236 一番目の獣 ①
ヴァハの村からライが姿を消しました。その日村近くの森で火災が起き、完全に鎮火するまで二日もかかってしまいました。その間もライは戻ってくることがなく、閉鎖的なヴァハの村では余所者に当たるトゥレン達を遂には住人達が追い出す事態になってしまいました。そうして消えたライを捜しつつ、ヴァハを出てメクレンへやって来たトゥレンとペルラ王女は、髪と瞳の色を変える魔法石を入手していなくなったライを捜しますが…?
【 第二百三十六話 一番目の獣 ① 】
――エヴァンニュ王国の南部にあるヴァンヌ連峰への玄関口に辺り、学術街としても知られる『メクレン』の一角にその二人の姿はあった。
できるだけ人目を避け、警備兵や憲兵を見かけては素早く建物の影へ身を隠し、そうして慎重に方々を探し回った男は、ようやく〝ある物〟を手に入れる。
「これが外変石<クルール>ですか…」
フードを目深に被り、肩口から狐色の長い髪を覗かせる女は、渡されたそれを手に呟いた。
「ええ。闇市で購入したのでかなり高くつきましたが、俺の所持金でも十分な数を購入することができました。これは上級魔法石と違い髪と瞳の色を変えるだけの物なので、顔かたちまで変化させることはできません。ですから運悪く知人に出会せば気付かれてしまう危険もありますが、それでもフードを被ってコソコソするよりは警備兵にも怪しまれ難くなるでしょう。」
そう言うと男は早速それを手に魔法を発動する。すると男の茶髪は色を変え、黄緑の瞳は見る間に変化して行く。
「俺は赤毛とありふれた茶系の瞳に、ルラ様はくすんだ薄茶に瞳のお色を同色にしましょう。衣服もこの街の衣料品店で購入した物に着替え、御髪は町娘のように高い位置で一つに結んで頂きます。よろしいですか?」
「わかりましたわ、レン様。――では裏手で着替えて参りますね。」
「はい。」
言うまでもないかもしれないが、この男女はトゥレンとペルラ王女の二人だ。
――時はルーファス達がツェツハに魔法障壁を張り直す、半月ほど前にまで遡る。
ヴァハの村長宅に身を寄せていたトゥレンとペルラ王女、そしてすっかり人が変わったようになっていたライだったが、ある日トゥレンが守護者として村を襲撃して来る魔物討伐に協力していた間に、寝台から出ようとしなかったライの姿が消えていた。
そのことに気付き慌てたペルラ王女が急いでトゥレンへ知らせに走ると、直後村から離れた場所で爆発音が響く。
ドオンッ、という音と共にヴァハの南方『ヴァンヌミストの森』から、もうもうとした黒煙と天まで焦がす勢いの激しい火柱が上がったのだ。
その異変に騒然となったヴァハの村では直ぐさま多くの人手が集められ、手押し車に水の張られた大樽を幾つも用意し消火隊が組まれた。
ヴァンヌミストの森はその一部がさらに南へ広がるラビリンス・フォレストと一体化するように繋がっているのだが、ラビリンス・フォレストは精霊族の領域であるため精霊に守られており、炎が広がることはない。
無論そのことをヴァハの住人達は知らないが、それでもヴァンヌミストの森で火事が起き火が燃え広がれば真っ先に村へ危険が及ぶことをわかっていた。
そのためヴァハの村では昔から森の中で火を使うことそのものを禁じており、過去に落雷以外で火事が起きたことは一切無かったのだ。
原因不明の爆発によって突如発生したその火災は、結局二日後に土砂降りの雨が降るまで完全に鎮火することは出来ず、ヴァハの村までは至らなかったものの森の半分近くが焼け野原となってしまったのだった。
そしてこの後、トゥレン達を思いも寄らない事態が襲う。
村人達が爆発の起きた原因や火元と思われる場所を調べてなにもわからなかったにも拘わらず、排他的な住人の一人が森へ入って行く黒髪の男を見たと騒ぎ出したからだ。
現在ヴァハの村にいる黒髪の男と言えばライしかおらず、火災とは無関係だと身の潔白を訴えようにも肝心の本人が姿を消してしまったのでは話にならない。
そうして元々ライやトゥレン達に対して快く思っていない一部の村人達は、挙ってライが火をつけたに違いないと騒ぎ立て、すぐに収拾のつかない事態へと発展してしまう。
もちろん二人はライがそんなことをするはずはないと必死に説得を試みたが、ライの素性は疎か自分達の本名さえ打ち明けるわけには行かず、ライもそれきり戻って来ないことから、結局は追い出されるような形でヴァハから出て行くことになったのだった。
«黒髪の男が森へ入って行く姿を見たと言ったのは一人だけで、俺と王女が聞き込みをしても他の村人達はライ様を見かけていなかった。
初めから嘘だと決めつけることこそ出来ないが、たとえ本当にライ様が森へ入る姿を見たのだとしても、それが火をつけたという証拠にはならん。
それにライ様が御自身の命を救ってくれた恩ある村へ、一歩間違えば大惨事にもなり兼ねない仇で返すような真似をなさるはずがない。
爆発も火災が起きたのも、きっとなにかの自然現象だ。そうだ…、そうに違いない――»
――トゥレンは自分も購入した衣服へ素早く着替えながら、そう言い聞かせるようにして胸の奥に蟠る一抹の不安を振り払った。
「レン様、着替えましたわ。――おかしくないでしょうか?」
魔法石で髪と瞳の色を変え、後頭部の高い位置で長い髪を束ねたペルラ王女は、シェナハーン王国の王族として他者へ項を見せるような髪型は敬遠されるため、首の後ろが気になると言いつつも、トゥレンへ恥じらうように微笑んだ。
「こう言ってはなんですが、そのような平民の着る衣装も良くお似合いです。身に着けられた所作や立ち居振る舞いなどは隠しようもございませんが、民間人に紛れてしまえば上手く誤魔化せるでしょう。」
「そ、そうですか…」
にこやかに笑んでそう言ったトゥレンに、ペルラ王女は照れ臭そうに頬を染める。
「では行きましょうか。先ずは人通りの多い場所へ出て、ライ様の目撃情報を探します。徒歩でもない限りどこへ向かうにしても、このメクレンを経由しなければならないはずです。ライ様の黒髪は珍しいですから、もしここへ来たのなら誰かしら覚えている住人がいるでしょう。」
「ええ…」
トゥレンの言葉にペルラ王女はほんの一時、その表情を曇らせた。
「ルラ様?」
その様子に気付いたトゥレンはどうしたのか、と言う顔をして首を傾げる。
「その前に…レン様、少しよろしいでしょうか?」
「はい…なんでしょう。」
ペルラ王女はこの話をするのなら今しかないと意を決し、顔を上げて深刻な表情で口を開いた。
「ライ様のお変わり様は既にレン様もお気づきだと思いますが…あのライ様は、本当に私達の知るライ様なのでしょうか。」
「え…?」
予想外の話を振られた、とでも言うようにトゥレンはその表情を固く強張らせる。
「日も経っているのに今更なにを…とお思いでしょうね。ご無礼を承知で申し上げたいのですが…私、再会してからのライ様がなぜだかとても恐ろしいのです。」
王女は堰を切ったようにこれまでライの傍にいて感じていた、〝わけのわからない怖ろしさ〟について言葉を選びながら訴える。
それによるとライと二人きりになった際に背中を向けて作業をしていると、不意に得体の知れない恐ろしいものが飛びかかって来て、自分を深い暗闇へ引き摺り込もうとするような錯覚に何度も襲われていたのだという。
「一見して冷たそうに見えた態度やお言葉も見せかけだけであり、真のライ様はお優しく思いやりある方だと十分存じております。ですがあの村で目覚めて以降一言も話そうとされないあの方は、以前とどこか異なってゾッとしてしまうことさえあるのです。」
「ルラ様…」
「ライ様がいなくなられた日、お召し上がりになられない食事には香草が使われていると申し上げましたわね。」
「ええ、はい…」
「どうかお怒りになられず聞いて下さい。一部の上位魔物や魔族などは、元来魔除けにも用いられる香草の入った料理は口に出来ないと言う話を聞いたことがあります。無理をしてそれを食すと身体の内部から焼け爛れ、人が猛毒を呷った時のように悶え苦しむことになるからなのだそうですが、もしかしたらあのライ様は…」
そこまで言って王女はハッとし、トゥレンが今まで見たこともないほどに険しい顔をしていることから、自分が言うまでもなく薄々不審に思っていて敢えて口に出さなかっただけなのだと理解した。
「――あれはライ様ではないと…そう仰るのですか?」
もしもペルラ王女の言う通り、あれがライの振りをした〝なにか〟であるのなら、ライ本人が無事である可能性はかなり低くなる。
もしやトゥレンもそう思っているからこそ、異変に気付いていても普段通りに振る舞っていたのではないだろうか。
王女はそうトゥレンの気持ちを察し、言うのではなかったと後悔する。
「……わかりません。魔物や魔族の中に、あそこまでそっくりに成り代われる能力を持つものが存在するなど、聞いたことがないのです。ですが私の知識が及ばない存在がいるのかもしれませんし…まだ断言は出来ないと申し上げるしかありませんわ。」
「………」
王女から視線を逸らして黙り込んだトゥレンとの間に、暫し気まずい沈黙が流れる。
その後先に口を開いたのはトゥレンだ。
「…わかりました。ルラ様がそう仰るのでしたら、ライ様を見つけられた後にはわざと香草料理を召し上がって頂くことにしましょう。俺の知るあの御方は決して食べ物を粗末になさらない方でした。好き嫌いも殆どなく、香りの強い料理がお嫌いだなどとは聞いたこともありません。」
「レン様…」
トゥレンは目を閉じ、ライがなにも言わずに姿を消したこともあり、王女の言うことを否定は出来ないと自分に言い聞かせた。
「とにかくライ様の行方を追いましょう。――先ずはそれからです。」
――外見を変えることが可能な魔法石を使用したことで顔を隠さずに人混みを歩けるようになった二人は、早速メクレンのギルドや商店、飲食店などに立ち寄り、年は二十代前半の黒髪男性を見かけなかったかと住人達に尋ね回った。
しかしライが最も寄る可能性の高い魔物駆除協会は疎か、どこの宿や商店も黒髪の人物を見かけた覚えはないという。
「駄目ですわね…これほど多くの人が行き交っているのに、どなたもライ様を見かけていないようです。」
「ええ…」
二人で一旦休憩を兼ね公園のベンチに腰かけると、トゥレンはボトルの水を飲みながら考え込んだ。
長期間寝台から出られておらず、通常であらば身体を動かす訓練もせずに遠くまで行けるはずはない…まさか目撃証言の通りに森へ入られ、街とは逆方向のラビリンス・フォレストへ行かれたわけではないだろうな。
必ずメクレンへ向かうはずだと思い込んだ俺が間違っているのでは――
「こうなれば少々危険かもしれませんが、メクレンの警備兵に人を探していると尋ねてみましょうか。街門の監視を担う地元の彼らなら、街に出入りする人間をしっかりと覚えている可能性は高いですから。」
「そうかもしれませんが大丈夫でしょうか…?」
「俺が一人で聞いて来ます。ルラ様はどこかでお待ちになられて…」
その時、傍を通りかかった若いカップルの女性が道端で短い悲鳴を上げる。
「きゃっ!嫌だわ、また鳥が死んでる…!これでもう五羽目よ?それも野鳥ばかり…」
「ああ触るなよ、なにかの病気に罹って空から落ちて来たのかもしれない。裏の家でも昨日そんな話を聞いたんだ。なにか悪いことが起きる前触れじゃないかってお袋が…」
そんな会話が聞こえて来た。
「レン様…!」
トゥレンとペルラ王女は顔を見合わせると、二人が立ち去ってすぐにベンチから立ち上がり、女性が見ていた道端の草叢に落ちている小鳥の死骸を調べる。
「…ヴァハの村と同じですね。外傷はなく突然命を落としたかのように硬直して息絶えています。」
「ライ様が姿を消された翌日と昨日は鳥の囀りが戻っていましたわ。もしかしたらとは思っていましたが、まさかこれは…」
「………」
«――やはりこれはあの方のなされたことなのだろうか…?だとしたらメクレンにいらした可能性はかなり高まるが…»
そう思いながら顔を上げるトゥレンは、チチチチ、と鳴きながら公園の木に留まって小鳥同士が小競り合いをしたり、毛繕いをする可愛らしいその姿を見て微笑むのではなく目元を歪めた。
あの日すぐ近くの木に留まっていた野鳥がいきなり命を落としたのにも拘わらず、ライが窓の外を眺めてまるで笑っているかのように見えたのを思い出しているからだ。
「この公園には小鳥がいることから、既に街を発たれた後なのかもしれませんね…警備兵を訪ねるのは止めてシャトル・バスの停留所へ行ってみましょう。」
「はい。」
そう言って立ち上がると、トゥレンとペルラ王女は交易地区へ向かって足早に歩き出した。
――それにしても、なぜ鳥だけなのだろう?それも家畜用の鶏などは無事だったのに、人里の極身近にいる野鳥のみが死んでいる。
王女の言うようにもしも上位魔物か御伽噺でしか聞いたことのない魔族のような存在がライ様の振りをしているのだとすれば、人間には手を出さない上に対象を選んで命を奪うような面倒なことをするだろうか。
それともなにかそうする理由がある、とか…?
幾ら考えた所でイーヴのように博識でない自分にはわかるはずもない。トゥレンは首を振り振りそう諦めた。
その後シャトル・バスの停留所で各路線の運転手や整備士に黒髪の男性を見なかったかと尋ね歩くも、やはりここでもライの目撃情報は得られなかった。
「まさかシャトル・バスを使わずにアラガト荒野へ出られたのか…?」
「今のライ様にその体力がおありだったとは思えませんけれど…この街から徒歩で出られたのならお探しするのはかなりの困難ですわ。」
「そうだとしても俺は諦めるわけに行きません。運転手や整備士が見かけていなくとも、停留所前の出店や近くにある工場の作業員なら――」
王女と話している最中、トゥレンは突然なにかに反応して振り返り、会話が途切れる。
「どうなさいました?」
「いえ…空耳でしょうか、今誰かが俺の名を呼んだような気がして――」
「なにも聞こえませんでしたけれど…本名の方ですか?」
「…ええ。」
外見を変え出来るだけ目立たないよう気をつけているのに、本名を呼ばれれば王女だとてすぐに気づくだろう。
そう思うトゥレンだったが、念のために注意深く辺りを見回してみるも、こちらに注視している様子の人間は見当たらない。
やはり気のせいだったのかと話に戻ろうとしたその時、停留所でガルルルンッと大きな音を立てながら動力駆動を開始し、ちょうど客の乗車を始めたシャトル・バスが目に留まる。
«シャトル・バス…»
「――ルラ様、あのシャトル・バスに乗りましょう。」
「え…ええっ!?」
驚いたペルラ王女は慌てて声を抑えるように両手で口元を覆う。
「いきなりどうされたのですか、なぜ突然――」
「自分でもわかりませんが、今すぐあれに乗った方が良いように思うのです。勘、とでも言いましょうか…間もなく出発するようですね、急ぎましょう。」
「え、あの…レン様!?」
トゥレンはなにかに急き立てられるようにして王女の手を掴み、停留所で乗車券を購入するとそのまま勢い任せに乗り込んだ。
戸惑う王女を置き去りに、トゥレンはさっさと最後尾の長椅子に王女と並んで腰を下ろす。
直後、全ての乗客が乗り込んだシャトル・バスはゆっくりと走り出し、車内アナウンスが流れる。
『本日もご乗車誠にありがとうございます。この車両はメソタニホブ行きです。運行路での魔物による襲撃時は運転手の指示に従い、決して車両の外へ飛び出したりはなさらぬようお客様にお願い申し上げます。到着予定時刻は…』
それを聞いたトゥレンはしれっとして呟いた。
「この車両は鉱山街メソタニホブ行きですか…」
どこへ行くのか行き先を確かめもせず乗り込んだトゥレンに、ペルラ王女は困惑しながら小さく溜息を吐くのだった。
――その頃、トゥレン達が行方を捜しているライの方は、どこか自然洞窟のような穴の奥にある頑強な扉前に立っていた。
フェリューテラでは一般的な鉄ではない、変わった金属製のその扉には、何度か見たことはあってもライがその詳細を知るはずもない、『守護七聖主の紋章』が刻まれている。
しかもその扉には三つのクリスタルが回転する強固な封印が施されており、扉枠を含めた全体が青白い光を放っていて、侵入者を阻む強力な防護結界に守られていた。
その前に立ち腕を組むライは、右手の指先で顎を掴むような仕草をして暫くの間何事か思案に耽っている様子だ。
しかし須臾後、スッと扉の防護結界へ向けて右手の平を翳すように伸ばすと、そこに五十センチ大へ練り上げた漆黒の魔力塊をぶつけるように放った。
ゴッ…バチバチバチバチバチンッ…ゴガガガガガーッ
その凄まじい轟音が洞窟内へ響き渡り、扉の防護結界によって弾かれた魔力塊はそれを放ったライを擦り抜けて岩壁を削り取って行く。
そうして折れ曲がった洞窟内の行き止まりにぶち当たると、壁と天井を破壊して崩落を引き起こし、あっという間に後方の通路を塞いでしまった。
だがライはそれを見ても顔色一つ変えずに無表情のまま平然としており、洞窟から出られなくなったと言うのに慌てるような素振りは一切見えない。
それどころか次は最初の位置より二、三歩後ろへ下がると、さっき放った物よりも数倍巨大な魔力塊を練り上げ、明らかに壁と天井の崩落くらいでは済まなさそうなそれを再び防護結界へ放出したのだ。
ズオッ…ゴゴゴゴゴゴゴ…ゴゴゴオオオオッ
今度はその力が障壁と拮抗し、一度強力な攻撃を弾いて若干弱まっていた封印に、ゆっくりとめり込むようにして亀裂を生じさせて行く。
ビシッ、ミシミシ、ビキビキと厚い氷が軋むような異音が響き、やがて負荷が集中する一点から放射状に広がり始めた亀裂は、遂に防護結界を粉々に砕いてしまう。
――瞬間、結界に込められていた膨大な魔力が解き放たれ、この洞窟のある山全体を大きく動かした。
ズンッ、という縦に襲い来る強烈な震動と共に、トゥレン達の乗っているシャトル・バスは乗客ごと浮き上がる。
突然のことに運転手は揺れる車両のバランスを取ろうと制御装置を動かすも、大地の揺れに伴い車両は大きく左右に振れ、恐慌状態になった乗客達は一斉に悲鳴を上げた。
「きゃああっ!!」
「ルラ様!!」
地震に翻弄されて激しく揺れる車両に身の危険を感じたトゥレンは、騒然となる車内で咄嗟に身を挺してペルラ王女を庇った。
直後シャトル・バスは横転し、視界は何度も天地が逆さまに回転する。凄まじい衝撃音が耳を劈き、座席に強く頭を打ちつけたトゥレンは、王女を腕の中に強く抱きしめたまま気を失ってしまうのだった。
一方、地震を引き起こすほど強引に封印を破壊したライは、扉からその内部へと侵入し、壁に青く光る生きた呪文帯の流れる古代遺跡の中を奥へ向かって歩いていた。
そうしてやがてその巨大な空間に足を踏み入れると、八つの石柱に八つのクリスタルが輝き、そこから全体を覆うように隔離結界の張られた『魔法檻』のある大広間へと辿り着いた。
『――これはこれは…なんぞ外が騒がしいと思えば、千年ぶりの来訪者が斯くも弱き人族とは驚きましたね。』
最初からそれが目的だったのか、躊躇うことなく魔法檻へ近付いたライに、言葉に反してその囚われ人はさして驚いた風もなくそう言った。
白銀の髪に白銀の瞳を持ち、スラリとした長身で年は三十代前半くらいの人族男性に見えるが、明らかに『人成らざる者』の雰囲気を醸し出している。
全身から溢れ出る白銀の魔力は、ルーファスやサイードが一目見ればわかるであろう似て非なる『神力』だ。
それが口にした通りここに囚われてから随分経っているのか、檻の中にはかなり高級な家財道具一式に書棚と机、なにに使うのかわからない道具や調理器具までもが設えられてある。
つまりこの人成らざる者は、もう長いことこの魔法檻の中で暮らしているのだ。
『…おや?』
囚人はライを見てなにかに気付き、椅子から立って障壁越しにその顔を覗き込むと、納得したように口角を上げて目を細めた。
『なるほど…これは失礼をした。口も利けぬほど脆弱だったので徒人かと思いましたが、主上の命にて朕を解放に来たお味方でしたか。――見返りになにをご所望で?』
ライは相変わらず口を開くことは無かったが、虜囚には言いたいことが理解出来るのか、二、三度頷くと一方的に話し続ける。
『結構です、その程度は容易きこと。――取引は成立ですね。この封印は非常に強固であり、今の貴公の力では解除にも休息を挟んで二、三日はかかるでしょう。厄介な邪魔の入らぬうちにお早く願いましょうか。』
虜囚の言葉にライはこくりと頷いた。
『――ああ、それと折角なので人の身で抗い続ける、そこの魂魄には名乗っておきましょうか。』
人成らざる者はなにもないライのすぐ脇へと視線を移し、見えない〝なにか〟へ嘲るような目を向け名乗った。
『朕の名はゼウス・デヌ・カヌウスと申す。主上の御使いたる二十四の内〝一の獣〟を担い、<ティル・ナ・ノルグ>にて〝始まりを告げる白獅子〟とも称されている。――もう会うこともなかろうが、記憶の隅にでも留めておくが良いぞ。』
「…レン様、レン様…!!しっかりなさって下さい…!!」
その淡い緑色の光に癒され、トゥレンは程なくして目を開いた。
ズキズキと痛む頭の傷からは血が流れ、目に涙を浮かべるペルラ王女は治癒魔法を放ち続けている。
横転したシャトル・バスからいつの間にか車外へと運び出されていたトゥレンは、頭部を負傷して王女の手当てを受けている最中であり、身を挺して王女を庇ったトゥレンのおかげで無傷だったペルラ王女は、重傷者の治療を優先した後にようやくトゥレンの治療に入った所だった。
「――ルラ様…お怪我は…?」
「ああ良かった、気がつかれましたか…!私は大丈夫です、レン様が守って下さいましたから…っ」
ペルラ王女に怪我がないと知ったトゥレンはホッと安堵し、土の地面で仰向けに横たわったまま脱力して薄曇りの空を見上げる。
「俺の判断で乗った車両ですが、まさか乗車中にあんな大きな地震が起きるとは思いもしませんでした。どうも運が悪かったようですね。」
「天災ですもの、いつどこで起きるのかわからないのは仕方ありませんわ。運転手の方の得た情報ですと、地震の発生源はシャトル・バスの行き先でもあるメソタニホブ近郊だったようですの。山の方では土砂崩れも発生しているそうです。」
「そう、ですか…」
«ライ様はご無事だろうか…»
「治療が終わりましたわ。私は他の軽傷だった乗客を治療して参ります。レン様はもう少しこちらで休まれて下さいね。」
「え?あ…」
タタタタ、と小走りに負傷した他の乗客へ駆けて行く王女の背中を見送ると、トゥレンは溜息を吐いた。
――非常時とは言え、エヴァンニュでは見かけられない治癒魔法をそうも容易く使われては、民間人の間に噂が流れ憲兵の耳に入ってしまうでしょうに。
後ほど王女に怪我を治して貰った乗客達には、念のため口止めを頼まないと。
そう思いながらトゥレンはまた、未だ王女に話していないノアディティクへの対価について悩み、その表情を曇らせる。
それにしてもあの地震…この国は火山もないことから地震が起きること自体滅多にないのに、建物や山などに被害の出るような大規模な物は今年に入ってもう二度目だ。
先の物はライ様が調べておられた、護印柱の崩壊とこの国を守っていたと言われる守護壁の消失によるものらしかったが、今度の揺れは本当に天災なのか?
なんだか嫌な予感がする。早くライ様を見つけなければ、と再びトゥレンは理由のわからない不安に駆られた。
その後二時間ほど経って横転したシャトル・バスの代替車両が到着し、予定よりも大幅に遅れた深夜になってようやくトゥレン達はメソタニホブの街に到着したのだった。
停留所に到着してシャトル・バスを降りると、同じように車両を降りた乗客の会話から思いがけない名前が飛び出し、それを耳にしたトゥレンとペルラ王女は驚くことになる。
「――だから今朝の早い内にライと一緒に戻っていれば良かったんだ。せっかく式に参列してくれるって頷いて貰えたのに、肝心の新郎が怪我をしたら延期になるじゃないか。」
「そう言うなよアーロン。おまえだって独身最後の一日を楽しめって言ってくれただろう。式は明後日…いや、日が変わるからもう明日か、なんだから大丈夫だよ。」
「それは昨日の話だろう。帰りのシャトル・バスで大地震に遭うくらいなら、メクレンで昼までのんびりさせたりしなかったさ。全く…怪我を治してくれた治癒魔法士の女性に感謝しろよ、ジェフリー。」
「はいはい、お・義・兄・様。」
「おまえな…!!」
«あの二人は――!»
ただ一度ライと一緒にいる姿を見ただけだったのだが、古来の友人だったかのように随分と親しげだったことから、トゥレンはその二人の顔を覚えていた。
そうして自分が追われている身であることも忘れて駆け出すと、いきなり凄い勢いで二人に詰め寄った。
「貴殿らは以前バスティーユ監獄でライ様の傍にいた新法対象者だな!今あの方の話をしていなかったか!?ライ様にどこかでお会いしたのか!?」
「「えっ!?」」
「レン様!」
我を忘れまるで尋問でもするかのような剣幕のトゥレンに、慌てたペルラ王女は腕を掴んで今は髪と瞳の色を変えているのだと手振りで思い出させた。
「あ…!」
しかし時既に遅く、その男性達はすぐに声をかけて来たのがトゥレンだと言うことに気付いてしまう。
「あ…あれ?髪の色は違うけど、あなたはライの――」
「待てジェフリー、ここでそれはまずいぞ…!ちょ、ちょっとこっちへ…!!お早く!!」
ハッとして機転を利かせた男性〝アーロン〟に促され、四人は慌ただしくシャトル・バスの停留所から離れると、すぐ傍にある人気のない建物の裏手へと移動する。
この時間一部の酒場や宿以外は既に営業を終了しており、住人達の殆どが寝静まる暗闇の中、そこで四人は気まずそうにしながら話し始めた。
「ええと…トゥレン・パスカム元王宮近衛補佐官、ですよね?ライ…いえ、ライ様の御臣下の――」
「………」
二人は当然トゥレンの顔を良く知っており、すぐに人目を避けるように動いたことから国に追われていることもわかっている様子だった。
その上トゥレンの方から声をかけてしまった以上はもう誤魔化しようもなく、ここは頷くしかない。
「――と言うことは…先程ジェフリーの怪我を治して下さった、そちらの女性はまさか…?」
サアッと顔色を変えるアーロンに対し、その友人であるジェフリーの方はあまり焦っている節は見えず、なにかに納得したように頷いた。
「ははあ…お二人が駆け落ちなさったというあの噂は真実だったんですね。」
「おいジェフリー…!」
「まあこう言ってはなんですが、お相手があのシャール王子殿下では無理もないと思っていたんですよ。ライはライで人目につかないように上手く姿を隠しているようですし…あ、ひょっとしてお二人はライを追いかけているんですか?」
この二人は以前バスティーユ監獄でライが偽名を使い、髪と瞳の色を変えていた時に出会った元囚人、『アーロン・ジック』と『ジェフリー・パルド』だ。
と言っても人様に顔向け出来ないような罪を犯したわけでなく、ロバム王の制定した新法によって禁じられた考古学に携わっていた者と、その親友を庇い不当に監獄送りにされた元憲兵だった。
ジェフリーの質問にムッとした顔をするトゥレンは、なぜシャール王子は殿下と敬称付きで呼び、ライ様は呼び捨てにする?と不機嫌な声を出して返す。
なぜならこの二人はライがこの国の隠された第一王子であることを知る、数少ない民間人だからだ。
「…そうだと肯定する前に、仮にもライ様はこの国の第一王子殿下であられるぞ。いくら友人として呼び捨てにすることを許されているからと言って、臣下の俺の前で敬称も付けずにお名前を呼ぶのは感心せんな。」
「す、すいません…」
トゥレンにギロリと睨まれたジェフリーは、慌てて謝罪を口にする。
「おやめ下さい、レン様。ライ様がお聞きになれば貴男様がお叱りを受けますわ。」
「ぐ…コ、コホン。」
この場にいないライはともかく、ペルラ王女にまで叱られて気を取り直すために咳払いをする。
「――我々がライ様をお捜ししているのは確かだが、一つ訂正しておく。自分とルラ様…この方は駆け落ちしたわけではない。詳しい事情は話せないが、そのことだけは勘違いしないでくれ。」
「「そうなんですか?」」
アーロンとジェフリーが口を揃えて同時に首を傾げると、トゥレンは苦笑しペルラ王女は寂しそうに微笑んだ。
「へえ…それじゃ、もしかしてもう一つの噂の方が真実なんですか?」
「だからジェフリー!いい加減にしろよ、失礼だろう!?俺が憲兵を辞めていなければ、不敬罪で直ちにおまえを捕らえている所だぞ…!」
ジェフリーの物怖じしない態度を窘めるアーロンを手で止め、今度はペルラ王女が尋ねる。
「いいえ、どうかお気になさらず。それよりもあの…もう一つの噂、とはどのようなものでしょうか…?」
不安げな王女を見てアーロンとジェフリーは一度顔を見合わせると、あくまでも噂だと前置きした上で教えてくれた。
「なんでも小王国ベルデオリエンスの王太子殿下が我が国へ極秘に入国し、悪逆非道の行いが公然周知であるシャール王子殿下は聖女様に相応しくないと抗議されて、王太子殿下とペルラ王女殿下は恋仲であることから、正式に婚約を解消するべきだという申し入れをされたというものです。」
「!それは…っ」
恋仲だと言うのは多少誤解があるが、ペルラ王女が小王国ベルデオリエンスへ向かう予定であったことは事実だ。
王女が城から逃亡を図って既にかなりの日が経ってしまっていることから、恐らくアートゥルード王太子はシャール王子との婚約を破棄させ、行方不明となったトゥレンと王女を国として捜索するためにそのような手段に出たのだろうと思われた。
「この噂についてはシェナハーンの国王陛下も甚くご立腹だとかで、エヴァンニュ王国とシェナハーン王国は連合し、小王国ベルデオリエンスに戦争を仕掛けるんじゃないかとまで言われているんだ…です。」
「…!!」
その話を聞いたトゥレンとペルラ王女は顔色を変える。
「あの…あくまでも噂ですよ?どちらかと言えば今はまだ補佐官と駆け落ちなさった、という方が広まっていますし、シャール王子殿下の捜索隊と隣国の国王が設けた守護騎士による捜索隊がずっとお二人を国内外問わず探し続けていると聞いています。ですがまさかこのような場所においでとは誰にも思われていないでしょう。」
「そうだと良いのですが…我々も一応国境を通らずに独自のルートで国外へ出ようとはしたんですがね、俺のミスで今以て脱出出来ていないような状態なのです。おまけにライ様が姿を消してしまわれて――」
独自のルートで、と聞いたアーロンとジェフリーは、隣国のシェナハーンはここから遥か北にあるのに、真逆に当たる南部地域に未だなぜ二人がいるのかとわけがわからず首を捻る。
「あ!そうそう、そのライ…様ですが、俺達が会ったのは昨夜の話です。それもメクレンで。」
ジェフリーによると昨夜メクレンの繁華街を歩いていた時に、ライの方からアーロン達の肩を叩いて来たのだと言う。
「俺達もライ様の身に降りかかった災難は噂で聞いていましたから、なぜメクレンにいるのかを尋ねましたが、声が出せないみたいで特別なにか話をしたというわけじゃなかったんです。それでもしどこにも行く当てがないのなら暫くの間匿うし、丁度明後日に…もう明日ですが、昼から俺の妹とこのジェフリーの結婚式が行われるので、是非メソタニホブへ来てくれないかと誘ったんです。」
「そ…それでライ様はなんと!?」
「ただにこにこと笑ってくれて、二度頷いてくれました。それで昨夜は俺達が滞在していた宿の部屋にこっそりライを泊めて、早朝彼だけ一足先に発ってここに来ているはずなんですけど。」
「!!」
«にこにこと笑って…?あのライ様が、か?»
ヴァハの村で目覚めてからのライ様は、俺やペルラ王女ににこりとも笑いかけて下さらなくなった。
お世話になったゼルタ夫人に感謝を示すわけでもなく、俺があの方の笑みを見たのは、窓の外で囀っていた野鳥が突然死んだあの時だけだ。
――それなのにこの二人には笑いかけていた…?
これが以前のライ様なら偶然会えた友人に助力を申し出られ、結婚式に顔を出して欲しいと請われたのが余程嬉しかったのだろうと素直に思えるが、今のライ様は…
なにを考えておられるのかわからない、とトゥレンはさらに不安を募らせる。
「貴殿の式はこのメソタニホブで執り行われるのか?」
「ああはい、そうです。街の北西に鉱山の神『ミニエール』様を祀った教会があるんですよ。俺達メソタニホブで育った地元民は、そこで式を挙げる住人が殆どなんです。」
「そうか…ライ様の情報をくれて感謝する。ここの宿を探してあの方が見つからなければ、当日式場の方へ伺っても構わないだろうか?」
「それはもちろんですが…今日はもう遅いのでこのまま自宅へ戻りますが、良かったら朝に探すのをお手伝いしますよ。」
「――いえ、自分らですぐに探してみます。」
あまり彼らをライ様に関わらせない方がいい…そんな気がする。
眉間に深い皺を刻み、険しい表情をしたトゥレンはペルラ王女を促して踵を返した。
「えっ…ちょっと待って下さい、あの…!!」
慌てて呼び止めるアーロンの声に、トゥレンは言い忘れたことを思い出して振り返る。
「ああ、どうかライ様を含め、俺達のことは内密に願います。貴殿らに迷惑がかかるといけません。」
「え!?いえ、そうじゃなくてですね…!」
「ええと…ジェフリーさん、でしたか、ご結婚おめでとうございます。どうか婚約者様とお幸せに。」
「は?あ、ありがとうございます…?」
ポカンとするジェフリーと元憲兵としての性から二人を心配するアーロンを尻目に、トゥレンはまだ明かりの点いている宿を目指して停留所の方へスタスタと歩き出す。
「――レン様の勘が当たったようですわね。メクレンからは多方面へ向かう交通路線があったようですけれど、なぜライ様がこちらへ向かったとわかったのですか?」
「別に確信があったわけではありません。自分にも良くわかりませんが…あの時確かに誰かに名を呼ばれたような気がしました。今思えば、俺はそれがライ様の御声であったような気がしてならないのです。」
言えばあの方が憲兵に連行された時以上の、相当な窮地にあると焦りそうで口に出すのは憚られるが、ライ様が俺に助けを求めておられるような…そんな気がして仕様が無い。
とにかく急いでライ様を見つけなければ――
そうして思いがけない人達との再会を経て、トゥレンは間違いなくライがこのメソタニホブにいることを確かめたのだった。
*
「――月が赤いな。」
同じ頃、宵闇に紛れ込みやすい濃紺の外套にフードを目深に被り、ふと夜空を見上げたイーヴは光の加減で赤く染まる月に呟いた。
トゥレンとペルラ王女が行方不明になって一月近くになる…国内でも隣国でも、未だ二人が見つかったという報告はない。
守護者の資格を得たトゥレンは、それによって万が一命を落とせばフェリューテラのどこにいようとも、必ず魔物駆除協会へ連絡が入るようになっている。
だからこそ今以て見つからないのは、どこかに無事でいると言う証拠にもなるだろう。
イーヴは子供の頃から当たり前のように自分へ向けられていた、トゥレンの屈託のない笑顔を思い出して一人穏やかに微笑むと、深夜の王都をどこかへ向かって歩き出した。
――ペルラ王女がシャール王子に限界を迎えるあのタイミングで、ベルデオリエンスの王太子アートゥルード殿下の情報を掴めたのは僥倖だった。
幼少の頃から王女に思いを寄せているとの調べはついていたが、裏からそれとなく唆しても一国の王太子が王女奪取の行動に出るかどうかは賭けだったからだ。
それがまさか、ジャンの行方を知るために呼び寄せた魔術士に扮して密かに入国するとは予想外だったが…その思いの深さも窺えるというものだ。
だがトゥレン…自らを偽りアートゥルード殿下に引き渡すのではなく、願わくば短い時間でも王女殿下と二人きりで過ごすことにより、己の心に従って身分を越え結ばれたいと思うようになることを祈っている。
私のように愛する者を失ってからでは、どんなに悔やんでも遅いからだ。
――私は貴殿とライ様が本当の意味で幸せになることを、心から願っている。アリアンナに加えヨシュアを失い…この上貴殿とライ様にまでなにかあれば、私はきっと自分自身を死んでも許すことが出来なくなってしまうだろう。
あまりにも善良で真っ直ぐ過ぎて、後々の障害になりそうだと思っていたヨシュア…我らとは対照的で、ライ様が無意識に心の奥底で求めてやまない、温かな光のような人間だった。
なんとしてもライ様を手中に収めたいと思っているロバム王に目を付けられていることには気づいていたが、ルーベンス家は国への貢献も厚く伯爵家だという点からも、甥とは言えたった一人の跡継ぎであるヨシュアを殺すことだけはしないだろうと思っていた、私の考えが甘かったのだ。
まさかライ様が初めて贈られた婚約の返礼品を利用して画策し、あのようなことにまでなろうとは…
カレン・ビクスウェルトの件にはクロムバーズ・キャンデルとイサベナ王妃が絡んでいるのはわかっている。
あの狡猾で計算高いロバム王がそのことに気付いていないはずがないのだ。
濡れ衣を着せられてもライ様の身に危険が及ぶ直前には昏睡の演技を止め、なんらかの形で罪自体をなかったことにするつもりだろうとは踏んでいたが、私とトゥレンが監禁されたことで身動きの取れなくなったヨシュアが、自ら身代わりを申し出ることまで予想していたのだろうか。
その上私が手を尽くし必死に処刑を回避したのに、まさか最後の最後であそこまで卑劣な手段で死に至らしめるとは予測できなかった。
トゥレンをあんな風にヨシュアの二の舞には決してさせない。
いずれトゥレンはライ様への忠誠が王族如何に関わらず、ただあの方個人への思いからだと言うことを自覚するだろうとは思っていた。
そうなればあの身寄りのない酒場の踊り子であるリーマと言う女性と温かな家庭を欲しているライ様が結ばれるように、やがては命を賭してでも王命に逆らってこの国から二人を逃がそうという結論へ至ることだろう。
だがトゥレン…おまえはロバム王の真の恐ろしさを知らないのだ。
天地が裂けてもあり得ないことだが、ロバム王があの踊り子との仲を認め、ライ様に家族としての愛情をもって接しようと心を入れ替えたのなら、私の未来ももっと違うものになり得たかも知れない。
私に残された数少ない大切なものだけは、なんとしても守らなければ――
血の繋がりもないと言うのに、実の息子として愛し育ててくれた両親とは絶縁したことで恐らく害が及ぶことはないだろう。
跡継ぎ亡きウェルゼン家は、両親が気に入っており、アリアンナを本当に愛していたあの義弟に任せればいい。
トゥレンは近衛を辞めてペルラ王女とここを去り、逆にライ様はたとえ戻ろうとしても戻れなくなった。これで私が憂うことはなにもない――
東部浄水場から地下水路へ降りたイーヴは、隠し通路を通ってその場所に辿り着く。
そうして扉の隙間から僅かに漏れる明かりの先で動いた影に、中から声をかけられる。
『――フラティラリアの花は咲きましたか?』
イーヴはすぐさまその問いに答えた。
「いいや、まだ蕾は開かない。彼の地は未だ紅に沈んでいる。我は呪われし血族〝最後の系譜〟なり。」
それは合言葉だったのか固く閉ざされていた扉は開き、中からイーヴより少し年上の男性が顔を出した。
「エルンハイゼリン。」
「お待ちしておりました、イヴァリアス様。ハッサー卿を含め同志一同、ここに馳せ参じております。」
「ああ。――まだ私の髪は黒く染まらないが、約束の日はもう近いと感じている。これ以降何事もなければ、今日が最後の会合になるだろう。」
外套のフードを下ろし、外見変化魔法を解いたイーヴのその姿は、髪色が根元から徐々に暗褐色へと変化する薄い青灰色であり、月環に照らされた夜空のような色をしている。
直後シュルルル、と長く伸びて行く髪を一つに括り、前髪を掻き上げて顔を上げたイーヴの瞳は、左瞳が薄青、右瞳が金色をしており、それは亡きミレトスラハ王家の血筋を示すライと同じ『ヴァリアテント・パピール』だった。
「差し出がましいとは存じますが、未だ行方不明のライ様にご助力を仰がなくて本当によろしいのですか?『黒髪の鬼神』と呼ばれ一騎当千の戦鬼でもあるあの方がご参加下されば、後々世界中に散っているミレトスラハの民をこのエヴァンニュへ移住させるのが容易になるでしょう。」
私服を着て黒い外套に身を包んでいるのは、ライの後に王宮近衛指揮官となったエルガー・ジルアイデンだ。
彼は『同志』の一員らしくそんな質問をして来るが、イーヴは横に首を振る。
「言っただろうエルガー、その必要はない。あの方は決して王位を望まず、奇しくもシャールの命令のおかげで自由の身になった。たとえ記憶の隅に悲劇の片鱗が残っていたとしても、当時はまだたったの二歳であり、恐らくこの姿を見ても私のことは微塵も思い出せないことだろう。協力を求めるのは却って要らぬ混乱を招くだけだ。」
イーヴの返事に透かさず年上男性が返し、残念そうな表情で口元に拳を当てる。
「それは…少々残念ですね。イヴァリアス様の血族はもうあの方しか残っておられませんし、なによりも貴方様は幼いライ様を大層可愛がられておいでで、ライ様の方もそれはそれは懐いておいででしたのに。自分には当時のお二方のお姿が今もこの目に焼き付いておりますよ。」
ほんの一時室内にしんみりとした空気が流れる。
「…遠い昔の話だ。――始めるぞ。念には念を入れ、徹底して最後まで作戦を煮詰める。我がシェラノール王家を滅ぼし、祖国ミレトスラハを戦場に変えたロバム・コンフォボルに復讐を。」
「私はエヴァンニュ王国の人間だが、父を殺された恨みはこの手で晴らす!!シェラノール王家襲撃の際に王を諫め、身体を張ってその凶行を止めようとした忠臣『カーレッジ・ジルアイデン』を、口封じのためだけに殺したロバムは絶対に許せぬ!!」
「良く言った、エルガー!!貴殿の御父上がいなければ、今私は生きてここにいることも叶わなかっただろう。シェラノール王家に伝わる伝承の通り、決行日は我々でなく天が知る。その日が来たら王妃イサベナ、シャール共に首を取り、コンフォボル王家を根絶やしにせよ!!誰一人として決して生かすな!!」
「「「「御意!!!」」」」
新年、明けましておめでとうございます。年明けのっけから病院通いです。右足の親指の爪が剥がれ、膿んでしまいました。いやあ、注射は痛いし切ったり穴開けたり…今もまだ治療中です。ちまたではインフルが流行っているそうですし、皆様もご注意下さいね!では、次回仕上がり次第アップします。本年もどうぞよろしくお願い致します!




