191 失われて行く光 ①
その日の夜、婚約者の元を訪れていたヨシュア・ルーベンスは、下町で起きたある殺人事件の詳細を間もなく知ることになりました。天地を揺るがすような出来事に、ヨシュアは急いでトゥレンに知らせようと城内を走りますが…?
【 第百九十一話 失われて行く光 ① 】
――その日の夜、巡回中の警備兵や夜勤の守備兵以外、城で働く者は皆そろそろ眠りについた頃…城下から王宮へ駆け込んできたヨシュア・ルーベンス近衛第二補佐官は、酷く慌てた様子で城の廊下を走って行った。
顔色は青ざめ、苦しそうに喘ぎながらもその速度は緩めようとせず、ただ只管に彼は紅翼の宮殿を目指している。
〝なんてことだ…どうしてこんなことに…っ早く…早くパスカム補佐官にお知らせしなければ…!!〟
彼はそれだけを考え、額から流れる汗にも構わず一心不乱に、トゥレン・パスカム近衛第一補佐官の自室へと向かっていた。
普段なら彼ももう自室へ帰り、翌日の仕事に備えて寝台へ入る時間だった。だがヨシュアは今日もいつものように婚約者の元を訪れており、下町で自身の天地を揺るがすような、大事件が起きたことを偶然知ってしまったのだ。
――やがて紅翼の宮殿二階にある目的の場所へ、何度も足を縺れさせそうになりながらようやく辿り着く。
ドンドンドン
ヨシュアは力の限り扉を叩く。そしてできるだけ大きな声で、既に眠りについているであろうトゥレンに叫んだ。
「ハアハア、パスカム補佐官ッ!!起きてください、俺です、ヨシュアです!!緊急事態です、起きてくださいッッ!!!」
まだ寝入りばなでウトウトしかけていたトゥレンは、その異変を知らせる声に驚いてバッと飛び起きた。
寝具を撥ね除け寝台から出ると、灯りも点けずに急いでリビングへ向かい、直ぐさま扉に手をかける。
ガチャッ
「ヨシュア!?」
――瞬間彼はヨシュアを一目見て、なにかただならぬ事態が起きたことを悟った。
「パスカム補佐官…た、大変です、ライ様が…っライ様が、殺人の現行犯として憲兵隊に連行されてしまいました…っ!!!」
「な…」
その知らせを聞いたトゥレンはすぐさま室内へ取って返し、二分とかからず近衛服に着替えると、自室を飛び出して隣にあるイーヴの自室へヨシュアと走った。
ドンドンドン
「イーヴ!!イーヴ、起きろ!!聞こえただろう、緊急事態だ!!!」
今度はトゥレンがイーヴの自室扉を激しく叩いた。…が、普段ならすぐに異変を察知して飛び出してくるはずのイーヴからは返事がなかった。
トゥレンはその場で扉に手をかけ、ガチッと鍵がかかっていることを確かめる。
「なんだ留守か、こんな時間にどこへ行ったのだ…!!」
「もしかしたら詰め所かも知れません。ウェルゼン副指揮官は毎日必ず、ライ様の翌日分の仕事を確認しておられますから…!」
ヨシュアの言葉を聞いてトゥレンは再び走り出し、ヨシュアと連れ立って近衛隊の詰め所へ向かう。
たった今聞いたヨシュアの信じられない言葉に、トゥレンはすぐにも事情を問いたい気持ちで焦っていたが、先ずはイーヴを見つけてから、他者に聞かれない場所で詳しく聞くべきだと判断した。
バンッ
「イーヴ!!」
息を切らせて扉を開け、ヨシュアと執務室へ駆け込んだが、ここにもイーヴの姿は見当たらなかった。
「いないぞ、どこへ行った、イーヴッッ!!!」
トゥレンは行方のわからないイーヴに腹を立て、執務室の机をバンッと両手の拳で叩いた。
「扉を閉めろ、ヨシュア。イーヴは見つからんが、ライ様になにが起きたのかを掻い摘まんで先に教えてくれ…!」
「は、はい!」
ヨシュアは執務室の外に誰もいないことを確認してから、扉を閉めて鍵をかけた。
――それは今から一時間ほど前のことで、ヨシュアが婚約者の自宅で三時間程を過ごし、偶には帰る前に酒場へ寄ってみようかという話になり、婚約者を伴って夜の繁華街へ向かった時のことだった。
本当はここ数日のライの様子がおかしいことに気が付いており、その原因は恐らく恋人のリーマにあるのだろうと予想していたことで、婚約者に協力を頼み彼女に会いに行こうと考えたことから出かけたのだが、ヨシュアはトゥレンに敢えてそんな風に事情を話し始めた。
「下町の大通りに出ると多くの憲兵隊と住人達による人垣ができており、なにかあったのか尋ねたら、近くの酒場で働く踊り子が殺されたらしいと聞いたんです。すると――」
――するとそこには赤く染まる白い布で覆われた、女性らしき人の遺体が横たわっており、事件現場を目撃したという近くに住む男性が丁度憲兵に事情を説明しているところだった。
「その目撃者の男性は、周囲に聞こえるような大声で、〝黒髪の鬼神がこの娘を斬り殺したんだ、俺は見ていた!!〟と叫んでいたんです。」
驚いたヨシュアはなにかの間違いだと思い、その場である程度まで聞き込みをすると、亡くなった被害者が誰なのかと言うことと、凶器と思われる剣を手に持ったまま、酔って気を失っていたライが既に憲兵隊により連行され、憲兵所へ運ばれてしまったことを知ったのだった。
「馬鹿な、ライ様が民間女性を殺しただと!?そんなことをなさるはずが…」
そこでハッとトゥレンは思い出した。ライには酒場で働く踊り子の恋人がいることを。そしてまさかあの女性のことでは、と青くなって勘繰った。
「――その殺された踊り子というのは…誰なのだ?まさかライ様と面識のある女性というわけでは…」
一瞬ヨシュアはびくっと身体を揺らし、トゥレンからさっと目を逸らした。そして言い難そうにしながら答える。
「面識は…あります。被害者は下町にある『アフローネ』という酒場の踊り子で、名前はカレン・ビクスウェルト。ライ様がお倒れになる前、付き纏われていて困っていると相談されたことがありました。」
「なんだと!?そんな大事なことをなぜ俺に黙っていた!!」
トゥレンは思わず激怒してヨシュアに掴みかかった。
「も…申し…わけ…ありま、せん…っ」
胸座を掴まれ、身長差のあるトゥレンに上方へ引き上げられたことで、近衛服の首元が絞まったヨシュアは苦しげな声で謝罪をする。
そのヨシュアにトゥレンは我に返り、ヨシュアがライの恋人の存在を知っているであろうことを思い出し、被害者の女性のことを話せば、必然的にライが下町へ通っていることを言わなければならなくなるために黙っていたのだとすぐに思い至った。
「くっ…!」
ライの部屋へ記録用の現映石を仕掛けた罪悪感もあるトゥレンは、リーマの存在を知っているとは話せず憎々しげにヨシュアを見ると、顔を逸らして突き飛ばすようにその手を放した。
ドンッ
その勢いで蹌踉けたヨシュアは、軽く壁に背中を打ちつける。
「――す…、すみません…パスカム補佐官…っ」
トゥレンは自分を落ち着かせるために目元を指先で摘まむと、深く溜息を吐いて冷静になってから、もう一度項垂れるヨシュアを睨んだ。
「ヨシュア、貴殿はライ様の側付き失格だ。俺もイーヴも他人のことは言えんが、それでも全てを話さずともなにかしら伝える方法はあっただろう。たとえライ様に口止めをされていたのだとしても、ライ様に近づこうとする邪な存在があることだけは俺達に話しておくべきだった。この事態は貴殿が招いたも同然だぞ…!」
「…っ」
トゥレンの叱責にヨシュアは俯いて、小さくもう一度申しわけありません、とだけ呟いた。
「謝ってももう起きてしまったことは取り返しがつかん。それよりイーヴはどこへ行ったのだ、あいつが戻らねば対策を練ることもできないではないか。」
「…そう、ですね…あの、とにかく俺達で憲兵所へ行ってみませんか?ウェルゼン副指揮官へは警備兵に伝言を頼めば済むと思います。目撃者がいることでライ様は犯人とされ連行されてしまいましたが、それでも俺はあの方が本当にあの女を殺したとは思えないんです!面会を申し込み、ご本人から詳しく事情をお伺いしないと…!!」
「ああ、そうだな…そうしよう、俺もライ様はそのようなことをなされないと信じている。無実ならすぐに解放されるはずだ。」
必死な表情で訴えるヨシュアにトゥレンは頷き、イーヴの行方はわからないままだったが、とりあえず二人は執務室を出て、一路憲兵所へと向かうことに決めたのだった。
憲兵所というのは王都にある憲兵隊専門の警察施設で、主に公共の安全と秩序を保つために、犯罪に関する全面的な行政を担う場所である。
民間の治安維持に関する様々な窓口が集中しており、監察医や検視官など、犯罪捜査を行う専門の憲兵などが二十四時間数多く常駐している。
この施設の敷地内には一時的な拘置所が存在しており、バスティーユ監獄へは送られない軽犯罪者を短期間のみ収容しておく懲罰房や、常時監視の必要な重犯罪者を一時的に収監しておく隔離監房も完備されている建物がある。
またこの施設は憲兵隊が管理する最重要施設であり、近衛には近衛専用の詰め所があるように、憲兵隊に所属する者以外は許可なく容易に立ち入れない場所でもあった。
位置的には王都の公共地区にあるが、監獄のように壁などで特に他と隔てられているわけではなく、商業組合などの建物の横に極普通に建っている。
見た目には各棟とも地下一階から地上は四階建てで、複数の箱型の建物が渡り廊下などで繋がっている感じだ。
民間人の立ち入りが許可されている第一憲兵所の建物を除いて、他の棟には一つの窓も存在していないという、少し特殊な外観をしている。
トゥレンとヨシュアは先ず、ライに会うための面会手続きをしに、第一憲兵所の夜間窓口へ向かった。
「――は…?面会はできない?なぜだ!?」
窓口と言っても窓のある壁で仕切られているわけではない。深夜など時間外に憲兵所を訪れる者の用件を聞くために、裏口から入った場所に小部屋が用意されており、そこに設置されたカウンター式の机前で夜番の憲兵が一人立っているだけだ。
「上官からの命令です。現職の王宮近衛指揮官が罪のない民間人を殺害したとされる最重要事件ですので、国王陛下のご命令以外での面会はどなたであろうとも一切お断りするように言われております。」
「俺にはライ・ラムサス王宮近衛指揮官に関しての緊急時、あらゆる王国施設内への立ち入り許可を陛下から頂いている!所属の異なる憲兵隊と言えど、調べればすぐにわかることだぞ!!」
融通の利かない憲兵にトゥレンは苛立ち、こんなことはこれまでになかったことだと、腹立たしげに机をガンッと強く叩いた。
だが憲兵はシラッとした態度で全く動じる様子がない。
「そう仰いましても自分も三日前に配属されたばかりですので、まだ右も左もよくわからんのです。その上、五日ほど前に着任された新たな統括官により、たとえ『鬼神の双壁』と呼ばれる近衛の御仁でも、両陛下直筆による許可証がない限り、この憲兵所への立ち入り自体をご遠慮頂くこととなったのです。ここでは新人に当たる分際でご命令に逆らうことはできませんので、どうかご容赦願えませんかねえ。」
「貴様…!!」
この緊急時にまるでトゥレンの言葉など聞く必要がないとでも言うように、憲兵はフン、と鼻先でぞんざいにあしらった。
「待ってください、貴殿はここへ配属されたばかりなんですか?今、五日ほど前に新たな統括官も着任されたと仰いましたよね、それが事実なら近衛の方にはまだなんの連絡も来ておりませんが、どなたがどなたのご命令で任命されたんですか…!?」
今にも噛みつきそうなトゥレンの横から、眉根を寄せたヨシュアが進み出て尋ねた。
≪ こんなタイミングで憲兵の統括官が変更になり、一部でも兵の入れ替えが行われるなんて、絶対におかしい…!≫
ヨシュアはそう思い、なにか裏側に意図的な悪意を感じて、酷く嫌な予感がした。するとその憲兵は口の端で、ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる。
「――〝元〟レフタル所属の、クロムバーズ・キャンデル統括官閣下ですよ。配属命令を下されたのはイサベナ王妃陛下です。おや、おかしいですね…まだご連絡が届いていませんでしたか?」
「「…!!!」」
憲兵の言葉に、トゥレンとヨシュアは愕然として顔を見合わせると、見る見るうちに顔色を変えた。
≪ クロムバーズ・キャンデルだって…!?どうしてあの男が憲兵に――!!≫
「な、ならばキャンデル統括官に面会の申し込みを頼む!!近衛第一補佐官のトゥレン・パスカムが今すぐ会いたいとお伝えしてくれ!!」
真っ青になって訴えるトゥレンに、憲兵の男は徹底して冷ややかだった。
「閣下は既にお帰りになられましたし、そうでなくともお約束がなければ多忙にてお会いになられません。もしどうしてもラムサス王宮近衛指揮官へご面会になりたいのであれば、正式な手順による面会手続きを取られた上で、国王陛下もしくは王妃陛下の書面による許可証をお持ちください。なにがあろうともそれ以外の例外は認めませんので、どうぞお引き取りを。」
――その言葉を最後に、憲兵はトゥレンとヨシュアをそこにいない者として扱い、なにを言っても完全無視を決め込んだのだった。
仕方なしに二人は憲兵所を出ると、トゥレンは悔しげに建物前で悪態を吐く。
「くそっ、やられた!!なにが新人だ、確信犯のくせに女狐に従う下衆野郎め!!これではどうあってもライ様に面会することは出来ないではないか…ッッ!!!」
「国王陛下か王妃陛下の許可証が必要だと言いましたね、駄目で元々と考え、イサベナ王妃に一応お願いしてみますか?」
「天地が引っくり返っても許可証を出してくれるはずはないだろう。ライ様と俺達の接触を断ち、ライ様の言い分を一切聞かせないつもりなのだ。ほんの僅かな手がかりさえあれば、俺とイーヴなら無罪である証拠を見つけて来ないとも限らんからだ。」
「ですが王妃陛下が駄目なら、後は国王陛下にお願いするしかありませんが、どうするんです?」
「それもわかっているが、今は無理だ。とにかく統括官にレフタルの隊長が任命されたことで、憲兵隊は王妃陛下の手に落ちたと判断するしかない。――とりあえず一旦紅翼の宮殿に帰るぞ、対策を立てようにも表では碌な話が出来ん。それにもしかしたらイーヴももう戻っているかもしれん。」
「はい…!」
憲兵所に入るのは難しいと判断したトゥレンは、ここにライがいるだろう事をわかっていてもどうすることもできずに、ヨシュアと紅翼の宮殿に戻って行く。
「ハハハ、見たか?普段好き勝手に権力を使って、やりたい放題している双壁の悔しそうな顔を。」
――その男は三十代半ばぐらいで、焦げ茶色と薄茶色に白髪がほんの少し混じった髪色をしており、くすんだカーキ色の瞳とよく鍛えられた筋肉質の身体に、随分と質の良い高級な生地で作られた、特殊な色の制服に身を包んでいた。
男は愉快そうにケタケタ笑いながら、外部の様子を見ることの出来る監視用の映像転送装置から、憲兵所の裏口を出たトゥレンとヨシュアの姿を盗み見ていた。
そこは憲兵所の各所を映像で見られる監視用の警備室で、場所によっては声などの音を拾うこともできるのだ。
男は狂気の浮かんだ瞳をして両手を固く握りしめると、歓喜に震えながら部下達に続けた。
「これまで何度も何度も失敗してきたが、今度こそ黒髪の鬼神は終わりだ。双壁の片割れも、国王陛下のご命令がなければなにもできないことをすぐに思い知るだろう。苦労して計画を立て、慎重に幾つもの罠を張り巡らせたおかげで、ようやく忌々しい奴を捕らえることが出来た。あの男の命はこの俺が握っている。イサベナ様の心からお喜びになるお顔が見られるのも、もう間もなくだな。くくく…」
「キャンデル隊長、例のポーター(運び屋)から共鳴石に連絡が届きました。ご依頼の荷物は指定場所へ無事に送り届けました、とのことです。」
「フッ、そうか…では次の荷物も、用意ができ次第同じ場所へ運んでくれと伝えておけ。成功報酬は奮発するとこのクロムバーズ・キャンデルが約束した、そう付け加えてな。」
「は、かしこまりました。」
――この男の名は、たった今本人が口にしたとおりだ。
かつてこの男は、このエヴァンニュ王国で国一番の剣の使い手だと持て囃され、実家の高位貴族であるキャンデル家からは、末はずっと空位のままだった王宮近衛指揮官かと将来を嘱望された跡取りだった。
ところが数年前突然この国に現れて、王国軍に入隊した一兵士からあっという間に数々の手柄を立てて出世して行ったライに、士官学校での教官として参加した模擬訓練でこてんぱんにされたという経歴を持っていた。
おまけに国内で起きた連続猟奇殺人事件の犯人マグワイア・ロドリゲスを、本当は自分が捕らえるはずだったのに、その手柄さえも横取りされたと思っており、ライがいなければ自分が辿っていた出世街道を丸まる掠め取られたと心底恨んでいた。
そんな私怨から、イサベナ王妃の親衛隊に抜擢される以前にも、既にライを殺そうとして破落戸を雇ったり、戦地で確実にゲラルド兵の手にかかるよう裏で手を回したりと、影でこそこそ全力で手を尽くして来たのだった。
だがそのどれもが鬼神の双壁や本人の手腕によって阻まれただけでなく、とうとう今年ライが無事に戦地から帰国した挙げ句、自分が就任するはず(あくまでも自己評価)だった王宮近衛指揮官の地位に就いたことで、その憎悪が爆発したのだった。
それでも国王陛下と鬼神の双壁に守られているライに付け入る隙はなく、王国軍の内部改革や対魔物戦闘の訓練プログラムを構築するなど、益々国への貢献と国民の支持を手にしていく姿に、本来ならただ指を咥えて見ていることしかできないはずだった。
ところがある日、顔が美人で比較的気に入っており、身体目当ての遊びで相手をしていた酒場の踊り子『カレン・ビクスウェルト』から、クロムバーズは思いも寄らない情報を入手する。
それはどんなに美しい貴族子女を紹介されても、娼館に通う者が殆どの戦地で身体を使った色仕掛けにさえも、常に鬱陶しそうに面倒臭がるか嫌悪しか示さなかったライが、同じ下町の踊り子と思い合っているというものだった。
クロムバーズはカレンから得た情報をただ鵜呑みにせず、実際にそれが真実なのかを確かめるために、わざわざカレンから聞いた相手のアパルトメントを自ら見張って、足繁く通っているライの姿をその目で確認していたほどだった。
――瞬間、クロムバーズは千載一遇の機会を得たと歓喜に震える。
≪あの恋人の存在と、それを引き裂いて黒髪の鬼神の愛人になりたいという、決して叶えられない願望を口にするカレンを上手く操れば、今度こそあの目障りな男を殺せるはずだ。≫――そう確信したからだった。
それには同じく、日頃からライを殺したがっているイサベナ王妃の協力がいる。自分が望んでもいない王妃の親衛隊『レフタル』に、その身分と剣の腕を買われて隊長として抜擢されることになったのは、全てこの時のためだったのだとさえクロムバーズは思った。
そうして計画の全てを王妃に持ち掛け、国王陛下が倒れて意識のないこの隙に、その権力で憲兵隊の統括官という地位への強制的な配属替えを頼んだのだった。
≪ イサベナ王妃に聞くまで、当初はまさか隠された第一王子だなどとはまるで知らなかったが、このまま国王陛下の望み通りに奴が王位に就き、それに仕える軍人として生きるなどまっぴら御免だ。今この好機に必ず息の根を止めてやる。暗殺などというみみっちいやり方でなく、合法的に殺人犯として汚名を着せ、国民に貶まれながら葬れるように、だ。≫
――ああ、その日が楽しみだ。…そう思いながら、クロムバーズは笑う。
「どれ、そろそろ薬の効果も切れる頃だろう。先ずは血反吐を吐いて自分がやったと自白するまで、徹底的に取り調べという名の拷問から始めるとするか。くくくく…」
一方、紅翼の宮殿に戻ったトゥレンとヨシュアは、やはりイーヴが自室に戻っていないことを知り、一旦トゥレンの自室へ入ると、こちらもなにかおかしいと思い始めていた。
「もう午前二時だぞ、いくらなんでも戻らないのはおかしい。」
「…パスカム補佐官、ウェルゼン副指揮官は何度もクロムバーズ・キャンデルやレフタルと密会なさっていました。思うんですが、もしかしたら事前にライ様になにか起きることを察知され、お一人で手を打とうとして動かれていた可能性もあるのではないでしょうか。」
「――つまりイーヴはライ様を裏切ろうとしているのではなく、ライ様のために単独でレフタルを探っていたと言うのか。……確かにあいつならやりそうな事ではあるが…」
トゥレンは、ヨシュアの推測が当たっているのならこれほど嬉しいことはない、と思った。
だがその反面、たとえライのためだったとしても、レフタルの隊長や親衛隊士にこっそり会うのに、疑われることがわかっていて自分に一言も告げなかったことがどうしても引っ掛かっていた。
「ウェルゼン副指揮官は今日…いえ、もう昨日ですね、ペルラ王女殿下のご公務に付き添われていたはずですよね。こんな時間に申し訳ないとは思いますが、緊急事態です。王女殿下に起きて頂き、ウェルゼン副指揮官について話を伺った方がいいんじゃありませんか?」
「………」
トゥレンは目を伏せ、暫くの間考え込む。現在の自分は王女殿下への接近を固く禁じられているが、今はイーヴがどこにもおらず、王女と殆ど面識のないヨシュアが部屋を訪れるのは、警戒されて会って貰えない可能性の方が高かった。
「わかった、こんな事態だ、国王陛下に後でもしも咎められたら、何度でもご理解頂けるまでお詫びすることにしよう。」
そうしてトゥレンとヨシュアは、ライの自室があるのと同じ紅翼の宮殿三階にある、ペルラ王女の部屋の扉を叩くことにしたのだった。
するとペルラ王女はこんな時間にも関わらず、酷く胸騒ぎがしていたとかで眠れずに起きており、すぐに扉を開けて廊下まで出て来てくれたのだった。
「――ライ様が殺人犯として憲兵に…!?そんな…!!」
「ペルラ王女、憲兵隊はイサベナ王妃の手に落ちました。早急にライ様救出の対策を立てるためにイーヴを探しているのですがどこにもおらず、こんな時間なのに自宅にも帰って来ないのです。公務でお出かけになった際、護衛に付いていたイーヴの様子はどうでしたか?なにか言っていたとか、いつもと異なる様子がなかったか、教えて頂きたいのですが…」
「いいえ、普段通りでしたわ。淡々と護衛を務めて下さり、休憩中も私の傍を離れず、昼食も取られないで付き添って下さいました。」
「ではウェルゼン副指揮官は、ご自分の意思で戻られないのではないのかもしれませんね…やはりウェルゼン副指揮官にもなにかあったのかもしれません。」
「――参ったな…では俺達は、イーヴ抜きでこの事態に対処しなければならないのか。」
トゥレンはこれまでイーヴのいない状態で緊急時に対応したことは殆どなく、普段どれほど自分がイーヴに頼っていたのかと思い、目の前が真っ暗になるような気がした。
「トゥレン様、私もお手伝い致します。王妃陛下のあの日の恐ろしいご様子…もし憲兵隊が王妃陛下の手に落ちて掌握されてしまったのでしたら、連行されていらっしゃるライ様に今、身の危険が迫っているのですよね?」
「ペルラ王女、しかし…」
トゥレンは正直に言って、王女にできることはなにもないだろうと思った。ライが毒に冒された時と違い、まさか行方不明のイーヴを魔法で探し出して貰えるわけでなし、せっかくの申し出でも、却って護衛に付く手間が増えることになると、思わず眉を顰めてしまう。
瞬間、王女は哀しげに微笑み、トゥレンの考えていることを見透かしてしまう。
「そのお顔…私ではなにも手伝えることがないとお思いですね。」
トゥレンは見抜かれたことに慌てて言い訳をしようとする。
「い、いえ!そのようなことは――」
「いいのです、トゥレン様は私が思うよりも相当頭がお固いということは、ライ様に伺って既に存じておりますから。」
「えっ!?」
プン、と拗ねた様子で頬を膨らませたペルラ王女に、思わずトゥレンは面食らう。いつも穏やかに微笑んでいるのに、あからさまにトゥレンへの不満を顕わにした、こんな王女の態度を見たのは初めてのことだったからだ。
「ヨシュア様、あなた様は違いますわね?私にもできることがあることに、お気づきでしょう。」
「ええ、はい。俺達の最たる希望は先ず、憲兵所へ連行されたライ様に面会してご無事を確かめることです。そのためには国王陛下、もしくは王妃陛下の面会許可証が必要ですが、王妃陛下にお願いしてもお許しは頂けないでしょう。ならば後は――」
「そうです、依然として意識の戻られていない、国王陛下にお目覚め頂くしかありません。」
――この時点で国王ロバムが心臓発作を起こして倒れてから、既に一週間以上が経っていた。
だが昏睡状態ではあるものの、最も心配されていた危篤状態からはなんとか脱し、奥宮に呼ばれて待機していた重鎮達も、三日前に解散して自宅へ戻らされている。
「主治医の方々からは、心臓発作による生命の危機は脱したと伺っています。ならば昏睡からお目覚めにならないのは、体力の低下が原因である可能性が高いのではないでしょうか。もしそうなら私の治癒魔法で、ライ様の時のように意識を取り戻して頂けるかもしれません。」
ペルラ王女の申し出の意味がようやくわかり、トゥレンは光明が見えたことでパアッとその表情を明るくした。
「そ…そうか、国王陛下さえお目覚めになられれば、王妃が勝手に人事を変更したクロムバーズ・キャンデルの統括官着任も取り消すことができる。元々憲兵隊と近衛は協力関係にあり、そこで働く監察医や検死官にもライ様を支持する人間が多いのだ。統括官さえ元に戻せれば、ライ様のお身柄を保護することも可能になるぞ!!」
喜んでそう力説した直後、澄ました顔で姿勢を正すペルラ王女に、トゥレンはハッとして顔を赤らめた。
「も…申し訳ありません、王女殿下。」
「あら、なにを謝罪されるのですか?」
「お許し下さい、俺が失礼を致しました。」
「内心で思っていらっしゃったことを謝って下さるのですね。ですが、その謝罪は言葉でなくいずれ行動で返して頂きますわ。」
「?…は、はあ。」
「トゥレン様、急ぎ奥宮へ参りましょう。親衛隊といえども、隣国の王女であり次期王妃となる私の頼みは無下に扱えないはずですから。」
背筋を伸ばし、凜とした横顔を見せたペルラ王女は、聖女と噂されるに相応しい気高さを纏っており、思わずトゥレンが見蕩れてしまうほど美しかった。
そのペルラ王女を伴い、トゥレンは奥宮へ急ぐ。
ヨシュアには近衛の詰め所へ戻って貰い、近衛隊士の一部を緊急招集してイーヴの行方を捜して貰うことにした。
もちろんトゥレン自身もイーヴの心配をしており、その行方を気にしていたが、なによりも自分がモタモタしている間に、ライが王妃の息のかかった手の者にどんな目に遭わされているのか想像も付かず、一刻も早く助け出したい一心だった。
――だがそんなトゥレンやヨシュア、そしてペルラ王女の思いは、悪意を持ってライを害そうとする者達が既に仕掛け終えた罠によって、さらに踏みにじられることになってしまう。
奥宮へ続く扉へ王女と共に辿り着いたトゥレンは、このところ入口を警護している親衛隊長のエルガー・ジルアイデンに対峙する。
「トゥレン・パスカム近衛第一補佐官…!貴殿にはペルラ王女殿下への接近を禁じる命が下されているはずだ!!しかもこのような深夜に、二人きりで…!!」
「緊急につきお叱りは後ほど如何様にも承ります。ジルアイデン親衛隊長、ハッサー卿へのお目通りを願いたい。既に憲兵隊からのライ様に関する伝令は届いているはずです。」
「…確かに。だがこのような事態にウェルゼン副指揮官の姿が見えないようだが?」
「実はイーヴの行方もわからなくなっています。とにかく急ぎハッサー卿を…!」
「…わかった、すぐにお伝え致そう。ペルラ王女殿下も広間までご同行願います。」
この後、国王付きの近侍であるテラント・ハッサーにより、トゥレンとペルラ王女は特別に国王ロバムの寝室へ通されることになった。
トゥレンの隣にはエルガー・ジルアイデンも立ち、主治医数人が見守る中、ペルラ王女の国王への治癒魔法による緊急治療が施される。
寝台に意識なく横たわる国王ロバムは、とても五十一には見えないほど一気に老けて窶れており、一命を取り留めたとは言え、あまり良い状態にあるようには見えなかった。
「天に坐します光の神よ、今ここに病に倒れし者へ生命の慈悲を与えたまえ、『キュアライト』。」
寝台の傍らで呪文を唱え、ペルラ王女はロバム王に治癒魔法をかけ続ける。ところが――
≪ …おかしいわ、全く効いている手応えが感じられない…こんなはずは…≫
やがて王女はその事実に気がついて愕然とした。
「ああ…これは、なんてことなの…っ」
まだ国王は目を覚ましていないのに、ペルラ王女は治癒魔法を突然中断する。
「ど、どうされたのですか、王女殿下…!?」
青ざめて目に涙を浮かべながら、ペルラ王女はそこにいた全員に驚くべき事を告げる。
「皆様、ロバム国王陛下の心臓発作はご病気ではありません。滅多なことは申せませんが、それでも敢えてお伝え致します。国王陛下は心臓に一時的な異常を来す、薬物を摂取されたのだと存じます。」
「な…」
「それは真でございますか、ペルラ王女殿下!!」
一瞬にして室内は騒然となった。
「はい、間違いありません。以前私は同じような症状で倒れられた他国の王族を、請われて治療に向かったことがあるからです。薬の名は『心呪の雫<カタラコルソン>』。心臓病の治療薬にもなる薬ですが、健康体で正常な方が摂取すると発作のような異常を来し、そうとわからないまま亡くなられてしまうこともございます。」
「お待ちください、では国王陛下は何者かに殺されかけたと仰るのですか!?あり得ませんぞ!!」
「そうです、陛下が口にされる飲食物は全て事前に調べられ、異物の混入など無きよう細心の注意を払われております!そのようなことは起きるはずが――」
その場にいた主治医達は血液検査も行ったのに、体内の薬物が見つからなかったことにも愕然とし、ペルラ王女から心呪の雫という薬について詳しい説明を聞く。
≪――大変なことになった。まさか国王陛下が薬物によって心臓発作を起こされ、危篤状態に陥られたのだとは…ペルラ王女殿下に治癒魔法を施して貰い、意識を取り戻して頂くだけのはずが想定外だ。≫
これではライ様のことを救出するどころではなくなってしまう。そう懸念を抱いて焦るトゥレンに、背後に立っていたエルガー・ジルアイデンとテラント・ハッサーが小声で相談し、肩を叩いた。
「――トゥレン・パスカム近衛第一補佐官。少し良いか?」
「…?はい、なんでしょう。」
エルガー・ジルアイデンは隣室の卓上に置いてあった、高級酒の瓶を持ってくる。まだ半分ほどが残っているようで、液体の揺れるチャポチャポという音がしていた。
「この酒瓶に見覚えはあるか?」
「え?…いえ、存じませんが、それがなにか…?」
ジルアイデン親衛隊士に続いて、険しい顔をしているハッサー卿が重々しく口を開いた。
「――この高級酒は、先日ライ様からペルラ王女殿下との縁談に対する返礼品として、国王陛下へ贈られたものです。パスカム殿が御存知ないと言うことは、まさか…ライ様がこれを…?」
「ペルラ王女殿下、心呪の雫とは、どのようにして混入されたものから検出することができますか?」
「ちょ…冗談ではありません!!お待ち頂きたい、まさかその高級酒にその薬物が混入していたと仰りたいのですか!?」
ハッサー卿とジルアイデン親衛隊長が言わんとしていることを察して、トゥレンはあまりのことに憤慨する。
「ですがパスカム殿、陛下のお食事は毎日全て専門の従者が調査済みです。同じものを食している私めはこうして無事でおるのです。それ以外にライ様からの返礼品に喜ばれた陛下が、毒味も通さずに口にされたのは、最早この高級酒しか存在しないのですぞ。」
「ば、馬鹿な…」
あの高級酒が、ライ様からの…返礼品だと?確かにライ様は陛下が必要ないと仰っても、ペルラ王女と隣国に礼を失すると仰り、品物を用意して陛下にお贈りするよう申しつけられていた。
だがその品物はイーヴとヨシュアが用意することになり、ライ様と俺は一切関わっていないのだ。
忙しさにかまけて二人に任せっきりで、なにを贈ったのかさえ知らなかったが、その酒の中に薬物が…?
「――どうやら貴殿にはなにがしかの心当たりがあるようだ。薬物についてはこの残る酒を調べてみれば自ずと判明する。この酒を優秀な検査医と薬剤師に直ちに調べさせよ!!」
「そ、そんな…トゥレン様…」
まさか自分の口にしたことで、助けようとしたライやトゥレンに疑いがかかることになるとは夢にも思わず、ペルラ王女は狼狽して真っ青になると気を失い、その場に倒れ込んでしまった。
「ペルラ王女殿下!!」
「ならん、貴殿が殿下に触るのではない!!」
ダンッ
ジルアイデン親衛隊長は怒号を飛ばし、倒れたペルラ王女へ手を伸ばしたトゥレンを、即座に強く壁へ押さえつけて近付けないように阻止した。
「なんということだ、まさか陛下がお倒れになった原因が薬物によるものだったとは…全てが明るみになるまで、国王陛下の命により王妃陛下にはあらゆる権限を渡してはなりませぬ。エルガー・ジルアイデン親衛隊長へ陛下の代理として緊急辞令を下す。これより臨時にて王宮近衛指揮官代理の任に当たり、イサベナ王妃陛下の王国軍介入を阻止、暫くの間事態の収拾に努めよ。」
「ハッサー卿!!」
「は!ご命令、確と承りました。」
――そして直ちに厳重な検査が行われることになり、抽出方法を調べた検査官によって、朝までには薬物の有無が判明した。
その酒瓶からは問題にされた通り、『心呪の雫<カタラコルソン>』という薬物が検出され、トゥレンにとっては正に青天の霹靂とも言える結果を、ジルアイデン臨時代理から直接伝え聞くことになったのだった。
こうしてライ本人は疎か、行方知れずのイーヴを除き、トゥレンもヨシュアも身に覚えのない事実によって、ライにはカレン・ビクスウェルト殺害犯としての罪状だけでなく、新たに国王ロバム暗殺の恐ろしい容疑まで加わってしまうことになったのだった――
次回、仕上がり次第アップします。