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Eternity~銀髪の守護者ルーファス~  作者: カルダスレス
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190 奈落の底へ

ライの側付きでもある、王宮近衛第二補佐官のヨシュア・ルーベンスは、トゥレンからある時、イーヴの様子をよく見ていて欲しいと頼まれたことがありました。それから暫く経ったある日、ふとそのことを思い出すようなイーヴの姿を見かけて、その後をこっそり付けることにしましたが…?

          【 第百九十話 奈落の底へ 】



 ――俺、ヨシュア・ルーベンスがお仕えしているライ様…『黒髪の鬼神』と呼ばれる御主君は、数奇な運命を辿ってこのエヴァンニュ王国へ来られた御方だった。

 ある日王国軍に突然現れた恐るべき新人と噂され、指導訓練で当時国一番の使い手だと言われた貴族出身者を剣で完膚なきまでに叩きのめし、対人戦に於ては専門職の軍内でも未だ右に出る者はいないとまで言われている。

 俺が王宮近衛隊への所属を目指したのは、幼い頃から好き合っていた恋人との結婚を叔父に許して貰うのが目的だったけれど、そのライ様が指揮官となられてからは、なんとしても功績を挙げてあの方の信頼を得て、補佐官の地位に上り詰めたいとまで真剣に悩んでいたくらいだった。


 たとえ年下でもそれほどまでにライ様は、俺にとって憧れの存在だったんだ。


 ライ様より三つ年上の俺が初めてあの方を見たのは、ライ様がまだ公の場へ姿を見せられるよりもずっと以前のことだ。

 俺が叔父の家から下町に住む婚約者の元へ通っていたのは当時も同じで、その頃の俺はまだ憲兵隊に所属していた一兵士に過ぎなかった。

 ある時その下町で、若い男性が破落戸(ならずもの)の集団による襲撃を受け、それを返り討ちにしたという事件が起きた。

 偶々現場近くにいたということもあり、住人による通報を受けて同僚と現場に駆け付けた俺だったけれど、その時複数いた襲撃者を全て斬り捨て、無表情でそこに立っていたのがライ様だった。


 思えばあの当時、暫くして現場へ駆け付けたウェルゼン副指揮官とパスカム補佐官がその身柄を引き受け、襲われたとは言え全員を問答無用に斬り殺したライ様がなんのお咎めも受けなかったのは、当たり前のことだったんだ。

 なぜならライ様は、我が国の現国王陛下と前王妃陛下の間にお生まれになった隠された第一王子殿下で、襲撃者の破落戸(ならずもの)はイサベナ王妃の放った暗殺者達だったのだから。


 とは言っても、俺がライ様に憧れたのは襲撃者を返り討ちにしたからじゃない。恐らくは当時から側付きだった双壁の目を盗み、下町に通っていらしたライ様のそのお人柄を、エスティを含めた住人から良く話を聞いていたからだ。

 特に身体の不自由な老人や孤児院の子供達からは、時折姿を見せる黒髪の優しい若い男性として知られており、皆どこの誰なのだろうと不思議に思っていた。


 それがまさか、(のち)に王宮近衛指揮官となる、隠された王子殿下だとは知らずに。


 ――あの時の若者が、戦地ミレトスラハではゲラルド兵だけでなく味方にまで恐れられているという『黒髪の鬼神』だと知った時は驚いたけど、冷酷な印象を受ける片方だけ出された目や、時に乱暴で酷く冷たい言葉とその態度とは違って、本当のライ様は戦果よりも第一に部下の命を重んじる、下町の住人にもとても優しい御方だった。

 俺は念願叶って側付きとなり、あの方の予想もしなかった真実とこれまでの境遇を知ることになって…自分だけはなにがあっても、あの方の望む通りにお味方しようと心に決めた。…だけど…


 このところ本当にそれでいいのかと、時々揺らいでいる自分がいる。


 お母御のベルティナ様は、国王陛下と共にライ様を連れてご実家のミレトスラハ王国へ里帰り中、ゲラルド王国の急襲を受けてお亡くなりになり、ライ様御自身は偶々王宮を訪れていた冒険者によって連れ出され、難を逃れたのだとウェルゼン副指揮官からは聞いた。

 その後激戦地となったミレトスラハから安全なラ・カーナ王国へ移り孤児院で暮らしていたそうだけれど、今度はそのラ・カーナ王国が滅んでしまい、隣国ファーディアへ難民として逃れることになったんだ。


 その話を聞いただけでも、普通の王族とはかけ離れた生活をされていたことが窺える。孤児として育ち、生きて行くためにまだ少年の内から、魔物を狩るという命懸けの仕事をして暮らしていたのに、実は行方不明になっていたこの国の王子だと知らされて、エヴァンニュ王国へ来られることになった。

 もし自分がライ様のお立場だったなら、やはりはいそうですか、とは言えなかっただろう。


 ――民間の中で生きて来られたのなら、今になって身分がどうのと言われても馴染めないのは無理もない。

 実際、自分がそうだった。父は貴族の生まれだけど、母と結婚するために身分を捨て平民となり、母方の両親が考古学者だったことでルクサールに住んでいた。

 同じく学者だった隣家のエスティの両親とは親しく、俺は幼馴染のエスティを子供の頃からお嫁さんにするんだと決めていた。

 それなのに俺の両親とエスティの両親は、緊急時従軍徴兵制度により戦争へ駆り出されて死んでしまい、俺は突然父方の実家に引き取られて貴族となり、エスティは戦争孤児となって国が運営する児童養護施設に入れられてしまったんだ。

 両親の死でいきなり貴族となった俺は、一人残された甥だからと引き取ってくれた叔父に、孤児となったエスティとはもう身分が釣り合わないから別れろと叱責されても、到底納得できるはずはなかった。


 その当時の俺とライ様の置かれた状況は、良く似ているような気がする。


 ≪俺は貴族とは言え所詮中級だけど、ライ様はこの国の王子だ。俺と似ているからと言って全面的に味方をするのは、もしかしたらこの国への反逆行為に当たってしまうのではないだろうか…?

 あの悪逆非道で問題を起こしてばかりの、外国にまで暴君と名高いシャール王子が国王となれば、ウェルゼン副指揮官達の仰るとおり、エヴァンニュ王国の未来は碌なことにならないだろう。

 それは俺とエスティの結婚後と、いつか生まれてくる子供達の未来にも大きく関わってくる。

 でももしライ様がこの国の王となられたなら…リーマさんと結ばれるのは無理だとしても、ペルラ王女殿下と結婚されて幸せになれるのなら、国の未来は明るいと思うのは間違いじゃないかもしれないんだ。≫


 俺は時折そんなことを真剣に考えて悩み始め、ライ様を応援するのは本当に正しいことなのかと、迷うようになっていた。


 そんなある日、俺は近衛の仕事を終えた後、いつも通り下町のエスティの家へ行き、深夜になって城へ帰ろうとして人気(ひとけ)のない裏道を歩いていた。


「あれ…?今のって…」


 ふと通り過ぎた十字路で、少し先の道に見覚えのある人物を見かけ足を止める。


 こんな時間にあの人がこんなところにいるはずはないよな。そう思いながらも、もう結構前の話になる、パスカム補佐官から頼まれたことが急に頭を過った。



「え…俺がウェルゼン副指揮官を、ですか?」


 それはウェルゼン副指揮官の妹さんが亡くなり、葬儀が終わってすぐのことだった。

 プロバビリテから戻られたウェルゼン副指揮官がなぜか廃嫡となり、パスカム補佐官は俺に心配してか、ウェルゼン副指揮官の様子をよく見ていて欲しいと仰ったんだ。


「監視をしろと言う意味ではないのだが、普段の仕事とはあまり関係のない場所へ行くと告げたり、もし外で夜遅くに姿を見かけたりした時は、それとなくどこへ行き、誰と会っているのかを確かめて欲しいのだ。」

「ええと…それは尾行しろという意味ですよね。そうなるともう、監視と同じことだと思うんですが…なにかあったのですか?」


 パスカム補佐官はちらりと俺を見た後、すぐに目を逸らして溜息を吐いていた。最初は妹さんを亡くしたばかりのウェルゼン副指揮官を心配しているんだと思ったけれど、続く言葉を聞いてそうではなさそうだということに、俺は気付いた。


「――俺にもまだ良くわからん。イーヴに限ってと思いたいが…いや、なんでもない、今のは忘れてくれ。俺に頼まれたからと言って気負う必要もないぞ。もしそんなことが()()()()でいいのだ。」

「…はあ、わかりました。」



 ――あの時は妙なことを仰るなと思ったけど…


「ウェルゼン副指揮官、だよな…どうしてこんなところに?」


 俺が歩いていたのは、下町から中級住宅街を抜けて王城へ向かう裏道で、街灯が少なく、過去に人が襲われたこともある暗い道だった。

 俺は近衛隊に配属される前には憲兵隊にいたこともあり、防犯のためにわざとこの道を通って王城まで帰っているけど、この裏道は下町にある娼館街へも続いていることから、ウェルゼン副指揮官のような貴族子息がここを通るようなことは滅多になかった。


「………」


 ――パスカム補佐官に頼まれたからと言って気負う必要はない、そう言われたんだから、気にせず帰れば良かったのかも知れない。

 だけど俺は普段見ることのないウェルゼン副指揮官の私服姿に、なんだかとても気になって後を付ける選択をしてしまったんだ。


 士官学校でも主席に並ぶほど優秀な成績を収めたウェルゼン副指揮官が、俺の下手な尾行に気づかないわけはないだろうな。

 でももし気づかれたら笑って誤魔化して、こんな時間にどこへ行くんですかと正直に尋ねればいいんだ。

 そんな風に思いつつ、かなり離れた位置を歩いて、見失わないように後をついて行った。すると――


 今は使われていない旧士官学校の裏庭で、ウェルゼン副指揮官は複数人の男と所謂密会とも受け取れるような待ち合わせをしていた。


 俺は廃墟となっている校舎の壁際で様子を窺いながら、相手の男達の顔をよく見ようとして静かに近付いた。

 だけど会話が聞こえる位置まで距離を詰めてしまうと、さすがに誰かに気づかれる可能性が高く、辛うじてその姿をはっきり見通せる場所で息を殺し、そこにいる彼らの顔を確かめることにしたんだ。


 ウェルゼン副指揮官と男達は、携帯用の明るい灯りを所持している。その光に照らされた相手の顔を見て俺は目を疑い、そして声を失うほど驚いた。


 ≪え…あの男、イサベナ王妃直属の親衛隊『レフタル』の隊長…クロムバーズ・キャンデルじゃないか…?≫


 残る四、五人の内二人の顔を見られたけど、そのどちらも同じくレフタル所属の親衛隊士に違いなかった。

 遠目でなにをしているのかはあまり良く見えなかったけど、ウェルゼン副指揮官はなにか書簡のようなものを受け取っている。

 もしかして個人的な知り合いかとも思ったけど、知人か友人相手にしては談笑している様子はなく、終始互いに真面目な顔をして話をしているようだった。


 ――どうしてウェルゼン副指揮官が、こんな時間にレフタルの隊長と…?


 レフタルはイサベナ王妃の忠実な親衛隊だと聞いていた。影では色々と王妃陛下のために動いているという噂もある。

 俺は見てはいけないものを見てしまったようで、途轍もなく嫌な気分になってしまい、彼らに気づかれる前にそっとその場から離れて、その夜は紅翼の宮殿にある自室へ真っ直ぐ帰ったのだった。


 それから数日後、また俺は深夜の街中で、私服姿のウェルゼン副指揮官を見かけた。

 今度はもう後を付けるのはやめよう。鬼神の双壁と呼ばれた、ライ様の右腕の一人でもあるウェルゼン副指揮官に限って、俺が不審に思うようななにかがあるはずはない。


 パスカム補佐官が小さく口にしたように、俺もそう思って疑念を振り払おうとした。

 だけどもし万が一、ウェルゼン副指揮官がライ様を裏切るようなことをしていたらどうするんだ?

 レフタルの隊士達と会っていたことを知っていながら、そんなはずはないと否定してなにかを見過ごしてしまったなら、後に想像もつかない恐ろしいことになるのではないだろうか?

 俺はライ様に仕える側付きとして、その懸念をどうしても無視することはできなかった。


 ――結局その夜もウェルゼン副指揮官の後を付け、やはり人気のない場所でクロムバーズ・キャンデルと会っているのを再度確かめることになった。

 その何日か後にも確認し、俺は到頭黙っているわけには行かなくなり、パスカム補佐官に俺が見たことを告げることにしたんだ。


 パスカム補佐官は酷く落胆して肩を落とし、俺が見たことをライ様や周囲にはまだ言わないで欲しいと俺に仰った。


「パスカム補佐官…どうされるおつもりですか?」

「――俺の私兵と伝手を使ってイーヴがなにをしているのか、本当にレフタルやイサベナ王妃と通じているのならその証拠を掴む。その上でそれを突き付け、俺がイーヴを追及するつもりだ。」

「…パスカム補佐官とウェルゼン副指揮官は、子供の頃からの親友同士だと伺っています。もしウェルゼン副指揮官がライ様を裏切っていたとして、パスカム補佐官はウェルゼン副指揮官を断罪できるんですか?」


 俺がそう尋ねると、パスカム補佐官は気分を害したようだった。


「それは俺が、ライ様よりもイーヴを取ると思っての問いかけか?俺がライ様を裏切り、イーヴの側に付く可能性を疑う…」

「違います。パスカム補佐官がライ様を裏切るとは思いません。そうではなく、親友を失う覚悟がおありなのかと伺っているんです。これまで共に長い間同じ道を歩んできた友人を、主君を守る為に裏切り者として扱うんです。…辛くないはずはありません。」


 パスカム補佐官は俺にこれまで見たこともない傷ついた顔を見せて、俺の前で天を仰ぐとその顔を両手で覆った。


「ヨシュア…すまん、今のは俺の邪念だった。自分からイーヴを見ているようにと頼んでおいて、俺は勝手なことを…だが俺は、まだイーヴを信じたいのだ。たとえその胸に、血のように赤い光が見えていたとしても…」

「…?胸に…血のように赤い光、ですか…?」


 パスカム補佐官は何を言っているんだろうと思った。だけど俺はこの後初めて、パスカム補佐官がお持ちの特殊な力について打ち明けられたんだ。


「『(スコトス)の眼』、ですか…ライ様への感情が目に見えるんですね、そんな能力が存在していること自体、初めて聞きました。」

「俺のこの力は、ライ様と永遠に切れることのない主従契約を結んだ証なんだ。俺は魔物からライ様を庇って死にかけただろう?…あの時ライ様は御自身の生命力を俺に分け与えてくださり、闇の大精霊の力を借りて死の縁から命を救ってくださったんだ。」


 パスカム補佐官はライ様への感情が目に見えるだけでなく、ライ様を守る為に身に受ける傷では決して死なないことと、どんな怪我も瞬時にすぐさま治るのだと俺に教えてくれた。

 その話は理解し難く、俺はすぐに信じるとは言えなかったけど、実際にパスカム補佐官があのどう見ても助からないと思えた酷い怪我から、異様に早く復帰したことは不思議に思ってもいたので疑う余地はなかったんだ。


「俺はライ様の許可なく死ぬことはできず、俺の忠誠は死してなお永遠にライ様へ捧げた。貴殿が信じてくれるかどうかはわからんが、イーヴを大切な親友だと思っていても、俺がイーヴのためにライ様を裏切ることは決してないと言い切れる。」

「…大丈夫ですよ、俺はパスカム補佐官を信じます。…俺の補佐官に対する感情も、その『闇の眼』というのに見えたら良かったですね。」


 場を和ませようとしてそう言うと、パスカム補佐官はそうだな、と言ってどこか力無く笑った。


 それが、ライ様が近衛の仕事に復帰される少し前の話だった。


 ――あれから、俺がエスティのところへ行った帰り道にも、私服姿のウェルゼン副指揮官を見かけることはなくなった。

 と言うよりも、今は国王陛下が突然お倒れになったことで、それどころではなくなってしまったからだろう。

 俺のウェルゼン副指揮官に対する疑念は晴れたわけじゃないけど、パスカム補佐官からその後どうなったのかの話も聞いておらず、今のところなにもわからない状態だ。


 ライ様にそれとなく、ウェルゼン副指揮官のことを話しておくべきだろうか。


 パスカム補佐官にはまだ言わないで欲しいと頼まれたけど、ライ様がなにも知らないまま危害を被ることがあれば、俺はきっと悔やむことになる。


 せめてウェルゼン副指揮官とレフタルには気をつけてくださるよう、その一言だけでも…


 そして俺の不安は数日後、思いもよらない形で現実のものとなった。




               ♦ ♦ ♦


 ――リーマにもう会えないと言われ、私のことは忘れてと突然別れを告げられてから、三日が経った。


 あれから俺はこの三日と言うもの、毎日昼になるとリーマのアパルトメントを訪ねていた。

 だがリーマは扉を開けてくれない。どんなに俺が顔を見て話がしたいと頼んでも頑なに拒まれ、もう会えないと同じ言葉を繰り返されるだけだ。


 最初はなにか理由があってそう言っているだけで、少し経てば考え直し、せめて会ってはくれるだろうと自分を慰めていた。

 だがそれも日が経つにつれて惨めになり、ここまで拒絶されているのにしつこくするのは、あのリーマの気持ちを考えず、公園で襲いかかったバスティスと大して変わらないのではと思い始めた。


 俺は、リーマを愛していた。


 彼女の心の底から俺を思う気持ちを信じ、彼女さえいればどんなところでも、どんなことをしても幸せに生きて行けると思っていた。


 ――その彼女が、いなくなった。


 エヴァンニュというこの国の、王都の下町から姿を消したわけではない。なにがあっても彼女だけは俺を愛してくれると思っていた、俺の愛したリーマがいなくなったのだ。


 そうして五日が過ぎ、俺はリーマと会って話をすることを諦めた。


 この夜俺は、ここ数日の間は殆ど集中できなかった近衛の仕事を終え、明日の準備をしてから帰ると言ったヨシュアを執務室へ一人残し、俺の心とは裏腹に星の輝き始めた綺麗な夜空を見上げながら、アフローネへと向かった。


 自宅にいるのにリーマに会って貰えないと相談していた、女主人…ミセス・マムに挨拶をして預けた標板を返して貰い、まだどこかでリーマを信じる気持ちを棄て切れないまま、それでももう別れるしかないのだと、自分を諦めさせるために行くのだ。


 ――大丈夫だ、俺は平気だ。リーマと出会う前も、俺はずっと一人だった。マイオス爺さんが死んで、俺の家族は全員いなくなったからだ。

 それから俺は、自分には誰も残っていないことを思い知った。そんな俺にリーマが現れたのは、束の間に見た幸福な夢のようなものだったのだろう。


 信じていた思いを裏切られた怒りはない。まだ実感がないせいか、悲しいという気持ちも湧いて来ない。

 ただいつも胸の中にあった温かいものが消え失せ、そこにぽっかりと大きな穴が空いたような気がするだけだ。



「そうかい…どうしてもリーマは部屋から出て来ないんだね。なにがあったのやら…」

「俺も理由を知りたかったが、会って貰えないのではどうすることもできない。だから…もういい、彼女のことは諦める。…もしかしたら他に好きな男ができたのかも知れないしな。例えば…目の覚めるような青髪の男とか。」

「…ああ、それってリヴグストさんのことかい?」

「リヴグスト?」

「紺碧髪の背の高い男性のことだろう?リヴグスト・オルディスさんって言って、Sランク級守護者なんだよ。王都が魔物に襲われたあの日、下町のみんなが危なかった所に一人で駆け付けてくれて助けてくれたのさ。」


 ミセス・マムから思いがけず、聞き覚えのある名前を聞いて絶句した。


「確かにリヴグストさんは小まめにリーマへ会いに来ていたけど…ここ最近は見てないんだけどねえ。」


 リヴグスト・オルディス…その名前は、海神(わたつみ)の宮で出会ったあの海竜リヴグストと同じ名前だ。そう言えばあの見事な青い髪は、リヴと同じ…


「ふ…あははははっ」


 俺はリーマの肩を抱いていた男の顔をよくよく思い出し、それが耳も尖っておらず、鱗もない、龍眼でもなかった、あの海竜リヴグストだったことに気づくと、込み上げる笑いを我慢できずにその場で声を上げて笑い出した。


「ちょ…ど、どうしたんだい、急に笑い出して…!」

「はは…ああ、いや、すまない…そうか、そうだったんだな。」


 ――もしもリーマが俺から他の男に心変わりをするとするなら、相手は余程いい男なのだろうと思っていた。

 それがあの海竜リヴグストだと知り思わず納得してしまい、そんな自分がおかしくなって自嘲したくなってしまったのだ。


 あのリヴが俺の恋人だと知って、リーマに近付いたとは思えない。もしそうなら憎んでも憎みきれないが、あのお人好しの海神(わたつみ)がそんなことをする理由などどこにもないだろう。


 リヴとリーマの間にどんな縁があったのかはわからないが、俺の知らない所でいつの間にか出会い、リーマはリヴを好きになったのかも知れなかった。


「――色々と世話になった、ミセス・マム。渡しておいた標板を返して貰えるか?もうあれに用はないから、俺の方で始末しておく。…勝手を言ってすまないが、俺もいつまで城にいるかわからない。一応引き取らせて貰いたいんだ。」

「え…お待ちよ、あんたどこかへ行くのかい?まさかまたミレトスラハへ…!?」

「いや、それはない。」


 俺は首を振り、ホッとしたような顔をしたミセス・マムから、俺のいた孤児院の紋章を刻んだ標板を返して貰ったのだった。


「暫くここには来ないだろうから、店で少し飲ませて貰う。」

「そうかい、ゆっくりしてお行きよ。落ち着いたらまた来ておくれね。」

「…ああ、そうだな。」


 ――恐らくもう来ないだろう。さすがの俺も、振られた女が働く店に通うほど情けのない男にはなりたくない。…内心ではそう思っていたが、俺はそう返事をして店側に場所を移した。


 薄暗いアフローネの客席では、いつも通り舞台上で踊り子達が舞い踊り、それを見る観客達が歓声を上げながら食事をしたり酒を飲んで楽しんでいた。


 そう言えば魔物が出現したあの日、ここで働いていたポリーという名の女性が亡くなっていたのを通りで見たな…店の片隅に設けられた献花台とテーブルは、あの女性の死を悼む台座か。


 俺は遠くに見えたその写画が立てられた献花台を一瞥すると、店の端にある一人用の静かなテーブル席へ座り、軽い食事と強めの酒を注文した。

 程なくして運ばれてきたそれを口にし、グラスの酒を一気に飲み干す。店内の客の殆どは、鳴り響く音楽と歓声の上がる舞台に集中していたが、そんな中ふと見ると少し離れた席でこちらを見ている複数人の客がいた。


 俺は自分の素性がばれたかと思い、食事を取り終えると早々に感傷に浸る間もなく席を立った。


 ――目的は果たした、もう帰ろう。


 そう思い、苦笑する。帰る…城へ?紅翼の宮殿にある俺の自室はあの男に与えられたものであり、本当の意味で言う俺の家ではない。

 しかも俺はそこから逃げ出すことばかり考えて来たのだ。いつかはこの国から出て自由になりたいと…


 気分が落ち込んでいるせいか暗い考えばかりが浮かんで来て、俺はそれを払うように頭を二度振ると、注文票を手に会計を済ませるため一歩足を踏み出した。


 ――が、次の瞬間、猛烈な眩暈に襲われる。


 なんだ、もう酒が回ったのか?…いくら何でも早過ぎるだろう、まだ三十分も経っていないぞ。…空腹で度数の高い蒸留酒を飲んだせいか…まずいな、こんなところで引っくり返るわけには行かない。


 俺はふらつきながら必死に歩き、見慣れた顔の従業員に料金の精算を頼んだ。彼は俺とリーマのことを知る一人で、ジョインという名前の男性だ。


「だ、大丈夫ですか?ラムサス近衛指揮官…度数は高いですけど、お飲みになった酒はグラス一杯でしたよね、もしかして体調が悪かったとか…」

「ああ、いや…なんとか歩いて帰る。」


 俺を心配するジョインに代金を支払い、どうにか扉を開けて外に出ると、その足で通い慣れた道を城へ向かって歩き出した。

 だがまるで左右に激しく揺れる、水上の小舟の上を歩いているかのように、俺の視界はゆらゆら揺れ動き、あまり酒を飲まない俺でも、さすがになにかがおかしいとここで気が付いた。


 ――まさかとは思うが…アフローネで薬を盛られた?あの口にした料理か酒になにか入っていたのか…?酒に酔ったにしては身体がおかしい…


 徐々に力が抜け、辛うじて歩くことはできるが、城まで辿り着けるかどうかはかなり難しかった。

 助けを呼ぼうにもイーヴにもトゥレンにも頼ることはできない。ヨシュアはまだ仕事をしていたし、他に誰の姿も思い浮かばなかった。

 リーマに会うことを拒否されていなければ、ここから最も近い彼女の家までなら行けたかも知れない。

 だがリーマは扉を開けてはくれないだろう。俺は彼女に、もう自分のことを忘れてくれと言われたのだ。

 その言葉を思い出すと、急に胸が締め付けられるようにして強く痛んだ。


 ――どうしてこんなことになった?なぜ突然もう会えないなんて言うんだ、リーマ。理由も告げず、顔を見て話すことも出来ないほど、俺を嫌いになったのか。それならなぜ、おまえはあんなに声を押し殺してまで泣くんだ。

 みっともなく縋ってでも、会いたいと叫べば良かったのか?俺はこんなにおまえを愛したのに、おまえを失ったら生きては行けないとまで思わせておいて、おまえは俺を棄てるのか。


 俺はこれからどうすればいいんだ。この国を捨てて自由になったとしても、おまえがいないのならなんの意味もない。


 こんなことならいっそのこと、イサベナ王妃の言うように死神の血(タナトスブラッド)で死んでいた方が余程マシだった…!!


 抑えていた思いが溢れ出し、その場に突っ伏して泣いてしまおうかと思った。だがその時、息を切らせて駆けてきた様子の、荒い息遣いと足音に気づき、俺は後ろを振り返った。


「ライ・ラムサスさん…!!」


 ――リーマかと思ったのに、街灯の下で鮮やかに浮かぶワイン色の髪と、聞き覚えのある不快な声に突き落とされる。


 カレン・ビクスウェルトだ。踊り子の衣装に薄いロングカーディガンを羽織った姿で、額から汗を滴らせ、俺を追いかけてきたらしかった。


「大丈夫なの!?ジョインから具合が悪そうだって聞いて、急いで後を追って来たの。病院へ行く?それともお城に報せて誰か人を――」


 これが全く知らない他人なら、まだ違う態度を取れただろう。だがリーマに別れを告げられたことで不安定になっていた俺の感情が高ぶり、俺に触れようとして伸ばされた手を俺は思いっきり撥ね除けた。


「俺に触るな!!」

「きゃっ!」


 俺に強く振り払われたことで、カレン・ビクスウェルトは固い石の地面に転倒する。そのせいですりむいた膝からは少し血が滲んでもいた。

 それでも女は俺の態度に怒るでも怯えるでもなく、汚れを払ってすぐに体勢を立て直した。


「顔色が悪いわ、具合が悪くて気が立っているのね。安心して、もう無理に迫ったりしないわ。私はあなたが好きだから、これ以上嫌われたくないの。」

「…その言葉を信じろとでも言うのか。」

「いいえ、それも言わないわ。…でもお願い、具合が悪いんでしょ?手助けだけはさせて欲しいの。あなたの言う通りに手伝うわ、だからなんでも言って。」

「………」


 ――これはこの女の常套手段で、実は裏でなにかを企んでいるのかも知れない。リーマにあれほどのことをしておいて、俺にこれ以上嫌われたくないなどと、到底すぐには信じられなかった。


 この女は私欲のためにならなんでもする女だ。そのせいで誰かを傷つけたとしても、恐らく微塵も反省などしやしない。

 こうしてしおらしい態度を見せても、俺がそれに絆されようものなら、即座に隙ありと言わんばかりに付け込んでくるだろう。

 …だがそれでも、俺が今本当に困っているのも事実だ。少なくともこの酷い脱力感と眩暈が治まらない限り、まともに歩くことさえ出来そうにない。


 俺は悩んだ。たとえ立ち上がることができなかったとしても、吐き気がするほど嫌悪するこの女の手を借りるのは、どうにも嫌で仕方がなかったからだ。


「わかった、その言葉が真実なら頼みがある。」


 カレン・ビクスウェルトは、真紅の薔薇が咲き誇るかのように、ぱあっとその表情を輝かせた。


「アフローネに戻りミセス・マムに事情を話して、ジョインをここへ連れてきてくれ。彼は出がけに俺を心配してくれていた。ジョインの手なら安心して借りられる。」


 …が、俺の言葉を聞くとガッカリしたように肩を落とした。


「どうしても私の手を借りるのは嫌なのね…いいわ、ジョインを呼んで来る。そこに木箱が見えるでしょ?そこまで歩ける?座って待っていた方がいいわ。」

「……ああ。」


 女の指差した路地裏には、確かに腰を下ろすのに丁度良さそうな木箱が置かれてあった。そこまでは壁伝いに手を付いて歩けば、辿り着ける僅かな距離だ。

 俺はブルブル震えながらなんとか身体を支え、ゆっくり壁伝いに歩き出した。だがカレン・ビクスウェルトに言われた路地裏に入った途端、建物の影からいきなり複数の男達が飛び出して来る。


「!?」


 薄汚れた黒っぽい衣服に、各々顔を盗賊が身に着けるような布で、鼻と口元を覆い隠した三人の男だ。


「な…だ、誰よ、あんたたち!!」


 その時なにを考えたのか、女は俺の前にサッと進み出る。あり得ない行動だ。普通はこんな状況だと、悲鳴を上げて早々に逃げ出すか、騒いで助けを呼ぶものだろう。


「黒髪の鬼神、ライ・ラムサスだな。――依頼主の命により、ここで死んで貰おう。」

「…っ!!!」


 その男はよく手入れのされた剣を引き抜き、女を無視してそう告げる。


 一見、破落戸(ならずもの)のように見える風体だが、明らかに眼光の鋭さが異なっていた。この手の輩は間違いない、俺が何度も襲われたことのある暗殺者の類いだ。


 ――こんな状態の時に…っ!!


「なに言っているのよ、そんなことさせないわ!!」

「馬鹿っ…なにをしている、さっさと逃げろ!!俺は今、動けないんだぞ!!」

「嫌っ!!私だって、好きな人を守りたいんだもの!!」


 この女は生命の危機に一体なにを言っているんだと呆れた。


 伸ばされた手を嫌悪から振り払うような男のために、俺を殺そうとしている剣を抜いた男達の前でそう叫び、堂々と両手を広げて立ち塞がっていたからだ。


 ――その、カレン・ビクスウェルトに、暗殺者と思われる男の一人は、大きく剣を振り上げる。


「よせっ!!この女は俺とはなんの関係もない――ッ!!!」


 俺の前に俺を庇って全身を開け広げていた女の、その時の表情は俺に見えなかった。

 だが小さく「あ…?」という、疑問符の付いた声が漏れ聞こえ、カレン・ビクスウェルトは暗殺者に容赦なく袈裟斬りにされてしまう。


 ザンッ、という柔らかい肉を鋭い刃物で叩き切った音が、俺の耳に届いた。そうして目の前で飛び散った女の生温かい血液が、俺の顔から全身にバシャッと、まるで湯を浴びるようにして降りかかったのだ。


 そうして俺を庇ったカレン・ビクスウェルトは、俺の前でドサンッと仰向けに倒れ込んだ。――瞬間、どこからか、そこでなにをしてるんだ!?という、男の声が聞こえて来る。


 暗殺者の男達は、動けないでいる俺を殺す千載一遇の機会にも拘わらず、女の前にへたり込んだ俺を上から見下ろして目だけで()んだ。


「――奈落へ落ちろ、黒髪の鬼神。」


 まるで呪いでもかけられたかのように、瞬間、俺の意識は急速に遠のいて行く。


「どう、して…」


 俺を殺さない…?


 ――薄れ行く視界の中で、男は俺の手になにかを握らせると、人が来る前に足早にそこから素早く立ち去って行ったのだった。






次回、仕上がり次第アップします。

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