03 託された願い
守護者になりたいから魔物との戦い方を教えて欲しい、と言い出したウェンリーを、ルーファスは話も聞かずに部屋から追い出しました。その結果ウェンリーは無謀な行動に出て、ヴァンヌ山に独りで入ってしまいます。青ざめたルーファスはその後を追いかけ、必死にウェンリーを探しますが…?
はあ、はあ、はあ、はあ…
――今、俺に聞こえるのは、自分のもう大分上がって来た息遣いと、風の音、地面を蹴る足音と、枝葉を踏みしめ分け折る、ザザ、とかバキッ、とかいうそんな音だけだ。
ウェンリー…どこだ、どこにいる…!?
俺は登山道に入ってから手当たり次第に、自分が普段魔物を狩るのに利用する場所や、ウェンリーとよく訪れる場所をその姿を探して走り回っていた。
≪…だめだ、この辺りにも形跡がない…いったい、どこまで行っているんだウェンリー…!!≫
あちこち走り回り、もう四合目まで登って来た。それなのに未だウェンリーの痕跡をなにも見つけることが出来ず、不吉な考えと焦りだけが募っていく。
今の俺は、普段なら襲って来ない限りやり過ごすような、低ランクの魔物にさえも苛立ち、目に付く端から屠っている。
そんなことをしたところで殆ど意味はないのだが、それでも少しでも魔物を狩り、ウェンリーがそれらに出会す可能性を減らしたかった。
再び移動を始め、額から止めどなく流れて来る汗を腕で拭うと、近付いて来る魔物の気配を感じてすぐさま剣を抜いた。
素早く身を屈めて、相手に気付かれる前にこちらから攻撃を仕掛け、不意打ちで次々と仕留めて行く。気配だけで先制攻撃を仕掛けたため、倒すまでその魔物がなんなのか俺自身わかっていない。
いつもなら体力の消耗を考え、相手を確認してから最少攻撃回数で倒せるように弱点を狙うのに、今の俺はそんな悠長なことをしていられる気分じゃなかった。
気付けば蜂型虫系魔物『ヴァンヌ・ビー』が二体と兎型魔物『ツノウサギ』が二体、地面に転がっていた。共にFランクの最弱魔物に分類される。ここに来るまでの間、ずっとこんな風にしてもうどれだけの数、魔物を倒して来たかもわからなくなっていた。
俺は魔物に生きているものがいないことだけを確認すると、そのまま草叢に死骸を放置してまた山道へと戻った。
――落ち着け…冷静になれ。こんなことを繰り返していたら、ウェンリーを見つける前に俺が大怪我をする。そうなったら万が一ウェンリーが魔物に襲われていてもきちんと対応できないだろう…!俺が自分を見失えば、それはウェンリーの死にも直結するんだ、だから頭を冷やさないと…!
そう自分に言い聞かせながらまた流れてくる汗を腕で拭うと、さっき倒した魔物の血がべっとりと頬に付く。いつの間にか服が返り血で酷く汚れていた。
俺の記憶にある限り、ここまで冷静さを失ったのは、これが初めてのことだった。ウェンリーにもしものことがあったら、と思うだけで、胸の奥がざわついて不安が首を擡げ、頭の中が掻き乱されてしまう。…泥沼だ。
それでもどうにか二、三度、自分で自分の頬を強く引っ叩くことで、こんなに探しているのに、どうしてウェンリーの痕跡が一切なにも見つからないのか、その理由を考えることが出来た。
――ここまでで訓練に向いた戦いやすそうな場所は全て見て回って来た。それでもなにも見つからないのはなぜなんだ?
〝なにかを見落としている。〟…そう思った。
俺は守護者だ。魔物と戦うことに慣れていて、ヴァンヌ山のどこでなら有利に戦えるかも良く知っている。だけどウェンリーは…?ウェンリーは違う、素人だ。俺と行動したことはあっても、一人で魔物を相手にしたことはないはずだ。
魔物との戦闘に不慣れなのだから、精々二合目から三合目辺りを彷徨くのが関の山だと思っていたけど…もしかしたら俺は、根本的に探す場所を間違えているのか…?
俺はもう一度よく考えてみる。ウェンリーの側に立って、ウェンリーの行動を予測して――
「…そうか、ウェンリーは無謀だけど馬鹿じゃない。山道を外れれば危険なんだと、普段から話して聞かせていたんだ、道を外れて動いたりはしないはずだ…!」
なぜそのことに気付かなかったのか…!
俺は急いで来た道を戻りながら、今度は登山道沿いを中心にウェンリーの痕跡を探してみた。すると山道脇の草叢の中に、解体されずにただ放置されているだけの、ウェアウルフの死骸を見つけた。
それを詳しく調べてみると、剣の傷とは異なるものの、なんらかの武器で繰り返し攻撃されて倒されたらしいことだけはわかった。
その疎らな傷の入り方から、少なくとも素人の戦い方に間違いない。そう確信して俺は声を失うほど吃驚した。
ウェンリーがこれを倒したのか…?
そうとしか考えられなかった。でもまさかウェンリーが、Dランクに相当するウェアウルフを、単独で倒せるほど戦えるとは微塵も思っていなかったのだ。
――ウェアウルフはここヴァンヌ山に出現する魔物の中でも、最も危険な種類だ。主に夜間に狩りをするため、昼間は動きが緩慢になるのだが、それでも仲間を呼ばれる前に短時間で倒すのは、行動を見極められないと難しい。
それは単に戦闘能力があるとか、天才だとかいう話ではなく、しっかりその行動特性が頭に入っていないと無理だ。
そのことから俺は、ウェンリーがただ単純に普段俺の後を付いて回っていたのではなく、魔物の行動についてきちんと覚え、いつか自分一人でも戦えるように学んでいたのだとようやく気が付いた。
「…昨夜俺は、きちんとあいつの話を聞くべきだったんだな。」
そうすればきっと、ウェンリーがこんな無謀な行動に出ることもなかったんだろう。
もしあいつになにかあったら…それはもう俺のせいだ。…そう悔やんでももう遅い。
――ウェンリーがなにを目的としてどこへ向かっているのかはわからないが、真っ直ぐに登山道を進んで行ったのなら、追いつけないはずだ。おそらくはもっと上を目指しているのかもしれない。
そこで俺はハッとあることを思い出す。
もっと上…!?まずい、六合目から先はここ最近手を回せていない…!!近隣の守護者も俺がいるのを知っているから、用がなければヴァンヌ山の魔物討伐には手を出さないんだ!!
俺は慌てて立ち上がり、今度は登山道を六合目の道標目指して全速力で走り出した。
魔物は定期的に狩ってその数を減らさないとすぐに増える。その生態も増加する仕組みも殆ど知られていないのだが、数が増えればそれだけ、その中から凶悪な新種などの生まれる確率が跳ね上がる。
だから長期間守護者の手が入らない場所は、その危険度も比例して跳ね上がり、周囲の環境も含め、どんな状態になっているのかを改めて調べなければ安全を確保できない。
俺はその調査を大体三ヶ月に一度位の割合で行っていた。ヴァンヌ山の六合目から先は、足場の悪い場所や戦闘に向かない地形が多く、時間をかけて回らないとならないために、毎日入るのは難しかったからだ。
今はちょうどその周期が近付いていて、近いうちに上の様子を調べなければ、と思っていた矢先だった。
再び必死に走りながら俺は祈る。頼むウェンリー…六合目から先には行くな。その先の様子は俺にもわからないんだ、危険すぎる…!
俺は心から何度もそう祈りながら、先を急いだ――
「――あのさ、おまえ…ルーファスのことはわかるか?」
ウェンリーは未だ、六合目の道標がある展望広場で銀色の狼を相手にしていた。
「銀髪の守護者で、いつもこの山に魔物を狩りに来てるだろ?そいつ、俺の親友なんだけどさ――」
ウェンリーは切々と語る。その場にしゃがんで、自分の膝を支えに両手で頬杖を付きながら。自分が今日、なぜここに来たのか。なにをしに来て、どこへ行こうとしていたのか。それは自分にとってとても大切なことで、なんとしてもその目標を達成し、願いを叶えたいのだと。
ウェンリーの今日の目標は、ヴァンヌ山の魔物を十体狩り、山頂手前九合目にある、蛙の形をした大岩…通称『蛙岩』まで一人で行って、無事に村へ戻ることにあった。その成果を突き付け、ルーファスを説得し、最終的にはきちんと話を聞いて貰おうと思っていたのだ。
そんなウェンリーの話を、銀色の狼は時折ぴくぴくっ、と耳を動かしながら、ただ黙って聞いていた。
但し、ウェンリー愛用のエアスピナーの上に、どっかりと腰を下ろしたままのお座りの状態で。
そうしてウェンリーは、一通り自分の事情を話して聞かせた後で、じとっと恨めしげな視線を狼に向け、目元をヒクヒクと引き攣らせながら叫んだ。
「…なあ、だからさ…いい加減、そこからどいてくれよっっ!!!」
ひょおぉ…と、ウェンリーと狼の間を、ヴァンヌ山の風が草葉を舞い上げながら吹き抜けて行く。
一寸の間を置いて、くああ〜、と狼は横を向き、大きな欠伸で返事をした。それはまるでウェンリーの頼みなど、まるっきり、完全に、無視するように。
「くっ…この野郎…ほんっとになんなの?おまえ…なんか俺に恨みでもあんのかよ…!」
どうしてこんなことに、としゃがんだままがっくりと項垂れたウェンリーは、なんだか情けなくなって泣きたくなった。
服を引っ張られ、倒された後で、なぜか武器の上に座り込んだこの銀色の狼は、ウェンリーが尻尾を掴んで引っ張ろうが、首を掴んで締め上げ体重をかけようが、全力での体当たりまで試してみても弾き返されて、とにかくビクともしなかったのだ。
だからウェンリーは、言葉を理解するのなら話して説得してみれば動くかも?、と思い、滔々と事情を語り続けて今に至っている。
そうして彼此もう一時間以上が過ぎていた。
「…なにしてんだ俺…これじゃ到底上まで行けそうにねえじゃんか…。」
≪ なんでこいつ、動かねえんだろ…?≫
そう思いながら大きく溜息を吐き渋面をし、半分諦めかけて不貞腐れたウェンリーの前で、突然銀色の狼がピクン、となにかに反応して耳を大きく動かした。
「…お?」
その様子にウェンリーは、ようやく動いてくれるのか、と期待する。
直後、銀色の狼は下へ向かう登山道の方に顔を向けると、瞳を輝かせてすっくと立ち上がり、その方向へと駆け出した。
えっ、そんなあっさり!?と期待通り動いては貰えたものの、ウェンリーは呆気に取られてそれを目で追うと、駆けて行く狼の先に登山道を上ってくる人影が見えた。
〝誰か来る〟そう気付いた瞬間、銀色の狼の姿が薄れて行き、人影に向かって駆けて行く格好のまま、空気の中に溶けて行くようにスゥッと消えてしまった。
「なっ…消え…――」≪ 消えた…!?≫
「うっそだろお!?」≪ まさか…お、お化けだったのか、あいつ!?≫
「ウェンリー!!!」
素っ頓狂な声を出して、あわわわ、と消えた狼に慌てるウェンリーの元に、息を切らせてルーファスが駆け寄って来る。
誰か来る、と思ったその人影は、ここまで必死に駆け上がって来たルーファスだったのだ。
なにがなんだかわからずに混乱したウェンリーは、どうして目の前にルーファスがいるのか、すぐには理解できなかった。
ほぼ休むことなくここまで全力で走ってきたルーファスは、汗だくの上に、顔には魔物の血が付いていて、服は枝にでも引っかけたのか、所々裂けたり破れたりしている上に、魔物の体液やら樹液やら泥やら草の汁やらで酷く汚れていた。
ゼエゼエと苦しそうに肩で息をしながら、前屈みに腰を折り、両手を膝の上に伸ばして上体を支えると、ルーファスは止めどなく流れる汗を拭いながら、やっとの思いで口を開く。
「――お…まえ、は…っ」
その背にはゴゴゴゴゴ…という聞こえないはずの豪音を伴い、怒りを通り越したその感情が目に見えそうなほど表に現れて灰色の渦を巻く。
普段優しく温厚なルーファスが、ウェンリーに向かってまるで羅刹か般若のように恐ろしい顔をしていた。
いくら銀色の狼が消えて混乱していても、物凄い形相で睨むボロボロの姿をしたルーファスを見て、さすがに状況を理解したウェンリーは、サー…っと血の気が引いて青くなった。
≪ ――や、…っべえ……ルーファスが、マジでキレてる……≫
「――――…」
やっとの思いでようやく見つけたウェンリーは、俺の怒りの気を目の当たりにして、たじろいでいる。当たり前だ、どれだけ心配したと思っている…!
だが…
良かった…青ざめてはいるものの、どこにも怪我はしていないみたいだ。
そう確かめた途端に俺は心底ホッとして、長い長い溜息を吐いた。
「――無事で…良かった、ウェンリー…」
おろおろと狼狽え、青ざめたウェンリーのその顔を見ていたら、なんだか俺は急に怒る気力が消え失せ、脱力してその場に座り込んだ。
「あ…ご、ごめん、ほんっとにごめん!!俺――っ」
するといきなり俺の前に土下座をして、ウェンリーは何度も何度も頭を下げ始めた。…一応悪いとは思っているんだな。
「…いくらなんでも無謀が過ぎるぞ、ウェンリー。万が一のことがあったら、どうするつもりだったんだ。」
怒鳴られるのを覚悟していたらしきウェンリーは、俺があんまりにも静かに話すものだから、なにを勘違いしたのか、あれ…あんま怒ってねえの?と失言する。
そんなわけがないだろう…!!
即座に俺は怒りを込め、無言でウェンリーをギロッと睨みつけた。瞬間、ウェンリーがひっ、と怖じ気づき、ごめんなさい!!と言ってまた額を地面に擦りつける。
「…だけどまあ、昨夜は俺も悪かったよ。おまえの話を聞こうともせず、一方的に腹を立てて部屋から追い出したからな。」
へ…?と変な声を出して、ウェンリーがなぜかポカンと口を開けて顔を上げた。
「…なんだよ?その顔。」
「いや、だってさ、おまえが折れるとは思わなかったから、びっくりして…」
「――言っておくけど、おまえが守護者になりたいというのに、賛成したわけじゃないからな。ただ自分のことを棚に上げて偉そうなことは言えないし、こんな思いをさせられるのはもう二度と御免なんだ。」
〝だから話だけは聞くことにする。〟これが俺の最大限の譲歩だった。
そう、譲歩であって、認めたわけでもなければ、戦い方を教えると言ったわけでもない、話を聞くと言っただけだ。
それなのにウェンリーは立ち上がり、まるでもう俺に許して貰ったかのような歓声を上げて、ひゃっほう!!と飛び上がって喜んだ。
そうして俺はまたウェンリーに負けた、と敗北を感じて苦虫を噛みつぶす。
ウェンリーは無事だったし、上がっていた息もすっかり落ち着いた所で、俺は服の汚れを払いながら立ち上がると、腰にぶら下げていたボトルの水を飲みながら、危険がないか確認のため今一度辺りを見回した。
「それにしてもおまえ、良くここから先に行かなかったな。もう三ヶ月近く上には行っていないから、どうなっているか俺にも様子がわからないんだ。もし進んでいたら下とは違って本当に危ないところだったんだぞ。」
俺は本当に感心してそう思っていた。自分の実力をきちんと把握して、複数体の魔物を相手にしなかったことと言い、山道を外れずにここまで辿り着き、無謀ながらもすれすれの所で危険地帯には足を踏み入れなかったのかと、心底驚いていたのだ。
ところがウェンリーは、突然なにかを思い出したように声を上げる。
「ああっ!!いや、違うって、行かなかったんじゃなくって、行けなかったんだよ!!変な銀色の狼に邪魔されて――!!!」
「変な銀色の狼…?」
どういうことか、と訝しみ、詳しく話を聞こうとしたその時だ。
「きゃああああああーっ」という女性の悲鳴がどこか遠くから木霊して、俺達の耳に届いた。
その方向を見た俺の目に、かなり先の方で複数の野鳥が空へ飛び立つのが見える。
「なんだ今の…悲鳴!?」
どこから聞こえたのか、と辺りを見回すウェンリーの顔色が変わった。
「――索敵に引っかからない…かなり遠い!ウェンリー、おまえはここで待っていろ!!」
「俺も行く!!」
すぐに地面を蹴って走り出した俺に、ウェンリーはそう言って後に続いた。
「なっ…」
「無茶はしねえ!戦えなくても、手伝えることがあるかもしんねえだろ!!」
…確かにそうか…もし要救助者が負傷していたら、すぐに手当てが必要になる。
ウェンリーの言葉に、俺は覚悟を決めた。
ズザザザザザザッ…
たった一度だけ聞こえた悲鳴と、野鳥が飛び立った方角から、その距離と大体の場所を把握し、俺は全速力で木々の間を擦り抜け、生い茂った草の間に僅かに出来た獣道を走って行く。
ウェンリーは俺について来るのがやっとだったが、遅れないように必死で食らいついて来ていたようだった。
やがて俺は、索敵スキルに引っかかった大きな魔物の気配に速度を落とし、ウェンリーに向かって音を立てるな、と口元に人差し指を立てて宛行うと合図をした。
ゆっくりと身を低くして風下へと回り込む。静かに木と木の間の草を左右に掻き分け、そおっと覗き込んでその場所を見ると、そこにいたのは普通のウェアウルフの三倍はあろうかという、巨大な青灰色の狼型魔物だった。
その魔物の前脚の下には、押さえつけられるように爪を立てられ動かない、横たわる人の姿が見えていた。
「な…っ…ムグッ」
草木の青臭い香りに混じって風に乗り、噎せ返るような血の匂いがする。俺は要救助者が深手を負っていることに気付き顔を顰めると、思わず声を上げそうになったウェンリーの口をバッと手で塞いだ。
「ルーファス…なんだよ、あれ…で、デカすぎるだろ…っ」
あんなの初めて見た、とカタカタ小さく震えながら、ウェンリーは小声で俺に向かって呟いた。
「ああ、軽く三メートルはあるな。外見がそっくりだから、恐らくあれはウェアウルフの『変異体』だ。」
「へ、変異体…?」
「今説明している時間はないから後でな。…まずいな、あの要救助者…既に気を失っている。かなり出血しているし、他のウェアウルフが集まって来る前に、なんとかして助け出さないと…」
俺は周囲を見回して、そこは僅かに開けた場所ではあるものの戦闘には向かないと考え、対策を立てる。
≪ この先にある管理小屋までおびき出せれば、なんとかなるか。≫
「ウェンリー、俺が魔物を引き付けておびき出し、この場から離れるように誘導するから、その間におまえはあの人を安全な場所に移動させてくれ。…できるか?」
「やる、任せろ。」
直前まで震えていたウェンリーの顔付きが変わり、大きく頷いた。
「周囲に気をつけて応急処置を頼む。だけどもし他の魔物が現れたら、要救助者は放って俺の方に逃げて来るんだ。いいか、決して自分で戦って倒そうとしたりするなよ。」
「わ、わかった。」
口を真一文字に結んで、気を引き締めたウェンリーを見て、俺は動き出す。
「よし、行くぞ!」
ザッ
俺は素早く草叢から飛び出すと、変異体の背後に回り込み、ピュイーッと口笛を吹いて魔物を挑発した。
「その人から離れろ!!こっちだ、化け狼!!」
俺は腰に下げていた投擲用ナイフのバッグから一本取り出して、それを振り返った変異体の顔すれすれを目掛けて投げつけた。
ヒュッ…グサッ
ギャンッ
それは見事に命中し、変異体の肩の辺りに突き刺さった。と、巨大でも犬科らしい鳴き声を上げてそいつは身を捩る。
――こいつ、躯体表面がまだ硬質化していない…変異したばかりか…!!
グアウオオオウッ
俺の攻撃に対して怒りの咆哮を上げた変異体を確認すると、俺はすぐさま踵を返して移動を開始する。魔物も含め大半の肉食動物は、本能的に背中を見せて逃げる獲物を追って来るものだ。
俺がその場を離脱すると同時に、ウェンリーが草叢から飛び出し、倒れている要救助者に駆け寄るのが見えた。
後は確実に引き付けながら後を追わせ続ければいい。
攻撃を食らわない程度の距離を保ち、そう離れていない管理小屋前の平地まで誘い込むと、俺は追って来た変異体の背後に回って、崖下の壁側にそいつを追い込んだ。
これで変異体は俺を倒さない限り、ウェンリーがいる方向には逃げられない。
「ウェアウルフの変異体…相棒のリカルドはいないけど、ここで倒させて貰うぞ…!!」
俺は腰の鉄剣を引き抜いて戦闘を開始した。
血のように赤い目に黒い蛇のような縦型の瞳が、ギラついた異様な光を放ち俺を見る。唸り声を上げて牙を剥く口の端からは、泡立った涎を垂らし、身体全体を低く下げて飛びかかるための体勢に入った。
…が、魔物が動くよりも一瞬早く俺が動き、飛びかかり攻撃を横に動いて躱すと、がら空きになった脇腹に先ずは一撃を入れる。…思ったよりも浅い。
変異体はさして痛手を受けなかったのか、そのまま身体の向きを変えると、巨体に似合わぬ素早い動きで、爪を立てた両前足を、二度、三度と交互に俺を目掛けて振り回した。
俺がそれも難なく躱してみせると、今度はガアッと大口を開けて真上から噛みつこうとする。左、右とそれを避ける度に、ガチン、ガチン、と牙を鳴らし、俺を口に入れ損なうと、魔物はまたすぐに同じ攻撃を繰り返した。
その間に俺は大きくて素早い魔物に対応する定石として、機動力を削るために、軸にしていた足を投擲ナイフで狙う。
ひゅっ…グサッ
命中だ。筋肉の張った外側ではなく、内側の柔らかい部分への狙いが成功して思い通りの場所に突き刺さった。
痛みに魔物が体勢を崩した隙を突き、俺は移動して後ろ肢に一太刀、また一太刀、と叩き込み、動きが完全に鈍ったのを確かめてから、ウェアウルフの通常体同様に弱点である腹部への集中攻撃を仕掛けた。
素早く剣の刀身を何度も滑らせ、切り刻むように動かして行く。
痛みに悶え、魔物が悲鳴を上げて俺から距離を取り、切り裂かれた部位を庇うように後ろへ下がった。
今度はかなりの痛手を喰らわせることに成功したみたいだ。
だがここからが手強かった。瀕死状態に追い込んだせいなのか、完全に変異する前だったのか、そのどちらなのかはわからないが、突然魔物の頭と四肢の先端脇に鋭い角と半月状のブレードのような物が生えたのだ。
正確にこちらに狙いを付け、前足による攻撃と噛み付き、頭の角を使った連続攻撃を仕掛けてくる。
ただ、そのどれもが基本的に、通常のウェアウルフの動作と大して変わりがなかったため、戦い慣れている俺には完全に見切れていた。
それでも普段なら体術を使って蹴り上げたり、横転させることが出来るのに、身体が大きく重い分、中々腹側を晒させることが出来ず、決定的な致命傷を与えられなかった。
なにか使えるものがないか、と攻撃を躱しながら考える。魔物を怯ませ、短時間でも大きな隙を作る方法。そうして俺は近くの木を利用して攻撃の威力を高めることにした。
先ずは地面に手を付いて細かな土を手に取り、魔物の顔目掛けて散蒔く。
風に乗りそれが魔物の目に入ると、一時的に視界を奪うことに成功し、魔物が狼狽えて前脚で顔を擦る。その間に俺は近くの木に駆け上がって幹をしならせ、その反動を利用して勢いよく魔物に体当たりした。
真横からの俺の体当たりに、魔物は横転し、すぐには立ち上がれない。俺はそのまま上から魔物を押さえつけ、正確に心臓を狙い全体重をかけて剣を突き立てた。
ギャオオオオオッ
ヴァンヌ山中に木霊するような断末魔の絶叫を上げて、変異体はようやく絶命した。
俺の下で痙攣する身体に、さらに確実に止めを刺すために、突き刺した剣の刀身を強く捻る。魔物は完全に殺さないと、突然起き上がって背後から襲いかかってくることもあるため、致死確認は基本中の基本だ。
「…ふう、変異して間もない初期体だったみたいだから、おかげで助かったな。」
――もしウェンリーがこれに出会していたらと思うとゾッとする。
本当にあいつが展望広場で止まっていてくれて良かった、と心から思った。
変異体の出現報告と討伐証明には、魔物駆除協会に提出する検体用の証拠品が要る。そのためにも解体する必要があるが、今は後回しにして、俺は急ぎウェンリーの所へ戻った。
「ウェンリー!」
ウェンリーは草叢と木に囲まれた風下の、魔物に見つかりにくい場所へ要救助者を移動させ、必死に応急手当を続けていた。
「ルーファス、変異体って奴は!?」
「大丈夫だ、もう倒した。」
「あのでけえ奴を、もう!?」
「ああ、変異して間もなかったんだろう、まだそれほど強くなくて助かったよ。それより、その人の容態はどうだ?」
俺はウェンリーの横に膝を折り、要救助者の傷の具合を覗き込んだ。…かなり酷い傷だ。脇腹の肉を食いちぎられており、一目見て手の施しようがない状態だとわかった。ここまで酷いと液体傷薬では到底治せない。
「…酷い傷だな。止血は?」
「したけどだめだ、村まで運ぶにしてもなんとか出血だけでも止めねえと…」
襲われたのは三十代後半ぐらいの、ワインカラーの髪色が特徴的な女性だった。胸に小さなバッグを両手でしっかりと抱え、余程大切なものが入っているのか、気を失っているにも関わらず手放そうとしなかった。
「ウェンリー、そっちをしっかり支えていてくれ、少し動かすぞ。」
止血帯を潜らせるために、ゆっくりと上体を浮かせて布を通らせる。
「う…うぅ…っ」
身体を動かし、止血帯をキツく締めた痛みで、女性が呻きながら薄らと目を開けた。
「ルーファス!気が付いた!!」
「俺は守護者のルーファスです。魔物に襲われたのは覚えていますか?今応急手当をしていますから、気をしっかり持って下さい。」
「守…護者……」
上体を僅かに起こし、腕の中に支えた形で俺がそう話しかけると、苦しげに息を吐きながら女性は、胸元のバッグから、自身の血で染まったなにかの包みを取り出す。
「はあはあ…お…ねが…い、これ…を…――」
痛みに顔を歪ませて、力のない弱々しい手で俺の手を掴むと、ガクガクと身体を震わせながら女性はその包みを手渡した。
…出血多量で痙攣を起こし始めている。俺はそれを受け取ると同時に、支える左手にぐっと力を込めた。
「こ…れを…『イシリ・レコア』の…マスタリオンの祭壇へ…戻…して…ううっ」
途切れ途切れにそう言うと、女性は酷く咳き込んだ。その拍子に、口からボダボダと大量に吐血する。
「もう話すな!!」
だが俺が止めても構わずに、女性は話し続ける。
「おね…が…『聖櫃』の…封印…が、解…かれ…なけれ…ば…世界が、滅…ん…」
…まだなにかを言いかけたまま、悲しげなアッシュブルーの瞳で縋るように俺を見つめると、その女性は一筋の涙を流して息を引き取った。
「――だめだ、亡くなった…。」
俺とウェンリーは暫くの間、その場で目を伏せて女性の冥福を祈った。
俺は冷たくなって行くその身体を地面にそっと横たわらせ、光を失った瞳が覗く、閉じかけた瞼を静かに右手で撫で下ろした。
「…旅行者…じゃねえよな。なんだってこんな所に、守護者の護衛も付けずに一人で…?」
「ウェンリー、バッグの中に身分証明書かなにか…身元のわかりそうなものが入っていないか?」
俺の問いにウェンリーは女性の腕からそれをそっと取ると、口の開いたバッグを逆さにして見せる。
「なんも入ってねえ。服の物入れにもなにもねえし、持ってたのはルーファスに手渡したその包みだけみてえだな。身分証どころか水すら持ってねえなんて、おかしくね?」
「ああ、服装からしてもこの辺の人間じゃなさそうだしな…確かに妙だ。」
観光や通りすがり、若しくは迷い込んだようにも見えないし、ヴァハへの道は四合目付近で分かれていて、初めて訪れる旅人でも間違えようがない。ヴァンヌ山が危険な場所だとは知らなかった?…それこそ考えられないだろう。
ウェンリーの言う通り俺も不審に思い、首を傾げた。
どうする?とウェンリーが俺に尋ねる。
――村の墓地に葬るには遺体を運ぶ必要があるが、それには危険が多すぎた。今すぐにでも動かさないと、いつウェアウルフが嗅ぎつけてくるかわからない。
俺一人ならともかく、これ以上ウェンリーを命の危険にさらすわけには行かなかった。
「身元がわからないんじゃ管理局に連絡しても引き取って貰えない。このままにしておけば屍肉を好む魔物に食い散らされてしまうだろう。管理小屋にスコップがある、俺達であそこの近くに埋葬してあげよう。」
互いに頷くと、俺達は女性の遺体を運んで管理小屋近くに移動し、小屋の中に置いてあったスコップで穴を掘って、女性の遺体を埋葬した。
花も香(死者を慰めるために焚く香木のこと)もないが、目印となる十字架を木とロープで作り、墓の上に立てると、手を合わせてもう一度冥福を祈った。
「出来れば家族に知らせてあげたいところだけど…唯一身元の手がかりになりそうなのはこれだけか。」
俺は女性が身につけていた高級そうなロケット・ペンダントを見つめて口に出す。埋葬する前に形見として外しておいたのだが、中を開いてみると、家族らしい三人の写真が入っていた。女性と夫らしい同年代の男性、そして可愛らしい女の子が幸せそうに微笑んでいる。
ウェンリーはそれを俺の横から覗き込むと、しゅん、と沈んだ悲しげな顔をして呟く。
「…多分家族写真だよな。女の子がいるのか…可哀相に。」
そんなウェンリーの顔を見ながら、俺はあの女性が俺に、なにかはわからない包みを渡して、最後に託した願いのことを考えていた。
『お願い、これをイシリ・レコアのマスタリオンの祭壇に戻して』
女性はそう言って縋るような瞳で俺を見ていた。俺が守護者だと名乗ったから、恐らくそれをわかった上で遺言として頼んだのだろう。
イシリ・レコア…聞いたことのない言葉だ。
「ウェンリー、『イシリ・レコア』と言う言葉を知っているか?」
「あ、それってさっきあの女の人が言ってた…んにゃ、知らねえ。聞き慣れねえ言葉だったよな。」
思い当たることがないか考えている様子のウェンリーに俺は続ける。
「祭壇がどうとか言っていたから、多分…場所を示す地名かなにかなんだろうけど…俺も初めて聞く。それになにより、最後のあの言葉…覚えているか?」
「うん、なにかの封印がどうとか…それに世界が滅びるって言いたかったんじゃねえかと思う。ちょっと信じらんねえけど…――」
「おまえにもそう聞こえたのか…だとしたらやっぱり、俺の聞き間違いじゃなさそうだな。」
もしそれが古い地名とかだったら、長なら物知りだからなにかわかるんじゃないか。そう言ってウェンリーが思い付いたように言う。
俺はウェンリーに同意して頷き、今度は傍に放置したままだった変異体の解体作業に入った。…これが中々に面倒だ。
変異体の証拠となる検体部位には角か牙、半月状ブレードのいずれかがあれば大丈夫そうだ。それと人の手首から先程はある大爪を、根元から全てえぐり取り、換金素材として持って行く。
他にも皮を剥げばいい素材になるのだが、時間がかかる上に、ウェンリーの前であまり無気味な作業はしたくなかったので、もったいねえじゃん!と騒ぐウェンリーを無視して今回はやめておいた。
その後ある程度の部位に切断してから死骸を全て土に埋めると、変異体の出現証拠となる検体部位や戦利品、亡くなった女性から預かった包みと形見のペンダントの全てを『無限収納』(これについては今度詳しく説明することにする)に分類して仕舞い込み、ようやく俺達は村への帰路についた。
ウェンリーの無謀な行動から遭遇したこの事件は、今後俺の生活を大きく変えることになる。
それは記憶を失くしていた俺にとって、やがて必ず訪れるはずだった避けようのない出来事であり、俺自身はそんな言葉で決められたくはないのだが、そうとしか言い表しようのない…『運命』だったのだと後に思い知ることになった。
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