉もなにもないルクサールの入り口に辿り着いた。
外壁の切れ目に、石造りの四角い柱が左右に立っているだけの門。しかもその柱でさえ上部が欠けてひび割れている。
何処の街にもいるはずの門番や見張り番の人間はおらず、人のいる気配すらなかった。その入り口に立って俺はあまりにも酷い街中の建物を見た瞬間、どう見てもここは廃墟だろう。…そう思った。
おそらくはかつて繁華街だったと思われる朽ちた大通りを進むと、少し歩いたところで、ちらほら住人らしき人の姿を見かけるようになる。が…
――…酷く寂れているな…。一応店らしきものはあるが、まるで活気がない。それに見かけるのは高齢者ばかりで、働き盛りの年代の大人が一人もいない。どこかへ出稼ぎにでも出ているのか?…いや、それにしては…
崩れた煉瓦造りの建物の影から、物珍しそうに俺を見る年端もいかない子供達の姿を見かけた。だが、母親はどこだ?
ここはいったい…
「わああ〜い!!」
「!?」
突然周囲の建物からわらわらと、どこから現れたのか5、6人の幼い子供達がワーっと言う声を上げながら俺に駆け寄ってきた。
「旅のお兄ちゃん、お腹空いたよ〜!なにか食べる物ちょうだい〜!!」
「パパとママがいないの〜、いっちょにちゃがちてぇ〜!」
「ちょうだい、ちょうだい、食べ物ちょうだい!!」
「どけよ、俺が先だ!!」
「あたしが先よ!!」
「な…っ」
わあわあと収拾の付かないほどに纏わり付かれ、俺は一瞬面食らった。だがそんな俺の背後に、ゆっくりと息を殺し近付く気配を感じ取る。
今日の俺は腰にライトニング・ソードを装備してウエストバッグを身につけていた。その中には、緊急時用の液体傷薬と状態異常の治療薬、携帯食料と水のボトルのみを入れ、財布や身分証などの貴重品は全て無限収納に入れておき、その無限収納のカードはチェーンを付け、首にぶら下げて服の中に入れてあった。
もちろん服装は軍服を避け私服で、袖の無い膝丈のフード付きの外套に、白い七分袖の開襟シャツと、動きやすいよう細身のアンクルボトムに脛までの、ベルトでガッチリ締められる灰色のブーツを履いていた。
もし、あのシャトル・バスの運転手が注意を促してくれていなかったら、油断して引っかかっていたかもしれない。
それでなくとも俺のように対人戦に慣れた人間でなければ、背後の気配に気付かず、アッサリと装備を盗まれていたことだろう。それほどに連携の取れた巧妙な手口だった。
その気配は、そおっと俺の腰に手を伸ばし、商売道具のライトニング・ソードを掴もうとする。だがそうはさせない。
ガシッ
「うわっ!?」
伸ばされたその手を掴んだ瞬間、相当驚いたらしい裏返った声が周囲に響いた。そのまま俺は、やけに細いと感じた手首を怪我をさせない程度に、それなりの強さで捩じ上げた。
「いってえぇーっっ!!!」
悲鳴に似た盛大な叫び声を上げ、少年は俺から逃れようと身を捩る。
「――甘いな。俺から物を掠め取るには十年早い。」
それは、ついさっきシャトル・バスの中で見かけたあの感心な少年だった。
次回、仕上がり次第アップします。




