192 失われて行く光 ②
イサベナ王妃とそれに従う忠実な親衛隊〝レフタル〟。その隊長であったクロムバーズ・キャンデルの逆恨みと、間もなく帰って来るという暴君シャール王子。国王ロバムの意識が戻らない中、執拗にライの死を願う悪意に、ライは…?
【 第百九十二話 失われて行く光 ② 】
――イーヴが俺に告げる。
「トゥレン、私はな…ずっとライ様を憎んでいたのだ。これまでの仕打ちを思えば当然だろう?我々はいつだってあの方のために最善を尽くして来たと言うのに…ペルラ王女との縁談を機に突き放されて、重用されるのはヨシュアばかりだ。貴殿だって本当は心のどこかであの方を恨んでいるのではないか?」
「違う…そんなことはない!ライ様は俺の命を救って下さったんだぞ!!おまえだって知っているではないか!!」
反論する俺に、イーヴは冷ややかな声で言った。
「――代わりに永遠に仕えるという、闇の主従契約を結ばされて、か。」
「それは俺も承諾してのことだ!!俺は俺達に努めて冷たく当たりながらも、決して完全には突き放せない強がるライ様が好きだ。そこには俺達を信じたくても信じ切れないという心の葛藤が透けて見えるからだ。そしてたとえライ様が望んでおられなかったとしても、あの方ほど我が国の王冠を戴くに相応しい方はいないと思っている。そんな俺はいつかおまえと二人、国王となられたライ様にお仕えするのが夢だったんだ…!!」
俺に見せたことのない、悪人のような顔であいつは微笑む。
「それなのに、なぜこんな時におまえは姿を消した?国王陛下への返礼品に薬物を入れたのはおまえなのか、イーヴ…っ!」
「なぜ、か…そんな夢は疾うに潰えたと、もうわかっているだろう。ライ様は我々の王とは決してならない。下町の酒場で踊り子をするような女に誑かされ、やがては我々を棄てこの国から逃げ出すつもりなのだ。」
「それは…っ」
次の瞬間、目の前に立つイーヴの胸に、血紅色の光が強く輝いた。
「――私の胸に輝く、この血のように赤い光が見えるだろう?貴殿が私を疑う理由などそれだけで十分だ。私の憎しみは本物だ、だから姿を消したのだ。貴殿の持つ『闇の眼』がそう告げている。」
「イーヴ、やめろ!!」
「ライ様はもう助けられないぞ、トゥレン。それこそ誰かの命を犠牲にでもしない限りはな。貴殿にそれができるのか?」
最も聞きたくないイーヴの言葉に耳を塞いだ俺は、そこでようやく気が付いた。
「…待て、イーヴ。なぜおまえが俺の主従契約や、闇の眼のことを知っている?話した覚えはな…」
ハッとしたトゥレンが目を開けると、そこには見慣れた自室の天井が見えた。
「なんだ、夢か…」
トゥレンはたった今見たものが悪い夢だったことに安堵して溜息を吐くと、目元を右手で覆い隠して、現実には未だイーヴが見つからないことに肩を落とした。
「イーヴ…本当にこんな時におまえはどこへ行ったんだ…?」
≪まだ夜明け前か…寝台に入って三時間ほどしか経っていない。…まあ碌すっぽ眠れるはずもないんだが。≫
もう眠れないと感じたトゥレンは寝台から出てリビングへ行くと、ソファにドサッと腰を下ろして天を仰ぎ見る。
――ライ様が民間人殺害犯として憲兵所へ連行されてから、今日でもう三日目だ。せめてご無事な姿を確かめたいと日に何度も面会を求めて憲兵所を訪れているが、けんもほろろに追い払われて取り付く島もない。
王妃の命令で配属替えとなった元レフタルの隊長『クロムバーズ・キャンデル』は、私兵に詳しく調べさせたところ、ライ様に個人的にも相当な恨みを持っているという話だった。
これまでそんな危険人物の存在がまるで耳に入らなかったのは、王妃の宮を隠れ蓑にして公務へ出てくることもなければ、俺達の目に止まるような表立った動きを見せたこともなかったせいだ。
レフタルという王妃直属の親衛隊にいた人物が、憲兵隊の頂点についたというだけでも絶望的なのに、ライ様の指示で国王陛下へ贈った『返礼品』の高級酒から、薬にもなるが健康な心臓には異常を引き起こすという薬物『心呪の雫<カタラコルソン>』が検出され、元々反抗的で陛下への不敬な態度が問題視されていたこともあり、ライ様が国王陛下を殺そうとしたのではないかという想定外の事態にまで発展してしまった。
今はまだ疑いだけで済んでいるが、もしライ様が手酷い拷問などを受けた挙げ句に、民間人の殺害と国王陛下の暗殺までもを認めてしまわれようものなら、大した裁判も行われずに処刑台へ送られてしまうだろう。
そしてこの千載一遇の機会を、イサベナ王妃と王妃に忠実な面々が見逃すはずもない。
ライ様が処刑されてしまう…なんとしてもそれだけは阻止せねば。最悪の場合は憲兵所へ違法に侵入し、国と法に逆らってでもお救いするしかないだろう。
意識のない国王陛下さえお目覚め下されば、なにをしてもライ様を救って下さるだろうが…それまでライ様が生きておられる保証すらないのだ。
「…イーヴもそうだが、俺に散々偉そうなことを言っておいて、あれっきりシカリウスは顔も出さんと来たものだ。せめて転移魔法らしきものが使えるあの男がいれば、ライ様をお救いする方法だけでも対策を立てられそうなものなのに…肝心な時には役に立たない奴め…!」
――唯一の救いは、元憲兵隊にいたヨシュアが憲兵所の拘置施設には詳しかったことだけだ。
「自分が思うに、ライ様は恐らく敷地最奥に建つ東棟の地下におられると思います。」
それは昨日のことで、イーヴの捜索に当たらせている近衛隊士から、行方が依然として掴めないことと、憲兵所へ侵入するとしたならば、ライ様がどこに捕らえられているのかを知ることが最も重要だという相談をしていた時の話だ。
「そう推測する根拠はなんなのだ?」
「――これは外部へ知らせると法律違反になる極秘事項で、配属替えになっても口にすると投獄されてしまいますので、一応聞かなかったことにして下さい。…東棟の地下には、常時監視が必要な重犯罪者を監禁しておく拘束房があるんです。そこに収容された容疑者は壁に両手足を鎖で繋がれ、横たわることさえ許されないそうです。憲兵の中でも幹部クラスの限られた人間しか入ることが出来ず、部屋自体が完全防音になっているため、悲鳴を上げても外には一切聞こえません。その拘束房では稀に、取り調べという名目で死に至るような拷問も行われることがあると聞かされました。」
「な…ライ様がそんなところにいらっしゃると言うのか?あの方はこの国の第一王子殿下だぞ!!」
「その真実を知っているのは、ごく一部の限られた関係者だけですよね。公的に発表されていなければ身分は考慮されず、憲兵隊のやり方で罪を自白させても容認される規則となっているのです。…それでも余程でなければそんな残虐行為が行われることはないでしょうが…俺も考えたくはありませんが、今回に限っては王妃陛下の手の者が入り込んでいることから、最悪の事態もあり得るのではと…」
「くっ…ライ様っ…」
――俺がこうしている間にも、ライ様は生命の危機に瀕するような、酷い拷問を受けているかもしれん。…そう思うと碌に眠れないのは当然だった。
ライ様のためにと申し出て下さったのに却って事態を悪化させる羽目になり、ペルラ王女殿下はショックで寝込まれてしまった。返礼品に薬物が混入していたことで、ライ様付きの側近である俺達三人も疑われ、イーヴを除く俺とヨシュアは親衛隊による取り調べを既に受けた。
今は追って下される親衛隊(憲兵隊は王妃陛下に掌握されているため、俺達に不利となる)からの処分を謹慎なしで待っているところだが、姿を消したイーヴは特に怪しまれている。
「俺とヨシュアにできることはなにかないのか…ライ様…」
♦ ♦ ♦
――暗い、凝りの中で目覚め、気づけば俺はここにいた。
灰色の壁に窓は一つも無く、やたらと分厚い同色の扉だけがあって、照度をかなり落とした明光石の明かりが、天井にポツンと灯っている。
壁から延びた長さ五十センチほどの太い鎖には、四つの金属製の枷輪が付いており、いつ付けられたのかわからないまま、今も俺の両手両足に嵌まっている。
いったい、ここはどこなのだろう。数日前最初に、そう思った。
俺が覚えている最後の記憶は、なんらかの理由で身体がおかしくなった俺を、アフローネから追ってきた『カレン・ビクスウェルト』が庇って、暗殺者に斬り殺されたところまでだ。
確か口元を布で覆い隠した目つきの鋭い暗殺者は、俺に〝奈落へ落ちろ〟と言っていた。
…ここがその、奈落なのだろうか。
奈落とは地獄という意味のある言葉だ。なぜあの暗殺者は動けなかった俺を殺さず、地獄へ落ちろ、ではなく奈落へ落ちろ、と言って立ち去ったのか。
奈落という言葉は、逃げ場のない道の果てとも言い表せる。つまりはどうすることもできない、物事のどん詰まりと言うことだ。
…後になって俺は、なるほどな、と思った。あの暗殺者の言ったことは、今の俺の状況を形容するに言い得て妙だった。
――ここが憲兵所にある拘置施設だということを知ったのは、随分後になってからだった。
ここに運ばれてからというもの、俺は手足を鎖に繋がれ、なんの抵抗もできないまま絶え間なく殴られ、蹴られ、時には鞭で打たれ、意識を失えば冷水を浴びせられ、また殴られる、の繰り返しだ。
靴は脱がされたが、裸にされていなかったのはせめてもの慈悲だったのだろうか?それともわざとか…王宮近衛指揮官の制服はもう見るも無惨な状態でボロボロになって引き裂かれ、裸足の足下には長さの違う無数の鉄針が突き出た金属の筵が敷かれている。
おかげで俺の足の裏は、突き刺さった鉄針のせいで血だらけなのだろう。激しい痛みに力を入れて立つこともできず、冷たい灰色の床には流れ出た小さな血溜まりが幾つもできていた。
さっき俺が〝数日前〟と言ったのは、ここに来てどのぐらい時間が経っているのかまるでわからないからだ。
一日、二日?もっと経っているような気がする。もうずっと水も食事もまともに口にしていない。
手枷の嵌められた手首からは血が流れ、多分肋骨や下手をすると腕の骨もどこか折れているかもしれん。
何度も気を失いそうになる痛みに続いて、熱でも出ているのか、ガタガタと身体が震える猛烈な寒気に襲われている。
その内に息が苦しくなり、荒くなる呼吸に吐くものなどなにもないのに、気分が悪くなって繰り返し嘔吐いた。
意識が遠のいて、段々とまともな思考を保てなくなって来た頃、その男は言った。
俺が貴様に味わわされた屈辱はこんなものでは済まされない。百回殺しても飽き足らないのだと。
流れ出る汗や頭からかけられた水で、額にぴったりと張り付いていた前髪の隙間から、俺は左瞳でその男の顔を見た。
誰だ、こいつ。こんな男の顔は記憶にない。…着ている衣服を見るに憲兵隊の統括官のようだが、俺の知っている統括官は七三分けの五十代で、厳格そうだが国のために自分にも厳しくしているような、融通の利かない堅物男だったはずだ。
俺は本心からその男に尋ねた。おまえは誰だ、と。
――瞬間、男は薄暗い室内でもはっきりわかるほど、顔を真っ赤にして激怒した。
そこから男は俺にあらん限りの力で暴行を加えながら、自分がイサベナ王妃の親衛隊『レフタル』の元隊長で、クロムバーズ・キャンデルという高位貴族の後継者であることを怒鳴った。
…が、その名前を聞いても俺はこの男が誰なのか、いつどこで恨みを買うようなことをしたのか、微塵も思い出せなかった。
そうして男は怒りに我を忘れて腰の剣を抜き、俺の右肩をそれで貫いた。
腕を切り落とすわけにはいかないが、もう二度と剣を握れないように神経を切断してやる。そう言って突き刺した剣の切っ先を捩り回す。
俺は抵抗する気力も残っておらず、あまりの激痛にそこでまた気絶した。
――次に意識を取り戻した時、憲兵隊の若い兵士がなぜだか俺の傷の手当てをしてくれていた。
室内には彼しかおらず、致命傷になり兼ねない俺の傷を、自分の制服から取り出した高価な魔法石で癒してくれる。
治癒魔法石…?どこからそんな高価な物を…
「しっかりして下さい、ライ・ラムサス王宮近衛指揮官。自分は閣下の味方です。これでも憲兵隊の人間なので名乗るわけには行きませんが、あの新統括官の好きにはさせません。どうか冤罪が晴らされるまで、なんとか生き延びて下さい。」
その憲兵はまだ若く、俺の目には成人前の士官学校を出たてな十八、九ぐらいに映った。
「貴殿は…なぜ?俺は既に…殺人犯にされていると聞いた。いくら違うと言ってもここの憲兵は誰も信じてくれん…恐らくこのまま監獄に送られるか、罪を認めて自白するまで拷問を繰り返されるだけだろう。」
「いいえ、閣下…それだけではありません。まだ公にはされていませんが、閣下にはなぜか国王陛下暗殺未遂の容疑までかけられています。」
「…なに…?」
彼は俺の傷の手当てをしながら、俺の置かれている状況を簡単に教えてくれる。
「いいですか、閣下も御存知でしょうが、国王陛下暗殺の罪は未遂でも極刑です。ですからどれほど強要されようと、どんなに激しい痛みに苦しんだとしても、決して自白だけはしてなりません。閣下が罪をお認めになると碌な裁判は行われずに死刑が確定し、かつてマグワイア・ロドリゲスという凶悪犯罪者がされたのと同じように、公開処刑となってしまうでしょう。恐らくそれが統括官の目的なのでしょうが、俺はそんなのは絶対に嫌です…!」
公開処刑…俺がバスティーユ監獄で殺した、あのマグワイア・ロドリゲスのように、だと…?
「…ならばなおさら俺に関わらない方がいい。こんなことをしているのがばれたら、貴殿の身も危ういぞ。」
「俺なら大丈夫です。――閣下、以前シャトル・バスが変異体に襲われ、一人だけ逃げ遅れていた俺の妹を命懸けで助けて下さり、本当にありがとうございました。こんな時になんですが、こういう時でもなければ個人的にお会いしてお礼を伝えることもできなかったでしょう。おかげさまで妹は黒髪の鬼神が大好きなんですよ。」
「………」
シャトル・バス…もしかしてトゥレンが大怪我をした、あの時のことか…?
「さあ、これで大きな傷は大丈夫です。治癒魔法石を使いましたので、右腕が動かなくなることもないですよ。――お願いです閣下、諦めないで下さい。近衛の方々もきっと、閣下の潔白を証明しようとして動いてくれているはずです。また怪我が酷ければ俺が手当てに来ますから、どうか気をしっかりとお持ち下さい。」
――嬉しかった。この若い憲兵は、俺があの女を殺したのではないと、なにも言わなくても最初から信じてくれているのだ。
「わかった、ありがとう。…もし無事に冤罪が晴れたなら、その時は貴殿の名前を聞かせてくれるか?」
その若い憲兵は、もちろんです、と言って屈託無く笑った。
彼が出て行った後、少し身体の苦痛が和らいだ俺は、どうしてこんなことになったのか、その原因となる自分の行動を思い返してみた。
――国王が倒れてからの一週間ほどは、毎日リーマのところへ通っていた。部屋には入れて貰えずに、そこを見られて何者かに付け込まれたのだとしても、酔ってもいないのに身体がおかしくなったのはなぜだ?…感覚的にはなにか即効性の麻酔薬のようなものを口にした感じだった。
…どう考えても、アフローネで食べた料理か酒の中になにか入っていたとしか思えない。だがあのアフローネで誰がそんなことをする?俺があの日に必ず行くとは限らんし、行っても食事を取るとも限らない。
それなのにあの日あそこで薬を混入することができたのは、いったい誰だ?
アフローネで働く従業員の顔を思い出し、その中で俺にそういうことをする可能性のある人間がいるとしたなら、そう考えた。
――カレン・ビクスウェルトしかいないな。
元々あの女のことは、目的のためなら手段を選ばないタイプの人間だとは思っていた。
わざとらしくジョインから俺の様子を聞いたと言って後を追って来たが、もし俺の食事に薬を盛ったのがあの女だったなら、介抱する振りをしてなにか別のことを企んでいたのかもしれん。
…だがそれでも、身の危険を感じたら真っ先に人を突き飛ばして逃げそうなのに、あの状況で俺を庇ったのはなぜなのか…結果躊躇いもしない暗殺者に斬り殺されて、命を助けた俺には感謝されるどころか怪しまれている。
〝私だって好きな人を守りたい〟そう言った言葉が本心からのものだったとしても、同情するどころか素直に礼を言う気にもなれないとは、俺も薄情な奴だ。
――俺にしっかりしろと言って、諦めるなと傷の手当てをしてくれた若い憲兵。こんな状況でも自分には信じてくれる味方がいるのだと知っただけで、俺は少しだけ、どうにかして自分が殺したのではないことを、憲兵隊にわかってもらえないか気力を取り戻し始めていた。
だがそんな小さな心の光は一瞬にして奪われてしまう。
それから恐らく二日か三日後くらいのことだ。いつものようにクロムバーズ・キャンデルが満足するまで俺を殴って蹴って鞭で打ち、その痛みに血反吐を吐き意識を失いかけた頃、外からなにやら正方形の箱を持って来て、トン、と俺の前に置いたのだ。
「今から貴様に贈り物をやろう。」
「………」
…贈り物?
それは、何の変哲も無い、ただの箱だった。
だがクロムバーズがニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべており、なんだか俺は酷く嫌な予感がしたのだ。
「…要らん。どうせ碌なものではないんだろう?持って帰れ。」
「まあそう言うな。…どれ、俺が手ずから蓋を開けてやろう。目を凝らしてよ〜く見ていろよ。くくくく…」
「…?」
薄気味の悪い笑い声を出す男だ。そう思いながら、俺は怖いもの見たさでクロムバーズがその箱を開けるのをまともに見てしまったのだ。
「!!」
――瞬間、俺は全身が総毛立ち、うわああっ、と自分でもどこから出たのかわからない、叫び声を上げた。
「おっと。目を凝らしてよく見ていろと言っただろう。ほれ、見てみろ。これはなんだ?ああ?」
強制的に複数の憲兵によって頭を押さえつけられ、その蓋の開いた箱を目の前に晒されて間近で見させられる。
俺は恐怖にガタガタ震え、頭の中でぐわんぐわんと奇妙な音が鳴り響いていた。
「や、やめろ…頼む、やめてくれッ!!」
――なぜならそこには、まだ新しい人の生首が入っていたからだ。
瞳孔の開いた虚ろなその目が、真っ直ぐ俺を見ている。半開きの口元から流れた血の跡が変色した唇にこびり付き、助けて、と今にも声を発しそうだった。
人間の遺体を見るのはこれが初めてではない。それなのに涙声になり、俺は何度もやめてくれとクロムバーズに懇願する。あまりに残虐なその行いに動揺して耐えきれず、目から涙が零れ落ちていた。
「どうだ?見覚えのある顔だろう。こいつはな、統括官である俺に逆らい、貴様をここから逃がす計画を外部の人間と企てていたんだ。――なあ、お前たち。俺がここの統括官に着任した際、全員になんと言ったか覚えているな?」
「「は!!」」
「よし、ライ・ラムサス殿にお聞かせしろ。」
クロムバーズ・キャンデルの忠実な部下達は、聞きたくもないのに俺に告げる。
「一つ、この憲兵隊の統括官となられた今、キャンデル閣下の命令は絶対である。それに逆らう者は直ちに斬首刑に処し、三日間宿舎に晒すものとする。キャンデル閣下が憲兵隊の法であり、イサベナ王妃陛下の下に執行されるものとする。以上であります。」
「そうそう、良く覚えているな。ま、そう言うことだ。そして俺は有言実行の男だ。せっかく腕が使えなくなるように深手を負わせたのに、下っ端がこっそり潜り込んで治療してちゃあ拷問の意味がないだろう。なあ?ライ・ラムサス。くくく…あははははははッ」
「……っ」
俺は絶望に打ちひしがれ、俯いて声を押し殺し、泣いた。
クロムバーズの言う通り、生首の顔には見覚えがあった。つい先日俺の傷の手当てをしてくれて、自分は味方だと言い、諦めるなと励ましてくれたあの若い憲兵だったからだ。
「どう、して…こんな惨いことを…ここはミレトスラハじゃない…っ、敵兵のいない安全なはずの国内だぞ…?俺が民間人を殺したと言って憲兵所に監禁されているのに、なぜ貴様はこんな簡単に、なんの咎もない彼を殺すんだッッ!!!」
そう訴えた俺の顔を、クロムバーズは蹴り飛ばした。
頭蓋内の脳が揺さぶられ、目がチカチカする。景色が回りそれと同時に口からは血を吐いた。
「それはな、これからはこの俺が法になるからだよ。心配するな、貴様のように俺の恨みを買わない限り、もうこんな目に遭う人間は早々出て来ないだろう。やり過ぎて今度は俺が王妃陛下のご不興を買うわけにはいかないからな。」
「…イサベナ王妃…」
「さて、と、ここからが本番だ。貴様を助けようとした兵士は始末された。今後も憲兵所内で貴様に加担しようとする者は、片っ端から処刑する。俺が戦場でなくとも人を殺すのに抵抗のない人間だと言うことは、もう身に染みてわかっただろう。そこで本題だ。」
この後クロムバーズは俺には大切な人間が多くいるだろう、と言ってきた。
「イーヴ・ウェルゼン、トゥレン・パスカム両双壁に最近ではヨシュア・ルーベンスが加わり、ペルラ王女殿下にルクサール避難民と貴様が可愛がっているそこの少年、士官学校の教官で後輩のティトレイ・リーグズなんてのもいるな。それから、こいつが最も大切だろう。」
勿体ぶって続けたクロムバーズが次に口にしたその名前に、俺は驚愕する。
「アフローネの踊り子、リーマ・テレノア。くく…貴様の恋人だな。」
「!!」
「ああ、そうそうそうだ、いつも取り澄ました貴様の顔が、そうやって絶望に歪むのをずっと見たかった。苦労してあちこちに罠を仕掛けてきた甲斐があったぞ。ハハハッ」
「く…っ…彼女はもう関係ない。俺はもう会えないと告げられ、少し前に別れたんだ。」
「ほう、そうか。だが貴様との関係が解消されたからと言って、貴様がどう思っているかはまた別の話だろう。振られたらあっさり諦められるのか?その顔を見れば一目瞭然だ。まだ恋人に思いを残しているだろう。ならば大切な存在であることに変わりはない。」
「…やめろ!!」
ガッ
瞬間、また俺は殴られた。
その手が痛むのか、右手を振り振りクロムバーズはフーフー息を吹きかける。
「まだ自分の立場をわかっていないようだな。ふん、いいことを教えてやろう。双壁の片割れイーヴ・ウェルゼンは現在行方不明だ、助けには来ないぞ。もう一人の双壁と第二補佐官が近衛隊に命じて必死に探しているが、まず当分は見つからないだろう。…そうだな、次の贈り物はウェルゼン副指揮官の首がいいか?」
「な…イ、イーヴになにをした!?なにをしたんだッッ!!!」
「ほう…やはり双壁の二人は大切か。そうだろうな、あの二人は貴様のためならなんだってする。だが今度ばかりは貴様を守らせんぞ。」
そうしてクロムバーズは、俺の大切な人間を一人でも殺されたくなければ、カレン・ビクスウェルト殺害と国王を暗殺しようとしたことを認めろ、そう言って俺に迫った。
「どうしてだッ…俺はあの女を殺していない…っ暗殺者が俺を庇った女を殺したんだ…!それに、もし俺があの男を殺すのなら、直接剣を向けて有りと有らゆる不満を打ちまけてから斬り殺す!!なんの根拠があって嫌疑をかけられているのか知らんが、俺は国王暗殺など企んではいない…ッ」
「…そうか。――おい、イーヴ・ウェルゼンを殺して首を持って来させろ。それを見れば気も変わるだろう。」
「は!!」
「やめろーッッ!!!もう誰も俺のために殺すな!!」
「ならば認めるか?一応証拠はあるんだ。これを見ろ。」
そう言うとクロムバーズは、緑紅石の嵌められたラカルティナン細工のペンダントと現映石を取り出し、いつだったか俺がカレン・ビクスウェルトを殺すと脅した時の映像を見せた。
あんな物をいつのまに…!!
「このペンダントは貴様の恋人の所持品だ。それを奪ったカレンから取り返そうとして揉み合いになり、カッとなった貴様は思わず斬り殺してしまった。どうだ?筋の通った動機だろう?」
「…そうか…貴様の仕業だったんだな…最初から、全部…」
「ふふん、俺は貴様を公開処刑にできるのなら、それだけで一生分の大満足なのだ。これまで絶大な国民の支持を得てきた『英雄』殿が、民間人を殺して国王暗殺を企てた凶悪犯だったとなれば、貴様を信じていた民も石を投げて詰るだろう。その光景を贈り物に捧げれば、戦地から間もなく戻られるシャール王子殿下も、それはさぞ喜んで下さることだろうな。」
シャール王子…ミレトスラハから帰って来るのか。…そうか、あの男が倒れたのだ、イサベナ王妃が今度こそ呼び戻したのだな。
「……俺の命はシャール王子への貢ぎ物か?」
「無論、それと王妃陛下へのだ。」
俺は俯き、殺された名も知らない若い憲兵の生首を横目で見ながら、心の中で謝った。
せめて名前だけでも聞いておけば良かったな。俺などに関わったせいで…すまない。
「…わかった、認める。カレン・ビクスウェルトを殺し、国王暗殺を企んだのは俺だ。…だからもう誰も俺のために殺さないでくれ。」
――俺の自白を聞いたクロムバーズ・キャンデルは狂喜して勝ち誇り、部下の前にも拘わらず転げ回って笑い声を上げ続けたのだった。
* *
「認めた!?ライ様が、民間人の殺害と陛下暗殺未遂をですか…!?」
絶望的な知らせに愕然として青ざめ、俺の隣で口をパクパク動かしているのは、同じ近衛隊の第一補佐官、トゥレン・パスカム殿だ。
少し前まで俺達のいるこの近衛の執務室は、俺の憧れだった黒髪の鬼神、ことライ・ラムサス王宮近衛指揮官と鬼神の双壁と呼ばれる、イーヴ・ウェルゼン王宮近衛副指揮官、そしてパスカム補佐官と俺、の四人で時折雑談なんかもして笑い声の響く楽しい場所だった。
それがどうして、こんなことに…
「先程殿下直筆の署名が入った供述書が裁判所に提出された。近衛にも通達が来たので間違いない。」
「そんな…ライ様どうして…っあの方がそんなことをなさるはずがありません!!」
――目の前が真っ暗になった。パスカム補佐官と二人、最も恐れていた事態になったからだ。
我が国の司法制度は至って簡素だ。強盗、殺人事件などの凶悪犯罪に関して、治安の維持を担う憲兵隊が主軸となって犯人の捜索をするけど、容疑者が逮捕されると犯行が確定、もしくは再捜査命令が出るまで一時的にそれは中断される。
そこからは見えない憲兵所の中での、容疑者に対する執拗な尋問と脅迫紛いの厳しい取り調べに移行し、容疑者がそれに屈して一度でも罪を認めてしまえば、ほぼ確実に犯人とされてしまう。
つまり決定的な証拠がなくても、本人の自白の方が最優先とされるのだ。
もちろんそれでも辻褄が合わなかったり、動機がなかったりして明らかに犯行自体の疑問がある場合や、後になって別の犯人が見つかったり、逆に犯人ではないという決定的な証拠が出てくるなどすれば再捜査が行われるけど、それも一部法律で定められた例外がある。
それは国王陛下に対する不敬罪や暗殺、国家転覆を狙う革命犯罪や背任容疑だ。
特に国王陛下への暗殺、暗殺未遂(王族に対するものではないことに注意)は計画しただけでも重犯罪に当たり、自白して供述書に署名すると裁判すら行われず極刑が決まるのは当然だった。
その上で同様の犯罪が今後起きないための見せしめと、国王が攻撃されるという国民の不安を払拭するための公開処刑となり、長くても一週間、最短でも三日と経たずに執行される決まりとなっていた。
そしてどの場合も極刑の執行を止められるのは国王陛下(暗殺により亡くなられた場合は王太子殿下)のご命令のみで、執行時には王妃陛下、もしくは王太子殿下(現在まだ決まっていないので王子殿下)の立ち会いが必要となる。
「――私もそう思ってはいる。あの方は不幸な生い立ちから王族だということに未だ馴染めないだけで、言葉や態度に冷たく見られる部分はあっても、民間の…況してや御自身が環境を改善しようとなされていた下級民地区の娘を手にかけるようなことはないだろう。」
それでも直筆の署名入り供述書が出されたのなら、ライ様御自身が罪を認めて記入しない限り、偽証石が反応して偽造されたとしても明るみに出るはずだ。
そのことからもご本人が認めたことに間違いないのだった。
「…ライ様は憲兵隊の拷問を受け、苦痛に耐えられず自白を強要されたのでしょうか。」
そう尋ねたパスカム補佐官の握り拳が震えていた。俺だって動揺して立っているのがやっとのくらいだ。
「……どうだろう。だとしてもあまりにも早すぎる、とは思うな。訓練された軍人は、たった数日の拷問で根を上げることはまずない。それによって自白などをする際は、何ヶ月も甚振られ続けた例が殆どだ。」
「ではそれほど酷い責め苦を受けられているか、そうしなければならないような、別の理由があるなどですか?」
「――それを私に聞かれてもな…返答に困る。殿下については貴殿らの方が余程良く知っているだろう。」
「「………」」
俺とパスカム補佐官は黙り込んだ。
「あの御方が自白してしまった以上、真犯人でも現れない限りもう処刑台に送られることは避けられない。ウェルゼン副指揮官はまだ見つからないのか?」
「…見つかりません。目撃者もなく手がかりすら掴めない状態です。」
「鬼神の双壁としても有名で庶民も良く顔を知っているのだ、目立つはずなんだがな…殿下の処刑を回避する一つの手段として、行方不明のウェルゼン副指揮官に罪をなすりつけるという方法がある。このまま見つからなければ本人から抗議が来ることもないだろう。パスカム補佐官、ルーベンス補佐官。殿下救出のためにウェルゼン副指揮官を犯人に仕立て上げることも考慮してみたか?」
「そ、そんな…!!」
ジルアイデン指揮官代理…この人はなんてことを平気で口にするんだろう、信じられない…!
そんなことをしてライ様を助け出しても、きっとお喜びにはなられないだろう。それにウェルゼン副指揮官が行方不明になった理由もわからないのに、犯人に仕立て上げて戻られたらどうするつもりなんだ…!?
「できません!!俺も疑念がないわけではありませんが、それでも話もせずにイーヴが薬物を混入した犯人だと断定することはできません!!況してや罪をなすりつけるなど…俺はあいつを信じています!!」
「――信じる信じないの問題ではないだろう。御身を救出するための言わば非常手段だ。本来なら真犯人の捜査を行うはずの憲兵隊が押さえられていては、近衛であっても手は出せん。貴殿らはあの御方が処刑台へ送られても構わないのか?」
俺は臨時とは言え、一応上官になったジルアイデン指揮官代理をキッと睨んだ。
「撤回して下さい…!俺達にとってどれほどライ様が大切な御方かも御存知ないで、たとえ悪気はなくともそんなことを仰るのは容認できません。俺達は諦めていません。その言葉は今すぐに撤回して下さい、指揮官代理…!」
「……すまなかった、撤回しよう。」
――ライ様の代理で近衛指揮官を任されたエルガー・ジルアイデン親衛隊長は、俺やパスカム補佐官と異なり、本当はライ様のことをどのように思っておられるのか不透明な印象を受ける方だ。
ライ様を『王子殿下』と呼ばれるわりには、俺達のように本気で救おうとしているようには見えず、どこか他人事でライ様がいなくなられてもまた別の方にお仕えすればいい、そう思っていらっしゃるような節が見えるのだ。
「一つ言っておくが、そうして悩む時間はもう無いぞ。明後日にシャール王子殿下がアンドゥヴァリで帰国なされる。そうなればどうなるかはわかっているな?」
俺はムッとして不満を声に出して返事をした。
「言われなくとも嫌というほどわかっています。――もし閣下にお慈悲があるのでしたら、俺とパスカム補佐官に自由に動ける時間を下さい。少なくともシャール王子殿下がお帰りになるまで。」
ジルアイデン指揮官代理はさして表情も変えずに頷いた。
「ああ、構わんぞ。一部の部下達も好きに使うといい。それと先程私が言った非常手段も考慮するべきだと言っておこう。思う所はあるだろうが、殿下の命には代えられん。」
――俺とパスカム補佐官は、その提案には返事をせずに執務室を後にした。
近衛の詰め所を出た俺達は、この後どうするかを話し合う。
「時間ができたのはいいですが、どうすればライ様を救い出せるんでしょう…裁判所へ行って事情を話し、供述書の受理を撤回して貰うとかできませんか?」
「そのためにはライ様のご身分を、国王陛下か王妃に証明して貰わねばならん。それができるのなら面会許可証も出して貰えただろう。」
「…ですよね。――でしたら俺は、また下町へ出向いて目撃者を探します。誰か一人でもいい、ライ様があの女を殺したのではないことを証明できる人間が、まだどこかにいるかもしれません。」
「そうだな。俺はペルラ王女に再度陛下への治癒魔法をお願いしてみる。こうなると後はもうどうあっても陛下にお目覚め頂く他はない。シャール王子が戻られるまでに間に合うといいが…」
「それでもできることからやっていきましょう。諦めずに、何度でもです。」
パスカム補佐官と絶対に諦めないという互いの決意を確かめ合い、その場はここで別れて俺は下町へ向かうと、エスティや友人の手を借りて目撃者探しに駆け回った。
下町では目撃者が叫んだこともあり、一部で既に噂は流れていたけど、元々この地区はライ様に好意的な人間が多く、カレン殺害犯がライ様であることに対して否定的な住人の方が遥かに多かった。
そしてその日、カレン・ビクスウェルトの葬儀が下町の教会で行われ、暫く休業していたアフローネの従業員から、当日のライ様についてようやく話を聞くことが出来た。
これまでは近衛の仕事とウェルゼン副指揮官の捜索、そしてなにより、ライ様が殺したところを見た、そう言っていた目撃者の捜索にかかりっきりだったからだ。
実はあの日叫んでいた目撃者の男は、事件の翌日から行方をくらませていたんだけど、昨日の朝に王都立公園の雑木林で死んでいるのが見つかったのだ。
それを受け俺とパスカム補佐官は、買収された男が欲を出して排除されたか、偽証したことが露見する前に、口封じで殺されたかのどちらかだと判断したのだった。
「――え…閣下の体調がおかしかった?」
ライ様の当日の様子を教えてくれたのは、ジョインという名の従業員だ。
「ああ、歩くことも覚束ない様子で…酒に酔ったのかとも思ったけど、今考えると普通じゃなかったんだ。あんな状態でラムサス近衛指揮官がカレンを一太刀に斬り殺せるとはとても思えない。絶対に犯人は他にいると思ってるよ。」
俺がそう彼から話を聞いていると、普段は厨房で働いているという別の従業員が声をかけて来た。
「黒髪の鬼神がカレンを殺したって話か?丁度いい、あの件を調べてるんなら近衛にも話したいことがあったんだ。」
その男性によると、あの日ライ様が注文した料理を用意していた時にカレンが厨房に現れ、自分がライ様の酒をグラスに注ぎたいと我が儘を言い出したという。
「カレンが黒髪の鬼神の大ファンだってのは知ってたし、あんまりにも騒いで煩いからそれだけやらせたんだけどよ、栄養剤だとか言って粉薬を入れてたんだよな。その後でジョインから黒髪の鬼神が具合悪そうだって話を聞いて、もしかしたらあれのせいじゃねえかって――」
「そ、その話!!これから憲兵所へ一緒に行って証言して貰えますか!?ジョインさんも、ラムサス閣下には剣を振ることができなかったと、証言して欲しいんです…!!」
「いや、それがな…」
――驚いたことに、二人は既にそのことを憲兵隊には伝えたという。ライ様がカレンを殺せるはずはない、彼らはライ様が犯人だと聞いて驚き、すぐに潔白を証明するために憲兵所へ出向いてくれていたのだった。
「一体全体どうなってんのかわからねえが、憲兵隊に言っても駄目だな、ありゃ…俺らの証言なんざ握り潰されちまう。」
「くっ…」
――悔しかった。確かにこう言った事件は憲兵の仕事だ。そこに悪意が干渉すると、こういうこともあり得るのだと俺は思い知らされた。
手の回しようのない民間人の証言でも駄目なのか。それじゃあ他に俺はどうすればいいんだ?どうすればライ様を救うことができる…っ
それでも俺は一通り彼らの証言を集めて、それを全て署名入りの陳述書に纏めると、夜遅くになってようやく紅翼の宮殿へ帰った。
≪もう時間がないのに、こんなことしかできないなんて…≫
「パスカム補佐官の方はどうなったかな…もう帰ってらっしゃるだろうか?」
自室前に立ってそう思った俺は、部屋に入る直前になってパスカム補佐官の元を訪ねようかと思った。だけど…
ふと足元を見ると俺の部屋の扉下に、手紙が挟まっていた。拾い上げてみたらパスカム補佐官から俺宛ての手紙だったんだ。
すぐに封を切って読んでみると、先ず心呪の雫による体調不良に治癒魔法は効かないらしいと言うことと、今日になってウェルゼン副指揮官からパスカム補佐官宛てに手紙が届いたと記されてあった。
〖――イーヴは単独でクロムバーズ・キャンデルとレフタルを調べており、王妃とレフタルがライ様を陥れようと計画している証拠を掴んだらしい。万が一のことを考え、その証拠品を信頼できる人間に預け、俺には手紙を出しておくことにしたようだ。これから俺はその人物に会ってくる。戻り次第貴殿の部屋を訪ねるから、朗報を待っていてくれ。――パスカム〗
「パスカム補佐官…そうか、ウェルゼン副指揮官がレフタルと会っていたのは、なにか調べていたせいだったんだ、良かった…!」
ウェルゼン副指揮官がライ様を裏切るようなことはしていなかったと知り、俺は心底ホッとした。
≪王妃とレフタルの証拠…いったいどんなものだろう?≫
俺には想像も付かなかったけど、それでもそれがあれば、きっとライ様を助けることができる。
なぜなら王妃やレフタルが否定しても、ライ様は陥れられたという明確な証拠があれば、裁判所は刑の執行を保留せざるを得ないからだ。
裁判所が極刑を保留にすれば、国王陛下のご命令がなくとも統括官に配属されたクロムバーズ・キャンデルは一時的に勾留され、どちらの捜査も担当官が変わり最初からやり直される。
そうなれば俺が集めたこの陳述書が必ず役に立って、ライ様の無罪を証明できるかもしれない…!
俺はそう希望を持って、その日パスカム補佐官の帰りを寝ずに待っていた。
――だけどパスカム補佐官は、それっきりウェルゼン副指揮官同様に行方不明となってしまったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。いつも読んでいただき、ありがとうございます!!