189 悪夢の始まり
すっかり体調が戻り、王宮近衛指揮官の仕事へ復帰したライは、色々と忙しく過ごし以前の生活にも戻りつつありました。ですがリーマが見知らぬ男に肩を抱かれていた光景を思い出し、嫉妬にかられて疑う気持ちが芽生え、それを否定しながらも中々会いに行けずにいました。今日こそは会いに行こう。そう思う矢先、その出来事は起きて…?
【 第百八十九話 悪夢の始まり 】
――自室で毒を飲み、死にかけたあの日からどのぐらいぶりだろう。伸び始めていた黒髪はすっかりボサボサになり、一時期隠さずに出していた右瞳もまた、長くなった前髪で隠せるようになった。
たださすがにそのままの形で公務に出るわけには行かず、王宮付きの理髪師にきちんと整えてもらったが、今後は再び右瞳を隠したままになるだろう。
以前の様に被さる前髪を少し鬱陶しく思いながら、久しぶりに腕を通した王宮近衛指揮官の制服はなんだか息苦しく、酷く窮屈に感じられた。
王都が何者かによって(ケルベロスとかいうカルト宗教団体の信者によるらしいが)召喚された魔物に襲われた日、銀の斑髪を持つ屈強な男に偶々目を見えるようにして貰い、そこから俺は萎えた身体を元に戻す訓練を続け、すっかり元通り…いや、そのくらいに体調を取り戻すことができたのだった。
そうして近衛の仕事に復帰した俺だが、ここ最近は剣を習いに来るジャンを連れて、対魔物戦闘の訓練所で毎日勘を取り戻す訓練をしている。
ジャンは一端にも近衛隊士に混じって、低ランク魔物なら倒せるぐらいにまでなって来た。
あの分ならそろそろ王都の外へ出て、実地訓練に入ってもいいかもしれない。もちろんまだ一人で行かせるわけにはいかないが、俺に時間が取れればその時は一緒に出かけよう。
俺は少しずつ逞しくなって行くジャンと、そんな約束を交わしていた。
結局ジャンとティトレイに、ペルラ王女との婚約と俺の素性を話せてはいない。いつかは言わなければと思うが、ジャンの笑顔を見ていると中々言い出せないままだ。
俺が復帰して数日が経った頃、待ってましたと言わんばかりに婚約式の日取りが決定したと書面による連絡が来た。
王城に招かれる貴族家への招待状も既に出されたらしいが、ペルラ王女の隣は無記名で俺の名は記されていないそうだ。
あの男は当日まで隠すことで、嘸かし盛大に国民を驚かせたいのだろう。それか本当に大人しく俺が婚約するのかを疑っているのかもしれない。
そんなわけで俺は、式の準備や溜まっていた事務処理などで徐々に忙しくなり、少しずつ以前の生活にも戻り始めていたが…そんな中、リーマにはまだ会いに行けないままだった。
トゥレンにリーマの名を知られたから、と言うわけではない。俺の中に、リーマを疑う気持ちが生まれて以降、醜い嫉妬心を胸に秘めたまま彼女に会うのが躊躇われたせいだ。
リーマが俺を裏切り、他の男と浮気などするはずがない。そう信じていても、なぜだかあの日見た光景がふとした時に頭を過り、彼女に会えばあいつは誰だと問い詰めずにはいられそうになかった。
自分は都合で隣国の王女との婚約を承諾したくせに、たった一度見知らぬ男に肩を抱かれているのを見たくらいでなにを言うと思われるだろう。
俺もそうは思うがどんなに自分勝手でも、彼女を誰にも奪われたくないのだ。
それでもそろそろ俺が仕事に復帰したことは、城下にも知れ渡る頃だ。リーマはいつまでも待っていると言ってくれたのに、俺がこんなことで悩んで彼女のところへ行かなければきっと心配をかけてしまうだろう。
近衛の詰め所にある執務室の机で纏めた書類を束ねながら、今日こそ会いに行こう、そう決めた矢先のことだった。
「――そうか、エスティ嬢との結婚をようやく許して貰えたのか…良かったな、ヨシュア。」
その時俺は、同じく執務室で俺の仕事を手伝ってくれていたヨシュアから、以前叔父に認めて貰えなかったと言っていた、婚約者との結婚をやっと許して貰えたという話を聞いていた。
ヨシュアの叔父は王都在住の中位貴族で、戦争孤児となったエスティ嬢との結婚を身分違いだと反対していたそうなのだが、もしヨシュアが近衛隊に入り、指揮官付きの上官になれたなら許すと宣言していたのだ。
当時その叔父は、恐らく絶対に無理だと思っていたのだろう。だがそう言われたヨシュアは必死に努力をして自力で近衛隊に入り、そしてその真っ直ぐな気質が俺の目に止まり、今では俺の側付き兼第二補佐官となった。
まさか俺とヨシュアが親しくなるなどとは予想もつかなかっただろうが、こうなるとさすがの叔父も一度口にしたことを覆せず、根負けして許してくれたらしい。
「まだ少し気は早いが…おめでとう。」
照れ臭そうに笑うヨシュアを見て、俺は自分のことのように喜んだ。ヨシュアは本当の俺を見て傍にいてくれる、数少ない味方だ。
婚約者のエスティ嬢は中々にはっきりものを言うしっかりした女性だが、お人好しの面を持つヨシュアにはぴったりの相手で、二人とも幸せになって欲しいと心から思った。
「ありがとうございます。式場なんかはまだこれからなんですが、できればその…ライ様にもご出席いただけないかと。豪華な式にはならないでしょうが、細やかでも身内や親しい友人を招いて結婚の報告をできたらと思っているんです。」
「俺を招いてくれるのか?もちろん喜んで祝わせて貰おう。」
「ありがとうございます!」
嬉しそうにパッと表情を明るくして礼を言うヨシュアに微笑み、俺もリーマと結婚する時の参考にさせて貰おうか、そんなことを考えて胸の辺りを温かいものに包まれた直後だった。
詰め所の通路をバタバタと慌ただしく走ってくる足音が聞こえ、ヨシュアと二人ハッとして扉へ目をやる。
普段静かな表をこんな風に誰かが走ってくる時は、大体が碌な知らせを運んで来ないからだ。
「ライ様!!」
ノックもせずにいきなりバンッと扉を開け、そのでかい図体が顔を出した。
――トゥレンだ。ハアハア肩で息をし、酷く慌てた様子で顔色を真っ青に変えている。たった今、今日こそリーマに会いに行こうと思ったばかりなのに、いったいなにが起きたのやら、だ。
「そんなに慌ててどうした。」
俺が仕事に復帰して以降、表向きは以前と変わらない関係を保っているように見せているが、俺とイーヴ、トゥレン二人の関係は大きく変わった。
イーヴはペルラ王女の護衛に付き、トゥレンは専ら外回りが増え、イーヴが熟していた俺の補佐を今ではヨシュアが担当している。
俺は『双壁』と呼ばれた二人を伴って外出することはなくなり、俺の隣にはいつもヨシュアがいるようになった。
俺の身体の具合がすっかり良くなったこともあり、今では三日に一度どちらかと顔を合わせれば良い方だ。
「ヨシュア、厳命による箝口令の敷かれた内容をライ様にお伝えする。俺とライ様がここを出るまで、誰一人執務室に近付けるな…!」
「え…は、はい!」
「?」
室内に入り険しい顔をして開口一番にそう言ったトゥレンに、ヨシュアは急ぎ外へ出て行く。
――箝口令?
「なんだ…なにが起きた?」
ただ事ではないな、と思う俺の正面に立ったトゥレンは、すう、と大きく息を吸って吐いてから、自分を落ち着かせて口を開いた。
「ペルラ王女と外出中のイーヴには、既に別の者が連絡をしに参りました。ライ様、落ち着いてお聞き下さい。」
――落ち着くのはおまえの方だろう。そう思いながら耳を傾ける。なにを言われるのか、全く予想が付かなかったからだ。
「陛下が…国王陛下が、お倒れになりました。」
「…!?」
なん…なんだって?あの男が、倒れた…!?
驚く俺に努めて冷静を装い、トゥレンは続ける。
「現在主治医が懸命な治療を行っておりますが、既に昏睡状態に陥られていると…」
「昏睡?…だが医師が付いているのなら、特に心配することもないのだろう?」
あの男はまだ死ぬような年令ではないはずだ。確か五十を少し過ぎた辺りだったと聞いたような覚えがある。
今朝までなんの問題もなく通常通りに公務を行っていたのだから、恐らく大したことにはならずすぐに持ち直すだろう。俺は初めそんな風に考えていた。
「違います、ライ様…陛下は心臓発作を起こされて容態が芳しくなく、御危篤なのです!!」
「…?」
危篤…?
「俺の言葉をきちんとご理解なさっておられますか!?あなた様の御父君が危篤なのです、お命が危ないのですよ!!」
ガチャッ
――唐突に扉が開き、イーヴが部屋に入ってくる。トゥレンのように慌てて走って来たわけではないのか、その足音に俺達は気づかずギョッとした。
「戻ったのかイーヴ…!」
「声が大きいぞトゥレン。――ライ様、国王陛下が御危篤だと言うのは事実です。陛下はまだお若いですが、心臓が原因となると助かるかどうかはわからないでしょう。ハッサー卿からすぐおいで下さるようにと連絡が来ていますが、陛下にお会いになられますか?」
「い…いや、俺は…」
イーヴの声は至って冷静で、トゥレンのような動揺は見られない。寧ろ俺の方が危篤と聞いて余程困惑していた。
――あの男が、死ぬ?こんな突然に、あっさりと?……冗談だろう?
「ペルラ王女殿下が詰め所の前でお待ちです。お会いになるかどうかは後にされ、我々も同行致しますのでとにかく奥宮へ行きましょう。」
「…イーヴ。」
「トゥレン、ここはヨシュアに任せる。大臣以下、一部の重臣が既に呼ばれているそうだ。我々もいつここに戻れるかわからない。」
「ああ、伝えてくる。」
――この時の感情を何と言い表せばいいのか、わからない。あれほど憎み、いつか殺してやりたいとまで思っていたのに、いざ死ぬのかと思うと、ざまを見ろ、という気持ちはなぜだか湧いて来なかったからだ。
戸惑う俺を置き去りに、イーヴとトゥレンはヨシュアに指示を出して留守を頼むと、俺は二人に促され言われるがまま執務室を後にした。
イーヴの言う通り廊下で俺を待っていたペルラ王女を伴って、急ぎ人目に付きにくい王宮の裏通路(普段は閉ざされている緊急用の通路のことで、極限られた人間しか使うことができない)を通り足早に奥宮へ向かう。
城の謁見殿から王族の住居がある各宮殿へは、警備上の理由から限られた経路でしか行くことができない。
それは俺達の住む紅翼の宮殿も同様だが、特に国王と王妃の自室がある奥宮は、常に複数の親衛隊士が守備につく頑強な扉で隔てられている。
その奥宮への入口に辿り着くと、そこには俺に見覚えのない屈強な親衛隊士が待っていた。
「お待ちしておりました、ライ王子殿下。」
ここでしか呼ばれることのない敬称を付けて、その男は俺に頭を下げる。
「…初めて見る顔だ、貴殿は?」
「奥宮付きの親衛隊第一班隊長、エルガー・ジルアイデンと申します。普段は国王陛下の御自室を主に警護しております。」
エルガー…ジルアイデン?…どこかで聞いた家名だな。
後になって思い出したが、ジルアイデンとは不慮の事故で亡くなるまで、俺の前任である王宮近衛指揮官を長年勤めた将軍の家名だった。
だがその時混乱していた俺は、そんなことにさえその場で気付けないほど、動揺していたのだ。
「陛下の御自室に入れるかどうかわかりませんが、殿下を御前までご案内するようハッサー卿より仰せつかっております。ペルラ王女殿下はライ王子殿下にご同行を、イーヴ・ウェルゼン、トゥレン・パスカム両名は招集された大臣達の待つ広間にて待機するように。――親衛隊、扉を開け!」
――その指揮官然とした出で立ちや、貴族らしい生まれの良さを感じさせるジルアイデン隊長に続き、開かれた扉から俺は奥宮へ足を踏み入れた。
奥宮は国王の髪色に因んだ、モスグリーンを基調とした家具や調度品が設えられており、謁見殿と異なり廊下は深緑に金色の縁取りのある、毛足の短い絨毯が敷かれている。
ここへは以前、俺がエヴァンニュ王国へ連れられてきた当時に、ロバム王と直接会うため一度だけ来たことがある。
その時は国王の自室まで入り、亡き前王妃…つまりは俺の母親であるベルティナ王妃の肖像画が、そこの壁に飾られているのを見たのだ。
今になって思えば、あの男は自らの手で命を奪った妻の肖像画を、良く毎日目にする場所へ飾っておけるものだ。
それだけでも俺は、どういう神経をしていると疑いたくなる。
「こちらです殿下、お急ぎを。」
――殿下、か…わかってはいたが、奥宮付きの親衛隊は俺のことを、王宮近衛指揮官ではなくあの男の息子だと認識しているのだな。
普段ならそう呼ぶなと反論しているところだが…
渡り廊下を通ってもう一つの扉を通り、最初の広間に出ると、そこには幾人かの重鎮達が落ち着かない様子で待機していた。
中には俺を見て訝しみ、なぜ俺が奥宮に来るのかと首を傾げる者もいる。ここにいる全員が、必ずしも俺の素性を知っていると言うわけではなさそうだ。
「ライ様、我々はここで待機しております。なにかあればすぐにお呼び下さい。」
「あ、ああ…」
「大丈夫ですわ、ライ様。私がお側におります。」
ペルラ王女は俺を気遣うように小さく笑む。
――なにが大丈夫、なのだろう。これがレインなら、俺はきっともっと狼狽えて医者になんとか手を尽くしてくれと頼み、しっかりしてくれとその手を握りながら懇願もしただろう。
だが唯々憎み父親だとは決して認めていない相手に、今際の際だからと言ってどんな顔をして会い、なにを言えと言うのか。
こんな状況になってもあの男を許せず、やはり父親だとは思えない…それなのに俺は、なぜここへ来た?
イーヴとトゥレンを広間に残し、俺とペルラ王女だけがあの男の自室へ向かう。だがそこで当たり前のことかもしれないが、廊下を行ったり来たりしている苛立った様子のイサベナ王妃に出会した。
「おまえ!!」
イサベナ王妃は俺に気づくなりカッと目を見開き、手にした扇子を突き出しながら鬼のような形相をして近付いて来た。
「なぜおまえがここにいる!!ここはおまえのような者の来る所ではない!!陛下を父と認めず、散々背いて逆らって来たくせに、今さらなにしに来やった!!」
「王妃陛下、お待ちください。ライ王子殿下をお呼びになったのはハッサー卿です。」
俺の前にジルアイデン親衛隊長が進み出て、俺を庇うように立ち開かる。
「そこをお退き、ジルアイデン!!――そうかおまえ…さては王位が目当てだな?陛下のお命が危のうと聞いて、おまえに国を継がせるという遺言を聞きに来たのであろう!!この盗人め、次代の国王はわらわの息子、シャールだ!!おまえなぞ毒を喰ろうて死んでしまえば良かったものを!!!」
――暫くぶりに対面したが、イサベナ王妃のあまりの変わりように俺はたじろいだ。
俺の後ろには王妃の本性を知らないペルラ王女もいるというのに、目は血走り、仇敵を目前にしたかの如く俺への憎悪と殺意を隠そうともしていない。
その剥き出しの感情は真っ黒い霧のように王妃を包み、俺には未だ曾て対峙したことのない、権力に固執する魔物のようにすら見えた。
この女は…俺が『死神の血』で死ななかったことが、そんなに許せないのだろうか。
「お控えください、王妃陛下。私めがライ様をお呼びしたのは王命ですぞ。」
病人のいる部屋の前だというのに、金切り声を上げて叫ぶ王妃を、部屋から出て来たハッサー卿が静かに諫める。
「それに御遺言とは、まるで陛下が既に助からぬかの様な言い草をなさる。静かに心よりのご回復を祈られないのでありますれば、直ちにお引き取りくださるようお願い申し上げます。」
「…っ!もう良いわ!!」
ハッサー卿に窘められ、顔を真っ赤にして激昂した王妃は、手に持っていた扇子を振り上げていきなり俺の顔に投げつけると、自室があるらしき方へ立ち去っていった。
「痛…」
「ラ、ライ様…」
イサベナ王妃の形相が余程恐ろしかったのか、ペルラ王女は青ざめ、カタカタ震えながら俺の衣服の裾を掴んでいる。
俺はと言えば、扇子が左頬を掠めたために顔に軽い切り傷ができていた。そこから僅かに流れた血を右手で拭うと、ジルアイデン親衛隊長がどうぞ、と差し出してくれた手布でそれを拭き取る。
「すまない、ありがとう。」
「いえ。」
――イサベナ王妃…鬼女の如く凄まじい勢いだったな。…だがおかげで頭がすっきりした。
「ハッサー卿…国王陛下のご容態にお変わりは?」
ハッサー卿は首を振る。
「依然として危険な状態にございます。」
「…そうか。」
「ライ様、陛下にお会いください。なにがしか励ましのお言葉を…」
「いや…王妃陛下の言う通り、これまでの俺の態度を思えば今さらだ。俺にもなぜここへ来たのか良くわからない。」
本当にな…冷静になれば、俺にあの男の回復など心から願えるはずもない。今さらなにしに来たと言われるのも当然だ。
「ライ様…!」
「――ペルラ王女はどうされる?」
落ち着きを取り戻した俺がそう尋ねると、ペルラ王女は酷く驚いた様子だ。彼女には俺が、あの男に対して良い感情を持っていないことだけは話してあった。
王女はそのことに思い至ったのか、少しだけ表情を曇らせたが、それでも俺を気遣うように聞いて来る。
「お会いに…ならないのですか?」
「ああ。顔を見た瞬間に、投げかけるべきでない言葉を口にしないとも限らない。こんな俺に励ましの言葉などかけられやしないだろう。…俺は仕事に戻る。」
「そんな…!…いえ、でしたら私も失礼致しますわ。テラント・ハッサー卿…もし私の治癒魔法が必要になりましたら、いつでもお呼びください。それまでは自室にて待機し、陛下のご回復を心よりお祈り致します。」
「ジルアイデン親衛隊長も案内ありがとう。だが俺はここで失礼する。」
「ライ王子殿下…」
俺はハッサー卿とジルアイデン親衛隊長に挨拶をし、ペルラ王女と共に奥宮を立ち去ることにした。
イーヴとトゥレンは俺に代わり、交代で奥宮へ残るという。厳重な箝口令が敷かれている通り、奥宮から謁見殿に戻るとそこは普段通りでなにも変わりなく、城で働く人間が各々忙しそうに行き来しているだけだった。
紅翼の宮殿に続く通路でペルラ王女と別れる際に、王女からこんな申し出をされる。
「――ライ様、よろしければ今夜の夕食をご一緒して頂けませんか?」
「俺は普段自室で取っているのだが…」
「存じておりますわ。ですからライ様の御自室で構いません。婚約式の日取りが決まりましたけれど、恐らく延期となることでしょう。それと『約束の期限』まであまり時間もありませんから、お話ししたいことがあるのです。」
俺は少し迷ったが、今の紅翼の宮殿では極力使用人を減らされており、俺とペルラ王女の仲を変に勘繰って外部に漏らすような者は誰もいない。
それに王女と二人きりになったからと言って、俺と王女の間になにか間違いが起きるはずもない。
なぜなら俺にはリーマがいて、ペルラ王女は――
「…わかった、自室に帰るのは夕刻過ぎになる。19時頃で構わなければそうしよう。」
「ええ、ありがとうございます。…では後ほどに。」
さっきのイサベナ王妃を見てかなり怯えていたようだが…立ち直りも早いな、さすがはシェナハーン王国の至宝と呼ばれる女性だ。
約束の期限、か…婚約式を執り行っても、俺達が結婚することは絶対にない。だが王女は…どうするつもりなのだろう。
俺は王女の後ろ姿を見送ると、その足で近衛の詰め所へ戻った。
ここは近衛指揮官の執務室で自室同様にノックをせず入ると、酷く驚いたヨシュアはガタンッと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「ライ様…!?」
――まあヨシュアにしてみれば、俺は実父が危篤だと言うのに傍におらず、早々に仕事へ戻って来たのだ、当然だろう。
「ああ、戻ったぞヨシュア。俺の仕事まで押しつけて悪かったな。」
「いえ…そんなことは全く構いませんが、そうではなく…きちんとお会いになられたのですか?」
「…いや、部屋の前まで行って帰って来た。」
「な…ですが…!」
「薄情だと言われようが俺はこれで構わない。だってな、ヨシュア…こんな状況になってもまだ俺は、どうしてもあの男を父親だと思えないんだ。危篤と聞いて動揺はしても、心からの回復を願えない。上手く説明できないが複雑で…今は寧ろ奥宮まで行った自分が信じられないくらいだ。…だからもうなにも言わないでくれ。」
「……かしこまりました。」
そう答えながらもヨシュアは心配してくれているのか、俺自身が複雑な胸の内を理解できないこともあり、少し憂うような表情をしていた。
結局俺はそのまま仕事へ戻り、午後には決めていた通りリーマの元を訪ねることにした。
――だが後に俺は、この日あの男に会わずに奥宮を出たことを、後々まで深く後悔する羽目になる。
午後になって少し遅い休憩を取ることにし、俺はヨシュアに声をかけて席を立った。一、二時間で戻ると告げ、以前と同じようにして外套を羽織り、執務室から出ようとした時だ。
珍しくヨシュアは俺を呼び止め、イーヴとトゥレンが傍にいないこともあり、これからリーマに会いに行くのかと尋ねて来た。
「ああ、そのつもりだが…どうした?珍しいことを聞くな。」
「いえ…あの、こんな時になんですが、エスティが気になることを言っていたのでお耳に入れておこうかと。」
「…なんだ?」
ヨシュアの婚約者の話によると、先日下町でリーマを見かけて声をかけたらしいのだが、彼女の精神状態が酷く不安定だったらしく、エスティ嬢の顔を見るなり泣き出してしまったという。
驚いたエスティ嬢が理由を尋ねても、リーマはただ泣きながら首を横に振るばかりで、なにか余程のことがあったのか随分と様子がおかしかったそうだ。
「そんなことが…わかった、教えてくれてありがとうヨシュア。エスティ嬢にも良く礼を言っておいてくれ。」
俺はヨシュアに礼を言って急ぎ執務室を飛び出した。
――リーマが泣いていた?なにがあったのだろう…まさかまた、カレン・ビクスウェルトになにかされたのか?あの女、結局まだラカルティナン細工のペンダントも返していないのだろう。
これ以上彼女を傷つけるようなら、今度こそ容赦はせんぞ…!
フードを目深に被り黒髪を隠して城を出ると、俺はその足で真っ直ぐ下町へ走り出した。この時間ならリーマは自宅にいるはずだ。
馬鹿なことをしていた、と走りながら自己嫌悪に陥る。つまらない嫉妬に駆られてぐずぐず会いに行くのを延ばしたりするから、リーマが誰かに傷つけられるのを守れずに見過ごす羽目になるんだ。
すまない、リーマ…俺はおまえがこの世で最も大切なのに、いつもおまえを守ってやれていない。
あの女にペンダントを奪われた時も、あの女の企みでバスティスに攫われた時も…王都が魔物に襲われた時でさえもだ。
程なくしてリーマの自宅のあるアパルトメントへ辿り着き、急いで階段を駆け上がると、肩で息をしながらその扉を叩いた。
「リーマ、俺だ。開けてくれ。」
逸る気持ちを抑えて、いつも通り彼女が扉を開けてくれるのを待った。
シン…
――だが普段はすぐにあるリーマの返事がない。
「…?リーマ、いないのか?俺だ、ライだ。」
もう一度扉をノックして声をかけるが、やはり彼女の声は返って来なかった。
留守か…もしや今日は仕事が休みの日なのか?
リーマは夕方から深夜二時くらいまで働きに出ているため、普段仕事のある日は昼前まで睡眠を取り、それから家のことをしてまた夕方仕事へ向かう。
だが休みの日は食材の買い出しや友人と出かけたりして、時々留守にすることもあるとは聞いていた。
ただ俺と付き合うようになってからは、俺がいつ来ても良いようにと休みの日でもあまり出かけず待っていてくれる事の方が多かった。
まだ俺がここへ来られるとは思っていなかったのかもしれない。間が悪く外出中なら仕方がないな。
そう思ったが、ヨシュアから聞いたリーマの様子が酷く気になり、暫く会えていなかった間の彼女の様子をアフローネの女主人…『ミセス・マム』に聞いてみようと思い至った。
階段を降り、今度は足早にアフローネへと向かう。ここからリーマの仕事先である酒場までは十五分ほどの距離だ。
ミセス・マムは身寄りのないリーマの母親代わりのような人で面倒見が良く、俺とリーマの関係を知っている数少ない味方でもあった。
俺はリーマがバスティスに攫われて以降、ミセス・マムになにかあれば俺を訪ねて欲しいと頼み、城の衛兵に見せれば話が通るようにと標板を渡してもある。
だからリーマのことはミセス・マムに聞けば、その様子もわかるはずだと思っていた。ところが――
「暫く仕事を休んでいる?」
「そうなんだよ。少し前から体調が悪いと言っていてね、顔色は悪いし貧血を起こして倒れたりもしたから、大事を取って休ませてるんだよ。せっかくこんな久しぶりにあんたが来てくれたのに、部屋にいなかったのかい?」
ミセス・マムは最初俺に敬語を使っていたが、俺も元は孤児だったことを話し、敬語は要らないと言ってからは、素を見せて遠慮なく話してくれるようになった。
「ああ、何度か扉を叩いて声もかけたが、返事はなかった。それでミセス・マムなら彼女の様子を知っているかと思い、ここまで来たんだ。」
「ええ…?大丈夫かねえ…お金の心配は要らないから、具合が悪けりゃちゃんと病院に行きなよと言い聞かせたら、医者にはもう行ったから大丈夫だと言ってたんだけど…」
「病院には行ったんだな?…ならば部屋でぐっすり眠っているのかもしれない。もう一度訪ねてみて返事がないようなら、今日は城へ戻る。心配だが無理をさせて会っても身体には良くないだろう。」
「そうかい?あの娘、口にはあんまり出さないけど、あんなにあんたに会いたがっていたのにねえ…もし今日リーマがここへ来たら、あんたが来たことはちゃんと伝えておくよ。」
「よろしく頼む。」
――特になにかが起きたと言うわけじゃないのか…だが、体調が悪くて仕事を休んでいるとは、リーマが心配だ。
俺はミセス・マムに挨拶をしてアフローネを出ると、その足でまたリーマの自宅へ戻った。
再び扉を叩いて声をかける。
「リーマ、俺だ。具合が悪いのなら起き上がらなくてもいい、声だけでも聞かせてくれないか?…心配なんだ。」
――だがやはりリーマから返事はなかった。
…室内に人の動く気配はない…やはり留守なのか。それとも病院に入院したとか…?いや、それならミセス・マムに黙って行くはずはないか。
俺はリーマの顔を見られずかなり残念だったが、今日は彼女に会うのを諦めて、返事のない扉へ「また明日来る。」とだけ告げると、そのまま城へ戻ることにした。
その日の夜――
「ライ様…お気持ちはわかりますが、少しでもお食事を召し上がらないと、せっかく良くなったのですもの、また体調を崩されてしまいますわ。」
リーマのことが心配で食事が進まなかったのを、俺があの男のことを考えていると思い違いをしたペルラ王女がそんなことを言ってくる。
「ああ…いや、これは違うんだ。」
「…?」
俺は手にしたカトラリーを皿に置き、水差しから水を自分で汲むとそれを飲んだ。
「――すまないペルラ王女、あなたに限ったことではないんだが、慣れない女性と食事を取るのは落ち着かないらしい。悪いがもう話を聞かせて貰っても構わないか?」
ペルラ王女は少し顔を傾けて微笑み、こくりと頷いて同じく手を休めた。
「なんとなく察しは付いているが、当然…」
「…ええ、トゥレン様のことです。ライ様…私はもう、諦めた方がよろしいのでしょうか?」
目線を落とし悲しげに俯きながら、王女は完全にトゥレンに避けられていることを話し、それがとても辛く悲しいと言って目に涙を溜めた。
「ライ様がトゥレン様とシニスフォーラへいらして、図書室で政略結婚についてのお考えを伺い…翌日はっきりと思い人がいらっしゃるので私との婚姻は断ると仰った時、藁にも縋る思いで偽りの婚約を結んで欲しいとお願い致しました。それもこれもこの国へ留学生として滞在していた当時、私の護衛を担ってくださっていたトゥレン様をお慕いしてしまったがためでした。」
「………」
「もう会えないと思っている内は良かったのです。私はサヴァン王家の第一王女…いずれは国のため、どこかの王族と政略結婚をしなければならないと諦めていましたから…ですがもう一度トゥレン様にお目にかかり、あなた様に私を娶るお気持ちがないと聞いて、私は最初で最後の機会に恵まれたと思い込んでしまいました。ですがトゥレン様にはご迷惑でしかないのかもしれません。」
――この話は前国王夫妻の国葬へ出席するために、シェナハーン王国のシニスフォーラへ行った時にまで遡る。
あの日式典で、思いがけずこのペルラ王女に話がしたいと言われ面食らった俺だが、暗殺者の襲撃があり負傷したことを切っ掛けに、偶々王女と二人きりになる僅かな時間(天幕の外に護衛騎士はいた)があった。
その際この王女は俺に自分と婚約して欲しいと言ってきて、俺には心に決めた女性がいるから断ると告げたら、だから婚約して欲しいのだと混乱するようなことを申し入れてきたのだ。
偽の婚約を結びたいのなら他の王族にでも頼めと言うと、どうしても俺でなければ駄目なのだと言い張り、事情を聞くと実は何年も前に会ったトゥレンへ、ずっと思いを寄せていることを打ち明けられたのだった。
表向き婚約はしても、お互いに結婚をするつもりはない。ペルラ王女はエヴァンニュ王国へ花嫁修業の名目で来国しトゥレンに思いを告げるだけの時間ができ、俺はあの男の言いなりになる振りをしてリーマとこの国から逃げ出すための準備ができる。
それはお互いにとって一見すると、都合のいいように見える話だった。
まあ実際は、俺は猛毒を盛られて死にかけたせいで、まだなんの準備にも取りかかれてさえいないし、ペルラ王女はトゥレンに思いを告げるどころか接近禁止となったあいつに、今では近付くこともできないと言うわけだ。
色々あって正式な国民へのお披露目となる婚約式は延ばし延ばしになっているが、この偽りの婚約には期限があり、結婚式の話が出るまでと決めてあった。
俺はその前にある程度やりかけの仕事を片付け、いつ姿を消しても良いように手筈を整えるつもりだ。
そしてペルラ王女はトゥレンに自ら告白をし、思いを受け入れて貰えなければ王女の方から俺との婚約を破棄してシェナハーン王国へ帰るつもりでいた。
逆にトゥレンが王女の手を取るのなら、俺と一緒にエヴァンニュから逃げ出し、王女はトゥレンと、俺はリーマとそれぞれ生きて行くつもりでいる。
まあ言うほど簡単に行くわけはないが、それでも王女はそこまでトゥレンを思っているのだ。
「――俺の見た感じでは、トゥレンは貴女に少なからず好意を抱いていると思う。ただあいつは根が真面目過ぎて、たとえ貴女に思いを寄せていても俺の婚約者だからとか、身分違いだなどと言い聞かせ、自らその気持ちを見ないように蓋をするだろう。あいつの心を動かすのは正直に言って、かなり困難だろうな。」
「ライ様…」
「だが真面目過ぎるが故に、付け入る隙はあるぞ。先ずあの性格上、女性の方から思いを告げられて、その気持ちを無下にするとは思えない。況してやトゥレンの貴女を見る目は、仕えるべき王女に向けているものには見えないからな。…本人に自覚はなさそうだが。」
「ふふ、それは私が期待しても良いのでしょうか、それとも諦めた方が良いのでしょうか、どちらです?」
「さあな…それを決めるのは貴女だろう。」
「そうですわね…」
また沈みがちに視線を落とすペルラ王女に、俺は続ける。…まったく、なんだって俺があいつと王女の仲を取り持ってやらなければならないんだ。第一それ以前に…
「…ペルラ王女、俺は今、トゥレンとあまり上手く行っていない。」
「まあ…それはなぜです?」
「――あいつに俺が隠している恋人の名を知られたからだ。」
「…!」
「トゥレンが彼女の名を調べてどこの誰かを探し出し、いつ国王に告げるかわからないと警戒している。イーヴとトゥレンの二人は元々国王付きの従者なんだ。…少なくともあの二人は、俺の味方ではない。」
「そんな…」
「だからすまないが、俺にできることはあまりないんだ。偽りの婚約を俺に持ち掛けてまであいつを思い、ここまで来たんだろう?その勇気を今度は思いを伝えることに使うんだな。」
「ふふ…雑な励ましですわね。」
「貴女と違って俺は孤児院育ちだからな。」
「でも…ありがとうございます、ライ様。もう少し諦めずに頑張ってみますわ。」
「ああ、影ながら応援だけはしている。」
「まあ。」
俺の皮肉交じりの返事に、ペルラ王女はめげもせず控え目にクスクス笑った。彼女とは妙な関係だが、ただ互いに思う相手と結ばれたい、そう願う気持ちは同じだ。
俺としてはもしペルラ王女とトゥレンが上手く行ったなら、トゥレンに少しでも俺の気持ちを理解して貰えるのではと僅かに期待している。
身分違いだの生まれがどうだのとそんなのは、心から相手を好きになればなんの関係もなくなるのが当たり前なのだと…トゥレンがそのことを理解してくれれば、この上なく頼りになる味方となってくれるかもしれない。
――この時の俺は、まだそんな淡い期待をあいつに抱いていた。
翌日、昼休憩に入って城を抜け出し、再度リーマの部屋を訪ねてみる。…が、昨日と変わらずやはり今日も返事がない。
おかしい…二日続けて留守だなんて、今までこんなことはなかっただろう。…リーマはどうしたんだ?やはり病院に入院したとか、診療所にいるとかではないのか?
堪らなく不安になった俺はまたアフローネを訪ねてみるも、ミセス・マムが言うに昨日はそこへも姿を見せなかったらしい。
アフローネを出た後、今日はすぐには城へ戻らず、下町の入院施設などない小さな診療所を覗き、最後は王都立病院にまで行ってみたが、この日も結局リーマには会えなかった。
そしてまた翌日、扉を叩くがやはり今日も返事はない。これでもう三日だ。
ドアノブに手をかけてみるも鍵がかかっている。リーマはミセス・マムにも告げずに、いったいどこへ行ったんだ?どうして会えないんだ。
どう考えてもおかしい。体調不良で仕事にも行かず、休んでいなければならないのに部屋にもいない、そんなことがあるのか?
――まさか、また誰かに攫われた…?俺の知らない間に犯罪に巻き込まれて、どこかで酷い目に遭わされているのでは…
嫌な想像が頭に浮かんで、背筋がゾッと冷たくなる。リーマになにかあれば、俺はどうすればいい…?俺の最も大切なリーマ…おまえを失ったら、俺は…っ
カサ…
「…!」
――どうしたらいいのかわからずに、数分動かずそこでじっとしていた時だ。扉の向こうでなにかが動く、微かな衣擦れの音がした。
人の気配はなく、なんの音も聞こえないから…てっきり室内には誰もいないと思っていたが、まさか――
「…リーマ?リーマ、いるのか!?…いるんだろう!!返事をしてくれっっ!!!」
俺はリーマの部屋の扉を、近所迷惑も考えず壊れんばかりにバンバン激しく叩き続けた。もし部屋の中にリーマがいるのなら、こんなに呼んでいるのになぜ返事をせず、扉を閉ざしているのかわけがわからなかったからだ。
「どうしてだ…こんなに心配しているのに、なぜ返事をしない…?」
開かない扉に額を擦りつけ、両手を付いて崩れ落ちそうになった、その時だ。
――微かに、布で口元を覆って押し殺したような嗚咽が耳に届いた。
リーマの声だ。それはまるで外に漏れ聞こえないよう、必死に声を押し殺して泣いているような声だった。
「リーマ、泣いているのか?声が聞こえる。どうした、なにか理由があるのなら俺に話してくれ。俺ができることなら、なんでもしてやるから。」
徐々に激しく噎ぶ声が扉越しに聞こえて来た。
――そうして久しぶりに聞く彼女の声は、やがて俺に信じられない言葉を告げた。
彼女の声が、扉を隔てたすぐ向こうに響く。
「ごめんなさい…ひっく、ごめんなさい…ライ…ひっ…もう、会えない…もう、会えないの…っひっく…」
〝どうかもう、私のことは忘れて…さようなら、ライ…〟
嗚咽に混じり、途切れ途切れに聞こえた最後の声は、俺に別れを告げるリーマのそんな言葉だった。
次回、仕上がり次第アップします。