18 束の間の休日 ④
王都立公園で一休みしていたライの耳に、男女の揉める声が聞こえてきました。気になって耳を澄ませていると、男の方は女性に乱暴を始めたようで、ライはそれを止めに入ります。成り行きでリーマという名の女性を助けることになったライですが…?
――人が滅多にない一人の時間を過ごし、マイオス爺さんの冥福を祈ろうとしているのに…その邪魔をするとは、頗る不愉快な男だ。
身寄りがなくてなにが悪い?そんなものは本人の所為ではない。嫌がられ、嫌われているのに、あまつさえ力尽くで手籠めにしようとは…虫唾が走る。
この男…どうしてやろうか。
ライは自分の貴重な時間を木っ端微塵にされ、嚇怒していた。この静かな公園に、それもわざわざ人目に付きにくい場所を選んで、このゲスはそこの女を引き摺り込んだのだ。
その目的は返事の善し悪しに関わらず、なにであったのかは明白だった。いくら色恋に疎いライでも、そのぐらいの察しは付く。
「…黒髪の、鬼神――」
襲われ、悲鳴を上げて助けを求めていた女が、涙に濡れたその瞳を大きく見開き、俺を見上げて呟いた。
――赤毛に薄い茶毛、焦げ茶の三色が混じった、変わった斑髪の女だ。癖のかかった緩い波形の長髪を、ふわっとした桃色の布で頭の上部に持ち上げている。
見たところまだ少し幼い印象だが、酒場の踊り子と言っていたから、おそらくはきちんと成人していて二十歳そこそこくらいの年令だろう。
その瞳は吸い込まれそうなほどに透き通った、アクアマリンのような薄い青色をしていた。
俺はツェツハに移り住んでからも、爺さんとの暮らしに精一杯で、色恋どころか友人を作る暇さえなかった。エヴァンニュに来てからは軍人としての仕事一色で、周囲の兵士達が彼女だ恋人だのと騒いでいるのを見ても、自分には関係がないと興味も涌かなかったくらいだ。
特段それを不自由に感じたこともなかったが…なるほど、この男が偉くご執心なのは男として少しだけ理解できるような気がした。要するに、彼女は可憐さを持ち合わせた魅力的な〝美人〟だったのだ。
ベンチに寝転がっていたままの状態で姿を見せた俺は、フードで顔を隠すのをすっかり忘れていた。それですぐに彼女には俺が誰だかわかったのだろう。
「く…黒髪の…っ!?」
男が顔色を変えて裏返ったような声を出す。警邏中の憲兵や民間人の揉め事にあまり関心を持たない守備兵ならともかく、俺が相手では万に一つも逃げられないと悟ったからだろう。
しかも今の俺は物凄く機嫌が悪い。穏やかな気分を害され、マイオス爺さんへの祈りを邪魔したこの男の罪は重く、もし少しでも抵抗するようなら、本気で斬り捨ててやろうかと思っているぐらいだ。
どうせ俺の手は人の血に塗れている。この男一人ぐらい殺した人間が増えたところで、今さら大した違いはないだろう。
「か、勘弁してくださいよ、旦那ぁ〜…お、俺はただこの女と逢い引きを…」
「あ、逢い引きって誰が…!!」
誰が旦那だ。情けのない声を上げて、あからさまな言い訳をしようとする男に苛立ちながら、即座に否定した彼女をチラリと見る。
裂かれた染め無しのシャツからは左肩が顕わになり、草染めのスカートも捲り上げられて太ももの辺りまで白い足が覗いている。
あまり不躾に見るわけにも行かないが、否定されるまでもなく、誰がどう見ても〝逢い引き〟ではないだろう。
「嫌がる女を押し倒して、服を引き裂くのが貴様の趣味か?立て。婦女暴行罪で牢にブチ込んでやる。」
適当な言い訳で俺から逃げられると思ったら大間違いだ。特にこの手の破落戸が俺は心底大嫌いだからだ。女子供に平然と乱暴を働き、力の弱い者を虐げて生きている。憲兵に突き出すだけでは生温い。
俺は剣を下ろすと、男を片手で後ろ手に締め上げて立たせた。
「や!ちょ、ちょっと待ってくださいよ!!痛えっいでででで…っ!!!」
「ま、待って!!」
抵抗できないように拘束して男を完全に押さえ込もうと思った時、なぜか立ち上がった彼女が割って入る。
俺は男への力を一切緩めることなくそのまま動きを止めた。まさか乱暴された仕返しに、もう一発引っ叩くつもりなのだろうか?もちろんそれなら俺は止めはしないが。
男の前にズイッと進み出た彼女に、そう思った。ところが…
「バスティス、あんたもう二度と私に近付かないで!絶対に店にも来ないと約束してくれたら、許してくれるように頼んであげるわ。」
なにを言い出すのかと思えば…許すだと?その言葉を聞いて俺は顔を顰める。
未遂とは言え、危ない目に遭っていながらなぜそんなことを言えるのか、理解できなかったからだ。こういう卑劣な男は、見逃すと碌なことにならないというのに。
「ち…っ、わ…わかったよ、約束するよ!二度とおまえと店には近付かねえ!!」
男は舌打ちをして仕方なくそう吐き捨てる。どうせこの場凌ぎの口先だけに決まっているだろう。信用するべきではない。俺なら絶対に信用しない。なのに――
「約束したわよ。…と言うことだから…お願い、見逃してあげて。」
破かれた衣服を両方の腕で上下に押さえながら、彼女はアッサリとそう言って俺に願い出た。
「―――」
変わった女性だ。普通なら恐怖で震えて弱々しく動けないでいるか、もっと騒いで男を非難し罵るところだろうに、まるで何事もなかったかのように接している。
相手の名前を知っていることからしても元から顔見知りではあったのだろうが…無罪放免を望むとは。
俺としてはかなり面白くなかったが、被害を受けた本人がそう言うのでは仕方がない。被害届けが出されなければ、男を拘束しておくことも出来ないのだ。今回は見逃すことにするか、そう思い解放してやることにした。
締め上げていた腕を俺がぱっと放すと、男は即座に俺から離れて〝た、助かった…!〟と安堵の表情を浮かべながら手首を撫でると、後は脇目も振らず一目散に走って逃げて行った。さすがに小物は逃げ足だけは速い。
俺は彼女に聞いて大きな怪我がないことを確かめると、剣を鞘に戻し無限収納に仕舞う。それからすぐに着ていた上着を脱いで、彼女に持って行くよう手渡した。
ここに人目はあまりないが、少なくとも破られた衣服のままで堂々と歩けるようなはずはない。
彼女は頬を染めて俺に礼を言うと、それを受け取りすぐにその場で羽織った。
思わぬ出来事に遭遇しすっかり気を削がれた俺は、これでこの件は終わりとばかりに、イーヴとトゥレンが騒ぐ前に城へ帰るかと、そのまま彼女をこの公園に残して立ち去ろうとした。
だがいきなり「待って!!」と強く左腕を両手で掴まれ、引き止められたことに面を喰らう。
「あの…助けてくれてありがとう、ライ・ラムサスさん。私はリーマ・テレノア。下町にある『アフローネ』という名の酒場で踊り子をしているの。」
驚いて振り向いた俺に、彼女は〝私のことはリーマと呼んで。〟そう言って真っ直ぐに俺を見て一生懸命に話しかけてきた。
乱暴されそうになっていたところを助けに入った被害者の女性に、と言うのは過去にはないが、俺がこんな風に言い寄られるのは大して珍しいことではない。
髪と顔を隠さずに軍服のまま一人で街中に出れば、これ幸いとばかりに俺に突然話しかけて来る女性は多い。
それでも大抵は無視して相手にしないか、突っ撥ねて振り払い、冷たくあしらうことにしているが、それと言うのも相手が軍人としての俺目当てでいきなり馴れ馴れしくして来たり、本当の俺を知りもしないのに、やたらとおべっかを使って媚びを売って来るからだった。
はっきり言うが、俺はそういう女性にたとえ衣服の上からでも触られると、吐き気がするほどの嫌悪感を感じて気分が悪くなる。
だがなぜだかこの時は、不思議と彼女の態度にはそんな嫌悪を感じずに、寧ろ俺にしては珍しく、腕を掴まれてまで礼を言われているのに悪い気はしなかった。
「気にするな、偶々傍にいただけだ。それよりも…リーマ嬢、あの手の輩にはしつこい奴が多い。今後も気をつけるんだな。」
上着は城の受付にでも返してくれれば良いと、それだけ言って腕を放して貰おうとしたのだが…
「ごめんなさい、とても厚かましいお願いだとはわかっているのだけど…できれば家まで送って欲しいの。…こんな格好じゃ歩いて一人では帰れないわ。」
こんな格好と言われて、俺が貸した上着から表に出ている彼女の衣服に視線を投げかける。
――言われてみれば確かにそうか。俺の上着を羽織っても衣服は破れて泥だらけで、完全に隠せるような状態ではなく、なにかあったと人目を引いてしまうだろう。況してや彼女は踊り子だ。評判に傷が付けば、仕事を首になる可能性もある。
「…わかった、送って行こう。下町でいいのか?」
「ええ…ありがとう!」
俺が承諾すると彼女はパッと顔を明るくして、ドキリとするほど眩しい笑顔で礼を言った。
正直に言うが、俺はあまり女性に免疫がない。どこぞの貴族の娘だとか、香水臭い見た目だけ着飾った女やケバケバしい化粧をした派手な女に、果ては俺に身売りでもしたいのかと思うような色を撒く女が多く言い寄って来てはいても、俺が女性慣れするというのとは同意ではない。
特にこんな警戒心の薄い心からの笑顔を向けられると、さすがに少し狼狽えてしまう。
表面上はどう見えているのかわからないが、俺の動揺した胸の内を彼女に気づかれていないといい。
――今この場にあの二人がいなくて良かった、と思ったライだった。
♢
「――ふう、さすがに少し疲れたな。ウェンリー、おまえは大丈夫か?」
俺は着ていたシャツを左手の人差し指にかけて引っ張ると、汗を掻き始めた首元を手でパタパタと仰ぎながら、隣でボア肉の特大ソーセージを頬張っているウェンリーに目を向ける。
長の腰痛を軽減する腰当てを探し回って購入し、他にも露店を見て回ったその後で、腹が減ったと騒ぎ出したウェンリーが今度は買い食いを始めていた。
歩きながら食べるのは他人の迷惑になる(なんせウェンリーには前科がある!)ので、立ち止まって焼きソーセージ売りの露店近くで食べるように言い、今は一息ついていたところだ。
この後でラーンさんと合流して昼飯を食うのに…ちゃんと入るのか?と呆れる俺を他所に、当のウェンリーは〝足りねえ〟と腹を摩っている。
成長期はもう過ぎたはずなんだが、そんな食欲旺盛なウェンリーを微苦笑して見ていると、目の端に映る人混みの中に、良く知るその姿を見たような気がして俺は思わずそちらにパッと顔を向けた。
あれは――
「どこ行くんだよ!?」
後ろからそう呼び止めるウェンリーの声が聞こえたが、気づけば足を踏み出し、俺はそのまま走り出していた。
チラチラと左右に動きながら見える、それの後を追って、俺は人の隙間を縫うように進んで行く。
やがて角を曲がって大通りから裏通りへ入ると、十字路に差し掛かったところで完全に見失ってしまい、立ち止まった。
――いない…でも今のは確かに…
「ルーファス?」
はあはあと息を切らして、後を追って来たウェンリーが俺の肩を掴んだ。
「ああ、ごめん。今…こっちに向かって、リカルドが歩いて行ったような気がして――」
「げっ…リカルドぉ!?」
あいつも王都に来てんのかよと、ウェンリーが露骨に嫌そうな顔をして、きょろきょろと辺りを見回した。
だがこの辺りは中級住宅が殆どで、リカルドが立ち寄りそうな場所はなさそうに見えた。ただ、一カ所を除いて――
すぐ目の前の角に、広大な敷地の白い大きな建物が見える。その入り口にある四角い標識には、黒くはっきりとした字で『エヴァンニュ王都立病院』と書かれてあった。
「…病院?」
まさかとは思うが、リカルドはこの中へ?一瞬そう思ったのだが、具合が悪いとかそういう話は聞いたことがなかったし、ここへ入る姿を見たわけでもない。
「どこにもいねえじゃん、おまえの見間違いじゃねえの?俺には奴の金髪なんか目に入んなかったし。大体にしてリカルドほどの有名人がこんだけの人の中に現れて、周りが注目しねえはずがねえって。」
ウェンリーの言うことは尤もだった。
メクレンならともかく、王都にはリカルドにも多くの女性支持者がおり、その見た目に惚れ込み、熱心に追いかけようとする人で騒ぎになる可能性は否定できなかった。
「そうか…でも俺があいつを見間違ったりするかな…?」
それこそあり得ないと、俺は正直そう思っていた。だが確信もないのにこれ以上こだわるのもなにか違うような気がして、結局それ以上考えるのを諦め、その場を離れて近くに見えた公園の方へと歩き出した。
――そのルーファスとウェンリーの去って行く後ろ姿を、住宅の塀の影に身を隠して見送る人の姿があった。
≪誰が追って来たのかと思えば…あれはルーファス(とウェンリー)!?王都に来ていたのですか。…私のスキル妨害は上手く行ったようですが、変化魔法で姿を変えていた私に、ルーファスは気づいた?…どうして――≫
自分を追って来る気配に気づき、咄嗟に身を隠したその人物は、実は魔法でごく普通の茶色の短髪に眼鏡をかけた青年に姿を変えていたリカルドだった。ルーファスが首を傾げた通り、彼がリカルドを見間違えるはずはなかったのだ。
これはルーファス自身も気づいていなかったのだが、今は正常に戻った自己管理システムのおかげで、ルーファスには精神系魔法が効き難くなっている。
そのために変化魔法でリカルドが姿を変えていたにも関わらず、ルーファスの目には常に自動で効果が発揮されているスキル、『真眼』でいつも通りの姿に見えてしまっていたのだ。
ルーファスの変化を知らないリカルドが、驚いたのも無理はなかった。
「――ふう、行ったようですね。この姿で声をかけるわけには行きませんし、予約した病院の時間が迫っていますから…残念ですが、ルーファスに会うのは諦めましょう。」
がっかりした表情で変化魔法を使用したまま、リカルドは目の前の病院に向かって歩き出す。
そうして門の手前で一度立ち止まってから不安げな表情で胸に拳を当て俯くと、意を決したように顔を上げて、入口から病院内へと入って行った。
――裏通り側の公園入口から入り、俺達が青々とした芝生の広場を通る小径をのんびり歩いていると、それと交差する脇の横道を、林の方から泣きながら歩いて来る小さな女の子に出会った。
「ひっく…ひっく…おにいちゃあん…どこぉ…」
あんな小さな子が一人で泣いている?…どうしたんだろう。
唐突だが、この王都には大きく分けて三種類の民間人が住んでいる。一つは高級住宅街に住む高位貴族や富裕層。次に中級住宅街に住む一般的な中流貴族と平均的な所得の家庭が多い平民層。そして下町に住む低所得者や貧民層だ。
ただ貧民層と言っても、王都の場合はそこまで酷い状況なわけではない。平民よりも所得は低いが、それでも盗みなどの犯罪を犯さなければ生きて行けないほどではなく、真っ当な仕事や働ける場所がきちんとあって、贅沢は出来なくても普通に暮らしていける。
まあそれでも所得の差は一目瞭然で、こうして王都外から来た俺にも見てわかるほど、身につけている衣服などにはその違いがはっきりと現れてはいるのだが…
…その貧民層が住む下町の子供らしく、あまり上等ではない衣服を身につけたその少女は、膝に何度か転んだ後のような擦り傷を負っていて、そこから血が流れていた。
そのことに気づいたウェンリーは、すぐに少女に駆け寄ってしゃがむと、目線を合わせて声を掛ける。
「どした?迷子になっちゃったのか?」
躊躇なく手を伸ばし、優しくその子の頭を撫でるウェンリーは、村で小さな子供達の相手をすることにも慣れていて、俺が傍にいない時は遊びをせがまれるほど子供に好かれていた。
「あーあ、転んだんだな。よし、あんちゃんが薬で治してやる。」
そう言うとウェンリーは腰のウエストバッグから、即効性の液体傷薬<ポーション>を取り出して少女の膝に降りかけると、すぐにその怪我を治してやった。
余談だが、こう言った薬は軽度の負傷なら瞬く間に治せる、一般的なハンターの必須薬だ。
骨折にまで至らない捻挫などの損傷や、切断までいかない切り傷、裂傷など、中程度までの怪我になら飲んだり患部に降りかけたりして使用することが可能だ。
だが受けた傷が深くなればなるほど、効果と値段の高い上薬が必要になり、それらは一般には殆ど流通していない。
魔法で怪我や病気を治す、『治癒魔法士』がいると言う外国のことは良く知らないが、少なくともエヴァンニュでは、大きな怪我や病気は基本的に病院や診療所で治療を受けるもので、医者や薬師が様々な薬草から薬を作って患者に処方している。
そんなことを考えていたら、俺は一瞬サイードが腕を傷付けた時のことを思い出してしまった。
…そう言えば俺は、その『治癒魔法』が使えるようになったんだっけ。まだサイードにしか使ったことがないけどな。
ウェンリーに薬で傷を治して貰った少女は、しゃくり上げながらも泣き止み、「ありがとう、あかいかみのおにいちゃん。」と拙い言葉でお礼を言う。
薄い茶色の毛を左右に結んだ、橙色の瞳の可愛い女の子だ。多分幼年学校に入る前ぐらいの…五才くらいかな?
その様子を見ていた俺は周りを見ながらウェンリーと少女に近付く。
「迷子か?…近くには誰もいないみたいだけど…」
実は俺には、サイードに魔力回路を直して貰ってから、驚くべき様々な変化が起きているのだが、その中の一つに『常に頭の中に自分がいる場所の簡易地図が表示されている』という、とても便利な事象があった。
それは自己管理システムやその補助機能である『Athena』と深い関わりがあるらしく、今朝洗面所で顔を洗っていたら、頭の中に突然パッと視覚化されるようになったのだ。
おまけにどう言う仕組みなのかはわからないが、自分のいる位置が方位磁針の先っぽのような『三角形の信号』で表されている上に、ウェンリーやラーンさんのような親しい知り合いは『黄緑色』の丸い信号で見えたり、自分がこれからなにかしようと考えるだけで、その目的に沿った場所が一瞬で『目的地』として『黄色』の点滅信号で表されるようにもなった。
これが『フィールド』(野外や街の外を広く示す言葉だ)に出たら、魔物なども色の付いた信号で表されるのかな、と少し期待している。
因みに今目の前にいる小さな女の子は『黄緑色』の点滅信号で見え、傍を通る全く知らない赤の他人などは一切表示されていない。
他にも地図についてはまた機会があれば追々説明しよう。
と言うわけで俺は、その地図と重要物を発見しやすくなる『探索』スキルでざっと周囲を調べてみたが、この公園内に人を探しているような動きのある人間は見当たらなかった。
「お嬢ちゃん名前は?お兄ちゃんって呼んでたよな。そのお兄ちゃんはどこへ行ったんだ?」
ウェンリーが問いかけると少女は困っていたことを聞かれて嬉しかったのか、パッと顔を明るくして答える。
「ゆーな。おにいちゃんは〝すこっと〟っていうの。おにいちゃんはきのうのあさ、おしごとにいくってゆって、〝ぎるど〟にいったの。でもよるになってもかえってこなかったの。」
だからギルドにお兄ちゃんを迎えに行きたいけど、場所がわからない。『ユーナ』と名乗った少女はたどたどしくそう言った。
俺はしゃがんだままのウェンリーと顔を見合わせて、その言葉の意味を考える。
ギルドへ行って…帰って来ない――
「…仕事に行くって言ってギルドに向かったってことは、守護者か冒険者かな?」
ウェンリーが俺を見上げて確かめるように言う。こんな小さな妹がいるのなら、どちらかというと守護者である確率の方が高いだろう。
「ああ、多分な。」
昨日の朝に出て夜になっても帰って来なかった…?こんな小さな妹を残して、か?
俺は少女の言葉が酷く気になった。
「あかいかみのおにいちゃん、ゆーなを〝ぎるど〟につれていってくれる?」
ユーナという少女はウェンリーの腕を小さな両手で掴んで、縋るような瞳を向ける。当然だがウェンリーが放っておけるはずはなく、なにか嫌な予感がした俺も、いいよな?と同意を求められてすぐに頷いた。
こうして俺達は昨夜も立ち寄った、ここから見えている魔物駆除協会の総本部に、この小さな少女…『ユーナ』を連れて向かうことになったのだった。
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王都南部の中央地域には大通りを境に、北に向かって左側が高級住宅街と王都立美術館、博物館、図書館などがあり、右側に王都立病院や王都立公園、民間の商業、工業、農業、職人、それぞれの組合、協会など、公共の施設が多く点在している。
東側のこの辺りはその公共施設の周囲に住宅街があり、中級住宅から東に向かうにつれ、段々と低級住宅へと建物が変化して行くのだ。
ここ王都の商業地域はなにも大通りだけに限っておらず、西側に集中する高級住宅街には高級住宅街向けの、東側にはそれ以外の需要にあった商業地域が存在しており、それらは所々に点在していて、付近の住人の利便性を上げている。
そんな中級住宅地にある小さな商店街を抜け、一般住宅が並ぶ区画を通り過ぎると、目指す低所得者が多く住む下町に辿り着く。
ここは王都の中でも貧しい人々が暮らす地域であり、他国や王都外から流れて来て住み着く人間も数多くいる。だが王都独自の法律と定期的に憲兵の徹底した見回りがあるため、密入国者は元より、犯罪者や破落戸には住みにくく、治安はそれほど悪くない。
これもあの男…ロバム王の細部にまで渡る采配が、しっかりと行き届いている証拠の一つかもしれなかった。だだ俺には、それだけ広範囲に目を光らせることが出来る監視能力と、手足があると言うことの方が空恐ろしく感じる。
――それはともかくとして、この下町に来るのもかなり久しぶりだ。
ミレトスラハに送られる前は、イーヴ達の目を盗んで何度もこの辺りを訪れていたが、ここの雰囲気が俺には合っていて居心地が良く、人の多い盛り場に立ち寄ったこともある。
尤も彼女…リーマ嬢が踊り子をしているという酒場には入った覚えがなく、その存在を知らなかったのは少し残念だ。
いつも顔を隠していたから偶に喧嘩を吹っ掛けられたり、あからさまに妙な連中に路地裏で襲われたこともあったが…俺が爺さんと住んでいたツェツハの下町もこんな感じだったからな。あんな豪勢な城よりも余程落ち着くというものだ。
このままこの国に残ったとして、これからはもう少し自由にここへ来られるようになるだろうか…――
――リーマは一歩下がって、ライの影に隠れるようにして歩いていた。
自分の歩調に合わせ、ライがゆっくりと歩いてくれている分…その背中を見つめながら、殆どなにも話せなくても、ここまで夢でも見ているようなふわふわとした『幸せな時間』を過ごして。
どうしよう…もう下町に着いてしまった。なにか…なにか話さなくちゃ。そう思うのに、言葉が出て来ないわ。でもどうしても…これだけは知りたい。
そう決心してリーマは思い切って口を開く。
「あの…今日は軍服を着ていないのね、暫くはお休みなの?」
せっかく話しかけたのに、馬鹿なの!?お休みなんだから軍服を着ていないのは当たり前じゃないの…!!
「ああ、明後日まではな。その後はまた仕事に戻る予定だ。」
――ライは斜め右後方の道の端を歩くリーマに、ほんの少し顔を向けて答えた。
リーマがずっと黙ったままだったのは、男に襲われた恐怖を思い出したからではないかと気遣い、無理に声を掛けようとはせずにライはここまで歩いて来たのだった。
俺に話しかけられるくらいには元気が出たのだろうか。そう思い、リーマに前髪越しの視線を向ける。
――〝明後日まで…〟そう聞いた瞬間からリーマの心は沈む。
以前から付き纏われて困っていたバスティスに、引き摺られるようにして公園に連れ込まれた挙げ句に襲われ、酷く恐ろしい思いをしたかと思えば、こんな神懸かり的な幸運でライ・ラムサスに救って貰えた。
今のリーマは天にも昇るような気持ちでいたのだが、ライの休みが明後日までと聞いて、またすぐにその姿を見られなくなると、がっかりしたのだ。
ライは元々アンドゥヴァリの指揮官であり、そのままなら休暇が終わると共にミレトスラハへ戻るはずだった。だが実際は王宮近衛指揮官に昇進し、今後は戦地ではなく基本的には王宮勤めとなる。
ただそのことはまだ正式に発表されておらず、当然リーマがそれを知る由もなかった。
下町の繁華街に続く通りに入ると、それなりの人通りがあり、疎らではあるが徐々に擦れ違う人間も増えて来た。
今日はこれでも国際商業市のおかげで、人影はかなり少ない方ではある。
当然のことながら、ライの黒髪を見て首を傾げる住人の姿もちらほら目に付くようになっては来たが、軍服を着ていない上に、まさか高位軍人である彼が堂々と下町を歩くとは思われていないため、『黒髪の鬼神』その本人だとはまだ気づかれていない。
このままだと騒ぎになるのは時間の問題か。…ライがそう思い始めた時、前から歩いてきた中年の女性がリーマの知り合いだったらしく、驚いた顔をして声を掛けてきた。
「ちょっとリーマ、どうしたんだい、その格好!!泥だらけじゃないか…!!」
「公園の水場の近くで転んじゃったの。泥濘んでて…酷いでしょう?」
普通に転んだのでは付かないような泥汚れのために、リーマはそんな風に言って誤魔化した。
「転んだって…怪我は?大丈夫なのかい?」
心配そうに尋ねる女性に後退りながら、リーマは「大丈夫、この人に送って貰ったから。」とあまり見られないようライの影に隠れた。
ライはそのリーマに合わせて、咄嗟に軽く頭を下げてから頷くように無言で挨拶をする。
それは何の気は無しにライが自然に取った行動だが、普通エヴァンニュ王国に属する高位軍人はそんな行動を取らない。部下を束ねるような立場になると、礼を尽くす相応の相手以外に簡単に頭を下げるなと教えられるからだ。
するとその女性はライの顔を見てポカンと口を開け、その場に固まる。
気づかれたか?一瞬そう思ったライだったが、それならリーマ嬢をこの女性に任せてすぐにここを立ち去ればいいと考えた。が――
「あははは、なんだいちゃっかりしてるよ、随分とまあイイ男を引っかけて来たじゃないか!あんたバスティスなんかに付き纏われてるようだけど、こっちの方が遙かに色男だよ!!」
…とまあこんな感じに、豪快な笑い声を上げられてしまっただけだった。
その後で女性は〝今日は仕事も休みなんだろ?仲良くやんなね!〟と手をヒラヒラ振りながら、とうとうライに気づくことなく去って行く。
中年の女性に去られた直後にライは、今の女性に事情を話してリーマ嬢を任せ、俺は帰れば良かったんじゃないか?と気がついたが、それはもう遅かった。
そのまま五分ほど進んだ路地を曲がったところで、〝ここの上の階に私の部屋があるの〟と、リーマは大きな二階建ての建物と同じような建物の間にある、薄暗く狭い階段を指差した。
ライのその建物を見た第一印象は、とても若い女性が一人で住むような場所ではないな、というものだった。
もし背後から羽交い締めにされても表通りからは見えず、下手をすればそこら辺に引き摺り込まれて殺されても、すぐには気づかれないかもしれない。それだけでなく、先程のあの男のような輩にとっては絶好の待ち伏せ場所にもなるだろう。
この女性はこんなところに住んでいるのか。…そう思うと少し心配になった。
だがリーマの身を案じたところで、初対面の自分が出来ることなどなにもないと、ライは余計なことは言わないようにそんな心配を振り払って、無事に家までは送り届けたのだからとリーマに向き直った。
「――頼まれた通り家には送り届けた。俺は城に戻るからここで…」
ライがその言葉を最後まで言い終わらないうちに、リーマが再び両手でその左腕を掴んで遮る。
「待って!迷惑じゃなければ、上がってお茶を飲んで行って。ここで上着は脱げないし、少しでもお礼がしたいの。」
「いや、上着は後日で構わない。さすがにそれは――」
誘われたとは言えど、初対面の若い女性の家に入り込むなど、褒められた行動ではないと知っている。お礼云々の前にさすがにこれはまずいだろうと、ライは当然断ろうとした。
ところがリーマはまたもライにその言葉を言わせず、「やっぱり迷惑なのね…」と酷く悲しんだ顔をして泣き落としにかかった。
女性に疎いライは全く気がついていないが、リーマはリーマでライを引き止めるために必死だったのだ。
結局ライはリーマに涙ぐまれて困り果て、仕方なく「わかった、お茶をごちそうになるだけなら。」と遂には誘いに応じてしまったのだった。
♢
――ユーナのお兄さんを探すために、俺達は昨日立ち寄ったギルドの総本部までやって来た。
ここまで公園からウェンリーに手を引かれて歩いてきたユーナは、この建物が探していたギルドだと知ると、入口の自動扉が開くなり、お兄ちゃん!と言って繋いでいた手を放して走り出した。
ユーナが探している『スコット』というハンターの顔を知らない俺達は、まず民間人用の階でユーナに付いてその男性を探すことにした。
その男性がハンターなら、いたとしても上にいるだろうとは思ったが、念のためにユーナの気が済むまで探させようと思ったからだ。
「ウェンリー、ユーナちゃんから目を離すなよ。」
今日は国際商業市のせいかあまり人が多くない。それでもここで迷子になったら大変だ。
「わかってるって。それよりルーファス、上に行って情報がないか聞いて来てくれよ。その方が早えだろ?」
「それはそうだけど…おまえ一人で大丈夫か?」
そもそもウェンリー自身が子供みたいなものだからな、子供に子供を任せて大丈夫なのかが心配だ。
そう思って真顔で一応尋ねたのだが、俺がなにを考えたのか見透かされて、〝おまえ今、俺にすげえ失礼なこと考えてねえか?〟とジト目で見られてしまった。
まずい、さっきも隠しごとをしているだろうと睨まれたばかりなのに、また見抜かれた。
もちろんすぐに首を振って全力で否定したが、このところやけに勘の鋭いウェンリーは、もしかしたらそのうちスキル『思考察知』が使えるようになるんじゃないかとちょっとだけ思った。
「じゃあ上に行って聞いて来るよ。」
ウェンリーにユーナを任せて、俺は一人で二階へ向かう。セキュリティゲートを通り階段を上りながら、ある種の鬼胎を抱いていた。
専用階に上がると、俺は真っ先に昨夜窓口で俺の対応をしてくれた受付嬢を探した。なぜならユーナの話を聞いて、変異体討伐に失敗し全滅したパーティーの話を思い出したからだ。
仕事に行くと言ってギルドに向かい、そのまま帰って来なかった。――守護者を生業としている俺達の間ではそう珍しくはない話だ。
王都の下町に住んでいるような服装のあんな幼い女の子が、泣きながら彷徨い歩き兄を探していた。その上その兄は守護者らしい。…ここまで聞けば大体の事情はわかる。恐らくユーナに両親はいない。病気やなにかで動けないような親がいるのなら、彼女を一人で外に出したりはしないだろう。
両親がいないから小さな妹を養うために、兄が守護者をしている。その兄が帰らない。…俺の勘が外れていればいいが…そうでなければ、もしかしたらユーナのお兄さんは――
どうしてもその胸騒ぎが拭えなかった。
程なくして昨日と同じ窓口に、あの受付嬢の姿を見つけた。何人か並んでいたので、その後に続いて順番を待つことにする。
数分で俺の番が回ってくると、彼女は俺を覚えていて、すぐにこちらに気がついてくれた。
「昨夜の…Sランク級守護者のルーファスさん!また来て下さったんですか?今日はどんなご用件でしょう!」
やたらと嬉しそうに笑顔を見せて、にこにこハキハキと愛想がいい。昨日は俺の戦利品に一時挙措を失っていたが、中々表情が豊かな女性だなと思う。
「こんにちは、ちょっと聞きたいことがあって来たんだ。昨日俺に話してくれた変異体の件なんだけど…依頼を受けたパーティーについて教えてくれないかな。」
そう切り出した途端に彼女は顔を曇らせた。
話しにくい内容であるのはわかっていた。だから周囲に聞こえないように小声で事情を説明する。
「実は――」
俺は彼女に『スコット』と言う名前の男性ハンターを探していることを話すと、守護者か冒険者かははっきりしないが、昨日の朝ギルドに行くと言って出たきり家に帰っていないことと、その男性の妹が戻らない兄を探して、下で待っていることを告げる。
すると彼女は一気に沈んだ声を出し、〝スコット・ガロスさんのことですね、良くこちらを利用されているAランク級守護者さんです〟と俯いた。
そしてそういう事情なら、と立ち上がり近くで別の仕事をしていた女性と窓口の担当を代わると、わざわざ俺を別室に案内してくれた。
同じ階にある、会議室のような長机と椅子しかない無機質な場所に通されると、すぐに彼女は手に数枚の書類を持ってやって来る。
「――これが昨日、ムーリ湖に出現した変異体の緊急討伐依頼で締結された契約書です。本来は契約者と協会員以外閲覧できない書類なんですが、契約者が亡くなって新たに依頼が出されていることと、ルーファスさんはSランク級守護者で実績があり、変異体を討伐可能な方なので私の権限で許可しました。…どうぞ。」
重苦しい雰囲気が流れ、その差し出された書類を手に取るのが躊躇われる。俺はそれを立ったまま受け取り、無言で目を通した。
「…亡くなったパーティーは男女五人のAランク級守護者で組まれていた、王都では名の知られていた人達でした。パーティー登録名は『根無し草』。構成員はリーダーが女性で名前はヴァレッタ・ハーヴェルさん。副リーダーがフォション・ボルドーさん、そしてスコット・ガロスさん、ライラ・サーシェさん、ミハイル・トルクさんです。」
…やっぱりか。外れてくれればと願ったが、俺の勘は当たっていた。ユーナのお兄さんは昨日亡くなっていたのだ。
――書類に残されていた結果報告書には、ムーリ湖に素材採取の目的で立ち寄った冒険者が、湖畔にて男女五名の惨殺死体を発見。所持品からパーティー名が判明し、ギルドへの報告に至ったと書かれてあった。
遺体は現在回収されて、常外死亡者管理局に保管されているようだ。
「…なぜ家族であるユーナに連絡が行っていないんだ?」
「詳しいことはわかりませんが、守護者登録の家族構成を見ると、スコット・ガロスさんに妹さん以外のご家族はいらっしゃらないようで、知らせが届くまでに時間がかかっているのかもしれません。」
こちらも俺の予想通りか。…と言うことは、ユーナは兄を喪ってこの世にたった一人残されたことになる。…そう思うと酷く胸が痛んだ。
「ありがとう、面倒をかけてすまなかった。」
「いえ、妹さんのことはよろしくお願いします。」
俺が書類を返すと、受付嬢はそう言って沈痛な面持ちで少しだけ微笑んだ。
俺はそこを出て下へ降りる前に、掲示板の前に立って再募集の依頼票を見上げる。そこにはさっき見せて貰った書類の内容と同じく、討伐対象が『マッド・ベアー変異体』と記されてあった。
マッド・ベアーは立ち上がると体長が三メートルほどの巨大熊の魔物だ。腕の一振りで木を薙ぎ倒すほどの怪力を持ち、鋭い爪は肉を削いで切り裂き、強靱な顎で噛みつかれると簡単に骨も砕けるため一溜まりもない。
反面明確な弱点を持っており、唐辛子などの強烈な刺激で鼻を潰せば恐慌状態になって動きが鈍る。眉間に即死級の急所があるため、そこを弓などで狙えばそんなに倒すのにも苦労はしないと良く知られていた。
基本的に『変異体』緊急討伐の難易度はアンノウンだ。Aランク級パーティーが引き受けるには相手によって少し荷が重い場合もあるが、マッド・ベアーの変異体なら、通常体の討伐に慣れていればそこまで難しいとは思えなかった。
況してや名が知られているパーティだったようだし、五人もいて誰一人逃げ出せずに全滅するとは…なにか想定外の事態にでも陥ったのだろうか?
ウェンリーのところへ戻るために階段を降りながら、俺はこの事実をユーナにどう伝えるか悩んだ。天涯孤独となるその精神的な衝撃はどれほどだろう。
あの子はまだ幼いのに、たった一人の大切な家族を亡くした。唯一無二の大切な存在を――
…ズキッ
「痛…っ」
――その時一瞬、俺の胸…しかも心臓の辺りに、これまで感じたことのないような鋭く、強い痛みが奔った。俺は思わず足を止め、階段の途中で壁に右手を付いて少し前屈みになる。
なんだ…?今胸に痛みが…
それはすぐに消え失せ、表面に触れてももうなにも感じない。…気のせいだったのかと、痛みを感じた場所を服の上から摩って首を捻る。
これが最初の異変だった。
一階に戻ると入口の近くで、ウェンリーが三十代くらいの見知らぬ女性と話をしていた。その傍らでユーナが床に座り込み、天井に向かって胸を締め付けられるような痛哭の声を上げ…泣いていた。
「うわあああーん!おにいちゃあん、おにいちゃあん!やだあぁ!!うわあああん!!」
その様子から俺が悩むまでもなく、ユーナがなんらかの形で兄の死を知ったのだと気づく。
――〝同情…?〟
ズキンっ
「…!?」
――まただ、また胸に痛みが…
俺は家族の記憶もないのに、家族を喪った悲しみに同情したのだろうか?
ユーナが突き落とされた暗闇は、俺には所詮想像の域でしかないはずだった。
それなのに、なにかが俺の心の奥底にある開けてはいけないものと同調し、その蓋を持ち上げた。
さっきから…なんなんだ?この痛みは…
とにかく、ウェンリーのところへ戻らないと。…今度はすぐには治まらず、続く小さな痛みに平静を装い、それだけを考えて歩を進める。
「あ…戻って来た、ルーファス。」
ウェンリーが沈痛な面持ちで俺を見る。…と、すぐになにか気づいたのか、その表情が変わった。
「ル−ファス?なんか顔色悪いぜおまえ…大丈夫か?」
さすがにウェンリーの目は誤魔化せないか。…まさかそれほど俺の顔色が悪いのか?
俺はなんとか気を落ち着かせると、ウェンリーの隣に立つ女性が誰なのかを尋ねる。その間もユーナの悲痛な声は、ギルド内と俺の頭の中に木霊し続けていた。
「スコットさん…ユーナのお兄さんの知り合いなんだってさ。上で聞いたんだろ?おまえも。」
ああ、そういうことか。ここに来て知らせが届いたんだな。と理解する。
その女性は俺達に儀礼的な礼を言うと、ユーナのお兄さんのことを〝ガロスさん〟と呼んで、訃報が今朝この女性の元に届いたことを口にした。そうして姿の見えないユーナに知らせを届けるために探していたんだと言う。
この女性は迷惑そうにこそしていないものの、ユーナに対して親身になろうという思いやりがあまり見受けられない。
ユーナも女性にしがみ付くことはせず、ただただ床に座り込んで泣いていることから、この女性はおそらく、単なる顔見知り程度の知り合いでしかないのだ。
近くに親しい他人も親戚すら無く、完全に身寄りをなくした幼子は、孤児院に行くか養護施設に入るしかない。一応この国にはそう言った福祉施設は整っているが…
俺はユーナの今後を思い、その悲しみを思って尚更辛くなった。
その瞬間――
ズ…ガンッ!!!
「ぐあっ!?」
――視界が振れるような、あまりにも激しい痛みに襲われ、俺は思わず拳を握り胸を押さえて前のめりになった。
「ルーファス!?…おい!!」
ウェンリーの血相を変えた声が遠くに聞こえる。
――だめだ…っなんだこの痛みは…!?こんな激痛…感じたことがない…!!
「う…っく…っ…」
俺は無意識にギルドを出て蹌踉めきながら公園の方へと向かう。なぜか俺の全魔力が体中を駆け巡って暴走しているような感じがしたからだ。
「ルーファス!大丈夫か!?なんなんだよ、どうし――」
後を追って来たウェンリーが手を伸ばして俺に触れ、助け起こそうとする。
『緊急保護システム作動』『時空術展開』『時空転移魔法発動』『同行者保護障壁展開』
俺の頭の中に次々と文字が光って流れて行く。それとほぼ同時に…
――俺はまた、飛ばされた。
差し替え投稿中です。※2023/03/13現在。