194 失われて行く光 ④
悪逆非道の暴君と呼ばれる、シャール王子の帰国が翌日に迫る中、リーマはオホス・マロスの面々とエヴァンニュ王国を去ろうとしていました。そのリーマを偶然見かけたヨシュアの婚約者エスティは、彼女を呼び止めてなにをしているの、そう問い質しました。けれどリーマは自分がいると却ってライの枷になる、そう口にしますが…?
【 第百九十四話 失われて行く光 ④ 】
「…あら?あれって――」
どんよりとした灰色空の下、昼日中の下町でヨシュア・ルーベンスの婚約者『エスティ・ロナン』は、あまり見かけない顔の男女五人に混じり、旅装束のような格好をしたリーマ・テレノアを見つける。
年内には結婚するヨシュアは今、上官であるライ・ラムサス王宮近衛指揮官の無実を信じその濡れ衣を晴らそうと必死に奔走しているというのに、恋人である彼女はなにをしているの。
そう不満を持ったエスティは、忙しいヨシュアのために手作りした昼食の袋を抱えて通りを横切り、人目を避けるようにして移動するリーマに声をかけた。
「待って、リーマ!」
名前を呼ばれたリーマはすぐに彼女に気づき、振り返って足を止める。エスティはその足で小走りにリーマへ近付いた。
「…エスティ。」
「どうしたのその格好…あなたわかってる?今のままではあなたの恋人が処刑されてしまうのよ!それなのにあなたはなにをしているの…!?」
少し強い口調をしているのはいつものことなのだが、エスティの突っかかるような物言いに、リーマの横にいた目元のキツい印象を受ける女性…『ビア』は、そうとは知らず警戒してリーマを庇うように一歩前に出た。
それだけでエスティは、自分に向けられたただならぬものを感じ、ビアの威圧に怯えて身を引いてしまう。
「な、なによ…この人達は誰なの?」
リーマはビアに目礼をし、ビアは再度リーマの隣へ下がった。
「私の護衛をしてくれる方々よ。――ごめんなさい、エスティ…差し迫った事情があって、私…エヴァンニュから出なければならなくなったの。」
「えっ…待ってよ、王都からじゃなくて国を出るということ?嘘でしょ、こんな時に!?」
リーマは黙って横に首を振る。
「あなた酷いわ!ヨシュアは徹夜で王都中を駆け回っているのよ?誰よりも動いて然りのあなたが恋人を見捨てるの…!!」
「違うの…上手く説明はできないけれど、私がいては駄目なの。却って彼の枷になってしまう。」
「リーマさん、そこまでに…もう行きまっせ。手配した旅馬車が二重門で待ってんだ。」
「あ…はい、すみません。」
リーマに声をかけた男は、彼女の困っている様子を見て助け船を出したのだが、エスティから見るとそう告げた男はあまりにも柄が悪く、こんな連中が護衛なんてどういうこと?とリーマの行動に疑念を抱いてしまう。
「ねえ、本当に大丈夫?なにか悪いことに巻き込まれてでもいるんじゃ…」
「ううん、心配してくれてありがとう。でももう行かなきゃ。」
「本当に行くのね…?あなたと黒髪の鬼神には、結婚式に参列して欲しかったのに…きっとヨシュアがガッカリするわ。」
エスティからの朗報にほんの一時、リーマはその表情を明るくする。
「叔父様からお許しが出たの?おめでとう。…羨ましいわ、どうかお幸せにね。」
「…ええ。なにがあったのかは知らないけれど、気をつけてね、リーマ。…さようなら。」
「さようなら、エスティ。ヨシュアさんによろしくお伝えしてね。」
どこか寂しそうに微笑んで別れを告げたリーマを、エスティは複雑な表情を浮かべて見送る。
リーマと五人の男女はその場を離れ、足早に通りを駆けて行った。
「ラムサス近衛指揮官から結婚式の話さえまだ聞いていなかったのね。恋人が処刑されそうだって言うのに…」
私ならどんな理由があったって、ヨシュアを置いて国を出るなんて考えられないわ。
――リーマにはリーマが口にした通りのやむを得ない理由があるのだが、なんの事情も知らないエスティはリーマを薄情に感じ、そんなことを思いながら王城へ向かって歩き出したのだった。
彼女が城へ着いた頃、空から小雨が降り出した。
エスティはヨシュアへの昼食が濡れることを心配し、それを自身で庇うように抱きかかえると、民間人が入ることの許されている王宮前まで走った。
「ヨシュア!」
「エスティ。」
このところ碌に食事を取っていないヨシュアを思い、今日は昼食を届ける約束をしていたため、愛しい婚約者のヨシュアは王宮前に出て彼女を待っていた。だがその彼の酷い顔色を見て、駆け寄ったエスティは思わず顔を曇らせる。
「ヨシュア…顔色が悪いわ、大丈夫?」
「…うん。」
ヨシュアは辛そうな表情で小さく頷いた。
――きっとラムサス近衛指揮官の救出が上手く行っていないのね。
そう察したエスティは努めて暗くならないように振る舞う。
「忙しいのに無理して待ってなくても良かったのよ?衛兵さんに頼んで詰め所に届けて貰うこともできたのに。」
「わかってる。でも…君に直接会ってお礼を言いたかったんだ。…いつも俺のためにありがとう、エスティ。」
「なあに?急に…」
〝変なヨシュア。〟エスティはそう言って、こんな天気とは裏腹の輝くような笑顔を向けた。
ヨシュアはそんなエスティに目を細めると、愛おしそうに彼女を見つめる。
「もうすぐ結婚するんだもの、こんなことぐらいなんでもないわ。…それよりヨシュア、その様子だとあまり状況は変わっていないのね?」
「ああ…そうなんだ。――ねえ、エスティ。悪いけど今夜も君のところには行けそうにないんだ。もう時間がないから、俺にできることは全て手を尽くさないと…俺達の未来のためにも、ライ様を失うわけにはいかない。…君ならわかってくれるよね。」
「そうね…もちろんよ、と言いたいところだけど、あなたが倒れるのは嫌よ?ライ様好き好きもいいけど、無理はしないでね。私には黒髪の鬼神よりもあなたの方が大切なんだから。」
「…エスティ。」
ヨシュアは顔を上げて周囲をきょろきょろ見回すと、突然エスティの手を引っ張って柱の影へ移動し、なにを思ったのかそこでいきなりエスティを抱き寄せた。
「えっ!?ちょ…ヨ、ヨシュア!?こんなところで…っ」
焦るエスティの口唇を塞ぐようにして、ヨシュアは彼女に口づけた。――瞬間、二人の時間だけがその速度を変えてゆっくり流れて行く。
すぐ傍らを多くの人が通り過ぎて行くも、降り出した雨に気を取られてそんな二人の姿に誰一人気づくことはなかった。
「――愛してるよ、エスティ。」
「…ヨシュア。」
彼女は恥ずかしさに狼狽えて驚きはしたものの、数日ぶりの甘いキスに頬を染めて俯いた。
ヨシュアはもう一度恥じらうエスティを抱きしめ、エスティは心からの幸福感に浸って、愛する彼の温もりにそっと顔を埋めた。
「子供の頃から俺には君だけだった。やっと叔父さんが許してくれて…もうすぐ結婚できるんだね。――そう思うとそれだけで俺は幸せだよ。」
「…私も幸せよ、ヨシュア。」
「このところ一人にしてごめん。」
「いいの。私はいつだってヨシュアのすることを許してるでしょ?」
「はは、うん…そうだね。お昼ご飯をありがとう、君の料理は美味いから…詰め所で頂くよ。」
「ちゃんと食べてね。」
幸せな逢瀬の短い時が終わるとヨシュアは微笑み、エスティに手を振って王宮内へと戻って行った。
――こんなところで抱きしめたりキスしたり…嬉しいけど、なんだかヨシュア…少し変だった?
この時エスティ・ロナンは恋人の微かな変化を感じ取り、一抹の不安を覚える。
その小さな気がかりが、後に自分の人生を大きく変えてしまうことに、彼女はまだ気づいていなかった。
* *
「――そうか…クラバント・メリウスは殺されたか。」
『悪逆非道の暴君』。諸外国にまでそう呼ばれている王子シャールの帰国を翌日に控えたその日の夜、王都の高級住宅地にある、とある貴族の屋敷にその面々は集まっていた。
険しい顔でそう口にしたのは、士官学校で実技指導の教官を務めるティトレイ・リーグズだ。
彼は今普段はかけている色つきの眼鏡を外しており、その顔面に走る痛々しい傷痕が顕わになっている。
そのティトレイの他、この広間には結構な数の武装した男女がおり、彼のすぐ後ろにある壁際にはジャン・マルセルの姿も見えている。
彼らの服装は平民服から冒険者風に守護者のような装いまでと様々だが、大半が衣服の上からでもはっきりわかる、鍛えられた軍人らしい風体をしていた。
「ああ。憲兵隊の軍務規定に違反したとかで斬首刑に処された、そんな書簡付きで胴体から切り離された腐りかけの首と一緒に、今朝棺桶に入れられた遺体がメリウス家に届いたそうだ。彼はまだ今年十九になったばかりだったのに…惨いことをする。」
「連絡が途絶え心配してはいたんだが…既に殺されていたとはな。身勝手に邪魔な人間を殺しても、あの男には王妃イサベナの強力な後ろ盾がある。間違いなく奴の仕業だろう。」
「畜生、クロムバーズ・キャンデルめ…やりたい放題だ!!」
その屈強な男は、悔しげに握った拳を打ち鳴らし歯噛んだ。同調する周囲の人間も各々その心中を顔に表し、湧き上がる怒りを共通の同じ人間に向けている。
今正に名前の挙がった憲兵隊に配属されたばかりの新統括官、クロムバーズ・キャンデルその者へだ。
「奴の手にかけられた人間がどのぐらいいると思っている?俺のように殺されずに陥れられ、生きている者の方が圧倒的に少ないんだぞ…!!」
「その強欲さと狡猾さがイサベナ王妃のお気に入りなのよ。…騙された私も悪いけれど、兄を殺しあまつさえ魔法石で姿まで変えて嵌められた私は、死んでもあの男を許せないわ…!!」
「アルマ・イリス。」
――アルマ・イリス?
その名を聞いた瞬間、それまで後ろで控え目にしていたジャンはカッと顔を赤くして駆け寄ると、その女性の腕を掴み、力を込めて引っ張った。
「あんた…!!紅翼の宮殿でライ付きの侍女だった女だろ!?ライに死神の血を盛ったあんたが、なんでここにいるんだよ!!」
「…え?」
「煩いぞ坊主。今ここにいるのは、全員が黒髪の鬼神救出に携わる重要なメンバーだ。文句があるのなら坊主の方こそここから出て行け。」
「ぐ…」
屈強な男に貶むような目を向けられ、ジャンはその手を引っ込めた。
「おい、リーグズ。なんだってこんな子供を連れて来た?この作戦にはライ・ラムサスの命が懸かっているんだぞ!」
「まあそう言わないでくれ、マルセルはライ先輩がルクサールで保護して以降、ずっと可愛がっている弟のような存在なんだよ。クラバントが殺された以上、連れて行けばきっと先輩の警戒を解くのに役立ってくれるだろう。何しろライ先輩は敵の直中に置かれて窮地に陥るほど、初対面の人間を簡単には信用しなくなる人なんだ。せっかく助けに駆け付けたのに、一緒に来るのを拒まれては元も子もないからね。」
ティトレイは切迫した状況から、つい槍玉に挙げられそうになったジャンを庇い、大人に交じって一人だけ子供の彼が戸惑っているのを横目で見た。
「正気か!?こんな子供、あっという間に殺されてしまうぞ!!」
「――それはどうかな?これでもマルセルは、先輩から直接剣技指導を受けている身なんだよ。低ランク魔物なら問題なく倒せるくらいにはなっている。近衛隊の人間ならその実力も噂ぐらいは知っているよね。」
「ああ…まあな。」
守護者のような服装をした仲間の内の一人は近衛隊士なのか、ジャンを一瞥してから頷いた。
「ねえ待って、それを言ったら剣を持てない私だって同じだわ。ライ様は誤ってお命を奪いかけたこんな私を、死罪から救って下さったの。だから私はこの命懸けてあの方をお救いする。この子もきっと自分よりもライ様が大切なのよ。」
「あんた…」
元ライ付き侍女だったあの、明るくハキハキした性格だったアルマ・イリスは、事件以降すっかり人が変わり、ライが好ましく思っていたなにも知らない素直なあの頃からはまるで別人のようになっていた。
「あなたが私を許せないのは当然ね。どんなに罵ってくれても構わない。でも無事にライ様をお助けしてからにして欲しいの。処刑までもう時間がないのよ。」
「………」
ジャンは顔を逸らしたもののその気持ちを理解し、黙ってこくりと頷いた。
「片は付いたか?今さら揉めたりするんじゃないぞ。予定通り民間人を巻き込まないように、作戦は憲兵所が閉まる直前に決行する。手筈通り三方向から侵入し混乱に乗じて――」
――その時広間の扉をバンッと開け、慌てた様子の男性が部屋に飛び込んでくる。
「おい大変だ!!近衛第二補佐官のヨシュア・ルーベンスが、カレン・ビクスウェルト殺害と国王暗殺未遂の真犯人として、代理の近衛指揮官を通じ名乗り出たぞッ!!」
「なんだって!?」
その知らせに一瞬で室内は騒然となった。
「ヨ、ヨシュアさんが…なんで…!?なんでだよッッ!!!」
「マルセル!!」
知らせを持って来ただけの男性に掴みかかったジャンを、ティトレイは後ろから両肩を掴んで押さえた。
「恐らく身代わりに名乗り出たんだな。彼が黒髪の鬼神を救おうと日夜奔走していたのは知っていたが、双壁同様あまりにもジルアイデン代理に近く、情報漏れを懸念して仲間に引き入れなかったことが裏目に出たか。」
「早まったことを…」
「――だがこれは好機だ。」
広間の開いた扉から、五十代半ばくらいの貴族男性が姿を見せる。
「アルケー公爵。」
「鬼神の双壁が行方不明の今、第二補佐官はやむを得ず究極の選択をするしかなかったのだろう。真偽はともかく犯人が名乗り出たことで、クロムバーズ・キャンデルによりライ・ラムサス王宮近衛指揮官は不当に拘束されていることとなった!!つまり我々の大義名分が立ったのだ、今をおいて救出の機会はなかろう!!」
「そうだ!!我々の手で黒髪の鬼神を助け出すぞ!!」
「「「おおーッッ!!!」」」
士気が上がり一斉に面々が動き出した中、ジャンは初めて会う貴族男性に声をかけられる。
「――君がジャン・マルセルか?リーグズから話は聞いているよ。君はラムサス近衛指揮官救出の要になる。荒事はできるだけ大人に任せ、無事に地下最奥の拘束室へ辿り着くことだけを考えるのだ。」
「アルケー公爵…でしたっけ、貴族様がどうしてライの救出に手を貸してくれ…下さるんですか?」
「無論、彼に恩があるからだよ。私の息子は戦場でもかなり危険な部隊に配属されてしまってね、何度も死を覚悟したらしいが、その度に黒髪の鬼神に命を救われたそうなんだ。今は無事に帰国し、近衛隊に配属されている。――ほら、あそこにいるのが私の息子…ユーシスだ。」
「あ…さっきの…」
アルケー公爵の指差した方向を見ると、その彼はさっきジャンの実力について同意してくれた、近衛隊士らしき男性だった。
「そっか…ここにいる人達は俺を含めて、みんなライになにかしらの恩がある人ばっかなんだな。」
「そうだ。特にライ・ラムサス近衛指揮官は国王陛下の信も厚く、陛下があのような状態でさえなければ、このような暴挙をお許しになることもなかっただろう。あの方を失ってはならん…あの方はこの国の未来を担われる御方だ。――そうだろう?マルセル君。」
――ああ、そっか…この貴族様はライが本当は第一王子だってことも知ってるんだ。…ってことは国王陛下に近い大臣、とかかな。
優しく微笑むアルケー公爵にジャンは納得して頷いた。
「――マルセル、作戦の最終確認だ。手筈通りこの魔法石を渡しておくよ。」
ティトレイはジャンに色の異なる三つの魔法石を手渡した。
「教えた通り魔法紋は見分けられるね?」
「うん、任せろ。透明なのが拘束室の鍵を開ける解錠魔法石と外見を変える変化魔法石、そして白っぽい薄緑のがライの傷を癒す治癒魔法石だよね。」
「上出来だ。最後にもう一度だけ言うよ、先輩を地下から連れ出して俺と合流するまで、君は決して変化魔法を解いてはいけない。クロムバーズ・キャンデルの支配下にある憲兵は、侵入者である俺達を殺すつもりで立ち向かってくることが予想されるからだ。その魔法石は君を紛れ込ませるために憲兵姿へ変えるものだけれど、先輩が見分けられるように顔は変わらないようになっている。本当の姿に戻っても子供だとばれても、恐らく容赦なく殺されてしまうからね、くれぐれも注意するんだ。」
「わかってる。」
ジャンは決意を込めた瞳でティトレイを見て大きく頷いた。
「一ついいかね?ラムサス近衛指揮官を拘束しておく理由がなくなったことで、キャンデル元レフタル隊長はどのような暴挙に出るかわからん。もしかしたら命さえ奪ってしまえばそれでいいと、再び『死神の血』を飲ませようとするかもしれん。あの毒薬はまだ敵の手にあるのだ、そこにも気をつけて欲しい。」
「え…『死神の血』?それって誰の仕業だかまだわかってねえんじゃ…」
「こちらの調べでアルマ・イリスに毒を渡したのはクロムバーズ・キャンデルだと言うことはわかっている。その決定的な証拠は、既にウェルゼン副指揮官へ手渡してあるのだがね。君の耳には入っていないのか?」
「マルセルは子供ですからね、余計なことを知るのは身が危険だと判断されたのかも知れません。他にもそれこそキャンデルの方を処刑台へ送られる、数々の悪事の証拠を掴んで全て副指揮官に渡してあるんだよ。そのウェルゼン副指揮官が行方不明なのは安否が懸念されるけれど…先ずはなによりもライ先輩を助けることが最優先だ。」
――リーグズ教官…それに貴族様も、すげえな。ライのために影で犯人捜しからなにから動いてくれてたんだ。
これならきっとライを助けられる。そう確信してジャンは涙ぐんだ。その目元を服の袖で拭い、気を引き締めてティトレイとアルケー公爵を交互に見る。
「うん、わかったよ。念のため毒なんかにも気をつければいいんだな。絶対にライは殺させねえ、なにをしても俺が守ってみせるよ!」
「いい顔だ。よし、それじゃマルセルも集合だ。――アルケー公爵、朗報をお待ちください。」
「成功を祈る。」
* *
『――なんか憲兵所の辺りが急に慌ただしくなったな…これからなにか起きんのか?』
ライ救出のために憲兵所への侵入機会を窺っていたシンは、魔眼で大勢の人間が憲兵所の周囲で騒いでいるらしい光景を、常人とは違った形で見ていた。
それは熱を発する人型の塊が幾つも重なり、激しく縺れ合って動いているように見えるだけで、魔力を使ってある程度まで範囲と対象を絞らなければ、年令や性別、背格好や服装なんかはまるでわからないのだ。
≪…チッ、補佐官めどこに行きやがったんだ。一応リーマから預かった書類は置いてきたけど…あの木偶の坊がいねえせいで、軍の方の動きがまるで掴めねえじゃねえか。
俺の存在を知らねえ第二補佐官とは接触するわけにも行かねえし…近衛はピタリと動きが止まっちまったみたいだ、どうなってやがる。≫
その姿をはっきり見聞きしようとして、魔力を目と耳に集中した途端、頭にズキンと強い痛みが走った。
瞬間、顔を歪めたシンは俯いて額を強く手で押さえる。
≪くそっ…こんな時にまた頭痛が起きやがる。ふざけんな、ライの命がかかってんだぞ…しっかりしろ!!≫
魔力を使うのを止めると暫くして頭痛は治まり、シンは小さく溜息を吐いた。
――このところまた頭痛が酷え…わかってんさ、クレスケンスを探すために連日魔力を使い過ぎてるせいだ。
枯渇するほど酷使してんのが問題なんじゃねえ…減少した魔力を補うために身に着けてる、シスター・ラナから貰った『エーテル結晶』が原因だろうな。
シンが思い出すその光景は、エヴァンニュ王国から離れていた数日前に遡る。
「え…クレスケンスがいなくなった?」
その日アヴァリーザの実家へ帰ったシンは、シンの母親代わりでもあるソル・エルピス孤児院の『シスター・ラナ』に、長い間ずっと傍にいた飛竜が突然いなくなったことを告げた。
「そうなんだよ…探してんだけど全然見つからねえ。あいつがいねえとせっかく稼いだ金をここに持ってくんのが大変なんだよな。」
「…ねえシン、お金のことは無理しなくていいのよ。薬草は栽培しているし、作った薬を売るだけでもなんとかみんなを養って行けるわ。」
「なに言ってんだよ、その薬草が年々育たなくなってんだろ。なんつったっけその花…エヴァンニュでは『ヴァンヌ草』って呼ばれてんだっけ?本当なら決まった場所にしか生えねえし、煎じて飲めば万病に効くらしいけど、チビ達が満足に食えるほどもう収穫できてねえじゃんか。」
「シン…」
シスター・ラナは申し訳なさそうな顔をして目を伏せる。
「それで…クレスケンスがいなくてあなた、どうやってエヴァンニュからアヴァリーザまで戻って来たの?普通の足では何ヶ月もかかる距離よ。でもまだ前回から二週間と経っていないじゃないの。」
「…中距離転移魔法を繰り返してきた。」
「なっ…なんて無茶をするの!!途中で魔力が枯渇したら死んでしまうわよ!?」
「わかってるよ!!だから休み休み来たさ。…なあ、母さん。母さんのエーテル結晶、少し分けてくんないか?」
「…あなたって、私にお願いがある時だけそう呼ぶわよね。」
≪――シスター・ラナの持っている『エーテル結晶』は、魔石の何万倍もの魔力を保有している、所謂『フィアフ』と呼ばれる物質らしい。
そしてシスター・ラナはそれを利用して今の姿を保ったり、悪意を持った侵入者や魔物から子供達とこの孤児院を守るための防護結界を維持している。
そのことを知っていた俺は、子供が母親に甘える時のように彼女を母さんと呼んで、その欠片を分けて欲しいと頼んだ。
それさえあれば魔力の枯渇を心配することなく魔眼で物を見て、音を拾うための集音魔法も短時間で長距離を移動する転移魔法も自由に使えるからだ。≫
「…分けてなにに使うの?」
「クレスケンスを探すのに、どうしても常時魔眼を使って耳も聞こえるようにしておかなきゃならねえんだよ。どこであいつの声を拾うかわからねえだろ?」
「ねえ、以前から思っていたけれど…クレスケンスは普通の飛竜ではないわ。人語を完全に理解しているし、いなくなったのなら相応の理由があるのよ。…探すのは諦めなさい、シン。」
「………」
「その顔…言っても無駄なのね。仕方ないわ、小片だけよ?くれぐれも扱いには注意して。魔力補充に使いすぎても駄目よ?エーテルはフェリューテラの人間にとって、ある意味毒にもなり兼ねない強力な力なの。身体に異変を感じたら使うのをすぐに止めること。…約束できる?」
――その時俺は頷いた。頷いたけど…約束は守ってねえ。…だから頭痛に悩まされてんだよな、わかってるよ。
『一刻を争う事態だったとは言え…ボッツ達全員をリーマの護衛に行かせたのは失敗したかな。この目と耳じゃ状況を把握しきれねえ…せめてあいつらの誰か一人でもそばにいりゃあ、なにが起きてんのかわかんのに。…はあ、もう仕方ねえな、そこら辺にいる憲兵の誰かを捕まえて状況を吐かせるしかねえか。』
そうヘクセレイコルで独り言を呟いたシンは、その場から転移して手頃な憲兵の背後に回り、音もなく襲いかかって草叢へ引き摺り込んだ。
「な、なんだ貴様…ッ!!」
「――おっと、それ以上大きな声を上げんなよ?殺されたくねえだろ。」
シンは首に回した手で憲兵を押さえつけ、背後から喉元に鋭く尖った木の枝を突き付けた。
「動くとこいつが刺さるぜ?武器なんざ無くても十分あの世行きだ。――なあ、聞きてえんだけどよ、随分と表が騒がしいが憲兵所でなにが起きてる?」
「ふ、不当拘束されているライ・ラムサス王宮近衛指揮官の解放を訴える有志が集まって、憲兵隊と武力衝突してるんだ。」
「…不当拘束?黒髪の鬼神の無実が証明されたのか?」
「一応はそうなるな、真犯人が自ら名乗り出たんだ。…だがキャンデル統括官閣下は解放に応じないそうだ。名乗り出た犯人はラムサス王宮近衛指揮官の下にいるルーベンス第二補佐官で、上官を庇って嘘を吐いていると仰っている。」
「ルーベンス第二補佐官…」
ヨシュア・ルーベンス…ライが最も信頼してるあいつかよ。身代わりを名乗り出たのか、どうして…?
「鬼神の双壁はどうした?有志の連中と一緒か?」
「は?なにを言ってるんだ、双壁の二人は行方不明だよ。だから余計に切羽詰まった第二補佐官が、ライ・ラムサスの処刑を阻止するために罪を被っている可能性が高いんだ。貴様も有志側の人間だろう、そんなことも知らないのか。」
「…ふうん。」
シンは憲兵の急所に手刀で一撃を入れ、気絶させてから腰の剣を奪うと、その身体を引き摺って植え込みに隠した。
『姿が見えねえと思いきや、パスカム補佐官は行方知れずかよ。道理で…』
――いくら間抜けでもライの危機に、あの補佐官が下手を打つとは思えねえな。敵は余程用意周到にライをこの状況へ追い込んだか。
『ライの解放を訴える有志、か…あいつこんなに慕われてんだな。見た感じ軍人だらけだし任せて様子を見るのも悪くねえが…リーマのことを話すにはやっぱり俺が助け出した方が一番いいよな。』
ライの前に出るんなら、この髪と目の色を昔の俺の色に変えた方がいいのかもしれねえ。けどシニスフォーラで誤って命を狙ったことを謝るには、真実の姿を見せた方がいいに決まってるよな。
俺がシンだと名乗ってもあまりの変わりように最初は疑われるだろうが、血晶石を見せてラ・カーナのことと事情を話せば…あいつならきっと俺だとわかってくれるだろ。
よし決めた、今が憲兵所へ潜り込む絶好のチャンスだ。有志連中と憲兵隊が戦ってる間に、さっさと中へ侵入してライを助け出しちまおう。
待ってろよ、ライ…俺が助けに行くからな。
――憲兵所内東棟、重犯罪者拘束室。
「クソッ、クソッ、クソオォッッ!!!」
連日の暴行に既に意識のないライを足蹴にして、クロムバーズ・キャンデルは酷く苛立っていた。
「ここまで来てなぜこうなるんだ!!!上手く双壁を引き離して、守りのないこいつの死刑はもう確実だったのに、ジルアイデンめ、余計なことをしやがってえーッッ!!!」
腹いせに力を込めて蹴り飛ばしても、鎖を外されて床に転がされたライはもう、呻き声一つ上げなかった。
そのクロムバーズを傍で見ていた部下は、呆れ顔で忠告をする。
「キャンデル閣下、もうそのくらいに…シャール王子殿下がお帰りになるまでに事切れてしまいます。御自ら手を下されると仰され、決して殺すなと王妃陛下は仰せでしょう。ご命令に逆らうのですか?」
「うるさいっ!!死んだら死んだでもう構わん!!どうせ虫の息だ、このまま放置しておけば翌朝まで持たんだろう、いいか、殿下のお言いつけがあろうとこいつを生かしておこうなどと思うなよ!!もし俺に隠れて手当てをしようものなら、貴様とて首を刎ねてやる!!」
「ご心配なく、俺も自分の命は惜しいですから閣下には逆らいませんよ。ですが黒髪の鬼神が死んだ際の王妃陛下への言い訳は、きちんとご自分でなさって下さいね。とばっちりは御免です。」
「なんだと、貴様…!!」
クロムバーズが生意気な部下の胸座を掴んだその時、拘束室の扉を叩き、外から憲兵が慌てた様子で叫んだ。
「キャンデル統括官、大変です!!有志による憲兵隊への反乱が発生しました!!不当に拘束しているライ・ラムサス王宮近衛指揮官を、直ちに解放しろと要求して来ています!!従わなければ武力行使も辞さないと…!!」
「な、なにぃ…ッ!?」
両手で掴んでいた部下を突き放し、クロムバーズは扉を開けて憲兵に問い質す。
「王妃陛下はなんと仰せだ!?事態を直ちにご報告したんだろうな!?」
「い、いえ、それが…早駆け(国王や王妃、王子などの勅命や重要な連絡を取るための伝令のこと)は憲兵所を取り囲む有志団に押さえられ、王宮への連絡は通っておりません!」
「な…で、では城からの早駆けはまだ来ていないのか!?」
「王宮も駄目です…!!ジルアイデン近衛指揮官代理が衛兵を押さえ、外部からの情報を遮断しているそうです!!恐らく城へは未だ反乱が発生していることさえ伝わっていないかと…っ!!」
「馬鹿な…ええい、俺も出る!!命令だ、全憲兵隊を制圧に向かわせろ!!裁判所からライ・ラムサスの解放命令は来ていない!!これは不当拘束ではない!!憲兵隊に逆らう有志共を捻じ伏せよ!!」
緊急事態を知ったクロムバーズは、意識のないライに構っているどころではなくなり、部下を連れて外に出ると拘束室の扉を閉めて鍵をかけ、監視役の憲兵をも引き連れてそこから去って行った。
そうして一人残されて冷たい床に横たわり、ピクリとも動かないライは――
――クロムバーズの言葉通り、もう虫の息だった。
僅かな光すら届かない心の深淵に沈み込み、真の暗闇の中でライの意識は今、苦痛からも解き放たれていた。
そのライにどこからかその声は話しかけて来る。
『――矮小なる者よ…うぬは遂に死ぬのか?』
…誰だ…俺に話しかけて来るのは…憲兵、ではないな…
俺はもう、身体の痛みも感じない…力が入らず指一本、動かせない。目も見えているのかいないのか、ここはとても暗い…これが〝死〟の訪れだと言うのなら、そうなのだろうな。
…で、貴様は誰だ。
『…我はうぬの持つ強き生命の光に誘われし者。今はただ、その輝きが失われる瞬間を待ち望んでいる。』
ハッ、つまり俺が死ぬのを待っているのか?…なんて奴だ。
『〝死〟とは二つの意味を持つ。一つは魂の器であるアストラルソーマを保護する〝肉体〟が、その活動を停止すること。もう一つは自らが生きることを諦め、その存在価値を完全に見失うことだ。』
ほう…それで?貴様の言う待ち望む俺の死とは、そのどちらだ?
『無論、後者だ。うぬの肉体はまだ死すべき時にない。』
……それは今の俺にとって、喜ぶべきことなのか?…こんな状態でも、まだ死ねない。貴様はそう宣告するのか。
俺自身死にたいとは思っていないが、もうこうして何度殺されかけたかわからない。きっと俺は生きていることを望まれない人間なんだ。
これからも俺が生きている以上、誰かしらに命を狙われ続けるのだろう。ならばもうここで終わりにしてしまえば、こんな苦痛を味わうこともなくなるんじゃないのか?
俺は…そう思わずにいられない。
『――それはうぬが己の価値を知らぬが故だ。…少し力を貸してやろう。』
その声は深淵の暗闇に小さな明かりを灯した。
…なんだ?…なにか…聞こえる。これは…人々の争う声、か?
『聞こえるか?今正に、うぬを取り巻く世界は混沌に満ちている。己が欲望からうぬの死を望む悪心と、己が身を犠牲にしてもうぬを救いたいと望む善心とが鬩ぎ合い、そこに紛れ込む人成らざる者達の新たな躍動を招いている。…わかるか?これがうぬの価値だ。』
俺の価値?
『うぬ一人の命で数多の人間はいとも簡単に救われるが、うぬを救うには常に困難が付き纏い、それ故に幾人もの命が必要となろう。うぬの命とあの場に集う人間の命は同じではないのだ。無意識にそれを知覚する者は、ああして本能的にうぬを守ろうとする。』
あの場とは…?俺にはなにも見えない。…まさかこの大勢が争っているような声は…俺のせいなのか?外ではなにが起きている!?
『――目が覚めたようだな…間もなくその時は訪れる。うぬの光が完全に失われるその日を、我は待っているぞ…』
次回、仕上がり次第アップします。




