218 揺らぐ自我
ルーファスの意識がありレインフォルスが表に出ている状態で、ア・ドゥラ・ズシュガをそのあまりに残虐な倒し方で滅したレインフォルスは、意識を取り戻すと自分が誰なのかわからなくなってしまったようでした。唯一ルーファスの分身であるゲデヒトニスだけがその原因に心当たりがあるようで、自分に任せて欲しいと言ってレインフォルスを導きました。そうしてはっきりと自分を取り戻したレインフォルスでしたが…?
【 第二百十八話 揺らぐ自我 】
〝俺は、誰だ?〟
――目を覚ますなり様子のおかしかったレインフォルスは、ウェンリー達を見ながら僕らの前でそう呟いた。
「な…なにを言うのです、レインフォルス…悪い冗談はやめなさい…!!」
血の気の引いた顔をしてレインフォルスの肩を掴み、揺さぶるようにサイードは叱咤する。
思うんだけど…僕らの中で今、サイードが最もレインフォルスのことを心配している気がする。
ウェンリーとイスマイル、リヴグストも気にかけてはいるだろうけれど、どちらかというと吃驚している方が大きい感じだ。
まあそれはともかく、レインフォルスの異変に驚愕するサイード達に対し、僕の方はと言えば――
――その原因に心当たりがあった。
«ああ、そうか…彼は別に記憶喪失となったわけじゃない、一時的に意識が混濁して自我が揺らいでいるんだ。»
そうそう、今さらだけど僕はゲデヒトニス。どういうわけか若干の齟齬が生じているルーファスの分身だ。
少し前にルーファスはシルヴァンが腐沼に沈んだのを見て怒り狂い、守護七聖や僕までもが驚くような恐ろしい行動を見せた。
まあそれも、実のところカオスが関係しているみたいなんだけど…
多分今レインフォルスは、自分がルーファスなのかレインフォルスなのか、それかルーファスから分離した直後の僕のように、それ以外の誰かなのかがわからなくなっている。
――それも無理はないだろう、と僕は勝手に一人で納得している。
でもとにかく先ずはこの一件を終わらせてしまわないと、落ち着いて話も出来ないよね。
まだ救出目的は達成していないカラマーダはもちろんのこと、カオスに連れ去られたシルヴァンが心配なんだし…ここはやっぱりまた僕の出番かな。
「大丈夫だよ、サイード。僕に任せてくれないかな。」
「ゲデヒトニス。」
顔色を変えるサイードの手をそっと掴んでレインフォルスの肩から引き離し、僕は正面から彼に向き合った。
今のレインフォルスはマロンプレイスの宿で会った時と違い、少し呆然としながらも僕の顔をまともに見ている。
それだけでも彼が自分を見失っているのは明白だ。
「――しっかりしなよ、レイン。僕が誰なのかはわかるよね?」
紫紺の瞳が真っ直ぐに僕を見て、僕の方も彼の瞳をよくよく見てみると、その輝きの中に青緑の光が混じっているのを確かめる。
それはかなり近付かないと気づけないほど僅かだけれど、髪色の方は旋毛の辺りに、はっきりとその〝兆候〟である銀髪が見えていた。
«漆黒の髪に銀髪が混じってる…»
「……ああ…、わかる……ゲデヒトニス。」
暫くしてレインフォルスはぼんやりしながらも、ふと思い出したようにそう答えた。
僕はその『記憶』が『正しい』ことを再認識させるため、わざと自分の名前を復唱して念を押す。
こうすることで、レインフォルスが自分自身の記憶の糸口をしっかり掴めるように導くんだ。
「そう、僕だよ、『ゲデヒトニス』だ。僕がルーファスを眠らせて君の自我がきちんと保たれるようにした。――だからゆっくり思い出して。君は誰だい?」
「――俺……俺、は……」
まだ心ここにあらずの体で、レインフォルスは記憶を辿っている様子だ。
そうして少し経った頃、ようやく彼の瞳から完全に青緑の光が消え、はっきりと自分が誰なのかを自覚したようだった。
その目に生気が戻り、続いてほんの一瞬だけ視線が泳ぐと、僅かに恥じ入り狼狽える動きが見て取れる。
彼にしてみれば本来ルーファスの分身である僕の手を借りることになったのは、多分不本意だったと思うから。
「…ああ、そうか……どうやら迷惑をかけたようだ。――助かった。」
「いいんだレイン…ちっとも迷惑なんかじゃないよ。僕としても君には返し切れないほどの恩があるしね。――あ、これからは〝レイン〟って呼んでもいいかな?」
「好きにしろ。――だが恩、か……それはどうだかな。」
レインフォルスが自分を取り戻し、その瞳にも強く紫紺の輝きが戻ると、それまで迷子の子供のようだった心許ない態度が、あっという間に普段の彼へと戻る。
…とそのタイミングでせっかちなウェンリーは業を煮やし、早速待ちきれずに横から割り込んで口を出してしまった。
「おい、どうなってんのか説明くらいしろよ。」
いつもは喧嘩腰のウェンリーも、この時ばかりは心の底から心配していたらしく、割りと静かな声でそう言ってレインフォルスの腕を掴んだ。だけどその瞬間――
バシンッ
「いてっ!!」
怒ったレインフォルスから、忽ちその手を冷たく振り払われてしまう。
「馴れ馴れしく触るな!」
「なっ…」
ああ…どうやら本当に大丈夫みたいだね。
僕はその態度を見て思わず苦笑する。
「お、まえなあっ!!この…ムグッ」
「もう大丈夫そうですね…心配しましたよ。」
ほんの少し掴んだだけの手を乱暴に振り払われて、カッとしたウェンリーの口を素早く横から左手で塞ぎ、サイードは安堵の表情を浮かべながらレインフォルスに声をかける。
「…悪い。」
――うん、サイードに対してはルーファスと同じく、レインフォルスの態度も軟化するんだね。
僕の記憶にある限り、実はこっちのレインフォルスの方が素のような気がしている。
なぜなら彼がいつもルーファスにかける声は、他の誰かに対するものとは明らかに違い、今のように言葉少なでも優しかったからだ。
短く一言だけそう言ったレインフォルスの表情は、僕にしかわからない程度にだけ和らいでいたようだった。
「それでルーファスはどうしているのです?」
だけどそれも、急に表情を変えたサイードのこの問いかけで、一気に場の雰囲気ごと変化する。
「――心配ない、俺が深淵に引っ込めばすぐにも目を覚ますだろう。それと交代する前に一つ言っておくが…恐らくルーファスはア・ドゥラ・ズシュガとの戦闘内容を殆ど覚えていないはずだ。特に俺と入れ替わった後からのことはな。」
直前までとはガラリと口調を変え、レインフォルスは淡々とルーファスのことをいきなりそんな風に説明してしまう。
それに対し、それまではレインフォルスの様子に戸惑い、口を出さずに待機状態だったイスマイルとリヴグストが、えっ、と驚いたように目を見開いた。
「…レインフォルスさん、それはなぜなのですか?あなたと同時にルー様の意識はずっとあったのでしょう?」
「暴走を引き起こしたのはルーファス。サイードもそう言っておったが、それはもしやその反動だと言う意味か?」
「いや…ゲデヒトニス。」
「うん。――悪いけどそれは後で僕から説明するよ。」
僕がそう言うとすぐに二人は納得が出来ない、という不満を眉間に表した。
「ゲデちゃん…どうしてですの?わたくしとしては、レインフォルスさんから直接事情を伺いたいのです。」
「うむ、予もイスマイルに同意ぞ。…レインフォルスよ、なぜぬしと我らの主が暴走しただけで、ア・ドゥラ・ズシュガにあれほどの残虐行為を行えたのか、予らは詳しい事情を知りたい。」
「ええ、わたくし達守護七聖<セプテム・ガーディアン>があなたを信用するためにも、どうか御自身の口から話してくださいな。」
――ああ、これは…さすが守護七聖だね、としか言い様がないかな。
僕はルーファスの分身だけど、彼らにとって本当の意味での『主』はやっぱりルーファス本人だけで、そのルーファスが不在の状態では納得できない限り彼ら自身が精査してから判断するんだ。
つまり今の言葉からもわかる通り、守護七聖はまだ『レインフォルス』を完全には信用していない、と言うことなんだね。
彼が何度ルーファスの窮地を救おうが、ア・ドゥラ・ズシュガの背後にカオスがいようといまいと関係なく、あの戦闘で取った行動自体に強い不審を抱いている。
――イスマイルとリヴグストがやんわり説得するようにそう言うも、レインフォルスは二人から顔を逸らして次第に苛立ち始めた。
その様子はルーファスと違って、自分のことに他者が踏み入るのを極端に嫌う性を持つ、典型的な対人障害特有の癖みたいなものだ。
…少しまずいかな、これは――
「イシー、リヴ、ええとね…」
そう感じて僕がなんとか宥め、二人に了承して貰おうと思った時だ。
「――俺がいつ、信用して欲しいと頼んだ?」
「レインフォルス!」
レインフォルスの方が尋問されるような雰囲気になって、先に切れてしまった。
«ああ…ウェンリー以外にもこうなるのか。»
「やめなさい!」
サイードが苛立つレインフォルスを止めようとするも、唖然とするウェンリーを尻目に、レインフォルスの方は不満を吐き出さないと気が済まないみたいだった。
「前にも言ったが、俺がルーファスを助けるのはルーファスの為じゃない、そうする必要があったからだ。ルーファスを含めおまえ達は全員、俺が仲間にでもなったかのような勘違いをしているようだが、俺にウェンリーは元より、守護七聖とも馴れ合うつもりは微塵もない。」
「レインフォルス!」
そこで俺を出すのかよ、と名前を出されたことにウェンリーがムッとし、サイードは再度レインフォルスを止めようと強い口調で名前を呼ぶ。
だけどそれでもレインフォルスは続けた。
「信用云々の前に、初めから俺とおまえ達の間で信頼など築けるはずもない。なんと言っても俺には、おまえ達守護七聖すら死に追いやることが可能な『邪眼』を開く能力があることだしな。」
「な…レイン!!」
«なんてことを言うんだ…!!»
強烈な最後の言葉を残し、青ざめて絶句するイスマイルとリヴグストを放置して、レインフォルスは収拾も付けずにさっさと表から引っ込んでしまう。
その瞬間、ルーファスの身体は以前のようにガクンと前のめりになって、最も傍にいたサイードへと倒れ込んだ。
そうしてこれもいつも通りに、ルーファスの髪は漆黒から銀髪へと瞬く間に変わって行く。
僕は短く溜息を吐いて、そのルーファスを見つめた。
「――少々答えを急ぎ過ぎましたわね…怒らせてしまいましたわ。」
「仕方あるまいよ、あの行動は決して見過ごせぬ。それとあの力についてもぞ。予ら守護七聖を死に追いやれるとまで言いおった。」
追いかけて話し合うことも叶わないレインフォルスに、イスマイルとリヴグストは険しい顔をして目線を落としている。
レインフォルスのあの言葉…せっかくサイードがウェンリーに、邪眼の力は悪いだけのものじゃないと言ってくれたのに、選りにも選って本人があんなことを言ったら良く思われないのは当然じゃないか。
あの言葉が、後々にまで尾を引かないといいけど――
「びっくりした…あの態度は俺に対してだけなのかと思ってた。…なあ、イシーとリヴはあいつのことどう思って――」
ウェンリーはイスマイル達に対するレインフォルスの態度には少し驚いたようで、そのままなにかを言いかけたその時、サイードに支えられていたルーファスが目を覚ました。
「――…?あ、れ…俺は…」
ぱっちりと青緑に戻ったその目を開き、すぐに上体を起こしたルーファスは、まるで夢から覚めたばかりのような顔をして、自分がなぜ横たわっていたのかもわかっていないみたいだった。
――まあそれも僕がそう仕向けたんだけどね。
「ルーファス。」
「ルー様…」
「気がつかれましたか、予の君。」
レインフォルスの言葉通り、彼と入れ替わって間もなく目を覚ましたルーファスに対し、僕を除いた四人の反応は安堵して喜ぶでなし…各々が戸惑った顔をしてぎこちなく、なんとも気まずい雰囲気になってしまったのだった。
* * *
――エヴァンニュ王国某所、二時間前。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
ザザザッ
日の暮れかけた深い森の中を、茶色のフード付きマントに身を包む大柄な男が、同じような服装をした華奢な女の細い手を引き、なにかから逃げるようにして必死に走っている。
そこは獣道すらないような、大木の間に雑草の生い茂る非常に歩き難い場所で、二人は何度も足を取られて転びそうになりながらも踏ん張り、ひたすら奥へ奥へと分け入って行く。
遠くに聞こえる怒り狂った魔物の咆哮に、男の額からは滝のような汗が流れ、それが鼻先から幾筋も伝い落ちては玉となって飛び散った。
――直後、苦し気に喘ぐ女の様子に気づいた男は、追っ手から身を隠すのに丁度良い大木を背にして足を止める。
女をぐいっと力強く引き寄せて自分の影に隠すと、懐から取り出した短剣を構え、姿の見えない敵にピリリと神経を張り詰めた。
«大丈夫だ、追って来る気配はない…どうやらなんとか逃げ果せたようだ。»
男はようやく魔物を撒いたことでホッと一息を吐き、自分の右脇後方へピッタリと寄り添う女を振り返った。
「乱暴にして申し訳ありません…大丈夫ですか、まだ走れますか?」
顔を隠すために男と同様フードを目深に被る女は、肩で荒く息をしながらも、左手でマントの襟元を窄めて大きく頷いた。
大柄な男は背中に立派な大剣を背負い、取り出した短剣とは別に腰にももう一本中剣を装備している。
だがこう言った場所は身を隠すのに最適でも戦闘には向いておらず、木々の枝葉が邪魔になって大剣や中剣などの武器を奮うのには適さなかった。
そんな環境で強力な魔物に出会せばもう、どうにか隙を作って逃げ出すしか方法はない。
この二人が置かれていたのはそんな状況だったのだ。
――もうすぐ日が暮れる…立ち止まっている余裕はないが、休憩を取るにも場所が悪い。
そう思いながら男は抜いた短剣を鞘に戻すと、懐に仕舞って短い時間女の息が整うのを待つことにした。
尚も周囲を警戒する男の恰好は冒険者のそれであり、目に付く大きな荷物をなにも所持していないことから、守護者の資格を有していることはすぐにわかる。
対して同行者の女は、手元に魔法士の触媒である『ロッド』(人によって長さ、大きさの異なる、先端に魔石や宝玉を嵌め込んだ棒状の武器)を所持していることから、支援職を務めることは可能なのだろう。
そうして男は女を待つ間、左上腕に嵌めた腕輪の釦を押して指示灯を表示させ、自分の進行方向が間違っていないかを確かめる。
その腕輪は高価な魔導装身具で、点灯する三角形の魔石が目的地への方角を示し、いくつか並んだ丸い魔石がそこまでの距離を表す仕組みになっていた。
それを見た男は、再度出来るだけ小声で女に話しかける。直前に出会した魔物は元より、近くに潜んでいる可能性のある敵にも気づかれないよう、細心の注意を払っているのだ。
「――この先に地下迷宮へ降りられる自然洞か縦穴があるはずです。地下にも数多くの魔物は潜んでいますが、ここ『シャンカウムの森』からなら誰にも見つからずに隣国へ出られるでしょう。できるだけ魔物との戦闘は避けて先を急ぎます。このまま慣れない悪路を進み続けますが、どうか頑張ってください。」
フードから覗く男性の口元が僅かに綻び、華奢な女を励ますようにして笑顔を向けていることが見て取れる。
そうして女はもう一度大きく頷くと、同じように声を潜めて返事をし、小さく男の名を呼んだ。
「はい…トゥレン様。」
布先を指で僅かに捲り、はらりと垂れた狐色の前髪と樅の葉のような深緑の瞳が見上げ、目配せでもするように一度長い瞬きをする。
「私は大丈夫です。――なによりも今は貴男様が傍にいて守って下さいますもの。」
大柄な男は『トゥレン・パスカム』、華奢な女はシェナハーン王国の至宝、聖女と呼ばれる『ナシュカ・ザクハーン・ペルラ・サヴァン』王女だった。
ペルラ王女はトゥレンに向けた言葉に反してどこか悲しげに微笑むと、トゥレンはその笑顔から逃げるように顔を逸らし、僅かに歪めた目元に罪悪感を滲ませる。
そうして彼はツキリと痛む胸の思いを振り払い、顔を上げてごつごつとした大きく無骨な手を差し出した。
「――では行きましょう、ペルラ王女殿下。」
その手を取り、王女はただ前を見据えて、道なき道の続く先へトゥレンとともに地面を蹴った。
――FT歴1996年△月×日。星明かりのない暗い新月の夜を迎えるその日、王太子シャールとの結婚を数週間後に控えたペルラ王女はそれを拒み、エヴァンニュ王国の王城から密かに逃走を図った。
事の発端は幼き頃より王女に思いを寄せていた、小王国ベルデオリエンスの王太子、『アートゥルード・ベルデリオス』がペルラ王女の婚姻相手を知り、その救出を目論んだことに起因する。
そうして身分を偽り、極秘入国を果たしたアートゥルード王太子は、縁あって『鬼神の双壁』と呼ばれたイーヴ・ウェルゼンとトゥレン・パスカム両名の協力によりペルラ王女との謁見を果たし、綿密な逃走計画を実行に移した。
主にそれを手助けしたのは、少し前に王宮近衛第一補佐官を辞し、王国軍をも退役してハンターとなった、古くから続くパスカム家を廃嫡したばかりの『トゥレン・パスカム(28)』だ。
その他国王の側近であるイーヴを始め、王女の境遇に深く同情していた一部の使用人や、アートゥルード王太子に雇われた間諜など複数の人間が関わっている。
当初アートゥルード王太子の計画としては、用意した替え玉(魔法石によって外見を王女の姿に変えている)とペルラ王女が入れ替わり、少人数の護衛と王女のみで王都を脱出、国境街レカンで待機しているアートゥルード王太子と合流し、シェナハーン王国の保護を受けながらベルデオリエンスまで逃げ果せる、という手筈を考えていた。
ところがその目論見に反して、王女の実兄である隣国シェナハーンの国王シグルドは、シャール王太子とペルラ王女の婚姻を強く望んでいると知り、エヴァンニュ王国から脱出しても守護騎士に見つかれば連れ戻されてしまう可能性が高くなった。
それに加えてイーヴからトゥレン個人へ齎された『とある情報』により、計画開始の当日になってアートゥルード王太子にも極秘で、大幅な経路変更を余儀なくされてしまう。
そうして最終的に王女からの信頼が絶対であるトゥレンのみが護衛に付き、人の通わぬまともな道すらないこの森へ入って国外へ脱出することになったのだった。
魔物除けの道具を駆使して上手く戦闘を回避しながら、トゥレンはペルラ王女の手を引いて魔導装身具を頼りにひたすら先を急ぐ。
やがて完全に日が落ちる頃、ようやく目的の場所を見つけられたのだった。
«本当にあった…ここがイーヴの調べてくれた、誰にも知られていない地下迷宮への縦穴か。国の情報記録を昔に遡って探したと言っていたが…よくぞ見つけられたものだ。»
「ありました王女、ここが地下迷宮への入口です。」
トゥレンは夜の帳が降り始めた暗がりの中、携帯用の明光石を取り出すと明かりを点けて、雑草に埋もれ蜘蛛の巣の張った底の見えない穴を覗き込んだ。
「こ、この大きな穴が…そうなのですか?」
「ええ。」
ペルラ王女は不安げな表情を浮かべており、問いかけるその声も微かに震えている。
«傍に魔物の蠢く気配はないな…よし。»
続いて野営用の燃料を使い、着火具で木の枝に巻いた布へ点火すると、トゥレンはそれを穴の中へ放り込む。
するとかなり下の方で地面に落下し、それは火が付いたまま激しく燃え続けていた。
簡易松明の明かりで僅かに見えるようになったその穴は、直径が三メートルから広い所で五メートル近くあって、底へ向かうほど緩やかに広くなっている円錐台の形状をしており、脆い土の壁面には足を掛けられるようなものなど一切見当たらない。
その上トゥレンの目算で測ると、底までの高さは二十メートルかそれ以上はあり、さすがに王女を抱えて飛び降りるのは危険だった。
「た…高い、ですね…」
「――このくらいなら問題ありません。木に縄を渡し、それを伝って下まで降りられます。恐らくはないでしょうが、王女殿下は縄での昇降訓練や腕を使っての懸垂などをされたことはありますか?」
「………」
ペルラ王女はふるると横に首を振る。
「では俺がおぶるか抱えて降りることになりますが…身体を密着させることになります、ご辛抱ください。」
「え、ええ…」
トゥレンは悩んだ末に王女を背負うのではなく、身体を前にしっかり縄で括り付けて、王女には両腕を首に回し掴まって貰う手段を取ることにした。
穴の傍の大木に無限収納から取り出した太めの縄を渡し、特殊な軍用の下降器具を用いて片方を自らの身体に装着、もう片方を垂らすと、王女の身体を自分に別の縄でしっかり固定する。
そうして垂らしておいた方の太縄を掴んで、トゥレンは穴の縁に立った。
「――では降ります。途中に足場が見当たらないので一気に下まで行きますから、しっかり掴まっていてください。」
「は、はい…!」
ザッ…ズザザザザザザーッ
「き…きゃあああっ」
ペルラ王女はトゥレンの肩口に顔を埋めると、悲鳴を上げて必死に縋り付いた。
だがそれはほんの僅かな時間で、固く目を閉じたまま震えていると、あっという間に穴の底へ辿り着いてしまう。
「殿下。…ペルラ王女殿下、縄を外しました、手を放してください。」
「!」
トゥレンは王女を抱えたまま、直ぐさま用意しておいた明光石の灯りを点け、王女の身体を結んでいた縄を解くと優しく声を掛ける。
王女はカアッと顔を赤らめて、そんなトゥレンから恥ずかしそうに急いで離れるのだった。
「ご…ごめんなさい…」
「いえ。」
真っ赤に頬を染め心臓の鼓動を早める王女に対し、トゥレンは淡々とした様子で木に渡した太縄を回収し、自分達が穴に降りた痕跡を消して行く。
ペルラ王女は恋心を抱く自分と、それを知りながら意に介さない振りを続けるトゥレンとの温度差を感じて顔を曇らせた。
ふと視線を移すと、そこには真っ暗で先の見えない、地下迷宮の通路が延びている。
「――ここが古代期前から、エヴァンニュ王国の全域に広がっていると言う地下迷宮なのですね…もっと狭いのかと思いましたが、まるで人工隧道のように意外にも広くてやはり暗いのですね。」
「ここのように地上から比較的浅い所を通るものやかなり深い場所にまで、網の目のように広がる通路の一部は、時に討伐依頼や素材採取でハンターが使うこともあり、人の手が入っていれば灯りが設置されている箇所もあるのだとか。ですがこの辺りはすぐ北に広大な『デゾルドル大森林』が存在しており、幻惑草の群生地が近いことからも人が近寄ることは全くないそうです。だからこそイーヴは敢えてこのルートを選んだのですが…」
トゥレンは携帯灯を手に、かなり古いが所々人工的に補強された痕跡のある通路を、注意深く見回した。
「壁に我が国の遺跡にも見られるような、同じ大きさの石塊が埋め込まれていますわ。」
「…そうですね。途方もない昔には誰かが使っていたという証拠なのかもしれません。」
――この広さなら十分剣を振れそうだ。地上と違い、なにが潜んでいるかわからん…気を引き締めねば。
トゥレンが腰の中剣を引き抜き、いつなにと出会してもいいように手早く戦闘態勢を整えると、そのトゥレンを見てペルラ王女は意を決したように顔を引き締めた。
「あの…トゥレン様お願いです、ここから先は携帯灯ではなく、私の光魔法で通路を照らさせてください。」
王女の申し出にトゥレンは少し驚いた様子で目を見開いた。
「それは有り難いですが…確実に安全な場所を見つけるまでは休むことも出来ません。道中魔力切れを起こされてしまうのでは――」
「私はそれなりに魔力量もありますので、丸一日ずっと使用し続けるのでもない限り、そうそうは大丈夫です。戦闘になれば明光石の灯りでは不十分でしょう?」
「………」
――そう言えば隣国は、我が国よりも遥かに魔物の被害が大きいのだった。時には王女殿下も民間人の救出へ駆り出されることがあったと聞く。
これがエヴァンニュ王国の貴族子女であれば、まず武器そのものを手にしたことすらないだろうが…その点、御自分用に誂えたロッドを所持していることからも、先に説明を受けていた通り、殿下は全くの戦闘素人ではないと言うことか。
俺一人では出来ることにも限界がある…ここは素直にお願いするべきだな。
トゥレンは納得して小さく頷いた。
「…わかりました、ではお言葉に甘えます。ですが無理はなさらないように。シェナハーン王国との国境近くへ出るには、古代期からあると言う巨大岩の縦穴を上らなければなりません。この先なにがあるかわかりませんので、できるだけ魔力と体力を温存されてください。」
「はい…!」
トゥレンの答えにペルラ王女は、ぱあっと瞳を輝かせて嬉しそうに微笑み、その眩しさにトゥレンはまた目を逸らした。
「では照明魔法を唱えます。我が光の魔法よ、暗闇を十分に照らし続けよ。『ルーメン』。」
王女の持つロッドの先端に白い魔法陣が輝き、そこから放たれた光の玉が頭上で浮遊しながら周囲を昼間のように明るく照らしてくれる。
「――これは凄い…大分奥の方まで見渡せますね。」
「これで視界を確保出来るだけでなく、地下に多い光に弱い魔物は逃げるはずです。参りましょう、トゥレン様。ここから先は私も戦います。どうかよろしくお願いしますね。」
「ええ、お任せ下さい、ペルラ王女。俺がなんとしても無事に貴女様を国外へ逃がします。」
トゥレンとペルラ王女は、互いにぎこちない笑みを浮かべて通路を歩き出した。
『――トゥレン、これが軍事棟の情報機器から入手した、何百年も前の地下地図だ。』
ペルラ王女の照明魔法に照らされる地下通路を歩きながら、トゥレンは逃亡行動前最後にイーヴと〝密会〟した時のことを思い出していた。
「これが…?良く見つけられたな。」
この時点で既に軍を退役していたために城へは入れず、下町北部にある打ち捨てられた廃地区の建物内で一冊の本を手渡され、トゥレンは内容を確かめる。
そこには簡易的だが、世に見る自然洞窟などの通路を記した物と同じ、広範囲に渡る地図が描かれていた。
「私が急ぎ紙に書き写して、一定区画ごとに本の形状へ纏めておいた。進行方向が間違っていなければ、閉じ面を北にして頁を捲るごとに次の区画が見られるようになっている。ただこれはあくまでも古代期の地図だ。現代で実際に歩き回り採取した情報ではないから、中には崩落して通路が埋まっていたり、魔物によって新たな通路が出来ていたりもするだろう。だからこの魔導装身具を持って行け。」
布に包まれた重さのある物体を手渡され、受け取ったそれの中身を確かめると、今実際にトゥレンの左腕に嵌まっている着脱式の腕輪だった。
「シャンカウムの森にある地下通路の入口と北から国境を越えて最も近い位置にある、『バセオラ』という村の二箇所を登録しておいた。目的地に着いた時点で随時登録情報は消去されるが、新たな目的地の設定方法もそこに記してある。それがあれば夜間暗闇の中でも、魔石が進むべき方角と距離をいつでも表示してくれるはずだ。道を間違えたり、地図が当てにならなくなった時の生命線になるだろう。」
「イーヴ…手間をかけてすまない、感謝する。」
「――礼には及ばん。私がこの計画に手を貸すのは、貴殿のためでなくライ様とペルラ王女のためだ。」
『トゥレン…最後に一つだけ伝えておく。貴殿がライ様を見つけられたなら、その時は――』
「トゥレン様、魔物です!!」
すぐ傍でそう叫んだペルラ王女の警告に、ハッとして現実へと引き戻されたトゥレンは、空中へ飛び上がり自分目掛けて襲いかかってくる、頭が三枚の花びらのように開ききった口だけの敵を即座に持っていた中剣で叩き斬った。
ザンッ…キイイイッ、ドサドサンッ
ビシャビシャッとその体液が通路の壁面に飛び散り、トゥレンに一太刀で頭部を切断された魔物は二つに分かれて落下し、暫くの間地面でのた打ち回っていた。
トゥレンは心臓をばくばく言わせながら自分が斬った魔物を良く見てみると、それは蛇ほどは長くなく手足のない芋虫のような躯体に、細かな歯の並んだ口から長く伸びる舌を出す、植物と昆虫の間のような頭部を持った姿をしていた。
「申し訳ありません、他のことに気を取られていました…お怪我はありませんか?」
「はい、私は大丈夫ですわ。」
落ち着いている様子のペルラ王女に安堵し、トゥレンは再度動かなくなった魔物に目を向ける。
「この魔物は初めて見ます。――目がないようですから、地下特有の魔物でしょうか。」
「いいえトゥレン様、小さいですが目は両脇に付いています。これは『イビルワーム』…人肉を好み、口と化した頭部を突き刺して穴を開け、体液を吸い尽くすと言われる恐ろしい魔物です。主にミレトスラハより西方の砂漠地帯に生息しているはずですが…エヴァンニュ王国に出現するとは未だ曾て聞いたこともありません。なぜこの魔物がこんな地下に…?」
「新種や未知の魔物ではなく、他国に見られる既存の魔物ですか…地下迷宮と砂漠ではまるで環境は違いますが、なんらかの理由で棲み着いているのでしょう。」
――やはり地下迷宮は地上と違うらしい。ぼんやり考え事をして王女に警告されるなど、以ての外だぞトゥレン。
そうトゥレンは自分を戒める。
その後気を引き締め直したトゥレンは、地図と腕輪を頼りに地下迷宮を進むが、暫く歩いた先で行き止まりに突き当たってしまう。
王女と共に地図を見直すも、先に続いているはずの通路は完全に塞がれており、どうやら何百年もの間になんらかの要因で流れ込んだ土砂が、固い壁となって通路を埋めてしまったようだった。
「ここは駄目ですね…迂回しましょう。」
仕方なく先へ進める道を探してトゥレンは枝分かれした脇道へ入って行く。
それからも途中何度か魔物に出会し、その度に二人で協力して問題なく倒すことは出来たものの、国境を越えるために進むべき北や北東側へ通路を辿っていると、なぜかその先が巨大な岩や地図にも載っていない壁で塞がれており、いくら迂回路を進んでも地下一階の通路からはどうしても先へ進めなくなってしまったのだった。
「ここも岩盤で塞がれている…どうなっているんだ?こんなに多方向へ枝分かれした通路はあるのに…どこか一箇所ぐらい通れる道があるはずだろう…!」
――いくら何でもおかしい。まるで昔誰かが、意図的に北へ向かう通路を塞いでしまったみたいな…いや馬鹿な、ここは地下だ。
ヒュールのように常識では考えられない地形に作られた街もある、これも地震などの大きな災害が原因なのだろう。
エヴァンニュ王国では過去の歴史を意図的に学ばせない。そう言った大規模な自然災害が遥か昔にあったとしても、俺を含め誰も知らないだけだ。
人一人の力では到底取り除けないような大岩に行く手を阻まれ、トゥレンは焦りから苛立って、拳を痛めるほどに強く打ち付ける。
ここまで既に先へ進める道を探して、二時間以上も歩き回っているからだ。
「――この地図はどのくらい昔の物なのですか?」
そのトゥレンに対し、ペルラ王女は疲れたとも口にせず冷静沈着で、手にした地図を具に調べながら尋ねた。
「…詳しくはわかりませんが、数百年から千年ほど前のもののようです。」
「そんなに前の…?では現在と大きく違っても不思議ありませんわ。地上に近い部分は地震などの影響を受けやすいものです。…少し戻れば地下へ降りる階段のようなものもありますから、下へ降りてみませんか?」
「王女…ですがここの魔物はどうもおかしい。国内で良く見かけられるような種は殆どおらず、変異体にこそ遭遇していませんが俺が初めて出会すような魔物ばかりです。さらに深く降りれば強い魔物に対峙する可能性は棄て切れません。貴女様をそのような危険に晒すわけには――」
「――トゥレン様、彼の御方に嫁ぐのが嫌で、城から逃げる選択をしたのは私です。元より危険は覚悟しておりますわ。」
ペルラ王女はトゥレンの言葉を遮ると、申し訳なさそうに微笑んで壁に打ち付けたトゥレンの手を取り、その場で治癒魔法をかけ始めた。
岩の尖った面で小さな怪我をした手から僅かに出血していた箇所も、優しげな薄緑色の光に包まれて癒されて行く。
「寧ろ私の我が儘にトゥレン様を巻き込んでしまい申し訳なく思っています。貴男様にとって私の思いはご迷惑だったでしょうに…」
トゥレンはその温かな魔法と、光に照らされて寂しげに俯くペルラ王女の美しい顔を見つめ、また罪悪感に目元を歪ませた。
「…迷惑などではありません。こんなことを申し上げるべきではありませんが…少なくとも俺にとって貴女は、非の打ち所がないほどにずっと理想の女性です。」
それはペルラ王女にとって思いがけない言葉だったのか、トゥレンから初めて聞く胸の内に、王女は俯いたまま驚いて大きく目を見開いた。
「――言っても詮無き事ですが…ライ様にお仕えする前であれば、俺はきっと貴女に言われるまでもなく、この手を掴んで決して離しはしなかっただろうと思います。」
「トゥレン様、それは…!」
続くトゥレンの言葉に顔を上げ、ほんの一瞬、ペルラ王女は歓喜に顔を綻ばせた。だがそれはすぐに落胆へ変わる。
トゥレンが、ペルラ王女を見ていなかったからだ。
「…傷を癒して下さり、ありがとうございます。このままここにいても進めませんね、王女の仰る通り危険を承知で下層へ降りてみましょう。」
«もしそれでも駄目なら、あれを使うしかない…»
治癒魔法の光が消えると、トゥレンは王女の顔を見ないまま儀礼的に頭を下げて脇を擦り抜けて行く。
王女は自分に向けられたその背中に拒絶を感じて俯くも、すぐに顔を上げてトゥレンの後を追いかけた。
地下一階に当たる通路の北方向へ進む道が全て塞がれていたことから、トゥレンと王女は階下へ降りる経路を辿り、地下二階、地下三階、と通れる道を探しながら尚も歩き続けた。
しかしどこを探してもまるで途中からぷっつりと断ち切られたかのように、どの通路も岩や土の壁で完全に塞がれていたのだった。
ここまで来ればもう、さすがに二人とも自然災害などで塞がれたわけでなく、先に〝なにか〟があるためにわざと先人が塞いだとしか思えなくなっていた。
「駄目だ、どこも塞がれている…」
すっかり当てにならなくなってしまった地図を握りしめ、トゥレンはまたも行くてを阻む固い岩盤に額を擦りつけながら悔しげに歯噛んだ。
「トゥレン様…先程の階段へ戻って少し休憩致しませんか?あの場には保存魔法がかけられて、魔物除けの結界も張られているようでしたから安全に休めますわ。疲労が溜まると判断力も鈍りますし、怪我をされる危険も増します。一時間ほどだけでも休まれた方が――」
「いえ…既に当初の予定よりもかなりの遅れが生じているのです。アートゥルード殿下がご用意下さった替え玉は、長くても三日しか持ちません。レカンを通らなくても地下迷宮を使えば国境まで最短距離を辿れるはずだったのですが…それでも二日は必要でしょう。三日目以降に事が発覚したとして、陛下の追っ手が放たれる前にシェナハーン王国で移動手段を確保せねばならんのです。」
「え…?」
口を突いて出たペルラ王女への説明に、しまった、という顔をしたトゥレンは思わずバッと口元を押さえる。
「トゥレン様…?今、なんと仰ったのですか…?王都から放たれる追っ手が、どなたのご命令だと…」
「す…すみません、言い間違えました、シャール王子です。王子からの追っ手が、と言おうとして――」
「誤魔化さないで下さい!」
「!」
「…トゥレン様は昔から嘘が下手ですわ。」
問い詰めるようにピシャリと言われ、トゥレンは言い訳を飲み込まされた。
「もしや国王陛下は…ロバム陛下は、既に意識を取り戻されておられるのですか?」
誤魔化せないと悟ったトゥレンは否定も肯定もせず、ただ黙って気まずそうに王女から目を逸らす。
「いつからですか?いつお目覚めになられて…!」
もしロバム王の目が覚めていたのなら、王太子シャールの横暴を放置しておくはずはない。
そう信じ切っているペルラ王女の追及にぐっと息を呑むと、諦めたように顔を上げて黄緑色の瞳を向け、トゥレンは真っ直ぐに王女を見て口を開いた。
「――最初から…」
「えっ…」
「最初から、です…ペルラ王女。」
「最、初…?」
そうしてトゥレンはこれまで見せたことのないような、深い失望を漂わせ無気力な表情をして答えた。
「――国王陛下は最初から…危篤になど陥っておられなかったのですよ。」
遅くなりました。次回、仕上がり次第アップします。いつも読んで頂き、本当にありがとうございます!




