52 守るべきもの ③
すみません、都合で内容を修正しました。加筆したい部分があり、前回投稿した51話分を削除して再投稿します。
【 第五十二話 守るべきもの ③ 】
――胸騒ぎがする。なにがどうと聞かれても説明できないのだが、さっきからなにかが引っかかるのだ。
…落ち着け、大丈夫だなにもない。イーヴとトゥレンにはそれなりに俺自身が訓練を施してきた。
二人が危ないと思ったら、俺が動いて守れば良いだけだ。…焦るな。
「イーヴ、トゥレン、絶対に正面には立つな!!さっきの守護者のように一瞬で殺られるぞ!!」
「はい!!」
「わかってます!!」
「ヴァレッタ、あの二人はまだ変異体の動きに慣れていない、すまないが――」
「任せな、タンクだね!あんたはまたブレードを頼むよ!!」
「ああ。」
戦闘開始直後からイーヴとトゥレンにはバイトラス・カッターの足を左右に分かれて狙わせる。攻撃し続けることで動きを鈍らせ、俺がブレードの片方を落とす時間を稼いで貰うためだ。
今度は俺がブレードを落とした後、自分で止めを刺さなければならない。ヴァレッタは囮をしていて無闇に動けないし、イーヴとトゥレンにはまだ魔物の急所を正確に突くことが出来ないからだ。
「トゥレン、前に出過ぎるな!!足にも殺傷能力があるんだ!!身体を支えてバランスを取っているように見えても、体重移動ですぐにこちら目掛けて飛んで来る!!」
「はい!!気をつけます!!」
「イーヴ待て、深追いし過ぎだ!!牽制だけしてくれればいい、躯体の棘にも気をつけろ!!」
「は、はい!!」
この二人はミレトスラハでは俺が指示を出すまでもなく、洗練された動きで数多くの敵兵を薙ぎ払ってきた。だからこんな風にあれこれと注意を促したことなど一度もない。
その二人が、今はまるで初心者の如く攻撃のタイミングさえも計りかねている。
当たり前だ、ただでさえ対魔物戦闘に慣れていないのに、こんなに急に変異体の相手をしなければならなくなったのだ。
変異体は通常の魔物より強く大きく、より慎重に動きを見極めなければすぐにこちらが殺られてしまう。
守護者でさえ初心者にいきなり変異体の相手は無理だというのに…――
…くそっ、気が散る…二人が気になって俺に無駄な動きが増えた、集中しろ!!
俺は自分にそう言い聞かせた。
動き回るバイトラス・カッターは時折背中の羽をバタつかせ、前脚の威力を増した振り下ろし攻撃を使って来る。
その直後に激しく左右交互にブレードを振り回し、最後に上から突き立てるように縦軸の攻撃が来た後が絶好の反撃機会だ。
ヴァレッタがそれを誘い、直前で避け、空振りして地面に突き刺さった瞬間を俺に狙わせる。
連携が上手く行き、ようやく左のブレードを切断した。
後は隙を見て脇の外殻の隙間から心臓を狙えばいい。だが――
「はあ、はあ」
苦しさに息が上がる。血液中の酸素が見る間に減り、身体がずっしりと重い。俺が動かなければならないのに、疲れ切っていて魔物の動きについて行けなくなって来ていた。
パーティー内に守護者ではないものがいる、と言うことが、こんなにも自分の動きを鈍らせるとは思わなかった。
もし横で戦っているのがイーヴとトゥレンではなく、他の誰かだったなら少しは違ったのかもしれない。
危ないと思ったら守ればいい?…俺は馬鹿か、今の自分にそれだけの余裕と力があると思っているのか…!?
「ライ様、俺は動けます!!指示を下さい!!」
俺の疲れた様子を見てそう言ったのはトゥレンだ。
俺は苛立ち、ギロリとトゥレンを睨みつけると、軽く息を整えてから吐き捨てるように問いかけた。
「おまえにあの外殻の隙間から、正確に心臓を狙って剣を突き刺すことが出来るのか…!?もし一撃で仕留められなければ、瀕死になった変異体は激昂して手が付けられなくなるんだ!!」
「やってみせます、剣を突き立てる角度を教えてください!!」
変異体へと前を向き身体を絶えず動かしながら、優しげな光を宿す、薄い黄緑色の瞳が俺を見た。
「――真横から躯体前面に向け30度、上方から下腹部に向けて15度だ。刀身は柄まで完全に突き刺せ。…合図を出す、絶対にしくじるな…!!」
「はい!!」
…こいつを信頼したわけではない。寧ろ失敗したら思いきり罵って、嘲笑ってやるぐらいのつもりだった。
だがトゥレンは俺の合図で、初めての変異体が相手にも臆することなく、切断された前脚の下から躯体の脇に滑り込むと、剣に体重を乗せ、見事一撃で止めを刺してみせた。
「やった…やりました、ライ様!!」
倒れ伏す変異体の横で嬉しそうに左腕を突き上げたトゥレンは、戦地でも見せたことのない笑顔で俺にそう叫んだ。
――やるじゃないか。先程のヴァレッタのような口調で、そう言ってやりたくなったのは確かだ。
また一体倒せた。そう思い、ホッと安堵したのも本当だ。だからほんの少し、気が緩んだのだろうか。
須臾後、イーヴがなぜか俺を見て目を丸くしている。目の前のトゥレンが、俺を見て間抜けな顔で口をポカン、と開けていた。
…俺は自分が、意図せずトゥレンに対して「良くやった」、とその肩を叩き、自然に笑いかけていたことに全く気付いていなかった。
「はあはあ、さすがに、しんどくなってきたねえ…大丈夫かい?黒髪の鬼神。」
「ああ、どうにかな。…残りはあの一体だけか、おまえの仲間が手伝っても苦戦しているな。片方のブレードは斬り落とせたみたいだが…」
周囲を見回すと、近衛の隊士達は俺が思っていた以上に頑張っていた。無理をして倒さなくてもいい、と言ったが、かなりの数の通常体を倒し切っている。
この分なら俺達は安心して残り一体の変異体を倒すのに集中出来そうだった。
冷静に状況を見極めると、戦闘中の守護者達は、右のブレードの切断までは上手く行ったようだが、切り落としたブレードの側に横転したシャトル・バスの車体があって、変異体はそれを盾として利用しており、そちら側から急所を狙おうとしても庇われて潜り込めないようだ。
そこでもう片方のブレードを切断しようとしているものの、囮役の守護者がいまいち敵の攻撃を引き付け切れておらず、かなり時間がかかっている。
あと少し…俺達もすぐ応援に駆け付けたいところだが、ここはたとえ1、2分でも休んでおく。
ヴァレッタはここまでずっと囮役を務めてくれており、自分に敵の注意を向け続けるために攻撃しながらも、敵の攻撃は受けないように常に動きっ放しだった。
「悪いねえ、あたしらがもっと強けりゃいいんだけどさ、今日は一人欠けてるし、連日働きずくめでちょっと疲れて来てるんだよ。」
「だろうな、こちらも同じだ。おかげで近衛隊からも不満が噴出中でな、そろそろ限界が来ている。」
「そうかい…なんとかしなけりゃねえ…。まあいいさ、そいつは近いうちになにかこっちでも考えてみるよ。」
「ああ、頼んだ。そろそろ行くか。イーヴ、トゥレン、おまえ達も行けるか?」
小休憩で息を整えるヴァレッタの横で俺は額から流れる汗を拭い、イーヴとトゥレンを振り返った。
「はい、大丈夫です。」
「俺も行けます、ライ様。」
汗だくになりながらもイーヴとトゥレンがしっかりと頷き返事を返す。この二人がここまで苦労している姿を見るのは初めてだな。如何に変異体との戦闘が難しいか良くわかる。
「そんじゃもう一踏ん張り、行こうかね…!!」
休憩は終わりだ、と言わんばかりにヴァレッタは顔を上げ、一足先に戦闘フィールドに向け走り出した。
俺もすぐに後を追い、重心をかけた片足が地面を蹴ったその時だ。
――視界の端にチラリと赤いなにかが入る。
さっきから感じていた胸騒ぎと、なにかが引っかかっていた、その正体に俺は今突然気付いた。
荒れ地の乾燥した固い地面の、疎らに生えた砂漠草の影に…有り得ないものが転がっていた。
…靴だ。赤色の貴族が履くような…それも、小さな子供のサイズの片方だけが。
直前の戦闘中にほんの一瞬、俺の視界の中でこれが目に付いたのだ。
ここに近衛隊を引き連れて到着してから、状況把握のために見た光景が頭の中で映像となって駆け巡る。
救助された乗客の中に、小さな子供の姿はなかったはずだ。
瞬間、背筋にぞわっ、と真っ黒いなにかが強烈な確信となって迸る。
"子供が、どこかに残されている!?" そう思い当たった俺は、慌てて走り出し血相を変え周囲を必死に見回した。
≪――どこだ、どこにいる…!?≫
「ライ様…!?」
イーヴとトゥレンは気付いていない、二人に構っている暇はない…!
変異体から離れたところに隠れているのならそれでいい。だがもし近くにいたら――
「…ひっく…ママぁ…」
泣いている少女の小さく微かな声が鼓膜を揺さぶる。その方向を見て、俺の全身が総毛立った。
なんてことだ、横転したシャトル・バスから二メートルほどしか離れていない場所の朽ちかけた木箱の影に、4、5才くらいでホワイトブラウンのドレスを着た少女がしゃがみ込んでいた。
ギギャアアアァ――!!!
バイトラス・カッターの変異体が最悪のタイミングで激昂し、周囲の空気を震わせる激しい咆哮を上げた。
対峙していたパーティーが残っていたブレードを斬り落とせず、そのまま無理に逆側から止めを刺そうとして失敗したのだ。
どんな生き物も死の危険を感じると、一時的にとんでもない力を発揮することがある。
手負いの猛獣が怒り狂ったり、死に物狂いで暴れ出すように、魔物も瀕死になれば生き残るために限界を突破する。
これは体力の高い変異体のような強力な魔物に多く見られ、そんな状態変化を守護者達は、いつからか『激昂化』と呼んでいた。
子供の姿を見つけた俺は、一も二もなくその場所に向け、あらん限りの力を振り絞って走り出す。
頼む、間に合え…間に合ってくれ!!
全身が熱せられた金属のように、真っ赤に変化した激昂化状態の変異体は、止めを刺し損ねた守護者に逃げる隙を与えず、一瞬でその首を跳ね飛ばした。
また、もう一人の守護者は背を向けて逃げようとしたところを、背後から押し倒され、残っていたブレードに心臓の辺りを貫かれていた。
ヴァレッタと双剣使いの男、弓使いの女はすぐに距離を取り、戦闘体勢を立て直そうとしている。
俺は直前まで戦っていた二人の守護者の亡骸が変異体の足元に横たわる、その悲惨な光景を横目で見ながら、一直線に子供の元へと駆け寄り、少女を腕に抱きかかえた。
――だが、すぐ脇を全力で駆け抜けた俺を、変異体は見逃さなかった。
子供をかかえて、一瞬の動作でその場を離れようと立ち上がる。中腰の状態で振り返った俺の目に、ブレードを振り上げたその巨体が映った。
〝殺られる〟そう悟った俺は、少女の小さな身体を全身で包み込み、魔物から顔を背けて目を伏せた。
…次の瞬間、俺の顔や身体に、頭上から真紅の生温い液体が手桶で風呂水をかけられたかのように降り注いだ。
俺は…普段どんな時でも冷静なイーヴの、あんな声を初めて聞いた。絶望と悲嘆が入り交じった、絶叫に近い叫び声だ。
それは俺の耳に、「トゥレン」と聞こえたような気がした。
そこから先はまるで時間の進みが突如遅くなったかのように、なにもかもがゆっくりとした緩慢な動きをしているように思える。
――なぜ、おまえがそこにいるんだ?…トゥレン。
すぐそばに人の気配を感じ顔を向けた俺の目に、襲いかかって来た変異体ではなく、なぜかトゥレンの姿が映った。
そのトゥレンが「ライ様…」と、いつものように俺を呼ぶと、着ていた近衛の制服が見る間に赤く染まって行く。
直後、肺を満たした血液が口から溢れ、俺を見つめていた薄い黄緑色の瞳が、急速にその輝きを失って行った。
脇腹から不自然に生えていた異物の先端が引き抜かれると、トゥレンはゆっくり、音も立てずに俺の前に崩れ落ちた。
――ヴァレッタが、激昂化状態の変異体に猛烈な勢いで攻撃を繰り返す。双剣使いの男…ああ、確かスコットと呼ばれていたな…その男も、挟み込むように位置取って細かい攻撃を叩き込み、弓使いのライラと呼ばれた女が牽制して少しずつ変異体を俺達から離し押しやって行く。
その隙に駆け付けた隊士の一人が少女を俺の腕から引き剥がし、抱きかかえてすぐにこの場を離れて行った。
イーヴはトゥレンの脇腹を自分の制服の上着を脱いで押さえ込み、担架を持ってくるように救護班を呼びに行かせた。
…そこまでは思い出せる。
乾いた地面に吸い込まれて行く大量の血液と、必死に手当てをしながら声を掛け続けるイーヴ、何の反応も示さなくなったトゥレンを見た俺は、多分…その時点で我を失ったのだ。
全身の血が沸騰したかのように、身体がカァッと熱くなった。
今まで経験したことのない怒りが腹の奥底から沸き上がり、俺の中で長い間眠っていたなにかが目覚めたような気がする。
後で聞いたヴァレッタの話によると、変異体に突っ込んで行った俺の姿は、まるで全身が真紅の炎に包まれているように見えたらしい。
――ああ…認める、認めるさ。…こんなことになって、やっと自覚した。
苛ついて反発を繰り返し、当たり散らすことで感情をぶつけていたのは、結局のところ…子供のように甘えていたに過ぎない。
当たり前のように傍にいて、決していなくならないと思っていたから、我が儘を言い、突き放せた。
本当はイーヴとトゥレンの二人に頼っていたことを、いつも陰日向から支えられていたことを、わかっていながら…認めたくなかった。
だからきっと、これは身勝手な俺へと下された罰なのだろう。
♢
――…日暮れ前のまだ明るい王都に冷たい雨が降り注ぐ。
それはまるで誰かの深い悲しみを灰色の空が代わりに表しているかのように、サァァーと葉擦れに似た音を立て石畳を徐々に濡らして行った。
アフローネの酒場がある大通りから路地を抜け、下町の公園近くまで進むと、細い道の奥まったところに小さな教会がある。
王城からの出陣前に城門でライに会ったリーマは、ライの口から変異体討伐に向かうと聞いて不安を抱き、無事を祈りに来ていた。
まず王都から外へ出ることのない彼女でも、街の外がどれほど危険な場所か良く知っている。ただでさえ魔物と戦うのは危ないのに、守護者ではない近衛隊が駆り出され、その指揮を執るライが向かったのは変異体という非常に強力な魔物の討伐だ。
祭壇の前に跪き、両手を組んで強く握ると、頭を垂れ目を閉じてリーマは静かに祈り続ける。
〝神様…私にあの日彼と過ごせる機会を与えて下さった神様、どうか魔物と戦うライを守ってください。〟
この教会が崇める守護女神パーラに、気が済むまでの長い時間祈ると、リーマは立ち上がり家に帰ろうとして入り口にある大きな扉へ手をかけた。
ギイィ、という軋んだ音を立てて押し開くと、降り続く雨が染みこんだ石畳の匂いが鼻を突く。
「え…雨!?いけない、洗濯物…!」
祈りに夢中で雨が降り出したことにも気付かずにいたリーマは、外に干していた洗濯物のことを思い出し、あの粗末なアパルトメントへ向かって走り出した。
びしょびしょになるほどの降りではないものの、そぼ降る雨は細かく、帰り着くまでの10分ほどで傘を持っていなかったリーマの髪を濡らした。
この分だと洗濯物もだめね…また洗い直さなくちゃ。
そう思いながら短い溜息を吐き、薄暗く狭い階段を駆け上がると、自分の部屋の扉の前に、誰かが片膝を立てて俯き座り込んでいることに気付いた。
「え…――」
リーマは一瞬我が目を疑う。そこにいたのは近衛服のまま、黒髪から水をポタン、ポタン、と滴らせていたライだったのだ。
「ライ…?」
驚いて確かめるようにゆっくりと近付くリーマの声に、ピクリと反応すると、ライは憔悴しきった疲れた顔を向けて見上げる。
「リーマ…」
「やっぱり…良かった、討伐から無事に帰って来たのね…!でもどうして近衛服のままなの…?」
「…突然来てすまない。迷惑だろうとは思ったんだが、一人になりたくなくてついここに…」
そう言って立ち上がったライを見るなり、リーマは〝ひっ…〟と短く悲鳴を上げた。ライの近衛服が鮮血で染まっていることに気が付いたからだ。
「服に血が…っどこか怪我をしているの!?」
「いや違う、この血は俺のじゃない…トゥレンのだ。俺は…怪我はしていない。」
「トゥレン、さん…トゥレン・パスカムさん?『双壁』の…?」
酷く辛そうに表情を曇らせ目線を落としたライに、リーマはそれ以上聞かず、〝とにかく中に入って〟と鍵を開けて促した。
ライが先に部屋の中へ入るとリーマは周囲を見回し、誰もいないことを確認してから扉を閉めてすぐにカチャリと鍵をかける。
近衛服姿のライがリーマの部屋を訪れていると知られたら、騒ぎになるかもしれないからだった。
「大丈夫?濡れたままじゃ風邪を引いちゃう。なにかあなたが着られるものがあれば良かったんだけど、男物の服は持っていなくて…今お湯を沸かすから、すぐお風呂に入った方がいいわ。」
リーマはそう言いながら慌ただしくクローゼットから大きめのタオルを取り出すと、血に染まった上に雨に濡れた近衛服の上着と、その下に着ていたシャツを脱いだライに、急いで手渡そうとした。
ところがライはそのリーマの腕を掴んで強く引き寄せると、そのまま激しく口づけをしてベッドにドサリと押し倒した。
「っ…ライ…」
ライはリーマが衝動に駆られた自分を一切拒まず、濡れて冷え切った背中に手にしたタオルごと優しく腕を回してくると、その包み込むような温もりに甘えて彼女の身体を貪り始めた。
リーマの衣服をもどかしげに脱がし、その滑らかな素肌に触れながら、ライはここへ来る直前にいた王都立病院での出来事を思い出していた。
担架に乗せられて救護班の兵士達に病院へ運ばれたトゥレンは、バイトラス・カッターのブレードに左の脇腹を貫かれ、出血多量でもう既に意識がなかった。
ライとイーヴの呼びかけにも反応を示さず、すぐに手術室で緊急処置が施されることになり、二人はそれを見送ると呆然としてその場に立ち尽くしていた。
「なぜだ…なぜ俺を庇ったりした、トゥレン…俺はおまえ達部下に、自分の命を落とさないよう細心の注意を払えと言ったはずだ…っ」
病院の手術室前の壁に手を付き、悔しげに歯を食いしばると、ライは絞り出すような声でやっとそれだけを口にした。
「…ライ様がご自分の生命を顧みず、子供を守ろうと飛び出された。…それと同じです。あなたにとって守るべきものがあの少女だったように、トゥレンに…いえ、我々にとって守るべき御方はあなたなのです。」
〝だからトゥレンは迷わずにただ、ライ様を守ろうとした。…理由はそれだけです。〟
イーヴは静かにそう言った。
――そんな言葉で納得できるか?俺はイーヴやトゥレンにこれまで一度も優しくした記憶がない。
それどころかいつもあの男の飼い犬と蔑み、なにを言われても反発して怒鳴り散らしていただけだ。
ライはこれまでの自分の態度を思い出し、最後に見たトゥレンの優しげな黄緑色の瞳に胸を締め付けられる思いがした。
「俺は、おまえ達にそんな風に思って貰えるような…大層な人間ではない。いつだって自分のことしか考えていないんだ。そんな俺を庇うなんて…トゥレンは馬鹿な奴だな。」
そのままイーヴを病院に残して外に出ると、雨の中ライはリーマの家までふらふら歩いて来たのだった。
押し寄せる自責の念と後悔に痛む心が潰されそうになりながら、声にならない思いを抱き、それらを振り払うように夢中で…何度も何度もリーマに口づける。
そんなライの熱を帯びて行く鍛えられた身体に触れられ、リーマは心から喜び、恋い慕う胸の内を繰り返し囁き続けた。
耳元で吐息と共に甘く紡がれるその言葉は、ずきずきと疼くライの心を満たし、身体の隅々まで染み渡ると…冷えた身体をさらに内側から激しく熱して行くのだった。
一頻りリーマの自分を思う愛情に溺れた後、癒やされて安らぎライは落ち着きを取り戻した。
あの日手放し難いと思いながらも、諦めて離れた温もりを今腕の中に抱き、鼻先を擽る柔らかな髪から甘く漂う香りに、回した手にもきゅっと力が入る。
静まりかえった室内に、窓を叩く雨の音だけが響いており、少しずつ日暮れが近づき暗くなった部屋の中、ベッドサイドの小さな明光石を灯すと、ライとリーマは身を寄せ合い、暫くの間なにも話さずに互いの顔を見つめていた。
やがてリーマがライの前髪を掻き上げ、そこから自分を真っ直ぐに見る左右色違いの瞳を見てぽつりと呟いた。
「ライ…あなたのその瞳…この前初めて気付いたけれど、左右異なる色をしているのね。ずっと遠くからしか見たことがなかったから、知らなかったわ。」
「ああ…この瞳が珍しいか?」
掻き上げられた前髪を下ろし、隠すように手で右目を覆ったライを見て、リーマは戸惑う。
「ごめんなさい…もしかして瞳のことを聞かれたりするのは嫌だった?」
「別に謝ることはない。… "ヴァリアテント・パピール" と言うんだそうだ。俺の母方の血筋で男だけに現れるそういう遺伝があるらしい。」
「お母さんの血筋なの…でもせっかくそんなに綺麗な緑色の瞳をしているのに、どうして前髪で隠すの?…勿体ないわ。」
リーマにそう言われ苦笑しながらライは答える。
「綺麗な緑色の瞳か…普段はそうかもな。だが時折光の加減なのか、異様に紅く光って見えることがある。俺は…この瞳が嫌いなんだ。」
――ライは自分が元は亡国ラ・カーナのヘズルという町にあった孤児院で育ち、被災して国がなくなった後に移り住んだ街でこの瞳が原因となり、散々不愉快な思いをして来たことをリーマに打ち明ける。
当時通っていた学校に馴染めず、好んで一人過ごしていた時期があったこと、その頃近所に住んでいた中流家庭の子供が揶揄い、なにかと絡んで来て鬱陶しかったことなどを語った。
そしてこの瞳がとても珍しく、極限られた血統にしか現れないことから、孤児だったライの母方の生まれである『証拠』として扱われ、エヴァンニュに連れて来られる切っ掛けになったことを話した。
「鏡を見る度にそういった色んなことを思い出すから、それが嫌で隠している。血筋だなんだそんなもの、知らないでいた昔の方が余程幸せだったからな。」
リーマから視線を逸らし、目を天井に向けて呟くようにライは言い放った。
「そんな事情があったのね…余計なことを聞いてごめんなさい。」
「いや…ああ、そうだ、今度会ったらおまえに渡そうと思っていたものがあるんだ。気に入ってくれると嬉しいんだが――」
ライは無造作に脱ぎ捨ててあった衣服のポケットから、無限収納のカードを取り出すと、貴重品のリストを探ってなにかを取り出した。
リーマはライの無限収納を見て驚き、ライが守護者の資格を持っていることを知りさらに驚いていた。
そのライが取り出したのは、リーマと出会った日に商業市で買ったラカルティナン細工のペンダントだ。
「とても綺麗なペンダントね…台座にこんな細かな細工が施されているのは、初めて見たわ。」
ライの手の上で輝きを放つそれを覗き込み、リーマはほう、と小さく息を吐いた。
「ラカルティナン細工のペンダントだ。この宝石は緑紅石<アレキサンドライト>と言って、光の加減で色が変化する。昔孤児院にいた頃…母親代わりだったシスターに、俺の瞳はこの宝石の輝きに似ていると言われたことがある。リーマ、これを貰ってくれないか?」
そのままリーマの首にペンダントをかけようとしたライの手を、リーマは慌てて止めた。
「ま…待ってライ、こんな高価そうなもの受け取れないわ…!」
「なぜだ…気に入らないか?」
「ううん、そうじゃなくって――」
「だったら受け取って欲しい。俺の故郷の数少ない思い出を映した、俺が大好きだったラカルティナン細工なんだ。おまえなら大切にしてくれるだろう?」
「ライ…」
ライが大好きだった、と聞いてリーマは困った顔をする。そのリーマの首にペンダントをかけながら、ライはまた優しくキスをした。
「――急に来てすまなかった。俺はそろそろ城へ帰る。…明日また午後に少し会いに来てもいいか?」
部屋の前に座り込んでいた時より少し元気を取り戻した様子のライに、リーマは「嬉しい、待ってる」と返して微笑んだ。
上にはまだ濡れたままのシャツだけを着て、近衛の上着は手に持つと、ライはリーマの部屋を出て行った。
そのライを見送った後で、リーマは小さく溜息を吐く。
「こんな高価なペンダント…私には不釣り合いだわ。」
首にかけられたペンダントを見つめて、王宮近衛指揮官であるライの地位やお金目当てで思いを寄せている、と思われたくない。リーマはそう心配していた。
変異体の討伐に出た近衛隊に、血に染まった制服で帰って来たライ…そのライは憔悴しきった顔で付着した血液がトゥレンのものだと言った。
そのことからリーマは、双壁の一人であるトゥレンの怪我がライを庇うかなにかして負ったのではないかと推測していた。
それもおそらくはかなりの重傷で、命の危険があるのかもしれない。だからライは慰めが欲しくて自分の元を訪れたのだろう、と…
――ライはとても優しいけれど、私は彼に愛されているわけじゃない。…当たり前よね、まだたったの二回しか一緒の時間を過ごせていないんだもの。
それでもリーマはライが辛い時にここを訪れて自分に触れ、孤児だった過去の身の上を語り、多分誰も知らないような瞳についての思いも話してくれた。
それだけでも十分、胸が一杯になるほどの幸せを感じていたのだった。
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