226 東の果てと南の果て
東の果てにある亡国ラ・カーナの生存者が僅かに残っている集落『ヴェントゥス』。そこで九死に一生を得た『シン』は、濃い瘴気によって外部と隔たれたそこから、どうにか外へ出られないかと模索していました。そんなシンに明るく無邪気に甘えてくるクリスは、いつしかシンの心にある変化を齎したようで…?一方、南の果てではトゥレンとペルラ王女が無事に、精霊の力を借りてラビリンス・フォレストを抜けたようです。二人はヴァハの村で保護され、偽名を使って身体を休めることにしたようですが…
【 第二百二十六話 東の果てと南の果て 】
「クソッ、どうしても駄目か…!」
――亡国ラ・カーナの東北東にあり、『風守り様』によって濃い瘴気から守られている集落『ヴェントゥス』の外れ、クレスケンスが空から着地した草地に『シン』はいた。
強力な治癒魔法の使い手であり、まだ十才の少年『クラーウィス』のおかげですっかり健康な身体を取り戻しただけでなく、真っ白だった髪は生まれつきの赤毛に、失われていた視力と聴力も元通りになった彼は、なんとかしてこの集落から外へ出る方法がないかを模索していた。
それと言うのもこの集落は特殊な結界障壁に守られており、シンの身体を悪くした原因の一つでもある『転移魔法』で、遠く離れた町や村へ移動することが出来なかったからだ。
«せめて俺だけでもファーディアまで飛べれば、この集落にラ・カーナの生存者が残っていることと、瘴気のねえルートを辿ってクリスの言う『竜種の聖域』まで行ける方法がないか探すことができんのに…!!»
お隣のファーディア王国から最も近くにあるシンの故郷『ヘズル』くらいまでなら、シンの浄化魔法で少しの時間滞在することも可能だった。
しかしここから遥か遠い隣国までの長距離を、シンの浄化魔法のみで辿り着くのは不可能だ。
シンはこの集落の閉ざされた現状を知り手助けがしたいと思い、なによりも自分のせいで皮膜が裂け、空を飛べなくなってしまったクレスケンスの翼を直してやりたいと悩んでいたのだった。
『せっかくボロボロだった身体を治して頂いたのですから、無理をして転移魔法を使おうとするのはやめた方がいいですよ、シン。ここの方々にご迷惑でなければ私もなんとか生きて行けますし、あなたが無茶をするよりはマシですので翼のことは気にしなくていいです。』
クリスの半身であり、神竜でもある愛竜の『クレスケンス』は、シンに通じないとわかっていてクワア、クワア、と話しかけている。
「なんだよ、無理してやんなって?そうも言ってられねえだろ…俺らが来たせいで食い扶持が増えちまったんだし、こんな隔離された世界だけでこの先も生きてくなんざ、ここの子供達だって可哀想だ。フェリューテラは広いのに…」
それでもそれなりに長期間共に過ごしたせいか、シンにはある程度までクレスケンスの言うことがわかっているような節も見える。
「シーン!!」
そんなシンとクレスケンスの元へ、遠くから笑顔で手を振り振りクリスが走って来た。
「またここにいたの?言っておくけど、転移魔法は駄目だからね!それと浄化魔法でどこまで行けるか試すのも駄目!!まったく…シンは目を離すとすぐ無茶しようとするんだから!!」
「クリス…」
クリスは両手でシン包み込むようにして当たり前のように抱きつく。
「ボク、もうあんな風に血を吐いたりするシンは見たくないんだ…」
「…わかってるよ、クレスケンスにもやめろって言われてるみてえだしな。」
「え、ホントに?…シンって時々、本当にクレスケンスの言葉がわかってるみたいだよね。」
クリスの方に深い意味はなく、家族や兄弟へ甘えるような感覚でなにも気にせず触れて来るのだとわかっていても、自分に抱きつきながら上目遣いで顔を見上げてくるクリスに、シンの方は異なる気持ちを抱いていた。
«抱きつかれるのにも随分慣れたけど…クソ、やっぱクリスは可愛いな。最初はすげえ美人って印象だったのに…今じゃこうやってしょっちゅう甘えてくるから、すっかりそう思う方が多くなっちまった。»
触れられた部分が温かくなるのを感じながら、シンは頬を熱くする。
「別に言葉は通じなくても、目を見て理解しようとすればなんとなくわかるもんだろ?…あーあ、俺も竜人族に生まれたかったなあ…そうすりゃ生きるも死ぬも、どんな運命すら共にするクレスケンスみたいな半身の竜がいてくれたのに。」
「ふふん、羨ましい?」
「そりゃあな。」
シンから離れ、両手を後ろで組みながら横に身体を折り曲げると、クリスは可愛らしく揶揄うように彼を見上げた。
「――でも、そうだね…もしもシンが竜人族として生まれてたら、ボクもちょっぴり楽だったなあ。」
「…楽?」
「うん。ボクはこれから竜人族最後の女性として、一族の血を残すために同族の男性と結婚しなくちゃいけないんだ。」
「え…」
«け…結婚!?クリスが…!?»
予想外の話にシンは驚き、一瞬声を失う。
「そ…、それって…貴族間なんかで良くある、政略結婚って奴か…?」
「うん…多分それに近いかな。ほら、逸れた友達がいるって言ったでしょ?その人達の知り合いに、一人だけ生き残っているボクの同族がいるんだ。」
「一人だけって…今クリスも最後の女性っつったよな?他の竜人族はどうしちまったんだ?」
「――そんなの、疾っくにみんな死んじゃったよ。」
「は…」
«疾っくに死んだ…?»
「…その生き残ってんのは男だってこと?」
「わかんない。まだ会ったことないから。」
「なんだ…だ、だったらそいつも女かもしれないんだな。」
「ううん、男の人だと思う。」
「は?」
「えっとね…これ見て。」
そう言うとクリスは、徐に右手の甲にある竜人族の『不完全な紋章』をシンに見せた。
「これはね、竜人族に伝わる『最後の系譜』を表す印なんだ。」
――竜人の女性がただ一人を除いて全ていなくなり、一族の絶滅が目前に迫る時、その紋章は『最後の系譜』を表す印として生存者の手に浮かび上がる。
半白の紋章はまだ番が決まっていないことを示すが、もう一人の生き残りが『女性』だった場合と、竜人男性が死に絶えてもうどこにも存在しない場合は、永遠に純粋な血族を残すことが出来ないため、紋章にクリスを示す一体の竜のみが描かれるという。
「この紋章の半分が空白だと言うことは、生き残っている相手が竜人族の男性であり、その人とボクが番える可能性を示してる。そしてこの紋章は女性の竜人にしか現れないから、これを見る度に、ボク次第で一族が死に絶えるかどうか決まるって言われ続けているような気がするんだ。」
「な…」
――そんな勝手な紋章の言うことなんて、と言おうとしてシンはその言葉を飲み込み、代わりに別の問いを投げかける。
「…その生き残りの男が、どうしたって好きになれねえような奴だったらどうすんだ?それでもお前はそいつと結婚すんのかよ。」
「するしかないよ…政略結婚ってそう言うものでしょ?好きとか嫌いとか本人の意思とは関係なく、家のため、血族のためとかで番うんだ。それにボクには元々許嫁みたいな子がいたけど、その子がもうこの世にいないんなら誰と結婚しても同じだよ。…そりゃあボクだって、できれば好きになれる男の人がいいけどさ…」
「――…」
クリスの言葉にシンは絶句し、俯いて右の拳を強く握りしめた。
«なんだそれ…竜人族を存続させるためだけに、クリスは好きでもねえ奴と結婚すんのか?相手の奴も『竜人族』なら、たとえどんな男でもこいつと結婚できんのかよ…それって狡くねえか?»
「…っ」
――心の中で〝狡い〟と知りもしない相手へ嫉妬心を抱いた瞬間、自分の気持ちに気付いたシンは思わず声を上げそうになり、バッと口元を右手で押さえた。
«っ…そうか俺…まだ知り合ってそんな経ってねえのに、いつの間にかクリスのことを…»
「シン…?どうかした?」
クリスへの思いを自覚したシンは慌てて彼女から目を逸らし、不自然な態度で背を向ける。
「や、なんでもねえ…」
「なんでもないって…なんでいきなりボクに背中を向けるの?」
「えっ、や、なんでって聞かれたって――」
«たった今お前が好きだって気がついたからだ…なんて言えるかッ!!»
傍で二人の会話に耳を欹てていたクレスケンスは、動揺するシンの顔をじっと見つめた後、横からクリスに告げる。
『クリスティン、竜人族に纏わる話をなんでもかんでもシンに話しては駄目ですよ。』
「え…なに?クレスケンス。」
茶化すような冗談交じりの声でなく、諭すように真面目な声と口調で続け、クレスケンスはクリスに言い聞かせる。
『彼は人族です。竜人族は既にフェリューテラ上から消えた種族とされていますが、それでも信用しすぎてはいけません。――それと、アテナさんとクラーウィス君があなたを探しているようですから、すぐに行ってあげなさいな。』
「あ、うん、わかった。」
「クリス?」
「アテナさんとクラーウィスがボクを探してるってクレスケンスが言うから、ちょっと行って来るね。シン、外へ出ようとするのは駄目だよ!?いい!?」
「わかった、わかった、早よ行け。」
「もう…!!」
ぷうっと頬を膨らませ、プリプリしながら踵を返し、クリスは小走りにこの場から去って行く。
「はあ…」
走って行くクリスの後ろ姿を見送りつつも、心臓がドキドキして顔から火が出そうに赤くなったシンは、脱力したようにヘロヘロとしゃがみ込んだ。
「やべえな…俺、どうしよ。」
«――マジで女に惚れるなんて…初恋紛いの憧れだったシスターラナ以外では初めてだ。»
『――クリスティンは駄目ですよ、シン。』
「…ん?」
そのシンにクレスケンスがクルル、と普段と異なる声を出す。
『竜人族でないからと言う理由ではなく、友人ならまだしもあの子の夫となるにはあなたの手は汚れ過ぎている。――あなたが湧き上がる憎悪を抑えられず、復讐のためにただエヴァンニュ兵とゲラルド兵を無残に殺し続けた事実は忘れません。』
「…悪いクレスケンス、なんて言ってんのか全然わからねえ。」
なにか自分に向けてクレスケンスが話をしていると理解できても、普段と違ってその前後に脈絡がないため、シンはその言葉を推し量ることが出来なかった。
『ええ、わからなくても構いませんよ。ですが私はクリスの伴侶としてあなたを認めることはないと言っておきましょう。…あなたはあの子に相応しくない。』
「……?」
――その言葉は通じなくても警告にも似たクレスケンスの言葉は、シンの肌にヒヤリとする冷たいものを浴びせているのだった。
* * *
『――初めまして、ようこそおいで下さいました、ナシュカ・ザクハーン・ペルラ・サヴァン王女殿下。本日より貴女様の護衛に就かせて頂きます、トゥレン・パスカムと申します。』
大きな身体に優しい治癒魔法の光のような黄緑色の瞳…心からの歓迎の意を表す、爽やかで邪念や下心のない、真っ直ぐな笑顔。
そんなトゥレン様の歓迎を受け、初めてお会いしたのは私が十六の誕生日を迎える少し前のことでした。
当時からトゥレン様は今と同じようにがっしりした大柄な体格をなされ、優しい笑顔と紳士的な接し方、差し出されたその手には私を子供扱いするのではなく、立派な淑女として失礼のないように、と思って下さっている気遣いが溢れていました。
そんなトゥレン様に私は運命の出会いを感じ、殆ど一目惚れをしたと言っても過言ではありません。
出会った瞬間に〝この方だわ〟とわけもなく感じたことを覚えています。
――その時から私の心にはトゥレン様しかおりませんでした。
留学期間が終了し、もう二度と会えないと心が引き裂かれるような痛みに嘆き、なぜ遠くからでもその姿を見ることの出来る国内ではなく、隣国の御貴族であるあの方を好きになってしまったのかと、国に帰ってから随分泣きました。
私はシェナハーン王国の第一王女です。いつかは必ず他国の王家かそれに等しく我が国の利となる方の元へ嫁がなくてはなりません。
トゥレン様のことは諦め、思い出だけを胸に秘め、もう忘れなければ――
…そう思っていました。
エヴァンニュ王国のロバム国王陛下より、『黒髪の鬼神』と名高い御方との縁談が寄せられるまでは。
黒髪の鬼神…ライ・ラムサス様は、戦地ミレトスラハにてどんなに不利な状況をも覆す、百戦練磨の鬼神のような恐ろしい将軍だと聞き及んでおりました。
ですが時折流れ来る民間の噂では、身寄りのない孤児や貧しい者に優しく、民間人の側に立って物事を考える、国民にとても慕われている御方だと耳にしました。
なによりもその方の忠臣として『鬼神の双壁』と謳われていらっしゃるのが、トゥレン様とその幼馴染でもあるウェルゼン様と知り、いけないと思いながらも些細な夢を見てしまったのです。
政略結婚である以上、お相手の方も私に心からの愛など望まれていないだろう。ただその御方の元へ嫁いだなら、少なくともまた愛するトゥレン様のあの笑顔を、遠くからでも目にすることは出来るはず…
私の身勝手なそんな願いなど到底叶うはずもないけれど。
――それから程なくして、王妃と共に行方のわからなくなっていた国王である長兄ガレオンの亡骸が見つかり、先んじて生死の判明していたレイアーナ義姉様と合わせて正式な葬儀を執り行うことになりました。
シェナハーン王国のしきたりに則り、王太子のオイフェ(イラオイフェ)兄様が王位を継がれ、葬儀と共に戴冠式も済ませます。
その際に他国の王族やその代理人の列席を各国へお願いすると、エヴァンニュ王国からは国王陛下の代理として王宮近衛指揮官がいらっしゃることになりました。
その方こそは表向き私が嫁ぐことになっていた、隠されたエヴァンニュ王国の第一王子殿下でした。
トゥレン様がお仕えしてらっしゃる御方とは噂通りの方なのだろうか。それともあのシャール王子とはまた違った恐ろしい御方なのだろうか。
そう怯えていた私でしたが、実際にお目にかかって真剣な眼差しで図書室の本を読み耽るそのお姿は、民間の噂に近い印象を抱きました。
孤児や貧しい者にもお優しい『ライ様』。
言葉少なに話をしても鋭い目つきと異なり、言葉の端々に戸惑いながらも思いやりを感じる方でした。
私のとんでもない相談にも真摯に考えて答えて下さり、本来であれば逆鱗に触れてもおかしくないようなお願いを快く叶えて下さったのです。
『俺には既に生涯唯一と心に決めた女性がいる。だが貴女の言う通り、貴女との縁談が破談になったとしても、きっとまた変わりの誰かを宛がわれるだけだろう。ならば俺は貴女の提案に頷き、偽りの婚約を受け入れることにする。そうすれば暫くの間はあの男…国王を油断させることも可能だろう。その裏で俺は彼女と共に生きて行くため、今手をかけている全ての仕事を終わらせ、国を捨てる準備を整えたい。』
〝貴女は貴女でトゥレンの心を掴むべく、自ら恥も外聞もなく挑むといい。但しあいつはかなり鈍いから大変だと思うがな。〟
私に微笑みながらそう仰ったライ様の笑顔に救われました。
ああ、この方は愛する女性のためならば、王位どころか国を捨てることさえ厭わないのだ。では、私は…?
――もしもトゥレン様が振り向いて下さるのなら、私も王族であることを捨て、どれほど民に恨まれようとも国を捨て、あの方と共に生きて行けるだろうか。
いいえ、その前に…私はこの思いを告げることができるのかしら…?
それでもライ様の護衛として、シニスフォーラへいらしたトゥレン様を一目見ただけで、ああ、やはり諦められない…諦めたくないと気がついてしまいました。
そうして私はライ様の婚約者としてエヴァンニュ王国へ来ました。
ライ様は表では私と仲睦まじくするよう演技をなさり、私はそれに合わせて心からの笑みを返す。
その日から私達は国と家族、互いの国王王族を欺す共犯者となったのです。
ですがその日の夜、ライ様は猛毒を盛られて倒れてしまわれました。
御主君の戻らない意識にトゥレン様は憔悴され、自責の念に駆られてさえいらっしゃるご様子。
どうかライ様が、一日も早くお目覚めになりますように。
その後願いが通じたのかライ様はお目覚めになったものの、体力は落ち、視力を殆ど失ってしまっておいででした。
紆余曲折あっても、無事に近衛のお仕事へ復帰されるほどお元気になられましたが、今度は国王陛下が御危篤となり、やがてはそれがライ様の危機へと繋がる大事件に発展してしまいます。
そう言えばトゥレン様は、国王陛下は最初から御危篤になどなられておられなかったと仰いましたが…
――ご自分にも詳しいことはわからない、そう仰っていましたが、トゥレン様のあの言葉は偽りなのではないかと思いました。
少なくとも幾ばくかの事情は知っていらっしゃるに違いないと…
国王陛下を暗殺しようとしたなどという無実の罪を着せられ、処刑寸前にまで陥られたライ様は、ルーベンス補佐官の機転により難を逃れられました。
その際ウェルゼン様に次いでトゥレン様までもが行方不明となられた時は、心配のあまりなにも喉を通らなくなるほどでした。
もちろんご無事だと信じておりましたが、その前にトゥレン様とただならぬ仲だと噂を立てられていたために、表立ってその気持ちを周囲に知られるわけには行きませんでした。
ルーベンス補佐官の機転で最悪の難は逃れたライ様でしたが、憲兵所に侵入した何者かによって連れ去られ、現在行方不明となられております。
そんな毎日が不安で押し潰されそうな中、遂にあの暴君が動きました。
ライ様のご不在と国王陛下の臥せる中、強引に王太子の座へ就かれたのです。するとそこで私の不安は的中し、あの汚らわしい暴君の婚約者とされ、兄に助けを求めても王族であるなら政略結婚は当然のこと、と冷たく手を振り払われてしまいました。
わかっています、私は確かにシェナハーン王国の王族であり、同盟国のエヴァンニュへ嫁ぐのは国にとっても大切なことでしょう。
ですがどうかあの男だけは…!人の命を命とも思わぬ、極悪非道の好色王子…あの男の妻になるのだけは自ら命を絶とうと思うほどいやなのです…!!
食事を取る気力もなく、乱暴を働くシャール王子の横暴に部屋で泣くしかない私の元へ、思いがけず幼い頃から面識のある小王国ベルデオリエンスの王太子、アートゥルード殿下が来て下さいました。
驚いたことに王太子殿下は私に愛を囁かれ、婚姻を申し込んで下さったのです。ですが私はそのお手を取らず、ライ様のお言葉に従い、恥も外聞もなくトゥレン様の胸へ飛び込んでしまいます。
もう…耐えられなかった。いつこの身を穢されるかわからない、虫唾の走るほど大嫌いな汚らわしいシャール王子に。
――私をここから連れ出して欲しい。私が恥を忍んでそうお願いしたトゥレン様は、間を空けずに守護者の資格を得られ、家族に迷惑がかかるからと廃嫡まで申し出られて最終的には、近衛という名誉な職どころか王国軍籍からも抜けて仕舞われました。
ですがそれは全て、私に結婚を申し込んで下さったアートゥルード殿下の元へと、私を送り届けるための準備でした。
城を脱出し、見知らぬ異種族の隠れ住む地へ知らずに入り込み、トゥレン様のお手を罪なき獣人方の血に染めた、それでも私はお側にいたかった。
お願いです、トゥレン様…貴男様のお側において下さらないのでしたら、もうこのままこの森で死なせて下さい。
私は貴男様以外の殿方を愛することはできません。貴男様でなければ、決して幸せにもなれません。
寒くて遠くなる意識の向こうで、トゥレン様の告白を聞きました。
――闇の主従契約とはなんですか?
私の思いに応えたくとも胸の内を伝えることが出来ないとは、なぜなのですか?
愛しています、トゥレン様。貴男様にとって私はライ様の次であっても構いません。
貴男様のお側に置いて頂けるのなら私は、なにもかもを捨て『聖女』でなくなるどころか『悪女』にでも『魔女』にでもなににでもなりましょう――
「――…様…、…ルラ様、俺の声が聞こえますか?」
«…トゥレン様の…私を呼ぶ声?…普段はペルラ王女、と呼ばれるのにどうして…»
「ルラ様…!」
「……え…?」
〝ルラ様〟とは私のこと…ですか?
「…トゥレン、様…?」
目を覚ますと見知らぬ部屋の天井が見え、温かな場所でトゥレン様が私の手を握って下さっていました。
隣にはトゥレン様が休んでいたと思われるもう一つの寝台が見えることから、私は寝台に横たわり今まで眠っていたようです。
「良かった…、お気がつかれましたか。――申し訳ありません、俺の判断ミスと犯した罪のせいで…危うく貴女様のお命まで失われる所でした。俺は…俺はどうやってお詫び申し上げれば良いのか…」
トゥレン様が私の手を握り、あのお優しい黄緑色の瞳でお辛そうに見つめながら心から私の心配をして下さっています…
「なにを仰っているのです…詫びなど要りません。それよりトゥレン様、ここは…?私達はあのおかしな森を、どうやって抜けられたのですか…?」
「それについてはご説明致しますが、暫くは俺のことを『レン』とお呼び下さい。ここはまだエヴァンニュ王国内であるため、偽名を使用した方が良いからです。もし俺がペルラ王女殿下とお呼びすれば、すぐに憲兵などへ報告が行くでしょう。ですので俺は殿下を『ルラ様』とお呼びします。」
――それで『ルラ』と…
「わかりましたわ、『レン』様…それで…?」
「俺達が何日も彷徨い歩いていたのは、エヴァンニュ王国の南部にある『ラビリンス・フォレスト』でした。」
「ラ…ラビリンス・フォレスト…!?」
一度足を踏み入れれば二度と出られないと言われる、有名な迷いの森…!!
「ど、どうやって外へ…生きて帰った者はいないと伝え聞く森です…!それなのにどうして無事に…」
「――俺がとある精霊と取引をし、対価を差し出すことで森の出口まで案内して頂きました。俺は知らなかったのですが、ラビリンス・フォレストとは『精霊族の領域』なのだそうです。」
トゥレン様は私が気を失った後に起きた出来事を、掻い摘まんで教えて下さいました。
それによるとその精霊は暗黒の大精霊のノアディティク様と名乗られたそうで、その大精霊が助けてくれたのだと仰いました。
「暗黒の大精霊様…ですか…ではここは本当に人里…?」
「はい。ヴァンヌ山麓の山間にある、『ヴァハ』という名のとても小さな村です。非常に多くの魔物が生息している山を越えなければ辿り着けない僻地にあるため、余程のことがなければ憲兵もここまでやって来ることはない場所です。隣国へ向かうのはかなり先になりますが、それでもルラ様のお身体を休めるには良い隠れ場所かと。」
「……ご迷惑をおかけして申し訳ありません、レン様。私のことなど捨て置いて下さって構いませんでしたのに…」
「な、なにを仰るのです…!!」
「…いいえ、助けて頂いたのにこのような事を申し上げるべきではありませんね…ありがとうございます、レン様。貴男様のおかげで私はまだ生きているようです。」
「ル、ルラ様…」
――私は覚えていました。遠い意識の中、トゥレン様が私に仰っていらしたことを。
わかっていたことではありましたが、それでも…〝アートゥルード殿下にお願いしたかった〟などと言われて傷つかずにいられるほど、私は強くありませんでした。
その時、カラララ、と部屋の引き戸が開いて年配の膨よかな女性が室内に入っていらっしゃいました。
「ああ、良かったね、二人とも目が覚めたんだね…!」
そう言いながらにこにこと私達に微笑みかけて下さったその女性は、お湯の張られた洗面器とタオルを手に、私の方へ近付いて来ました。
「どれ…うん、薬湯のおかげですっかり身体も温まったね。どこから来たのか知らないけど、お嬢さん、あなた体温が下がり過ぎて死ぬ所だったんだよ?本当にねえ…旦那さんがついていながらしょうもない。」
「えっ」
「だ、旦那、さん…?」
ほかほかと湯気の立つ温かいタオルで、私の手足を順々に温めて下さったその女性は、ゼルタさんと仰るのだそうです。
「ご夫婦なんだろう?おや、違ったかい?」
「ま、まあ…!」
ぽっ、と頬の熱くなる私に対してトゥレン様は慌てた様子で違います、と否定なされ、私はすぐにまた悲しくなってしまいました。
「ふうん?まあどっちでも良いけどね、お嬢さんの方はまだ当分安静だよ。この村にはお医者がいないからねえ…どちらも大きな怪我がなくてほんとに良かったけど、薬師はうちの人がやってるから安心して暫くここにいると良いよ。」
「そ、そんな…ここまでお世話になった上、さらにご迷惑をおかけするわけには…」
「なに言ってんだい、そんな青い顔して。心配しなくてもうちの人はここの村長だから、怖くなんかないよ。この部屋もね、一人息子が村を出て行ってから新たに増築した簡易宿泊所みたいなものさ。どういうわけかこの所良く怪我人やら病人やら運ばれてくるからね。気にせずゆっくりしてお行きよ。」
「あ…ありがとうございます…」
――なんて温かいおかみさんなのかしら…
「そう言えばお嬢さん達、まだ名前を聞いてなかったね。」
「あ、はい…私は『ルラ』と申します。そしてあちらは…」
「ルラ様の護衛騎士で『レン』と申します。少しの間ご厄介になりますが、どうかよろしくお願い致します。」
「まあまあ、ご丁寧どうも。ルラさんにレンさんだね、一応間に衝立を用意するから、お二人ご一緒の部屋でも大丈夫かい?」
「あ、は、はい…!」
「ええ、俺もその方が安心出来ます。」
「そうかいそうかい、どれ…それじゃ後で消化の良い食事を持って来るからね。お腹、空いてるだろ?」
〝食事〟と聞いただけで、私はくうう~とお腹が鳴ってしまいました。そう言えばもう何日まともにご飯を頂いていないでしょうか。
「おや、おや、少し急いだ方が良さそうだね!」
明るく朗らかにそう仰り、ゼルタさんはまた洗面器を手に出て行かれました。
「――ホッとしました…どうやらご婦人は俺の顔を御存知ないようです。」
「ええ、トゥレン様…いえ、レン様を御存知ないと言うことは、この村からは滅多に外へ出られないのでしょうね。」
「詮索好きな方々のように根掘り葉掘り聞かれませんでしたしね。」
「……ふふ。」
その言葉通りトゥレン様は心底安堵なされたようで、私も死にかけた割りには現金にもつい笑ってしまいました。
「…これから私はどうしたら良いですか?レン様。」
「…はい。ルラ様のお身体が戻られるまでこちらに滞在させていただき、その次はメクレンへ向かって、そこで外見変化魔法の魔法石を探そうと思います。あれさえあれば外見を変えて街中を歩くことが叶いますから。」
「そうですか…」
ではまだ当分の間私は、トゥレン様のお側にいられるのですね…
「ルラ様には他にお話ししなければならないこともございますが、それは追々にして今はゆっくりと休まれて下さい。」
「ええ…わかりましたわ。――ところでレン様、私達はラビリンス・フォレストの中をどのくらい彷徨っていたのでしょう?」
「…驚かれないで下さいね。」
「?」
「俺の感覚では消費した食料から考えても、最低二週間以上は迷っていたと思ったのですが…精々その半分以下の六日ほどでした。」
「む、六日…!?」
あれほどの喉の渇きと飢えに苛まれた長い時間が、たったの六日――
「ラビリンス・フォレストは精霊族の領域と仰いましたわね…そう考えますととても恐ろしい場所でしたわ。」
「同感です。あれほど長い期間に感じていた苦痛が、予想より遥かに短い時間だったと知り、良く生きて帰れたものだと思いました。――精霊との取引は苦渋の決断でしたが、ルラ様のお命には代えられず…今は良かったと思っています。」
「レン様…」
――そこまで私の命を思って下さるのなら、貴男様の正直なお気持ちを包み隠さず教えて下さい。…そう言いたい気持ちを堪え、私は俯きました。
まだもう少し時間はある…ここまで来たのですもの、そう簡単に諦めませんわ。
「ではレン様、間違っても私が王都へ連れ戻されたりしないよう、良くなるまでしっかりと傍を離れずに守って下さいね。」
一度死を覚悟したのだもの…もう怖いものはありません。
戸惑ったようなお顔をされ、それでもはい、と返事をして下さったトゥレン様に私は心から微笑んで胸の中に呟きます。
愛しています、トゥレン様――と。
次回、仕上がり次第アップします。




