35 新たな始まり
思わぬ事で死者が出てしまい、ルーファスは旅立つ決心をします。ウェンリーとは碌に話せないまま別れることになりましたが――
【 第三十五話 新たな始まり 】
リビングのドアを開けると、思っていた通り…ゼルタ叔母さんが泣いていた。ダイニングテーブルの上には、いつの間にか用意された食事が並べられていて、すぐにでも俺が食べられるようにしてあった。
いつもなら長とゼルタ叔母さんと俺に(ここ最近は)ウェンリーが加わって四人分の食事だが、今日はターラ叔母さんとシルヴァンがいる。そのためゲストテーブルが並んでいて、椅子もきちんと人数分用意されていたのだ。
その椅子の向きをテーブルの方にではなく、キッチン側に向けた状態で腰掛け、いつものエプロンで顔を覆い隠しながら、ゼルタ叔母さんは泣いていた。
――そう言えば俺、今日はまだ〝ただいま〟も言っていないんだな。
よく見ると昼の地震で崩れたり倒れたりしたのか、キッチンやリビングのあちこちがいろんな物で散らかったままになっていた。
いつもならこんな時はゼルタ叔母さんを手伝って、一緒に片付けをしたりするところだけど…とてもそんな雰囲気じゃない、よな。
泣いているゼルタ叔母さんの横にはウェンリーが立ち、すぐそばの椅子にターラ叔母さんと長が見守るように腰を下ろしていた。
「我は席を外すか?」シルヴァンが気を回してそう言った。
「いや…そこにでも掛けていてくれ。」
俺はシルヴァンに適当な椅子に座るようそう促すと、ウェンリーとゼルタ叔母さんに近付いた。
「…ゼルタ叔母さん。」
俺が今なにを言っても悲しませることにしかならないとわかっていたが、それでも声を掛けずにはいられなかった。
「ルーファス…どうしてだい?どうしてあんたが出て行かなくちゃならないんだい?それもこんなに急に…明日には村を出るなんて、あんまりじゃないか…!」
俺を見てそう訴えたゼルタ叔母さんは、真っ赤に泣きはらした目をしていて、ただひたすら悲しそうだった。
「よさんかゼルタ…!事情はさっき話して聞かせたじゃろう。ルーファスが元々ここに滞在するのは、なにかしらの記憶が戻るまで好きなだけ、そういう話だったはずじゃ。そのルーファスが一部とは言え記憶を取り戻し、自らここを出ると言っているんじゃ、わしらにはもうどうすることもできん。」
「でもあなた…ルーファスはこの村の中で見知らぬ輩に襲われたんですよ…!?それもいきなり背後から斬られるなんて…外へ出たらどんな危険があるか、わからないじゃないですか…!!」
「ゼルタ!!」
長はなんとかゼルタ叔母さんを宥めようとしていた。でもゼルタ叔母さんは俺の腕を掴み、本当に、実の息子にするかのように縋ってきてくれた。
「行かないでおくれ、ルーファス…あんたはもうあたしの息子なんだよ…!あんたがいてくれてこの十年、子供のいないあたしがどれだけ幸せだったか…!お願いだよ、傍にいておくれ…!」
「ゼルタ叔母さん…」
不謹慎だと言われても仕方がないが、それでも…嬉しかった。ゼルタ叔母さんが俺を "あたしの息子” と言ってくれ、"傍にいて"、と願ってくれた。
母親というものがどんな感じなのか俺にはわからないが、わからないだけに、ゼルタ叔母さんが俺をそこまで思っていてくれたのがなによりも嬉しかった。
「俺を息子と言ってくれてありがとうございます、ゼルタ叔母さん。そして…すみません、俺には、どうしてもやらなければならないことがあるんです。」
それは他の誰にも出来ず、絶対に俺がやらなければならない、とても大切なことであり、全ての記憶を取り戻すことにも繋がっていて、今のままこの村にいたのではどうやっても叶えられない…俺はそうゼルタ叔母さんに話した。
その後でゼルタ叔母さんの前にしゃがんで叔母さんの顔を見ながら、今回のことは切っ掛けに過ぎず、いずれはやはり出て行かなければならなかったことと、自分は一人ではなく、シルヴァンを含めて親しい仲間がいること、その仲間達が俺を待っているのだと言うことを伝えた。
「ルーファスの仲間…?そこの大きな若者がかい…?」
顔を上げてシルヴァンを見たゼルタ叔母さんに、俺はシルヴァンを呼んで友人であり仲間であることを紹介し、彼が巨大蛇の討伐を手伝ってくれたことも話した。
シルヴァンは俺の横で同じように膝を折り、ゼルタ叔母さんをとても優しい眼差しで見て目を細めると、俺の後に続けた。
「――先ずはこの十年、記憶のないルーファスを村長殿やウェンリーの母御殿と共に支えていただき、友人として心から感謝する。我はシルヴァンティス・レックランドと申す。このような形だが、かつては獣人族の長であったものだ。」
「!?」
「ハ…獣人族…!?」
長とゼルタ叔母さん、ターラ叔母さんが驚いて目を見開く。
俺も一瞬、違う意味で驚いた。アインツ博士達には獣人族であることを打ち明けなかったシルヴァンが、ここではあっさりと自分からそう名乗ったからだ。
それにもう一つ、予め知らせておいたわけでもないのに、なぜかウェンリーはシルヴァンのこの言葉を聞いても平然としており、眉一つ動かさなかった。
〝もし信じられなければ、姿を変えて見せよう〟とシルヴァンが続けると、ゼルタ叔母さんは慌てて両手と首を振り〝とんでもない〟とそれを止めた。
シルヴァンの見慣れない衣装にその独特な雰囲気。他人を懐疑的な眼でしか見られない人間でなければ、それが真実か嘘かはすぐに感じ取れることだろう。
「――これでもルーファスの友人として、最も早く目覚め傍にある栄誉を頂いた。この命ある限り、ルーファスは我が守ると約束致す。どうか安心してこの方を我らに託しては頂けないだろうか?」
シルヴァンが静かに頭を垂れ、誠心誠意を以てゼルタ叔母さんに懇願する。
ゼルタ叔母さんは驚き、困惑した顔をしながらもいつの間にか泣き止み、一度エプロンで涙を拭うと、諦めたように微笑みながら〝どんなに引き止めても無駄なんだね〟と俺に向かって小さく呟いた。
その後ここでの最後の遅い夕食を済ませると、俺とシルヴァンは俺の自室で荷造りを始める。…と言っても、持って行く物は無限収納に入れるだけで、大して時間もかからない。
「――ルーファスはここであの村長夫妻に大事にされていたのだな。」
シルヴァンはこの上なく優しい瞳で静かに呟いた。
「…ああ。この十年、息子のように接して貰っていた。ありがとう、シルヴァン。俺はゼルタ叔母さんを悲しませるのが一番辛かったんだ。おまえのおかげで泣かせたままここを出ることにならずに済んだ。」
礼を言うとシルヴァンは、「老夫婦から息子を奪うのだから、あのくらい当然のことだ」と微笑んで返す。
俺はこのタイミングで、もっと落ち着いてから聞こうと思っていたことを、思い切ってシルヴァンに尋ねることにした。
「シルヴァン、聞きたいんだけど…おまえは俺の家族について、なにか知っているか?」
無限収納の中に入れていた、ゼルタ叔母さんと長へのお土産と、商業市で買ったままになっていた品物のいくつかを、一旦整理しようと机の上に出して並べながら、俺は横目でシルヴァンを見た。
「ルーファスの家族?ああ、それなら…――」
聞かれるのは当然とばかりにシルヴァンは答えようとした。
「――…」
だがそこでなぜか言葉は途切れ、待っていてもその続きが出て来ない。
「…シルヴァン?」
俺は手を止めてどうしたのかと思い、顔を上げて彼を見る。だがシルヴァンは自分の記憶を手繰ってでもいるかのように沈思黙考していた。
そして暫く経ってようやく少し困惑した様子で俺に告げる。
「…すまぬ、ルーファス。あなたの家族について、確かに以前話を聞いた覚えはあるのだが…なぜかその内容が思い出せぬのだ。会話の前後まではっきりと頭に浮かぶのに、肝心な部分だけがすっぽりと抜け落ちている。…これはどういうことなのだろう?」
「え…?」
それは俺の方が聞きたいが、シルヴァンの狼狽えようから、とても冗談を言っているようには思えない。本当に訳がわからず、戸惑っているようなのだ。
「生命維持装置で千年も身体が眠っていた影響なのかな?」
「ルーファスの家族に関することだけか?あり得ぬだろう。…いや、待て。」
唐突にまたシルヴァンは黙り込む。
「――違うな…ルーファスの家族に関することだけではない、他にも所々記憶が欠如しているようだ。」
〝今の今まで全く気付かなかった〟…シルヴァンはそう言った。
だとしたらやっぱり、長い期間本体が眠っていたせいなのかもしれない。それ以外には思い当たる原因がなかった。
シルヴァンなら俺の家族について知っているはずだと思ったのだが、残念だ。申し訳なさそうに謝りながらも首を傾げる彼に、俺は思い出せたら教えてくれ、とこの場は言うに留めた。
そのシルヴァンの目に、あの煤で汚れた真っ黒な特殊装身具が止まったらしい。それを手に取り珍しそうに具に見ている。
「これは?汚れてはいるが、一点物の特殊装身具のようだな。」
「ああ、わかるか?かなり強力な守護魔法が施されている。綺麗に磨いて使えるかどうか試してみようと思って買ったんだ。」
「…ふむ。そう言うことなら我が磨いておこう。光り物の手入れなら得意だ。」
そう言うとシルヴァンはそばに置いてあったドゥエンガ液を掴んでドアへと向かう。
どこへ行くんだ?と尋ねた俺に、邪魔にならぬよう集会所で休む、と言い出した。あそこには寝具もないし、遺体が安置されているのにか?、と猶も聞き返すと、銀狼の姿ならそんなものは気にならぬ、と笑って出て行った。
その後で一人自室に残された俺は、ウェンリーのことを考えていた。
いつもならそばにいてあれこれ言ってくるはずなのに、部屋にも来ない。クルトとラディのことを説明した後、集会所でもほとんど話さず、俺が村を出ると言った時でさえ一言も発しなかった。
食事の間も黙ったままで、ゼルタ叔母さんの片付けを手伝っていた姿を見たが、俺は声を掛けずにシルヴァンと部屋に戻ってきてしまった。
まともに話したのはヴァンヌ山でのやり取りが最後か。もしかしたら…なんの相談もせず、村を出ることに決めてしまったから、怒っているのかもしれないな。
なにか言ったところで結果は変わらないんだし、このまま黙って出て行くのが一番かもしれない。
…そんな風に考えていたら、『それで本当によろしいのですか?』というアテナの声が聞こえてきた。
その問いに俺はただ一言、心の中で〝ああ、いいんだよ〟とだけ返事をしたのだった。
キィ…という軋む音を立てて、集会所の扉が開き、静かに閉まった。
知人の遺体が安置されたこの部屋に、怯みもせずやって来たか、と口の端で笑む。ルーファスから離れれば、きっと来るであろうと思っていた。
ランタンの明かりで手元を照らしながら、ルーファスの特殊装身具を磨いていた我の元に、暗くてその表情がよく見えぬままその影が近付いてくる。
我は獣人族だが、銀狼の姿でない時はあまり普通の人間と変わりがない。まあ五感は並より優れているかもしれぬが、それでもその差は僅かだ。
そうこうするうちに目の前まで来たその影に〝我になにか用か?〟と意地悪く投げかける。この赤毛の坊やが何をしに我の元へとやって来たのか、わかっていながら敢えてそう声を掛けたのだ。
案の定この坊や…ウェンリーは〝わかってるんだろ〟と不貞腐れた声を出し、我の横に腰を下ろす。
「――もっと大騒ぎするかと思ったが、意外に大人しくしていたな。」
態と揶揄うように言ってみた。我の挑発に乗るようでは話にならぬからな。
「こんな状況に騒げばどうにかなると思うほど、俺はガキじゃねえ。クルトとラディが死んだって聞いた時に、あいつがなにを考えてるか、すぐにわかったさ。」
ウェンリーはその場で膝を抱えて丸くなると、我を横目で見てそう言った。
「それよりあんたさ、あの時俺の邪魔してくれたあの大きな銀狼だろ?イシリ・レコアに住んでたのかよ。」
「ほう…?よくそこまでの考えに至ったな。」
ふむ、正直に言って感心した。道理で獣人族だと名乗った時に驚きもしなかったわけだ。
ウェンリーはこの斑髪とエメラルドグリーンの瞳を見て、我が何者であるか気付いたらしい。
遺跡にリカルドを助けに入っただけのルーファスが、見知らぬ我を伴って戻って来た上に、我のことを友人だと紹介したため、直感でイシリ・レコアに行き、そこにいた獣人族の我を連れて来たのだ、と思ったそうだ。
中々どうして考え方も柔軟で、勘が鋭く、優れた観察眼の持ち主のようだ。
「ちっくしょ、あんたが否定しねえってことは、あいつやっぱりリカルドと一緒にイシリ・レコアに行ったんだな。俺だってキー・メダリオンのことはあの女の人に頼まれたのに…!」
ウェンリーはかなり悔しげな顔をして右手の親指の爪を噛んだ。
「ふ…悔しがるのはそこか?我に聞きたいのはそのようなことではなかろうに。」
我が然も当然のようにそう言うと〝ちぇ、それもお見通しなのかよ〟とウェンリーは嬉しさ半分、悔しさ半分、といった複雑な心境を顔に表した。
だがそれも寸陰、すぐに真顔になり、予想通りの質問をしてくる。
「明日以降どこに行くとか、どうすんのかとか、決まってるかわかってるかしてるとこまででいいから、教えてくれよ。」
…やはりそう来るか。ルーファスに一緒に来たいと直談判したところで、許可が出ることはないとわかっている以上、実力行使に出るのはこの坊やの十八番だな。
しかも我なら答えをくれると、なんの根拠もなしに信用されているところが困りものだ。
困りものだが…我はウェンリーのそう言うところを、寧ろ好ましく思っている。力の有る無しに関わらず、直向きで努力家で頑固で、こうと決めたらどんなことをしてもやり遂げようとする。
もう随分前にヴァンヌ山で見かけた時からその性格は見知っていた。
こういう気質の持ち主は成長が緩やかでも、道を誤りさえしなければ、いずれ間違いなく大物になるだろう。
それにこの真っ直ぐな琥珀色の瞳には、ずっと以前にも同じように見つめられたことがあるような気がする。
それがいつのことで、誰の物であったのかは思い出せないが、その時もやはり相手を好ましく思っていたような覚えがあった。
まあそんなわけで、我がその根拠のない信用を裏切らず、ルーファスの意に反して情報を与えるのは、やはり当然のことだったりするのだ。
≪…元々そのためにルーファスの部屋を出て来たのだしな。≫と気付かれないようにほくそ笑みながら平静を装う。
「明日の午前には村を発ち、数日はメクレンに滞在する予定だ。色々と話し合わねばならぬ事もあるし、我も神魂の宝珠から封印を解かれたばかりでな。千年振りのエヴァンニュともなれば、様変わりした街の様子や人の暮らしぶりなども改めて学ばねばならぬ。」
「…へ?…千年振り?封印を解かれたばかりって…――」
知るはずのない情報に目を丸くしたウェンリーに、我はここまでの出来事を話して聞かせる。
ルーファスがウェンリーを信頼し、ほぼなんの秘密もないことも、我は疾うに知っていた。あのアテナという不可思議な存在のことでさえ、ウェンリーは知っているのだ、どのみち付いて来ることになるのだから、事情は早いうちに話しておき、その上で本当に一緒に来るのか、最後にもう一度決めさせるのも一つの手段であろう。
「…ふーん、そっか…そう言うことだったんだな。守護七聖<セプテム・ガーディアン>に神魂の宝珠ね…それを束ねてたのがルーファスだった、ってか。それであん時のガキんちょがルーファスをマスタリオン、って呼んだんだな。」
ウェンリーは驚きも尻込みもせず、なにかに納得したように大きく頷いていた。
「あの時のガキんちょ?」
ん?なにやら今聞き流せぬ呟きが――
「王都でさ、カオスとかって奴と一回戦ってるんだよ、俺ら。その暗黒神てのの眷属なんだろ?そん時は相手がなんか自滅して――」
「なんだと!?」
「いっ!?」ウェンリーが驚いてたじろぐ。
思わず大きな声を出してしまい、慌てて我は自らの口を塞いだ。もう眠ったとは思うが、ルーファスに気付かれでもしたら事だ。
だがしかし、ウェンリーの口から出た情報に、それほどまでに我の方が驚かされたのだ。
まさか守護壁が消滅する前に、カオスがエヴァンニュ王国内に侵入出来たとは…些か予想外だ。おまけに既に一度戦った、と?自滅したのは守護壁に弾かれるような暗黒魔法を使おうとしたためであろうが…無事であったのは奇跡に等しいな。
「そのカオス…どのような風体であったか、覚えているか?」
「うん、オレンジと白の二色髪で十四、五才くらいの男の子供だったぜ。自分が殺した人間を『死傀儡』とかってのに変えて俺達を襲わせてたんだ。名前…なんつったかな、多分ルーファスなら覚えてると思うけど。」
オレンジと白の二色髪に十四、五才の男の子供?…記憶にないが…まあいい。
「我の方が与えられた情報に驚かされるとは…だが聞いておいて良かったぞ、助かった、ウェンリー。」
礼を言った我にウェンリーは〝え?そう?〟と不思議そうな顔をして頭を掻いた。その後でウェンリーの方は明日以降どうするつもりでいるのか尋ねると、これもまた予想外の答えが返ってきたのだ。
「守護者の資格を取る…?それは試験かなにかを受けるのか?」
「うん、そう。ちょっと調べた所だと一定数の魔物討伐と、依頼達成が条件みたいなんだよな。ただ見習い守護者に単独で仕事をさせるはずはねえから、ギルドでもっかい調べてみねえと詳しいことはわからねえんだよ。」
なんと…それは危険ではないのか?
「なぜ今そんなことを?我らと合流し、ルーファスに一緒に来る許可を貰ってから、共に資格試験に臨めばいいではないか。」
「あのな…冗談だろ?この先付いて行くなら、せめてこのぐらい一人で出来なくてどうすんだよ。」
「む…」
我は急にウェンリーの身が心配になり、なんとか思い止まらせようと提案してみるも、呆れ顔で一笑に付される。
だがしかし…危険と知りながら好きにさせて、万が一のことがあったら取り返しが付かぬし、どうしたものか。
「シルヴァン?って、あ…俺もシルヴァンって呼んでいいか?」
「うむ、それは構わぬが――」
悩み視線を落とした先に、これもまた都合の良いことに、我の手には今、おあつらえ向きの物があるではないか。
ルーファスの特殊装身具。強力な守護魔法がかかっていると言っていた。ちょうどほぼ汚れも落とせたことだし、これをウェンリーに身に付けさせておこう。我は咄嗟にそう思いついた。
「ちょうど良い、ウェンリー、これを持って行け。」
「ん?あっ!それってひょっとしてルーファスが買った、煤で真っ黒の首飾り!?え、なに、すっげえ綺麗になってんじゃんか…!!」
「しっ!声が大きいぞ。」
「…と、悪い。けど持ってけって?」
我はウェンリーの手にそれを無理矢理持たせると言い聞かせる。
「その意気は良し。だがなにかあってからでは遅い。この首飾りには強力な守護魔法がかかっているとルーファスは言っていた。これを身に付けておけば、多少のことなら大丈夫であろう。今後我らと共に在りたいと望むのであれば、身の安全を心がけることも忘れてはならぬ。」
「あ…」
ウェンリーは素直に顔を綻ばせると、礼を言い、すぐにそれを身につけた。
――我とウェンリーはここで約束を交わす。必ず守護者の資格を得て、我らと合流する、と。
正直に言えば、首飾りを渡してもまだ不安が残っているのだが、本人の言う通り、この程度さえ熟せないのでは、先行き苦労するのは目に見えている。
かと言って我がウェンリーに付いて行ったのでは、ルーファスにウェンリーのしようとしていることがばれてしまう。それはまずい。
まあメクレンに行った後で、こっそり我だけ抜けだし、ウェンリーの後をついて行くのも良いかもしれぬ。
とにかく一旦はここまでだ。…後は運を天に任せようぞ。
――朝、目が覚めると…なんだか身体がやけに重かった。
このところ連日色々なことが起こりすぎて、少し疲れたんだろうか?…そう言えば、睡眠不足かもしれない。昨日も、一昨日もあまり眠れていなかったな。
念のため自分で自分に回復魔法を掛けてみたのだが、あまり効果はなかった。病気や怪我じゃないと意味はないのかな?…とにかく、今日はヴァハから旅立たなくてはならない。
ああ、それに剣が壊れたんだった。…と言うことは、ヴァンヌ山を抜けるには、魔法で戦うしかないのか。
あとは忘れないようにゼルタ叔母さんと長に、商業市で買ったお土産を渡さないと…もうここには戻れないのだから。
ベッドから出て、いつものようにカーテンを開くと、今日は雨が降っていた。ただでさえこんな気分なのに、天気まで悪いとは、ツイてない。
まあ、またアテナが雨避けのシールドを張ってくれるかな。王都でウェンリーと俺に張ってくれたように――
≪ウェンリーとアテナが並んで歩く…もうあんな姿を見ることもないんだろう。≫
そう思うと堪らない寂しさが込み上げてくるが、俺は王都でのウェンリーとアテナが楽しそうに笑っていた…あの日の姿を思い出し、ウェンリーにはアテナの姿が見えていなかったはずなのに、と微苦笑する。
昨夜のうちに必要な荷物はほとんど無限収納に入れたから、今この部屋にあるのは置いて行く物ばかりだ。クローゼットには幾分服を残して行く。旅先で新しく買うだろうし、そんなに持って行ってもおそらくは着ない。日用品も本当に必要な物だけで十分だ。
こうやって見ると、個人的な趣味の物とかそう言った類いの物はほとんどなかったんだな、と今更気付く。
俺の日常は魔物との戦いがほとんどで、本を読んだり、一人の時間をなにかの趣味に費やすようなことは、全くと言っていいほどなかった。
いつか…もしもまた落ち着いて暮らせるような場所が出来たら、今度はもう少し戦い以外のことにも時間を使ってみようか。
服を着替えながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
「――よし、と。」
俺は最後にもう一度振り返り、部屋の中を見回す。
――十年、ありがとう。…お別れだ、俺の部屋。
心の中でそう呟き部屋を出ると、静かに扉を閉めた。
――朝食を済ませた後…アテナに雨避けのシールドを頼み、俺は今、シルヴァンと一緒に家の入口前に立っている。雨に濡れるからと言ったのだが、長とゼルタ叔母さんは構わず見送りに出てくれた。
「すまんの…ルーファス。最後だと言うたのに、ウェンリーの奴め…シヴァン達と一緒に墓地に行ってしもうた。あれほど懐いておったくせに、別れの言葉も交さんとは存外薄情な。」
俺が部屋を出てリビングに行った時、ウェンリーは疾うに朝食を済ませていて、もうその姿はなかった。早朝迎えに来たシヴァンと一緒に、クルトとラディを埋葬するため墓地の手伝いに行ってしまったのだ。
そしてターラ叔母さんは家が焼け落ちたショックから少し体調を崩し、今日はまだ横になっていると聞いた。
「良いんです、長。俺の感謝の気持ちと…元気で身体に気をつけるようにと、ウェンリーには伝えておいて下さい。…お願いします。」
「ルーファス…ルーファス…、元気で…身体には気をつけるんだよ?どこに行っても、あんたはあたしの息子だからね。…忘れないでおくれよ。」
「ゼルタ叔母さん…はい。ゼルタ叔母さんも…長もどうかお元気で。十年間、本当にありがとうございました。」
俺は心からの感謝を込めて、長とゼルタ叔母さんに笑顔を向ける。ここで別れるからこそ、悲しい顔や情けない顔は見せたくない。家族として過ごした時間があったからこそ、二人には俺の笑った顔を覚えておいて欲しかった。
「行こう、シルヴァン。」
「うむ。先ずはメクレンだな。」
前を見据える俺と同じ方を向き、シルヴァンが頷く。
――もう会えなくても、ウェンリー…おまえの幸せを祈っている。元気で…ターラ叔母さんを大事にしろよ。
これから俺の本当の旅は始まる。少しでも早く神魂の宝珠を探し出し、封印を解いて仲間を集め…記憶を取り戻し、最終的にカオスと暗黒神を倒す。
実感はないし、どれほどのことが出来るのかまだ自信もない。それでも…
…俺は進むしかないんだ。
次回、仕上がり次第アップします。




