48 隣り合う世界 後編
ルーファスに具現化してもらい、保護対象の信号を目指してアテナは走る。なぜなら、アテナにはその信号が誰なのか、心当たりがあったからだ。一方その間、先を進んだルーファス達が辿り着いた転送陣の部屋で、そこにあった神秘的な泉のクリスタルが光り輝いた。驚くルーファスでしたが…?
【 第四十八話 隣り合う世界 後編 】
――アテナは走る。霧のような白い靄に煙り、鬱蒼としたメク・ヴァレーアの森の道なき道を、飛ぶように、滑るように。その身体は羽根のように軽く、風に靡くラベンダーグレーの髪からは、時折残像のような光の粒子が、煌めきながら拡散していた。
もしここに他の誰かがいたら、彼女のあまりの美しさに、森の妖精か異界の精霊かと見紛うことだろう。
一直線に最短距離を行き、疾走するアテナの両手に握られているのは、輝く輪の形をしたチャクラムという武器だ。それは近距離では剥き出しの刃のように敵を斬り、遠距離では投擲武器となり空を切り裂いてそれを薙ぐ。
この武器はウェンリーのエアスピナーを見て、アテナ自身が閃き創り出した、魔力製の武器だった。
彼女がルーファスから離れて魔物と戦うのは、これが生まれて初めてだ。…にも拘わらず、彼女のそれは百戦錬磨のごとく敵の攻撃を寄せ付けず、複数体が相手でもまるで舞い踊るかのように殲滅し、補助魔法すら必要としなかった。
ザザザザ…ッ
葉擦れの音を立て足元の草を散らしながら、急ぐアテナは思う。
保護対象の点滅信号まであと少し…確証もなくお仕事中のルーファス様を動揺させてはいけないと、このような手段を選びましたが、ルーファス様が私の単独行動を許してくださって良かった。
私の推測が正しければ、この先にいるのはきっと――
「――やはり…!!」
あっという間に距離を詰め、信号が指し示すその場所に駆け付けたアテナの目に飛び込んで来たのは…
「だめえっ!!!ウェンリー様…っっ!!!」
ヴァレーア・マンティスの右腕にある鋭いブレードに、身体を貫かれそうになっていたウェンリーの姿だった。
ガキィィィンッ…
アテナはその手を伸ばし、ウェンリーにルーファスのものと同様の絶対障壁を張ると、純白の闘気を全身に纏って魔物に突っ込んで行く。
ヴァレーア・マンティスと三体のタイラント・ビートルに囲まれ、足を怪我したために逃げることも出来ずにいたウェンリーは、突然光を纏って目の前に現れたアテナに驚いて声を上げた。
「あ…アテナ!?」
アテナの猛攻は凄まじく、ウェンリーへの攻撃をディフェンド・ウォールで無効化したと思った次の瞬間には、物理攻撃に強いはずのタイラント・ビートルをチャクラムの回転攻撃で次々薙ぎ払い、投擲して戻って来たそれを掴むと、空中に飛び上がり、ヴァレーア・マンティスの首と両手のブレードを上から一瞬で叩き落とした。
ドサドサドサンッ…ドサッ…
ウェンリーが瞬きをする間もないうちに、絶命した魔物が周囲に屍となって転がる。
直後、地面にぺたりと尻を付き、足を投げ出すようにしていたウェンリーの前に、アテナは息一つ乱さず背を向けて立っていた。
「―…えー…アテナ、強すぎ…。」
自分は苦労して戦っていたのに、と一瞬で戦闘が終わったことに、ウェンリーは思わずそう漏らす。
「…っ…ウェンリー様…っ!!」
そんなウェンリーの方にアテナはくるりと向き直ると、無事だったその姿を見て今にも泣き出しそうに顔を歪ませる。
…と次の瞬間、服が土で汚れるのも厭わずに、地面に膝をついてウェンリーに抱き付いた。
「ええっ!?わ、わわ、ちょ…っアテナ!?」
ウェンリーの二十三年間の人生で、可愛い女の子に抱き付かれたのはこれが初体験だった。当然どうしていいのかわからず、その手はやり場に困って宙を彷徨い、顔は狼狽えて耳まで真っ赤に染まった。
「間に合って…良かった…!ウェンリー様がお一人でこんな危険な場所まで、ルーファス様を追って来られるなんて…なにかあったらどうするおつもりだったのですか…!?」
涙を滲ませた薄紫の瞳でアテナはうるうるとウェンリーを見上げる。その殺人的な可愛さに、ウェンリーはアテナを直視できず、真っ赤に汗を掻きながら慌てて顔を逸らした。
「や…え、えーとそ、それは…ご、ごめん…まさかアテナが、また実体化して、き、来てくれるなんて…でもアテナ、俺がここに来たことがなんで…わ、わかったんだ?」
≪やややべえ、アテナ、アテナが近くて超可愛い…!!落ち着け、俺…!!≫
「いつもの詳細地図に緑の信号が現れたからです。緑の信号はルーファス様の保護対象を示すもの。それがウェンリー様だという証拠はありませんでしたが、私はあなたである可能性が高いと判断しました。それでルーファス様にお願いして具現化していただき、ここまで走って来たのです。」
「…ってことは、ルーファスも俺が追っかけて来たって知ってんのか!?」
「いいえ、ルーファス様にはあなたである可能性を告げておりません。今は守護者のお仕事中ですし、ウェンリー様がヴァハを出られたことさえも、ルーファス様は御存知ありませんから。」
「そ、そうなのか…ん?ってあれ?ルーファスが知らねえのに、その口振りじゃあ、アテナは俺が村を出たって知ってたのか?え、なんで?」
ウェンリーにそう尋ねられたアテナは、リカルドを尋ねて来たスカサハ、セルストイの二人とリカルドの会話が、部屋のドア越しでルーファスには聞こえなくても、アテナには聞こえており、その内容がウェンリーがルーファスを追ってヴァハを出たようだ、という報告だった、と話す。
それを聞くなり腹を立てたウェンリーが右手の母指の爪を噛む。
「…なんだそれ…、あの野郎俺に監視なんか付けてたのかよ…!?」
「ウェンリー様の監視かどうかはわかりませんが、ヴァハの様子を覗うなり、なにかしらの理由で自らの手の者に見張らせていたのは間違いないでしょうね。」
「ちっ、やっぱいけ好かねえ野郎だ、信用出来ねえ。」
〝それは私も同感です〟とアテナは真剣な表情でウェンリーに頷く。
「まあいいや、あの野郎への文句は直接言うとして、アテナ、助けに来てくれてありがとうな。女の子に救われるなんて情けねえけど、助かったよ。」
ばつが悪そうに、まだ赤い顔をしたままそう言って笑いかけると、ウェンリーは右手で頭の後ろの辺りをボリボリと掻く。
そんなウェンリーの顔を見て、アテナは心から嬉しそうに「いいえ、どういたしまして」と微笑んだ。
「おし、そんじゃルーファスのとこに案内して貰えるか?確かヴァレーア・スパイダーの巣から行ける遺跡に行ったんだよな?」
「はい、そうです。よく御存知ですね…?」
「うん、ギルドでフェルナンドに会ってさ。あいつに――」
「Aランク級守護者のフェルナンド・マクラン氏でしょうか?そう言えば今朝、ルーファス様と簡単な挨拶を交わして…」
「いてっ!!」
「ウェンリー様!?」
立ち上がろうとしたウェンリーが、突然がくりと崩れ、膝をつく。
「足にお怪我を!?見せてください!!」
「あー、大したことねえんだけどさ、さっき捻っちまって…そんで思うように動けなくなっちゃったんだよな。」
「軽い捻挫のようです、すぐに治癒魔法で治療しますね。じっとしていて下さい。」
「ん、悪いな、アテナ。」
アテナはにっこり笑うと治癒魔法『ヒール』を唱えた。捻挫程度の怪我なら、この治癒魔法で瞬時に治せる…はずだった。
「――…え……?」
アテナの掌から、淡い緑色の光がウェンリーの怪我をして腫れている部位に放たれる。…がなぜかその手応えが異常に少ない。
「アテナ?どした?」
「い、いえ…なんでも、ありません…。」
アテナはウェンリーに気付かれないように平静を装ったが、その表情が硬く強張って行く。
≪…どうして…?この違和感…それに、この治癒魔法の回復の遅さは…まるであの時と同じ――≫
――通常ならば一瞬で治るはずのウェンリーの怪我が、アテナの治癒魔法で完全に治るまでにかなりの時間を要した。
「お、お待たせしました、これでもう大丈夫だと思うのですが…いかがでしょう?立てますか、ウェンリー様。」
不安げな表情でアテナはウェンリーを見る。
「おお、もう痛くねえ!さっすがアテナ、ありがとな。よっしゃ、これで問題なくルーファスを追えるぜ!!」
そんなアテナの表情にウェンリーが気付くことはなく、しっかりと地面を踏みしめて立ち上がると、元気にアテナと二人、ルーファスの元を目指して歩き出すのだった。
――泉の上のクリスタルが…青緑の強烈な光を放っている。それは時折瞬くように部屋全体の壁を同色に染めながら、さらに水面に反射して揺らぎ、まるでこの場所だけ他とは異なる空間に変わって行くようだ。
と同時に泉から溢れるように大量の霧が湧き出し、室内に満ちてその光を少し和らげくれた、と思ったら…俺の耳に声なき声が聞こえ始めた。
…誰かが、俺を呼んでいる…?
初めは布か壁越しに呼びかけてでもいるように、その声は曇っていて、どこから聞こえて来るのかもわからなかった。
でもそのうちその声は少しずつはっきりとして来て、優しく、囁きかけるような女性の声で、俺の名前を繰り返し呼んでいるとわかった。
「――誰かが俺を呼んでいる…泉の方からだ。」
誰かにそうしろと言われたわけじゃない。だけど俺は、その声が聞こえる方向に足を踏み出し、そうするのが然も当然のように泉に入った。
青緑の細かな光る粒子が集まってくると、徐々に俺の身体が透け始める。
「ルーファス!?あなたの身体が透けて…!!」
リカルドが顔色を変え俺の腕を掴もうと手を伸ばした。…が、その時にはもう俺の身体は "こちら側" に来ていた。
リカルドの手は透けて薄くなっていた俺の腕を素通りし、何度掴もうとしても空を彷徨う。
「ル、ルーファスさん!?」クレンさんも青ざめて俺に手を伸ばす。
「掴めない…どうして!?」
『大丈夫だ、誰かに呼ばれているから、ちょっと行って来る。シルヴァン、少しの間頼んだ。休憩所でみんなと待っていてくれ、すぐに戻る。』
俺は声が聞こえる後方を気にしながらそう告げる。俺自身が全く慌てていないように、シルヴァンもなにが起きているのかわかっていたのか、全く慌てる様子がなかった。
『うむ、わかった。マルティル様によろしくな。』
『ああ。』
シルヴァンが口にした『マルティル様』とは誰のことなのかわからなかったが、俺の意識は既に呼び声に集中していて、ただそう返事を返すと、そのまま濃霧に包まれて一切なにも見えない世界に踵を返して走り出した。
「待ってくださいルーファス、行くってどこへ…!?」
今度はリカルドの声がくぐもって背後に遠く聞こえる。不思議なことに泉に浸ったはずの俺の足元は一切水に濡れていなかった。
あの泉に触れた瞬間、こちら側に来た、ということなのかな。
軽く走りながら俺は思う。俺は自分が何処へ向かっているのか、この先がどこなのか、知っているような気がした。
僅か数分で霧の世界を抜け出し、突然周囲が明るくなる。
眩しさにほんの一瞬目が眩み、その光を手で遮ると、すぐに慣れた俺の目にはフェリューテラと全く異なる景色が映っていた。
「こ…こは――」
そこは暖かな光と、鮮やかな緑が満ちて限りなく広がる…別の世界だった。
「いやあああっっ!!!」
「うおっ!?」
今の今まで笑顔で俺と話し、ルーファスの後を追って普通に森の道を歩いていたのに、アテナが突然悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
な、なんだ、どうした!?魔物か!?…と思ったけど、アテナの様子がおかしい。
尋常じゃないくらいにガタガタと震え、その顔色も青ざめて血の気がねえ。いや、元々肌は真っ白で陶磁器みてえに透き通ってたけど、今はそれが青みがかってるんだ。
普通は気安く女の子の身体に触るもんじゃねえって、俺にだってわかってる。けどそうも言ってられねえほどに、アテナの状態はおかしかったんだ。
俺はアテナの肩を掴んで軽く身体を揺さぶった。
「アテナ…!?どうしたんだよ?なあ!」
歯の根が噛み合わないほどに唇を震わせ、アテナは小さく吐き出した。
「ルーファス様が…ルーファス様が…消えて…消えて、しまいました…!」
縋り付くような瞳で俺を見て、腕に痛いほどしがみ付く。
「ルーファスが?消えた?まさか。いつものあれとかじゃなくてか?」
「違います!あの現象はもう私が制御しているのでほぼ起きることはありません。そうではなくて、私との繋がりさえ断たれて、ルーファス様が、完全にフェリューテラから消えてしまわれたのです…!!ルーファス様がどこにもいなくなってしまった…!!」
俺から見るにアテナは完全に恐慌状態に陥ってるみてえだった。
「いやあ!いやです、ルーファス様…アテナを、アテナを置いて行かないで下さい…!!あなた様を失ったら、アテナは生きて行けません…!!ルーファス様…ルーファス様…っっ!!!」
「落ち着けアテナ!!落ち着けって!!」
泣き叫んでめちゃくちゃに頭や上半身を振るアテナを、落ち着かせるために一旦ぎゅっと抱きしめる。あー、決して下心からじゃねえからな!?
「ひっく…ひっ…」
「大丈夫だから。な?まだルーファスになにが起きたのか、確かめたわけじゃねえだろ?だからちょっと落ち着こうぜ。」
腕の中で泣きじゃくるアテナは子供みたいで、不謹慎だけどなんとも言えずに可愛かった。
そのままほんの1、2分だったけど抱きしめていたら、ようやくアテナは少し落ち着きを取り戻した。
「も…申し訳ありません、取り乱してしまいました。ルーファス様から離れて行動したのはこれが二度目で、ルーファス様の存在を私が感じられなくなることなど初めてだったものですから…どうしたら良いのかわからなくなってしまいました。…恥ずかしいです。」
頬を赤らめて俯くアテナに俺の心臓はズキュン!!と打ち抜かれた。くうううっっ!!!アテナ…可愛い可愛い可愛いぜえええっっ!!!
「き、気にすんなよ。それよりルーファスの存在が感じられねえって、どういうことなのか歩きながら説明してくれよ。」
俺は立ち上がるとアテナの手を引いて立たせ、またルーファス達がいるはずの場所に向かってアテナと歩き始める。
ルーファスとアテナは、魂の奥底で深く繋がっているとアテナは言う。それはたとえて言うなら、母親の胎内でへその緒が繋がっているようなものらしい。
俺はここで初めてアテナが生まれた時のことを、アテナの口から聞くことになった。
アテナはある日突然、ルーファスが自分のために構築したという、自己管理システムの中に命を持って生まれた。
そんなことがあるのか、とルーファスにも聞かれたらしいけど、アテナには自分がそうやって生まれたということしかわからないそうだ。
とにかく肉体を持たない丸裸の『魂』の状態だったアテナは、自分を確立するための情報をルーファスから全て学んだ。
そのため、どんな時でも同じ物を見て、同じ物を聞き、同じ物を感じて来たのだ。
けどそのことはAthenaが『アテナ』となって以降、少しずつ微妙に食い違い始め、今ではルーファスの中にアテナが知ることの出来ない部分があったり、逆に外から入る情報の中に、アテナは知ることが出来ても、ルーファスが気付かない、と言うようなことが起きるようになった。
その変化にアテナは少し前から戸惑い、悩んでいたみてえだ。
Athenaが『アテナ』となってから。…それは、王都で戒厳令の発令中に、ルーファスがアテナと二人で交わした会話に端を発する。
ルーファスはアテナに、アテナが生命体なのかどうか質問したらしい。そうしてアテナが本当にルーファスの中で "生きている" 存在だと理解すると、アテナを自分の中にいる補助的な物として利用するんじゃなく、個の生命体として扱うことを決めた。
それは当たり前だけど、ルーファスはアテナを、最終的に自分から独立させようとしているんだと思う。
アテナがルーファスから独立すれば、当然だけどルーファスの中にいた時とは違って、なにもかもルーファスと同じように見て触れて、感じるようには生きられない。
多分そのことをアテナは良くわかっていないんじゃねえかと思う。
まあそれでも今は、アテナが本当に自分の身体を手に入れたわけじゃなく、あくまでもルーファスが具現化した仮の身体で行動しているに過ぎねえ。
その理屈で考えると、ルーファスの存在を急に感じられなくなるっつうのは、やっぱりあいつになにかあったってことなのかもしんねえな。
不安気に怯えるアテナに、俺は精一杯寄り添う。大丈夫だって、ルーファス達と合流すればなにがあったかもすぐにわかるさ。
ただ問題は、アテナがルーファスの中にすぐに戻れねえのと、俺がそのアテナを連れて行くこと、そんでもって途中参加の俺が、ルーファスのパーティーに入れて貰えるのか、ってことだな。だってさ、リカルドが絶対猛反発すんだろ?
アテナはリカルドの野郎に、自分の存在をずっと隠しておきたかったみてえだし、うーん、守護者になった俺が、アテナとパーティーを組んでここに来た、ってんじゃちょっと苦しいか…。
まあそこはシルヴァンにささっと相談してみるかな。まあいいや、後は全部そこに辿り着いてからだ!!
俺とアテナはあっさりと遺跡を抜け、地下迷宮とやらに入り込んだ。
――ここは、どう考えてもやっぱり、フェリューテラじゃないよな。…もしかして、ここが異界…?
俺が立つ小高い丘の上から、遙か遠くに、聳え立つ一本の巨大樹が見える。その葉は空を覆うほどに青々と茂り、枝葉を遠くまで伸ばしていた。それなのに太陽のような光は遮られることがなく、春の日差しの中にでもいるように、辺りに生き生きと育つ木や草花などの植物が、燦々と日差しを受け揺れていた。
その周囲に飛び回るミツバチや様々な種類の蝶に虫たち。フェリューテラではもうあまり見なくなった光景がここにはある。
その巨大樹からは虹色に輝く、限りなく優しいそよ風のようななにかが広がっており、それがこの世界全体を満たしているようだった。
澄んだ空気に、嗅いだことのない甘く、清々しいミントシュガーを入れた紅茶ののような香りがする。
足元の小さな花からさえも溢れる命の息吹を感じて、俺は心が満たされるような幸福感を味わっていた。
ずっとここにいたい。…そう思ってしまうほど、俺にとってこの世界は居心地が良かった。
けれどもあの呼び声が俺を現実に引き戻す。
『ルーファス…』
その声は、はっきりと俺の名前を呼んでいた。
「…こっちかな。この先は森になっているみたいだけど…」
行ってみるか。
歩き出して丘を下り、森に足を踏み入れる。ここは普通の森と違って木々の葉が生い茂っているのに、とても明るい。新緑の緑の香りが爽やかで、頬を撫でる風までもが優しく俺に触れて行く。
入り口から入って間もなく、目の前の木々がいきなり動いて行き先を示すように道を開けた。
木が動いた!?…違う、これはただの木じゃない…!!
「――トレント…!?森の木精霊、トレントか…!!」
知識として知っていても、実際にトレントの森を見たのは初めてだった。
それだけじゃない、目を凝らしてよく見ると、花精霊に土小人、妖精族までもが忙しなくそこかしこで働いている。
これだけの精霊族を見れば、俺にだってここがどこだかすぐにわかる。
間違いない、ここは精霊族が住む世界『精霊界グリューネレイア』だ。
そう理解した途端に、頭の中の情報が次々と更新されて行く。俺が目で見たものと、耳で聞いたものの情報が封印されていたデータベースを解除して行くからだ。
なるほど、神魂の宝珠の封印を解くだけじゃなく、実際にそこへ行くことでも情報は更新されるのか。
足元をちょこちょこと走り回る『クレイリアン』を踏まないよう、細心の注意を払いながら進むと、アーチ状にピンク色の蔓薔薇が咲き誇る、樹木の塀に囲まれた門の前に辿り着いた。
そこに立っていたのは、金髪ではなくオレンジがかった黄色の髪に尖った長耳、全身薄く緑がかった肌に、白い花びらの形の模様が浮かぶ、蔓植物で編んだ鎧と兜を身につけて槍を手にした、衛兵らしき精霊達だった。
俺が門の前に立つと、彼らはビシッと背筋を伸ばし、ドン、ドン、と二回、槍の柄を地面に打ち下ろして鳴らした。
それが合図だったかのように、俺の前に赤い目と青スミレの様な髪色の少年が姿を見せた。
「ようこそおいで下さいました、守護七聖主さま。私、妖精族のリーフがご案内致します。マルティル様がお待ちです。どうぞ奥宮へお進み下さい。」
彼は俺がここに来るのをわかっていたかのように、そう言ってお辞儀をすると、俺に先へ進むよう促した。
「あ、ああ…ありがとう。」
先ず俺が通されたのは、色とりどりの草花が咲き乱れる、花の宮殿だ。全て建物に使用されているのはなにかしらの植物で、床から壁、天井から階段、その全てが植物で建てられていた。
これだけ草木が生い茂っていれば、ジャングルのように鬱蒼としがちになりそうなのに、その配置や飾りに生え方植え方が絶妙で、不思議と鬱陶しさを感じない。
床下や柱には常に水でも流れているのか、少しひんやりとした空気が流れ、あちこちから微かにせせらぎの音が聞こえている。
リーフの後について行くと、俺は緑色に光る転送陣の部屋へと案内された。そこから彼に続いて別の場所に転移すると、そこはあの遠くに見えていた巨大樹の根元だった。
ふかふかのタンポポに似た黄金色の絨毯が敷き詰められ、その綿毛を利用した光球が宙に浮いて辺りを照らし、壁には黄緑色の蔓と赤、ピンク、黄色、白、青の薔薇が咲き誇る、大樹の洞を利用した大広間。
その奥にあるカトレアの花が飾られた玉座に、その女性は座っていた。
透き通った藍色の髪に、真っ白い百合の花冠を身につけ、真珠色の肌に薄桃色の唇、水色の輝く慈愛を含んだ優しげな瞳で、虹色の光沢のあるロングドレスのその女性は俺を見た。
「ああ、ルーファス…無事だったのですね…!!とても永い間あなたが精霊の泉に触れることはなく、世に流れる噂の通り、あなたがフェリューテラを見限り、姿を完全に消してしまったのではないかと思っていました。」
その女性は目に涙を浮かべて俺の元へと近付いて来た。
俺が…無事?噂の通りフェリューテラを見限って姿を消した…?…どう言う意味だろう。第一、この女性は…誰なんだ?
「――俺を呼んでいたのはあなたですね?ええと…すみません、失礼ですが、あなたは俺とどういった関係の知り合いですか?」
俺にとって当たり前のこの質問に、この広間にいた全員が凍り付いた。
「…ルー…ファス?まさか、私が誰なのか…わからないのですか?」
その女性は、一瞬で青ざめ、酷く悲しそうな顔をした。
俺は自分が殆どの記憶を失っていることと、ここが精霊界グリューネレイアだろう、と言うことが知識としてわかっても、全くこの世界を覚えていないことを話した。
「いったいなぜそのようなことに…?森羅万象に通じ、万物を司るあなたが、記憶を失うなどあり得ません。大きな怪我を負った、と言うのも私には信じ難いことです。少なくとも、あなたに瀕死の重傷を負わせることが可能な者など、たとえ暗黒神の眷属と言えども、そうそう存在するはずがないのですから。」
――暗黒神の眷属…つまり『カオス』か。この人は…俺についてどこまで知っているんだろう?
「あなたは、俺がどう言う存在で、どこから来た何者なのかを知っているんですか?もしそうなら、教えて下さい。」
「私もあなたの全てを知っているわけではありません。ですが、一つだけ…あなたが不老不死であることと、その理由は存じています。」
「俺が不老不死である理由を、知っている…!?教えて下さい、俺はなぜ不老不死なんですか…!?」
この人は俺が不老不死であることと、その理由を知っている…!?
俺はまだこの人が誰なのか、俺とどう言う関係なのか、その答えを聞く前に、思いも寄らなかった言葉に詰め寄った。
「ルーファス、あなたはこの世の全ての生命の源である、『霊力』そのものの存在なのです。」
次回、仕上がり次第アップします。いつも読んでいただき、ありがとうございます!




