264 カルト教団ケルベロス ③
ティトレイ・リーグズの願いを叶える儀式、『テリオスクルム』の行われる日、ライは意外な事実を知りました。信じていた後輩に裏切られたことで、複雑な思いを抱えたままそれを見守っていたライでしたが…?
【 第二百六十四話 カルト教団ケルベロス ③ 】
――テリオスクルム前に行われるという一連の『清め』が始まった。
〝神水〟という青く光る液体で満たされた円形の水瓶にティトレイが浸かり、その前でナトゥールスが『エヴォケーション』と呼ばれる神降ろしを行う。
すると彼女の身体が神水と同じ青色に輝き、その輪郭が光の中で崩れ始めた。
離れた位置からそれを見守っていた俺は、やがてナトゥールスの崩れた輪郭が再び形を成して、水の中に揺らめくような青く長い髪の男姿へと変わるのを目の当たりにする。
その男姿のナトゥールスは、床に触れるほど青髪が伸びていた。
「アクリュース様――」
隣で目を輝かせながらそれを食い入るように見ていたクルンは、歓喜に打ち震え出しぽろぽろ涙を零している。
――なるほど…俺のように疑い深い人間でなければ、これを見ただけでも強く引き込まれてしまうだろう。
ケルベロスの崇めるアクリュースという名の〝神〟は、初めから自身を〝偽神〟だと言っているらしい。
俺はそのことから、もし崇拝対象が特殊な存在であるなら、フェリューテラに現存していても普通の人間には見えない〝不可視の存在〟…つまりは、『精霊』のような相手かもしれないと思っていた。
もしそうであれば『識者』である俺を呼んだのも納得が行き、アクリュースが偽りの神だと告げるのも当然だと思うからだ。
だが実際はどうやら思っていたのとは異なるようだ。
俺の中で『神』に相当する存在と言えば、真っ先に思い浮かぶのは全身が真紅色をしたあの『災厄』だ。
俺のような人間がどれほどの力を以てしても傷つけることの叶わない…圧倒的な強さに対する魂の奥底からの畏敬の念と絶対的な怖れ。
神とはああいう存在を言うのだろうと思っている。
しかしやたらと演出は派手だが、ナトゥールスの『変化』には初めて災厄に対峙した時のような〝畏怖〟を感じられなかった。
偽りの神だと言うのだからその通りなのだろうが、正直に言って期待外れだ。
あれでどうやってティトレイの身体を治すというのか…
まあいい、どうせこれが終われば宵の間でテリオスクルムが行われる。それを見ればまたなにかわかるだろう。
そんなことを思いながら、俺は清めの間の控え室で聞いたティトレイの話を思い出していた。
――まさかティトレイが自殺を図っていたとはな…
左目の視力を失い、直後今度は事故に遭ったことで自分の人生を悲観し、何度も〝死にたい〟と俺の前でも口にしていたことはあったが…しっかり立ち直ったとばかり思っていた。
突然目が見えなくなる恐怖は今でこそ同じ経験をしたから理解できる。俺の場合は猛毒による一過性のものであり、こうして回復しなんの問題もないからいいが…あのまま永遠に暗闇の中で一生を生きて行かなければならないとなれば、絶望しないとは言い切れないだろう。
だからその点についてはティトレイを責めることはできない。だが…
「本当に剣で心臓を貫いたのか?」
「本当です。傷痕は残っていませんが、まるで自殺という罪を犯した証拠である刻印のように、真っ黒い痣が心臓部にあるんです。――見ますか?」
「……いや、いい。ここへ来ておまえが俺に嘘を吐く理由もないだろう。――だとすると、偽神アクリュースはなんらかの力でティトレイを生き返らせた、と言うことになるな。…その話をアルケーにしたのか?」
ティトレイは黙って俺に頷いた。
――ティトレイにしろアルケーにしろ、ケルベロスを信じるに値する根拠がそれなりにあったと言うことか。
その時カルワリア司祭の魔法で傷を癒して貰ったティトレイは、同時に右目だけ視力を取り戻すことができたらしい。
「カルワリア司祭は治癒魔法も使えるのか?」
どちらかと言えば呪殺の方が得意そうだが…
「いえ、あの魔法は治癒魔法とは異なるような気がしました。」
「例えばどんな風にだ。」
「俺も詳しくないので説明は難しいんですが…通常の治癒魔法は『光属性』で白い魔法陣が浮かび上がり、淡くて白緑色の光を放つらしいんですが、そう言った魔法光も魔法陣すら一切見えなかったんです。」
「…魔法じゃなかった、と言うことか?」
「――わかりません。逆にライ先輩は俺の話を聞いてなにかわかるんですか?」
「いや…わかるわけがないだろう。」
「ははは…そうですよね。」
息を吹き返し動けるようになったあと、ティトレイはカルワリア司祭からケルベロスの話を聞かされ、最終的に教団へ入信することを決めたのだと言った。
「それとライ先輩…俺は先輩に謝らなくてはならないことがあるんです。」
「なんだ。」
俺を裏切っていた事に対する謝罪か?それとも自殺を図った事に対するものか…どちらだ。
謝られた所で一度失った信頼は戻らないが、以前と同じ感情での付き合い方はできなくとも、俺の腹の虫は治まるかもしれない。
そう思ったが、続くティトレイの言葉は予想外のものだった。
「このことは話すかどうか迷いましたが…先輩が後でどこからか知ることを思うと、この場で自分から話しておいた方がいいと思いました。」
「だからなんの話だ、さっさと言え。」
「すみません、先輩…俺が謝罪したいのは、魔物駆除協会から配られた魔吸珠のことなんです。」
「…?」
魔吸珠…?エヴァンニュ各地で連続して起きていた殺人事件の被害対策で、闇属性を主属性に持つ人間に配られたあれのことか?
「実はあの時…俺はカルワリア司祭の命令で、ウェルゼン副指揮官から手渡されていたギルド支給の魔吸珠を司祭の用意した別物とすり替えたんです。」
「!?」
「俺はそれがどんなものかも知らず、司祭の命令に従ってなにも考えずに先輩に使いました。その結果…」
「――俺があの魔吸珠で死ぬほどの苦痛を味わったのは…おまえとカルワリアの所為だったのか!!…道理で…ッッ」
これにはカッとなり、さすがに強い怒りが込み上げた。
「イーヴは原因がわからずに首を捻り、一晩中一睡もせずに俺の看病をしてくれたんだぞ…!!それ以降もずっと俺を苦しめたことに罪悪感を抱いていた…!!おまえがすり替えたのは魔吸珠じゃない…後になってわかったことだが、カルワリアの命令に従ったおまえが俺に使ったのは、ライフドレインとも呼ばれる数多くの死亡例がある魔吸聚珠だったんだ…!!」
「え…」
ティトレイはそこまでは知らなかったのか、愕然として目を見開いた。
「謝って済むような問題じゃない…まさか数少ない信頼できる友人だと思っていたおまえに裏切られただけでなく、知らずに殺されかけていたとは…さすがの俺も驚きを隠せん…っ」
「そ、そんな――すいません…すいません!!!本当に知らなかったんです!!知っていたら俺が大恩ある先輩にそんなことをするはずないじゃないですか…!!」
「――…っ」
怒りで強く握った拳がぶるぶる震えた。これまで俺がこいつにして来たことは、自分が好きで勝手にやっていたことだから構わない。
だが自分の願いを叶えるために、どんな効果のある道具かも知れないものを他人に命じられるまま使ったことは許せん…!!
それで俺が命を落としていても、おまえは〝知らなかった〟で済ませるのか…!?
ティトレイはテーブルに額を擦りつけるようにして何度も俺に詫びると、やがて突っ伏した格好のまま噎び泣き始めた。
それを見た俺は堪らずに席を立ち、なんとも言えない失望感を抱えて控え室の外へ出ることにしたのだった。
当然、クルンは俺の後についてくる。
「オド様…大丈夫ですか?」
「は…大丈夫、ではないな。」
ティトレイがあんな奴だったとは…同情はしても腹が立つ。
属性検知機や魔吸珠について俺に説明する時、イーヴは必要もないのに先に自分で試したと言っていた。
安全性の確認できない物を人に勧められるわけがない、そう言って…
その片鱗だけでも、イーヴがどれほど俺を大切にしてくれていたかが良くわかる。
裏切られたこともそうだが信じた人間に殺されかけた挙げ句、そのイーヴ達に罪の意識を持たせる羽目になったことが最も許せなかった。
俺が馬鹿だったせいだ…
「テリオスクルムの見学はおやめになりますか?」
「――いや…それとこれとはまた別だ。少し頭を冷やすから、暫くここで一人にしておいてくれ。」
「…はい、畏まりました。」
――これが少し前のティトレイとのやり取りだった。
俺をここに連れて来るというナトゥールスの願いを叶えたことで、代わりにティトレイの目と足が治るのなら…俺との縁がこれっきりになってももう問題はないだろう。
イーヴとトゥレンには…悪いことをしたな。今になって思えば、あの時イーヴは魔吸珠の件で既にティトレイに対し疑いを持っていたんだろう。
だから早々に紅翼の宮殿から追い出したのだ。
そんなこととも知らずに、俺はイーヴをどう思い、なんと言った?
『そんな勝手な…礼儀知らずにも程がある!!』
『――相手に対する思いやりもへったくれもない。』
『そうか、ならさっさと出て行け。』
『今後は許可なく直接ここを訪ねることを禁じる。』
思い出せるだけでも、俺が投げかけたのは酷い言葉ばかりだ。
カルバラーサへ来てからの俺は、どういうわけかイーヴ達に対して後悔の念を抱いてばかりいる。
これほど長期間離れたことなどなかった所為なのか…なにかにつけ頻繁にヨシュアを含めた三人の顔が思い浮かぶのだ。
エヴァンニュに帰りたいと思っているわけではないと言うのに――
「オド様、信徒の清めが終わりました。この後宵の間に移動します。」
「あ、ああ…そうか。」
ティトレイとナトゥールス、それと儀式の手伝いをする役目の信徒達は、清めの間の後方にある別の出入り口から移動するようだが、俺とクルンは単なる見学者であり、通常の出入り口から通路へ出て宵の間に向かう。
「あの…先程の話ですが、聞こえてしまったので伺ってもいいですか?」
「ああ、構わないが…なんだ?」
「オド様はリーグズ信徒と親しくされていたようですが、エヴァンニュ王国で魔吸聚珠により殺されかけたと仰っていましたよね。」
「…まあ、そうだったようだな。ティトレイにそんなつもりはなかったらしいが、知らなかったとは言え、実際に俺は死ぬかと思うほどの酷い苦痛を味わわされたのは確かだ。」
「――魔吸聚珠による死亡確率がどのくらいかを御存知ですか?」
「いや、詳しくは知らない。」
「九割越えです。」
「…九割越え?つまり…」
イーヴめ…俺に気を使って、太陽の希望から得た正確な情報を伝えなかったな。――あいつらしいが…
「生存者はまずいないんです。それだけに禁呪扱いとされている魔法でもあるのですが…御存知なかったんですね。」
「ああ。」
命令を受けただけのティトレイはともかく、カルワリアの方は…知らないはずがなかったな。
あの件の真相がこんなところで一部判明するとは予想外だが、すり替えで俺が死んでも構わなかったということなのか?――これまでの行動とは随分矛盾している。
「そうか…生存者はまずいない、か。ならば俺は相当運が良かったんだな。」
「文字通り人命を吸収するにも等しい凶魔法『ライフドレイン』は、運だけで生き残れるような魔法ではないんですけどね。…僕が伺いたいのはそのことではなく、それによって殺されかけたのに、オド様はリーグズ信徒を許せるのかどうかということなんです。――僕がオド様の立場なら、あんな風に泣いて謝られても絶対に許せないと思うので。」
険しい顔をして、クルンはそんなことが聞きたかったのか…意外だな。
「…そうだな。裏切られたことに傷ついたし、失望もした。その上さらに殺されかけていたと知り怒りも湧いている。だからティトレイの願いがこのテリオスクルムで叶った後は、もう縁を切るだろう。少なくとも以前のような関係に戻るのはもう無理だ。」
「恨んで当然です。怒らない方がおかしいですよ。」
「いや、恨む気持ちはあまりない。俺が縁を切りたいと思ったのは、ティトレイの行いで他の人間が精神的に傷ついたからだ。まあ、最も悪いのは俺であり、ティトレイだけの所為ではないんだが…」
「ふうん…そうなんですね。(もっと恨めばいいのに)」
ふうん、って…なんだか続く心の声まで聞こえたような気がするが、クルンにしては変わった反応をする。…なにを思って俺にそんなことを尋ねたんだ?
ふとクルンの目に浮かんでいる光がどこか暗く澱んでいるように見えて、俺は一抹の不安を感じた。
「俺の気持ちに寄り添ってくれるのは嬉しいが、クルンまでティトレイを悪く思う必要はないからな。」
そう付け加えてみたが、クルンはいつものように〝わかりました〟とはなぜか返してくれなかった。
――午後四時になり、宵の間でテリオスクルムが開始された。
それを見て俺は初めてこの広い部屋の床や壁、天井までが紺色をしている理由を知る。
『宵』とは日が暮れて左程夜が更ける前の、夜空に無数の星が瞬き始める時間帯のことを言う。
そしてこの部屋がその『宵』の『間』と名付けられた理由は、この広間を広大な夜の世界に見立て、見たことのない魔法を使用するからだった。
その手順としては先ず初めに、俺の腕のグルータバングルにも使われている〝宝石〟を床に散蒔いてから、それらを様々な形をした特殊な図形に見えるよう、虹色の粉を使って線を引きながら配置して行く。
すると宝石は結ばれた線により形を成した時点で様々な色を放ち始め、同時に紺一色だった床へ吸い込まれるように同化したかと思うと、無数の星の瞬きのように光り出す。
次に部屋の中央へ変わった文字のような記号を描いて行き、その上にティトレイが横たわらされた。
ティトレイは白い一枚布を左右の紐で留めただけの衣装を身に着け、香炉に焚かれた煙を吸い深い眠りについていく。――これで前準備は完了らしい。
「「ではティトレイ・リーグズ信徒のテリオスクルムを始めます。」」
エヴォケーションで神を降ろしたままのナトゥールスは、女性のものと男性のものとが混ざり合った声で儀式の始まりを告げる。
眠りに落ちたティトレイを中心にして、頭上に立つナトゥールスを起点に五方向から左回りへ順々に信徒達が呪文を唱え始めると、その全員が身体から清めで見た青い光を放ち始めた。
«あの青い輝き…闘気とは違うみたいだが、なんの光だ…?一見すると美しい光なのに、なぜだか俺はあれを見ているだけで嫌な気分になって、ざわざわと胸騒ぎまでしてくる。»
「綺麗ですね…オド様。」
俺の横でクルンが青い光を見つめて、ほう、と感歎の息を漏らした。
「実は僕…テリオスクルムを見るのはこれが初めてなんです。」
「そうなのか?」
「はい。普通は当事者と関係者以外入れて頂けませんので…僕まで見学を許されたのはオド様のおかげです。」
クルンは小声で俺にそんなことを耳打ちすると、嬉しそうに笑顔を見せた。
俺のおかげ、か…成り行きでそうなっただけで、なにもしていないんだがな、と俺は苦笑する。
それにしても神秘的な光景だな。星の瞬く夜空は見上げたことしかないが…もしも遥か空の上のさらにもっと上から見た場合、こんな風に紺一色の空間に数え切れないほどの光の粒が散らばっているように見えるのだろうか。
だとすると『宵の間』とは、実に適切な名前だと思う。
――やがてナトゥールスの魔法が佳境に差し掛かると、青い光がティトレイの身に集まってその全体をすっぽりと覆い始めた。
すると次の瞬間、宵の間全体がぐにゃりと歪んだように見え出し、どういうわけか儀式とはなんの関係もないはずの俺に奇妙な影響が出始める。
う…なんだ?目が回る…気分が――
「…オド様?もしかしてご気分が悪いんですか?」
儀式の邪魔にならないよう、クルンは囁き声で俺に耳打ちをする。
「ああ、おかしいな…、なんだか急に目が回って――」
心配するクルンに自分の身体がおかしいことを伝えようとした次の瞬間、俺は自分がどこかに向かって物凄い速さで急降下して行くような錯覚に陥った。
ギュンッ
なっ…落ちる――!?
――その直後から俺の周囲は暗転し、目まぐるしく超高速で光と闇が交互に入れ替わり始めた。
視界が明るくなったり暗くなったりを何度も何度も瞬間隔で繰り返しながら、それがどこなのかを確かめる間もなく〝様々な場所〟の景色がパパパパパパ、と連続して流れるように目の前を過ぎ去った。
それはパチパチと瞬きするごとに眼前へ掲げられた絵画が次々横滑りしながら変化するような感覚であり、高速で移りゆくのは街や城、どこかの部屋や林の中など膨大な数の風景だった。
クルン!!俺になにが起きているんだ!?…返事をしてくれ!!
そう叫んでみるも声にはならず、クルンからの返事も聞こえて来ない。俺はただただ為す術もなく下へ下へと見えない力に身体を引っ張られながら、底なしにどこかへ落ち続けた。
そのあまりの速さに、視界に映る景色はやがてただの線となってしまい、自分が今どうなっているのかさえわからなくなる。
どうすればいい…!?止めてくれ、誰か――!!
そうしてひたすら落ち続けた俺は、そのまま見えない境界線のような〝なにか〟を越え、宵の間と同じ濃紺の空間に無数の星が鏤められた、果てなき場所へと放り出されてしまう。
瞬間、俺の周りに金色に輝く光の粒子が集まってきて、ふわりと温かいものが俺の左腕を掴んだ。
すぐさまぐっと上へ引っ張り上げられたような感じがすると、ようやく落下は止まりその声は辺りから響いてきた。
『――ここから先に行ってはいけない。二度と元には戻れなくなってしまう。』
それはどこかで聞いた覚えのある、穏やかでとても優しい声だった。
温かいその光に包まれてほっと安堵し徐々に薄れる意識の中で、その金色の粒子が人の形を取り出すと、顔や姿は全く認識できないのに、さらりと靡く束ねられた銀色の長い髪だけが見えた。
その銀色の髪は…
『大丈夫だ、目を閉じてなにも見るな…ライ。』
…ルーファス?
「オド様…!」
クルンの声でハッと我に返ると、俺はいつの間にか宵の間の床に右手を着いて蹲っていた。
「クルン…?」
顔を上げると心配して俺の顔を覗き込んでいるクルンが見えた。
目が回るような酷い感覚と気分の悪さが消えている…――幻覚でも見ていたのか…?
ティトレイのテリオスクルムはまだ続いており、その様子を見るに殆ど時間は経っていないようだ。
「大丈夫ですか?ご気分が悪いのでしたら外へ出た方が――」
「ああ、いや…もう大丈夫だ。」
一体なんだったんだ…
俺が気を取り直して立ち上がった直後、宵の間全体が深い海の底にでもいるかのように青く染まると、横たわるティトレイの身体が閃光に包まれていきなり見えなくなった。
「!」
ティトレイ!?
数秒後その光が消えると、信じられないことにティトレイの顔左半分にあった傷は跡形もなく消えており、失われていた左足の膝から下も元通りに治っていた。
ティトレイの足が…本当に元に戻った…!
「――信じられん…」
今の瞬間、なにが起きていた?光に包まれていてティトレイの足がどうやって治ったのか全く見えなかった。
「わあ…!見ましたか、オド様。リーグズ信徒の欠損した足が元に戻っています…!」
さすがはアクリュース様ですよね、とクルンは感涙し、すっかり興奮して心酔している様子だ。
だが俺はケルベロスという教団にまだ疑念を抱いている所為なのか、そんなクルンとは対照的に素直に受け取ることはできなかった。
――俺がこれまで見たことのある治癒魔法は、白い魔法陣に淡い緑色の光を放っていた。
しかし先程のは魔法の種類と属性を示す魔法陣もなければ、対象者の上に浮かび上がるはずの魔法紋と魔法石を使った時にでさえ必ず伴う魔法光も一切見えなかった。
そのことからしても治癒魔法云々の前に、現在のフェリューテラで使われている通常の魔法とは全く異なる術なのかもしれん…
だとしたら、どういう類いの魔法なのだろう?
知識の乏しい俺ではどこがどう危険だと感じるのかさえ説明するのも困難だが、なんとなく本能的に嫌な感じがして仕方がない。
最初に見えたあの歪みといい、儀式とは全く関係のない俺に突然影響が出たことといい…ナトゥールスの力とケルベロスについて、俺はまだもっと知る必要がありそうだ。
――結果としてこの日、ティトレイのテリオスクルムは確かにティトレイの願いを叶えたが、俺は失われていた左足が元に戻ったのを目の当たりにしても、奇蹟を見たという感動も湧かなければ、拍手喝采で素晴らしい、と即入信したくなるほど褒め称えるような気分にも最後までなれないままだった。
翌朝ナトゥールスとの朝食の席で、俺はテリオスクルムで見たあの青い光について尋ねてみた。
「――あの青い光の正体がなんなのかを知りたいのですか?」
「ああ。俺達フェリューテラの生物は、時折身体から固有の光を発することがあるだろう。それは生命光と言われる『オーラ』だったり、俺のような人間が発する『闘気』だったりもするが、あの青い光は見た目が綺麗でもなにか得体の知れないもののように感じた。」
「…そうですね、あなたのその感覚はある意味正しいのかもしれません。あの青い光はフェリューテラの自然界に通常存在しているものではありませんから。」
「つまりどういうことだ?」
ナトゥールスは意味ありげにニコッと微笑んだ直後、またガラリとその表情を一変させる。
それを見た俺は思わず怯んで身体をビクッと揺らしてしまった。――どうも俺はナトゥールスのこの瞬間的な変化には慣れないようだ。
変わるのは目に浮かぶ感情の光と表情だけに過ぎないのだが、いきなり別人の相手をするような錯覚を起こすせいだろう。
エヴォケーションのように外見が変わるでなし、どこがどう違うと言うわけではないのだが――
「オドもエヴァンニュ王国の王族であるのなら、アンドゥヴァリのような『フィアフ』を知っているでしょう。――あれの動力源となる未知のエネルギー…あの青い光は、それらと同じ物です。」
「な…あの光が…!?」
『フィアフ<異界から来た人工因子>』とは、フェリューテラではないどこか別の世界から齎されたとされる『異界の産物』であり、フェリューテラの現代の技術では同じ物を作り出すことは不可能だと言われている。
特にアンドゥヴァリほどの巨大な物体を空中に浮かべられるほどのエネルギー源は、この世界のどこを探しても存在していないのだ。
それなのに…あの動力源と同じものだと…?あの青い光が…?
俺はナトゥールスからそう聞いて、あの青い光を見た時に嫌な気分になり胸騒ぎを覚えた原因にようやく気がついた。
そうか…あの青い光は、ヘズルが滅んだ時に炎の中に紛れて見えたあの光と同じものなんだ。…だから俺は――
「………」
「…どうしました?オド。」
「ああ…いや、なんでもない。」
…まさかエヴァンニュとゲラルドの戦争に、ケルベロスであるカルバラーサが密かに関わっている…と言うことはないだろうな…?
「昨日のテリオスクルムについて聞きたいのはそれだけですか?知りたいことがあるのなら、遠慮なく尋ねて構わないのですよ。」
「そうか…ならば聞くが、ティトレイの身体を治したあの魔法は、どう言った類いの術なんだ?俺の知る治癒魔法とは全く異なる種類の魔法に見えたが…」
「――さすがですね。」
「…なに?」
「あなたは魔法を使えないのにそれらに関する知識を殆ど持たずとも、私の使用した術が通常とは異なるものであることに気づくのですから。」
ナトゥールスはいつものように静かに紅茶を啜りながら続けた。
「あなたの言う通り、確かにあれは治癒魔法ではありません。そうですね…アクリュース様を降ろしている状態の私だからこそ行える、〝特殊な術〟だとだけ答えておきましょうか。」
「あの青い光…あれと関係はあるのか?」
「もちろんです。」
「あれがフィアフの動力源と同じだと言うが、その正体はなんなんだ。」
「〝神力〟…〝エーテル〟と呼ばれる異界の力ですよ。」
「エーテル…」
神力?異界の力…
「今のあなたに教えられるのはまだそれだけですが、ついでに私からも聞きたいことがあります。クルンから報告は受けていますが、あの時あなたは気分が悪くなったと言って少しの間蹲っていたそうですね。その時あなたの身になにか異変は起きませんでしたか?――例えば、見知らぬどこかへと延々落ち続けて行くような幻覚を見た…とか。」
「!!」
「…どうです?」
俺の反応を確かめるようにして、ナトゥールスは冷徹な視線を向けている。
あれはおまえの仕業だったのか…!?
「その反応…〝視た〟のですね?――『永遠の彼方』…『エタニティ』を。」
「エタニティ…?――良くわからないが、俺が見たのは宵の間と同じような〝果てのない紺色の空間〟だけだった。それが貴殿の言うその『エタニティ』なのか?」
ガチャン、と大きな音を立て、ナトゥールスはガッカリした顔をしてソーサーにティーカップを置いた。
「…いいえ、違います。」
「…?」
また表情が変わったな。こういう状態の精神障害をなんと言ったか…
ああ、そうだ…『二重人格』だ。
「――もしあなたがそれを見た上で戻って来たのなら、私達の願いは叶えられたも同然だったのですが…そう簡単に行くはずはありませんでしたね。」
「さっきからなにが言いたい?きちんと俺にもわかるように説明しろ。」
勝手に独り言を呟き、勝手に落胆している様子のナトゥールスを見て、俺は苛立った。
――が、ナトゥールスは徐に席を立つと、食事の途中でテーブルを離れようとする。
「ナトゥールス、まだ話は途中だぞ!!」
「…すみません、オド。…少し気分が悪くなってしまったので失礼します。…ごめんなさいね。」
俯きがちに背中を向けたままそれだけ言うと、ナトゥールスは意気消沈したように一度も振り返らず、そのまま食堂を出て行ってしまったのだった。
『永遠の彼方』…『エタニティ』…?
ナトゥールスの態度からするに、昨日のあの奇妙な体験は単なる幻覚じゃなかったようだな。
『――ここから先に行ってはいけない。二度と元には戻れなくなってしまう。』
一瞬だけ見えた銀色の髪…
あれが本当にルーファスだったのかどうかを今すぐ確かめることはできないが…もしルーファスが俺の腕を掴んで止めてくれなければ、一体俺はどうなっていたんだ…?
『その反応…〝視た〟のですね?――永遠の彼方…エタニティを。』
ゾクッ…
…それを知る由もないが…あれが本当にルーファスだったのなら、俺はまた彼に助けられたのかもしれない――
背中に覚える強い怖気に、今日を含めてアルケーのテリオスクルムまであと残り四日、果たして俺は無事でいられるのだろうかと思い始めていた。
「オド様、ティトレイ・リーグズ信徒から、カエルレウム宮の受付へ面会の申し込みが来ているそうです。どうなさいますか?」
「ティトレイから?」
――そう言えば足が治ったのは外見を見てわかったが、左目がきちんと見えるようになったのかまでは確かめられていないな。
昨日ティトレイはあのまま新しく与えられた住居の方へ帰されたようで、目を覚ました後に会うことはできなかった。
わざわざ俺から絶縁宣言をする必要はないが…最後にもう一度それを確かめて、以降はもう会わなければそれでいいか。
どの道ティトレイもアルケーも今後はカルバラーサに残り、マギアピリエに住むことになったのだからな。
「わかった、会おう。」
「え…会われるんですか!?」
クルンは酷く驚いた顔をして返した。
「ああ。」
「でも昨日は縁を切られると仰っていたではないですか…やめた方が良いです…!!」
その上になにやら不満げに口まで尖らせている。
昨日も俺を気遣ってくれているような節が見えたが…また俺が傷付くのではないかと心配してくれているのか。
「最後に左目が見えるようになっているのかだけ確かめたいんだ。それを確認したら次からは面会を申し込まれてももう会わん。」
俺がカルバラーサを離れれば、それこそ会う機会は完全になくなるだろう。
「ハア…わかりました、ではこれ以上オド様が情に絆されたりしないように、僕もお供します。」
「そんなに心配しなくてもいいだろう。」
「僕はオド様の護衛なので、どんなことからもお守りする義務があるんです。」
「はは…そうか、それじゃあ仕方がないな。」
クルンには敵わないな…もしここにジャンがいたら、二人は良い友人になっていたかもしれない。
――不満げだったクルンと一緒にカエルレウム宮のすぐ外にある、俺の滞在部屋から見えたあの屋上庭園へ向かうと、その一角にある東屋でティトレイが見覚えのない若い女性と共に俺を待っていた。
「ライ先輩、ここです!」
清めの前に俺の目の前でテーブルに突っ伏して泣いていたことも忘れ、ティトレイはこの世の幸福の全てを手にしたかのように、満面の笑みを浮かべて俺に手を振っていた。
それを見たクルンは忽ち顔を顰める。
「…クルン。」
俺はポン、とクルンの頭に手を乗せて軽くその髪ごとくしゃりと撫でた。
するとクルンはなにか言いたそうに口を開きかけたが、ぐっと言葉を飲み込んでぷいっと俺から顔を背ける。
こう言う所もクルンは、なんとなくジャンを思い出させた。
クルンを連れてティトレイに近付くと、その傍らに寄り添っていた若い女性がぺこりと俺に会釈をする。
俺より二つか三つくらい年が下に見える、二十歳そこそこくらいの大人しそうな女性だ。
「――左目と元に戻った足の調子はどうだ?ティトレイ。」
「ご覧の通りです!おかげさまでテリオスクルムを行って頂けたんです、先輩には感謝の言葉しかありません…!!」
「…そうか、良かったな。」
しっかり目も見えるようなったらしいな。複雑な心境ではあるが…これはこれで良かったと思うべきだろう。
「ところで横の女性は恋人か?」
「はい。」
「いつの間に作ったんだ。ここへ来てからのはずはないから…まさかエヴァンニュで?」
「そうです。先輩をお連れしたあの馬車にも一緒に乗っていたんですが…気付きませんでしたか?」
「?…そうだったか?」
――おかしいな…職業柄一度見た顔は頭の片隅にでも必ず残っているはずなんだが…見覚えがない。…本当にあの中にいたか?
「シェケルと申します。」
「覚えてなくてすまない。」
「いいえ、気にしないでください。」
にこっと微笑んだその女性の笑顔に、違和感を抱く。
この笑い方…ナトゥールスのあの微笑み方と似ている。…あまり良い感じはしないな。
以前の俺ならティトレイを心配し、それとなく気をつけるように警告したかもしれないが…まあもう俺が口を出すことではないか。
恋人だと幸せそうに紹介しているのに、余計なことを言って気分を害する必要はないだろう。
「彼女とは教団に入ってから知り合ったんですが、目が見えるようになって身体も元通りに治ったので結婚することにしたんです。」
「結婚…そうか、それはおめでとう。」
「ありがとうございます。それでその…できればライ先輩には式に出席して欲しいんですが…無理でしょうか?」
なんの用があるのかと思えば、自分の幸福を見せびらかしたくなったのか…それとも俺がナトゥールスに特別扱いされているからなのか?
一度裏切られて殺されかけた所為もあり、俺はいつの間にかティトレイのことを好意的に見られなくなっていた。
面会を申し込まれても会うべきじゃなかったな…ティトレイの目に打算が透けて見えるような気がして、酷く不快な気分だ。
「今日明日にすぐ行うわけではないんだろう?悪いが出席は難しいだろう。俺はいつまでもここにいるわけじゃないからな。」
「「「!」」」
「え…ライ先輩、まさかエヴァンニュに帰るんですか…!?」
「いや、行き先などはまだどうするか全く決めていないが、アルケーのテリオスクルムを見届けたらすぐにでも一度カルバラーサを出ようと思っている。」
「こんな楽園のような場所から出て行くって言うんですか!?どうして…!!」
食い付くように俺の腕を取ったティトレイに、不快感を持ってその手を振り払った。
「――おまえにとってここは楽園なのかもしれないが、俺はケルベロスの信者でもなければ宗教に興味もない。それにおまえは俺がここへ来たくて来たわけではないことすらももうすっかり忘れたようだな。」
「でも先輩…アクリュース様は先輩を必要とされているのだと仰いました!!せっかく俺とユーシスが苦労してここまでお連れしたのに――」
「だからなんだ?そこに俺の意思は初めからないだろう。おまえは俺を怒らせたいのか、ティトレイ。」
「あ…いえ、そう言うわけでは…」
結局こいつも自分の利益のためなら、もう俺のことなどどうでもいいんだな。
本当に…クルンの言うことを聞いて会うのをやめておけば良かった。
「できればこんなことは言いたくなかったが、勝手に憲兵所から連れ出して半ば強制的に俺を連れて来たんだ、自分の願いが叶っただけで満足しておけ。頼むからもうこれ以上俺を失望させるな。」
「ラ、ライ先輩…」
「悪いがおまえには二度と会いたくない。次からは面会にも応じる気はないから、申し込みもしないでくれ。――結婚おめでとう、元気でな。」
俺は酷い失望感を胸に抱えながら踵を返してその場を後にした。
スタスタとティトレイ達に背を向けて去って行くライを見て、振り返ったクルンは凄まじい憎悪の籠もった目をティトレイに向ける。
「…っ」
それを見たティトレイは、まだ子供にも思えるクルンからのあまりにも強い殺気にたじろぎ、怯えて後退ったほどだった。
程なくしてクルンはティトレイの横に立つ恋人の女性…〝シェケル〟を一瞥すると、ギリッと歯噛んでライの方へ向き直り、急いでその後を追いかけるのだった。
「オド様、待ってください…!」
はあはあと息を切らして俺を追ってきたクルンに、足を止めて振り返る。
「――悪かった、クルン。やめておけと言われたのに…おまえの言う通りだったな。」
俺は今、どんな顔をクルンに向けているだろう。…きっと情けのない顔をしているのだろうな。
「オド様はそれでもまだリーグズ信徒を恨まないと仰るんですか?」
本当に失敗した。クルンにこんな顔はさせたくなかったんだが…
クルンは自分のことのようにその顔へ怒りを滲ませていた。
――これも俺の所為だな。
「逆に聞くが、恨んでどうする?いつまでもあいつに対する不満を抱えたままでは、ずっと気分が晴れなくなるだけだろう。この程度の嫌なことはさっさと忘れてしまった方がいい場合もある。だからもう…いいんだ。」
「…でも僕はリーグズ信徒を許せません。(――裏切り者に幸せになる資格なんてないんだ。)」
「クルン…?」
今なにか呟いていたようだが…良く聞き取れなかったな。
「……なんでもないです。――そうだオド様、今日はこれから子供向けの魔法学校を見学に行ってみませんか?魔法について詳しく知りたいと仰っていたでしょう。」
「魔法学校か…ああ、いいな。子供向けなら知識に乏しい俺でも聞いているだけで内容が良くわかるかもしれない。」
「では早速行きましょう、ご案内します!」
気を取り直して笑顔を見せてくれたクルンに、俺は少しホッとしたのだった。
次回、仕上がり次第アップします。いつも読んで頂きありがとうございます!




